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第8章 疑惑の弾道
3話
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米屋の土間は、修羅場と化していた。
狭い。 だが、それが相馬には好都合だった。 長刀を振り回す空間がない敵に対し、短く鋭い匕首は、毒蛇の牙のように懐へ食い込む。
「死ねェッ!」
二人目の男が、大上段から斬りかかってくる。 相馬は半歩、前に出た。 斬撃を避けるのではない。刃の根元、鍔の近くへ体を滑り込ませる。 死を恐れぬ踏み込みだけが、活路を開く。
ガチンッ!
刀身が相馬の肩口を叩くが、切っ先は空を切っている。 男が驚愕に目を見開いた瞬間、相馬の左拳が鳩尾にめり込んだ。
「ごふっ……」
男がくの字に折れる。 相馬は逆手に持った匕首を、男の太腿に突き立てた。 深々と。 骨に達する感触。
「ぎゃあアアアッ!」
絶叫。 男が崩れ落ち、血の海に沈む。 相馬は無造作に匕首を引き抜き、血糊を振るった。
「ひ、ひぃ……ッ」
残った二人の足が止まった。 彼らは見たのだ。 多勢に無勢の状況で、一歩も引かず、逆に二人を瞬殺した男の異常さを。 それは、街の無頼漢が見せる喧嘩ではない。 殺し合いの作法を知り尽くした、本物の兵士の動きだ。
「ど、どうする……」 「引くか……?」
男たちが顔を見合わせる。 その隙を、相馬は見逃さなかった。
「逃げるなら追わん」
相馬は低く言った。 その声には、氷のような冷気が混じっていた。
「だが、次に俺の前に現れたら……その時は手加減しない。内臓をぶちまけて死ぬことになるぞ」
男たちの戦意が、音を立てて折れた。 金で雇われただけのゴロツキに、命を賭ける義理はない。
「お、覚えてやがれ!」
負け惜しみを叫び、男たちは逃げ出した。 怪我をした仲間を引きずり、転がるように夜の闇へと消えていく。
静寂が戻った。 土間には、破壊された什器と、鉄錆のような血の匂いだけが残された。
「……はぁ、はぁ……」
相馬は肩で息をつき、匕首を懐に収めた。 古傷が痛む。 だが、身体の芯は熱く燃えていた。
「相馬さん!」
奥から、立川主税が飛び出してきた。 手に包丁を握りしめている。家族を逃がした後、戻ってきたのだ。
「無事ですか! 怪我は!」
「かすり傷だ。……それより立川、家族は」
「裏の長屋に隠れさせました。……ですが、ここももう安全じゃありませんね」
立川が、荒らされた店を見渡して唇を噛む。 築き上げてきた平穏な暮らしが、一夜にして壊された。 その事実に、相馬の胸が痛んだ。
「すまない。俺が来たばかりに」
「謝らないでください」
立川は首を横に振った。 その目には、もう怯えはなかった。
「目が覚めました。……私も、新選組の生き残りです。副長の名誉が汚されているのを知って、黙って生きていくなんて……そんな真似はできません」
立川が包丁を置いた。 そして、正座して手をついた。
「相馬さん。私も連れて行ってください。証言でも何でもします。鈴木の野郎を……刺し違えてでも!」
「駄目だ」
相馬の答えは冷たかった。
「え……」
「お前には、家族がいる。守るべきものがある人間は、死に急ぐな」
相馬は、立川の肩に手を置いた。 かつて、土方歳三がそうしたように。
「お前は生きろ。そして、証言者になれ」
「証言者……」
「そうだ。俺が鈴木を追い詰め、奴らの悪事を白日の下に晒した時……その時こそ、お前の記憶が必要になる。『土方歳三は前から撃たれた』という事実を、法廷でも世間でも、堂々と証言してくれ」
それは、剣を振るうよりも重く、長い戦いだ。 だが、立川にならできる。 九年間、泥水を啜りながら家族を守り抜いてきた、この男になら。
「……分かりました」
立川が涙を堪えて頷いた。
「必ず。……その時が来るまで、命に代えても生き延びます」
「頼んだぞ。……ほとぼりが冷めるまで、身を隠せ」
相馬は立ち上がった。 夜明けが近い。 ここに長居は無用だ。
