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第8章 疑惑の弾道
2話
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「……大鳥圭介」
相馬主計は、その名を口の中で転がした。 苦い味がした。 箱館政権の陸軍奉行。仏蘭西流の軍学を修めた秀才であり、土方歳三の上官にあたる男。
「確かに、大鳥殿と副長は、戦術を巡って何度も衝突していたな」
相馬は記憶を手繰り寄せた。 白兵戦にこだわる土方と、火力を重視する大鳥。二人の議論は、時に怒鳴り合いになるほど激しかった。 だが、それは憎しみ合っていたからではない。 互いに「勝つため」の方策を模索していたからだ。土方もまた、大鳥の知識を認め、大鳥もまた、土方の実戦指揮能力を頼りにしていたはずだ。
「本気で、仲が悪かったわけではないはずだ」
相馬の言葉に、立川主税も頷いた。
「ええ。私もそう思います。一本木関門へ向かう直前も、副長は『大鳥さんが苦戦している、助けねばならん』と仰っていました。……私怨で背中から撃つような間柄では……」
「私怨ではないとしたら」
相馬は行灯の炎を見つめた。 揺らめく光の中に、あの日の絶望的な戦況が浮かび上がる。
明治二年五月。 箱館政権は詰んでいた。 水も、食料も、弾薬も尽きかけていた。 総裁の榎本武揚や大鳥圭介ら上層部の頭にあったのは、もはや「勝利」ではなく、いかにして「幕引き」を図るかだったはずだ。
「……邪魔だったのか」
相馬がポツリと漏らした。
「え?」
「降伏だ。大鳥たちは、早期の降伏を模索していた。……だが、土方副長だけは違った」
相馬の脳裏に、土方の言葉が蘇る。 『俺は戦う。最後まで戦って、徳川の意地を見せる』 その徹底抗戦の意志は、新選組の誇りであり、同時に、降伏交渉を進めたい新政府軍や旧幕府軍上層部にとっては、最大の障害だったのではないか。
「合理性だ」
相馬は吐き捨てるように言った。
「大鳥は学者だ。負け戦で兵を損なうことを何より嫌う。……もし、土方歳三一人が死ぬことで、他の数千人の命が助かると計算したなら」
立川の顔色が蒼白になった。
「まさか……。味方を……生贄にしたと言うんですか」
「あり得ない話じゃない」
相馬は拳を握りしめた。 土方を前線に突出させ、混乱に乗じて始末する。 そうすれば、「徹底抗戦の象徴」はいなくなり、名誉ある戦死として処理でき、榎本たちはスムーズに降伏できる。 あまりにも冷徹で、あまりにも合理的な「算盤勘定」だ。
「……鈴木三樹三郎は、それを知っていたのか」
相馬の中で、点と線が繋がり始めた。 鈴木ごときに、あんな精巧な偽首を用意し、世間を欺く知恵はない。 だが、もし彼が「謀殺」の実行犯、あるいは事後処理を任された「掃除屋」だったとしたら。
「土方歳三は、官軍に撃たれたことにしておけ」
そう命じられた鈴木は、土方の死を利用し、自らの手柄として吹聴している。 そして、真実を知る者たちを消して回っている。
「……許せねえ」
立川が震える声で言った。
「そんな理屈のために……副長は殺されたんですか。あんなに、誰よりも味方を守ろうとして戦っていたのに!」
「ああ。許さん」
相馬の目から、迷いが消えた。 敵は鈴木だけではない。 その背後にいる、巨大な「裏切り」の構造。 近代化という美名の下に、武士の魂を売り渡した古狸たち。
「暴いてやる。……奴らの描いた絵図面を、すべて白日の下に」
その時だった。
ガタッ。
店の表で、物音がした。 風の音ではない。誰かが戸板に触れた音だ。
相馬は瞬時に行灯の火を吹き消した。 闇が部屋を包む。
「……相馬さん?」
「静かに」
相馬は立川の口を手で塞ぎ、身を低くした。 気配がする。 一人ではない。三人、いや四人。 殺気を隠そうともしない、荒々しい足音が近づいてくる。
「……嗅ぎつけられたか」
早すぎる。 昨夜、鈴木の屋敷で暴れたばかりだ。 だが、鈴木も必死なのだろう。自分の嘘が暴かれれば、今の地位も名声も失う。 金に糸目をつけず、手下の無頼漢を総動員して「土方の関係者」を洗っているに違いない。
「立川。裏口はあるか」
相馬が耳元で囁く。
「は、はい。土間の奥に……」
「家族を連れて逃げろ。今すぐだ」
「でも、あなたは!」
「俺は客だ。……丁重にお帰り願うさ」
相馬は懐から匕首を抜いた。 鞘を払う。 暗闇の中で、切っ先だけが冷たく光る。
バンッ!
