【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第9章 浜松の絵師、戦場の嘘

2話

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 土蔵の中は、外気よりもさらに冷え込んでいた。 灯明とうみょうの明かりだけが頼りだ。

 壁には、数枚の絵が立てかけられている。 戦装束の男たち。 近藤勇、井上源三郎、そして名もなき隊士たち。 どれも写実的で、まるで今にも動き出しそうな生気を帯びている。 中島登は、絵筆で死者たちの魂をこの世に縫い留めていたのだ。

「これだ」

 中島が、棚の奥から一枚の大きな紙を取り出した。 机の上に広げる。 乾いた紙の音が、蔵の沈黙を破った。

 それは、美術品としての絵ではなかった。 墨とあかで描かれた、精緻せいちな見取り図。 箱館、一本木関門周辺の地形、柵の位置、そして部隊の配置が記号のように描き込まれている。

「明治二年五月十一日。……俺は、弁天台場へ向かおうとする土方副長を見送った後、一本木関門の後方、高い松の木の上から戦況を見ていた」

 中島が指差す。

「ここが関門だ。副長はここで馬を駆っていた」

 相馬主計そうまかずえは身を乗り出した。 図の中央。最前線に「土」の文字がある。 その前方は新政府軍の陣地。無数の銃口が待ち構えている。

「そして、ここだ」

 中島の指が、土方の後方、味方陣地側を差した。

伝習隊でんしゅうたい。大鳥圭介陸軍奉行が指揮する、精鋭部隊だ」

 相馬の目が細められた。 立川主税たちかわちからの証言と一致する。 土方の左後方。そこには確かに、味方の厚い壁があったはずだ。

「……変だな」

 相馬が呟いた。

「伝習隊の配置が、割れている」

 図面の上で、伝習隊の陣形が奇妙な形をしていた。 土方の背後を守るべき位置だけが、ぽっかりと空白になっている。 まるで、海が割れるように、部隊が左右に分かれているのだ。

「そうだ」

 中島が頷いた。眼鏡の奥の瞳が光る。

「あの日、俺は奇妙なものを見た。副長が突撃を敢行したその瞬間……後方の伝習隊が、命令もないのに左右へ展開したんだ」

「左右へ?」

「ああ。まるで、『何かを通すための道』を空けるようにな」

 相馬の背筋に戦慄せんりつが走った。 道。 それは、土方が撤退するための道ではない。 背後から土方を狙う弾丸を通すための、射線しゃせんだ。

「この空白の奥に……何がいた」

 相馬の問いに、中島は図の一点を指し示した。 割れた陣形のさらに奥。 小高い丘の上。

「ここには、大鳥奉行の直轄部隊がいた。……そして、最新式の施条銃しじょうじゅうを持った狙撃兵の姿もな」

 線が繋がった。 土方歳三は、敵に向かって突撃したのではない。 味方が作った「処刑場」の中へ、誘い込まれたのだ。 前には官軍の弾幕。後ろには味方の銃口。 逃げ場などなかった。

「……相馬。立川の話だと、弾は左脇腹から右肩へ抜けたと言ったな」

「ああ」

「見てみろ」

 中島が、定規を当てた。 大鳥の直轄部隊がいた丘から、土方のいた位置へ。 その線は、土方の左後方から右前方へと、一直線に伸びていた。

「角度、距離、そして障害物のない射線。……すべてが一致する」

 中島の声は冷徹だった。 それは絵描きの声ではない。事実のみを積み上げる、監察の声だ。

「これは過失じゃない。事故でもない。……完璧に計算された、軍事作戦としての『謀殺』だ」

 ダンッ!

 相馬は拳を机に叩きつけた。 厚い板が悲鳴を上げる。

「大鳥……ッ!」

 許せない。 戦場で死ぬのは武士の本望だ。 だが、味方に背中を撃たれて死ぬなど、あってはならない。 しかも、それを「合理的な判断」などという理屈で正当化しようとしたのなら、尚更だ。

「落ち着け、相馬」

 中島が、静かに図面を巻き取った。

「これで敵は割れた。実行犯は大鳥圭介。……そして、それを政治的に揉み消し、土方の首を捏造ねつぞうして歴史を塗り替えようとしているのが鈴木三樹三郎だ」

「ああ。……この絵図面があれば、奴らを追い詰められる」

 相馬は図面を受け取ろうとした。 その時だ。

 ピクリ。 中島の耳が動いた。

「……」

 中島が指を唇に当て、相馬を制した。 天井を見上げる。 風の音に混じって、微かな異音がした。 土蔵の屋根瓦を踏む、重さを消した足音。

「……来たか」

 中島が舌打ちをした。

「客か?」

 相馬が懐の匕首あいくちに手をやる。

「招かれざる客だ。……ここ数日、店の周りを嗅ぎ回るねずみがいたんだ」

 中島は、机の下から短筒たんづつを取り出した。 さらに、床板を外す。 そこには、油紙に包まれた日本刀が隠されていた。

「俺がこの絵図面を持っていることに、奴らも勘づいていたらしい。……お前が来る前からな」

 相馬はハッとした。 敵は、相馬を追ってきたのではない。 最初から、この「証拠」を消すために、中島に目を付けていたのだ。 そして今、相馬という「もう一人の不都合な存在」が現れたことで、まとめて始末する好機と判断したのだろう。

「囲まれているな」

 相馬は気配を探った。 四人、いや五人。 足音の消し方からして、東京のゴロツキとは違う。 訓練された手練れだ。

「出るぞ、相馬。……この蔵の中で火を使われたら、絵が燃えちまう」

 中島が刀を帯びる。 その顔つきは、もう初老の商人ではなかった。 新選組伍長・中島登の顔に戻っていた。

「絵を守るのが俺の戦いだ。……付き合ってくれるな?」

「愚問」

 相馬は匕首を逆手に構えた。

 中島が扉を蹴り開ける。 冬の夜気が流れ込むのと同時に、黒い影が躍りかかってきた。

「やるぞッ!」

 中島の短筒が火を吹く。 轟音。 先頭の影が吹き飛び、茶畑の土に転がる。

 硝煙の匂いが、茶の香りを塗り潰した。 九年ぶりの戦場。 だが、相馬の体は震えていなかった。 目の前にいるのは、土方歳三を殺した連中の手先だ。 ならば、慈悲はいらない。

「全員、地獄へ送ってやる」

 相馬は闇の中へ飛び出した。 銀色の刃が、月光を浴びて閃く。 浜松の静寂は、一瞬にして血塗られた殺し合いの場へと変貌した。 
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