「相馬さん。次はどこへ?」
立川が問うた。
「浜松だ」
相馬は、南の空を見つめた。
「浜松……。ああ、あいつですね」
「ああ」
相馬の脳裏に、一人の男の顔が浮かんでいた。 戦場でも絵筆を離さず、仲間の死に顔を描き続けた変わり者。 そして、箱館戦争の詳細な記録係でもあった男。
中島登。
鈴木の背後に、大鳥圭介という巨大な権力がいるとしたら、立川の証言だけでは足りない。 「味方陣地からの狙撃」を立証するには、当時の部隊配置や命令系統を証明する「物的な証拠」が必要だ。 中島なら、それを持っているかもしれない。
「ですが相馬さん、なぜ中島さんが浜松にいると?」
立川が不思議そうに訊いた。 箱館の後、同志たちは散り散りになったはずだ。
「司法省にいた頃だ」
相馬は懐かしむように目を細めた。
「役人だった頃、職権を使って生き残った連中の動向を調べたことがある。中島が浜松に定住し、茶の商いを始めたことは記録で知っていた」
相馬の声が、少しだけ湿り気を帯びた。
「……会いたかったさ。だが、当時の俺は警察の監視付きだ。会いに行けば、あいつの平穏な生活まで壊してしまう。……だから、知らぬふりをしていた」
それが、相馬なりの仲間への守り方だった。 遠くから祈るだけの、不器用な優しさ。 だが今は違う。 平穏を壊してでも、共に戦ってもらわねばならない時が来たのだ。
「中島も、きっと待っていますよ。……あなたの訪れを」
立川が力強く言った。
「ああ。行ってくる」
相馬は、懐から手拭いを取り出し、顔の汗を拭った。
「待っていてくれ、立川。……必ず、迎えに来る」
「はい。……ご武運を」
立川の言葉を背に、相馬は店を出た。 本所の路地裏には、朝靄が立ち込めていた。
冷たい空気を吸い込む。 肺が焼けるように冷え、そして熱くなる。
東京を離れる。 次に戻ってくる時は、すべての証拠を揃え、鈴木と黒幕たちの喉元に刃を突きつける時だ。
相馬は歩き出した。 足取りは確かだった。 孤独ではない。 背中には、死んでいった仲間たちの魂と、生き残った同志たちの祈りがある。
明治十一年、晩冬。 煉瓦街の幽霊は、東海道を西へ向かう。 復讐の旅路は、まだ始まったばかりだ。
狭い。 だが、それが相馬には好都合だった。 長刀を振り回す空間がない敵に対し、短く鋭い匕首は、毒蛇の牙のように懐へ食い込む。
「死ねェッ!」
二人目の男が、大上段から斬りかかってくる。 相馬は半歩、前に出た。 斬撃を避けるのではない。刃の根元、鍔の近くへ体を滑り込ませる。 死を恐れぬ踏み込みだけが、活路を開く。
ガチンッ!
刀身が相馬の肩口を叩くが、切っ先は空を切っている。 男が驚愕に目を見開いた瞬間、相馬の左拳が鳩尾にめり込んだ。
「ごふっ……」
男がくの字に折れる。 相馬は逆手に持った匕首を、男の太腿に突き立てた。 深々と。 骨に達する感触。
「ぎゃあアアアッ!」
絶叫。 男が崩れ落ち、血の海に沈む。 相馬は無造作に匕首を引き抜き、血糊を振るった。
「ひ、ひぃ……ッ」
残った二人の足が止まった。 彼らは見たのだ。 多勢に無勢の状況で、一歩も引かず、逆に二人を瞬殺した男の異常さを。 それは、街の無頼漢が見せる喧嘩ではない。 殺し合いの作法を知り尽くした、本物の兵士の動きだ。
「ど、どうする……」 「引くか……?」
男たちが顔を見合わせる。 その隙を、相馬は見逃さなかった。
「逃げるなら追わん」
相馬は低く言った。 その声には、氷のような冷気が混じっていた。
「だが、次に俺の前に現れたら……その時は手加減しない。内臓をぶちまけて死ぬことになるぞ」
男たちの戦意が、音を立てて折れた。 金で雇われただけのゴロツキに、命を賭ける義理はない。
「お、覚えてやがれ!」
負け惜しみを叫び、男たちは逃げ出した。 怪我をした仲間を引きずり、転がるように夜の闇へと消えていく。
静寂が戻った。 土間には、破壊された什器と、鉄錆のような血の匂いだけが残された。
「……はぁ、はぁ……」
相馬は肩で息をつき、匕首を懐に収めた。 古傷が痛む。 だが、身体の芯は熱く燃えていた。