表の雨戸が、激しい音と共に蹴破られた。 月明かりが土間に差し込む。 影が躍り込んできた。
「立川ァ! いるのは分かってんだぞ!」
男たちの怒号。 手には抜身の日本刀、あるいは鳶口が握られている。 鈴木が雇った、士族崩れのゴロツキたちだ。
「昨日の今日で、随分と仕事が早いな」
相馬は、座敷の闇の中から声をかけた。
「あ?」
先頭の男が足を止める。
「誰だ、てめえ」
「通りすがりの、死に損ないだ」
相馬は立ち上がった。 着流しの裾をまくり、匕首を逆手に構える。
「鈴木に伝えろ。……『昨夜のは、ほんの手付金《てつけきん》だ』とな」
「てめえ……昨夜の車屋か!」
男たちが色めき立つ。 血の匂いを嗅ぎつけた飢えた野犬のように、一斉に殺気が膨れ上がった。
「野郎ッ! ここで会ったが百年目だ! 先生から懸賞金がかかってんだよ!」
「やるぞ! 囲め!」
四人の男が、土足で店に上がり込んでくる。 狭い米屋の土間。 長刀を振り回すには狭いが、多勢に無勢だ。
だが、相馬は笑った。 口元だけを歪めて、獰猛に笑った。
「場所が悪かったな」
ここは戦場ではない。 生活の場だ。 米俵、秤、大福帳。 ここにあるすべてが、相馬にとっては武器であり、盾となる。
「かかってこい。……地獄の歩き方を教えてやる」
男の一人が、刀を振り上げて突っ込んでくる。 相馬は動かなかった。 刃が振り下ろされる寸前、足元にあった米俵を蹴り上げた。
ドスッ!
重い俵が男の腹にめり込む。 男が「ぐえっ」と呻いて体勢を崩した瞬間、相馬の身体が弾けた。
懐へ飛び込む。 匕首が閃く。 狙うは、手首。
ザシュッ。
「ぎゃあッ!」
男が刀を取り落とす。 相馬は振り返りもせず、次の敵へと向き直った。
立川の家族が裏口から逃げる気配がした。 時間を稼ぐ。 そして、あわよくば全員、ここで叩き伏せる。
九年の歳月? 関係ない。 俺の身体には、土方歳三から叩き込まれた「喧嘩」の極意が染み付いている。
「次はどいつだ」
相馬は、血濡れた匕首を構え直した。 米屋の暗闇で、死闘の幕が切って落とされた。
相馬主計は、その名を口の中で転がした。 苦い味がした。 箱館政権の陸軍奉行。仏蘭西流の軍学を修めた秀才であり、土方歳三の上官にあたる男。
「確かに、大鳥殿と副長は、戦術を巡って何度も衝突していたな」
相馬は記憶を手繰り寄せた。 白兵戦にこだわる土方と、火力を重視する大鳥。二人の議論は、時に怒鳴り合いになるほど激しかった。 だが、それは憎しみ合っていたからではない。 互いに「勝つため」の方策を模索していたからだ。土方もまた、大鳥の知識を認め、大鳥もまた、土方の実戦指揮能力を頼りにしていたはずだ。
「本気で、仲が悪かったわけではないはずだ」
相馬の言葉に、立川主税も頷いた。
「ええ。私もそう思います。一本木関門へ向かう直前も、副長は『大鳥さんが苦戦している、助けねばならん』と仰っていました。……私怨で背中から撃つような間柄では……」
「私怨ではないとしたら」
相馬は行灯の炎を見つめた。 揺らめく光の中に、あの日の絶望的な戦況が浮かび上がる。
明治二年五月。 箱館政権は詰んでいた。 水も、食料も、弾薬も尽きかけていた。 総裁の榎本武揚や大鳥圭介ら上層部の頭にあったのは、もはや「勝利」ではなく、いかにして「幕引き」を図るかだったはずだ。
「……邪魔だったのか」
相馬がポツリと漏らした。
「え?」
「降伏だ。大鳥たちは、早期の降伏を模索していた。……だが、土方副長だけは違った」
相馬の脳裏に、土方の言葉が蘇る。 『俺は戦う。最後まで戦って、徳川の意地を見せる』 その徹底抗戦の意志は、新選組の誇りであり、同時に、降伏交渉を進めたい新政府軍や旧幕府軍上層部にとっては、最大の障害だったのではないか。
「合理性だ」
相馬は吐き捨てるように言った。
「大鳥は学者だ。負け戦で兵を損なうことを何より嫌う。……もし、土方歳三一人が死ぬことで、他の数千人の命が助かると計算したなら」
立川の顔色が蒼白になった。
「まさか……。味方を……生贄にしたと言うんですか」
「あり得ない話じゃない」