「相馬さん!」
奥から、立川主税が飛び出してきた。 手に包丁を握りしめている。家族を逃がした後、戻ってきたのだ。
「無事ですか! 怪我は!」
「かすり傷だ。……それより立川、家族は」
「裏の長屋に隠れさせました。……ですが、ここももう安全じゃありませんね」
立川が、荒らされた店を見渡して唇を噛む。 築き上げてきた平穏な暮らしが、一夜にして壊された。 その事実に、相馬の胸が痛んだ。
「すまない。俺が来たばかりに」
「謝らないでください」
立川は首を横に振った。 その目には、もう怯えはなかった。
「目が覚めました。……私も、新選組の生き残りです。副長の名誉が汚されているのを知って、黙って生きていくなんて……そんな真似はできません」
立川が包丁を置いた。 そして、正座して手をついた。
「相馬さん。私も連れて行ってください。証言でも何でもします。鈴木の野郎を……刺し違えてでも!」
「駄目だ」
相馬の答えは冷たかった。
「え……」
「お前には、家族がいる。守るべきものがある人間は、死に急ぐな」
相馬は、立川の肩に手を置いた。 かつて、土方歳三がそうしたように。
「お前は生きろ。そして、証言者になれ」
「証言者……」
「そうだ。俺が鈴木を追い詰め、奴らの悪事を白日の下に晒した時……その時こそ、お前の記憶が必要になる。『土方歳三は前から撃たれた』という事実を、法廷でも世間でも、堂々と証言してくれ」
それは、剣を振るうよりも重く、長い戦いだ。 だが、立川にならできる。 九年間、泥水を啜りながら家族を守り抜いてきた、この男になら。
「……分かりました」
立川が涙を堪えて頷いた。
「必ず。……その時が来るまで、命に代えても生き延びます」
「頼んだぞ。……ほとぼりが冷めるまで、身を隠せ」
相馬は立ち上がった。 夜明けが近い。 ここに長居は無用だ。
「相馬さん。次はどこへ?」
立川が問うた。
「浜松だ」
相馬は、南の空を見つめた。
「浜松……。ああ、あいつですね」
「ああ」
相馬の脳裏に、一人の男の顔が浮かんでいた。 戦場でも絵筆を離さず、仲間の死に顔を描き続けた変わり者。 そして、箱館戦争の詳細な記録係でもあった男。
中島登。
鈴木の背後に、大鳥圭介という巨大な権力がいるとしたら、立川の証言だけでは足りない。 「味方陣地からの狙撃」を立証するには、当時の部隊配置や命令系統を証明する「物的な証拠」が必要だ。 中島なら、それを持っているかもしれない。
「ですが相馬さん、なぜ中島さんが浜松にいると?」
立川が不思議そうに訊いた。 箱館の後、同志たちは散り散りになったはずだ。
「司法省にいた頃だ」
相馬は懐かしむように目を細めた。
「役人だった頃、職権を使って生き残った連中の動向を調べたことがある。中島が浜松に定住し、茶の商いを始めたことは記録で知っていた」
相馬の声が、少しだけ湿り気を帯びた。
「……会いたかったさ。だが、当時の俺は警察の監視付きだ。会いに行けば、あいつの平穏な生活まで壊してしまう。……だから、知らぬふりをしていた」
それが、相馬なりの仲間への守り方だった。 遠くから祈るだけの、不器用な優しさ。 だが今は違う。 平穏を壊してでも、共に戦ってもらわねばならない時が来たのだ。
「中島も、きっと待っていますよ。……あなたの訪れを」
立川が力強く言った。
「ああ。行ってくる」
相馬は、懐から手拭いを取り出し、顔の汗を拭った。
「待っていてくれ、立川。……必ず、迎えに来る」
「はい。……ご武運を」
立川の言葉を背に、相馬は店を出た。 本所の路地裏には、朝靄が立ち込めていた。
冷たい空気を吸い込む。 肺が焼けるように冷え、そして熱くなる。
東京を離れる。 次に戻ってくる時は、すべての証拠を揃え、鈴木と黒幕たちの喉元に刃を突きつける時だ。
相馬は歩き出した。 足取りは確かだった。 孤独ではない。 背中には、死んでいった仲間たちの魂と、生き残った同志たちの祈りがある。
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