相馬は拳を握りしめた。 土方を前線に突出させ、混乱に乗じて始末する。 そうすれば、「徹底抗戦の象徴」はいなくなり、名誉ある戦死として処理でき、榎本たちはスムーズに降伏できる。 あまりにも冷徹で、あまりにも合理的な「算盤勘定」だ。
「……鈴木三樹三郎は、それを知っていたのか」
相馬の中で、点と線が繋がり始めた。 鈴木ごときに、あんな精巧な偽首を用意し、世間を欺く知恵はない。 だが、もし彼が「謀殺」の実行犯、あるいは事後処理を任された「掃除屋」だったとしたら。
「土方歳三は、官軍に撃たれたことにしておけ」
そう命じられた鈴木は、土方の死を利用し、自らの手柄として吹聴している。 そして、真実を知る者たちを消して回っている。
「……許せねえ」
立川が震える声で言った。
「そんな理屈のために……副長は殺されたんですか。あんなに、誰よりも味方を守ろうとして戦っていたのに!」
「ああ。許さん」
相馬の目から、迷いが消えた。 敵は鈴木だけではない。 その背後にいる、巨大な「裏切り」の構造。 近代化という美名の下に、武士の魂を売り渡した古狸たち。
「暴いてやる。……奴らの描いた絵図面を、すべて白日の下に」
その時だった。
ガタッ。
店の表で、物音がした。 風の音ではない。誰かが戸板に触れた音だ。
相馬は瞬時に行灯の火を吹き消した。 闇が部屋を包む。
「……相馬さん?」
「静かに」
相馬は立川の口を手で塞ぎ、身を低くした。 気配がする。 一人ではない。三人、いや四人。 殺気を隠そうともしない、荒々しい足音が近づいてくる。
「……嗅ぎつけられたか」
早すぎる。 昨夜、鈴木の屋敷で暴れたばかりだ。 だが、鈴木も必死なのだろう。自分の嘘が暴かれれば、今の地位も名声も失う。 金に糸目をつけず、手下の無頼漢を総動員して「土方の関係者」を洗っているに違いない。
「立川。裏口はあるか」
相馬が耳元で囁く。
「は、はい。土間の奥に……」
「家族を連れて逃げろ。今すぐだ」
「でも、あなたは!」
「俺は客だ。……丁重にお帰り願うさ」
相馬は懐から匕首を抜いた。 鞘を払う。 暗闇の中で、切っ先だけが冷たく光る。
バンッ!
表の雨戸が、激しい音と共に蹴破られた。 月明かりが土間に差し込む。 影が躍り込んできた。
「立川ァ! いるのは分かってんだぞ!」
男たちの怒号。 手には抜身の日本刀、あるいは鳶口が握られている。 鈴木が雇った、士族崩れのゴロツキたちだ。
「昨日の今日で、随分と仕事が早いな」
相馬は、座敷の闇の中から声をかけた。
「あ?」
先頭の男が足を止める。
「誰だ、てめえ」
「通りすがりの、死に損ないだ」
相馬は立ち上がった。 着流しの裾をまくり、匕首を逆手に構える。
「鈴木に伝えろ。……『昨夜のは、ほんの手付金《てつけきん》だ』とな」
「てめえ……昨夜の車屋か!」
男たちが色めき立つ。 血の匂いを嗅ぎつけた飢えた野犬のように、一斉に殺気が膨れ上がった。
「野郎ッ! ここで会ったが百年目だ! 先生から懸賞金がかかってんだよ!」
「やるぞ! 囲め!」
四人の男が、土足で店に上がり込んでくる。 狭い米屋の土間。 長刀を振り回すには狭いが、多勢に無勢だ。
だが、相馬は笑った。 口元だけを歪めて、獰猛に笑った。
「場所が悪かったな」
ここは戦場ではない。 生活の場だ。 米俵、秤、大福帳。 ここにあるすべてが、相馬にとっては武器であり、盾となる。
「かかってこい。……地獄の歩き方を教えてやる」
男の一人が、刀を振り上げて突っ込んでくる。 相馬は動かなかった。 刃が振り下ろされる寸前、足元にあった米俵を蹴り上げた。
ドスッ!
重い俵が男の腹にめり込む。 男が「ぐえっ」と呻いて体勢を崩した瞬間、相馬の身体が弾けた。
懐へ飛び込む。 匕首が閃く。 狙うは、手首。
ザシュッ。
「ぎゃあッ!」
男が刀を取り落とす。 相馬は振り返りもせず、次の敵へと向き直った。
立川の家族が裏口から逃げる気配がした。 時間を稼ぐ。 そして、あわよくば全員、ここで叩き伏せる。
九年の歳月? 関係ない。 俺の身体には、土方歳三から叩き込まれた「喧嘩」の極意が染み付いている。
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