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第10章 日野の夕陽、兼定の輝き
2話
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「キエェェェッ!」
裂帛の気合いと共に、相馬は踏み込んだ。 和泉守兼定が、夕闇の中に銀色の弧を描く。 先頭の男が刀を振り上げるより速く、相馬の刃が胴を薙いだ。
斬った感触がなかった。 あまりに鋭く、あまりに滑らかに、刃が肉と骨を断っていた。 男が崩れ落ちる。 血飛沫が舞い、庭の枯草を赤く染めた。
(……凄い)
相馬は戦慄した。 これが、土方歳三の愛刀か。 振るえば羽毛のように軽く、敵に当たれば岩をも砕く重みを持つ。 まるで、刀そのものが意志を持ち、相馬の腕を導いているようだ。
「怯むな! たかが一人だ!」
敵の指揮官が叫ぶ。 黒装束の男たちが、半円を描いて包囲網を縮めてきた。 総勢、十名以上。 いかに名刀があろうと、相馬一人で捌ききれる数ではない。 しかも、背後には病み上がりの彦五郎がいる。
「死ね!」
側面から、二人が同時に斬りかかってきた。 相馬は兼定を返し、一人の突きを弾く。 だが、もう一人の刃が、相馬の脇腹を掠めた。 着物が裂け、熱い痛みが走る。
(くそッ……)
相馬は歯を食いしばった。 ここで倒れるわけにはいかない。 俺が死ねば、彦五郎様も殺され、土方の遺品も奪われる。 そんな結末を、あの世の副長が許すはずがない。
「燃やせ! 蔵ごと焼き払え!」
指揮官が松明を投げようとする。
「させんッ!」
相馬が飛び出そうとした、その時だった。
ズドンッ!
屋敷の土塀が、内側へ向かって爆ぜた。 爆発ではない。 何か、巨大な質量を持った物体が、外から投げ込まれたのだ。 庭石だ。 大人が抱えるほどもある石の塊が、砲弾のように敵の群れに突っ込んだ。
「ぐわぁッ!?」
直撃を受けた男が、紙屑のように吹き飛ぶ。 土煙が舞い上がった。 敵の動きが止まる。
「な、なんだ!?」
崩れた塀の向こうから、地響きのような足音が近づいてくる。 逆光の中に、一人の巨漢が立っていた。 丸太のように太い腕。 岩のような胸板。 手には、身の丈ほどもある野太刀が握られている。
「……まったく。京都で俺を襲ったかと思えば、今度はここか」
男は、低く太い声で唸った。 腹の底に響く重低音だ。
「卑怯者めらが。……新選組のゆかりの地を焼こうなどと、片腹痛いわ!」
「誰だ、貴様ッ!」
敵の一人が斬りかかる。 巨漢は避けなかった。 野太刀を、片手で横薙ぎに振るった。 技ではない。ただの暴力だ。
ガキンッ!
金属が砕ける音がした。 敵の刀ごと、鎖骨を叩き割る一撃。 男が悲鳴を上げて転がる。
「雑魚が! 道を開けろ!」
巨漢が踏み込む。 ぶちかましだ。 相撲で鍛えた腰の強さが、敵の包囲網を粉砕する。 人が人の上に重なり、将棋倒しになる。
「おい、そこの侍!」
巨漢が、敵をなぎ倒しながら相馬の方へ叫んだ。 その目は相馬を見ていない。群がる敵を睨みつけている。 土埃と夕闇で、相馬の顔など判別できるはずもない。どこぞの食客か地侍だと思っているのだろう。
「助太刀してやる! 彦五郎様をお守りしろ!」
「……感謝します!」
相馬は短く応じ、兼定を構え直した。
京都。 そして、この馬鹿げた怪力。 間違いない。 島田魁だ。 あの男が、ここに来た。
「行くぞ!」
島田が駆ける。 敵を薙ぎ払い、強引に道を切り開く。 相馬はその背後に滑り込み、島田が打ち漏らした敵を刺突する。
初めて組むはずなのに、呼吸が合う。 男が右へ動けば、自然と左が空くことを体が知っている。 男が大きく振りかぶれば、その隙を埋めるように相馬の剣が出る。
阿吽の呼吸。 かつて同じ釜の飯を食い、同じ修羅場を潜り抜けてきた身体が、理屈抜きで反応していた。
「ひ、ひぃッ……」 「化け物だ……逃げろ!」
残った敵たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 指揮官も、松明を捨てて闇へと消えていく。
「追うな!」
島田が制した。 相馬は足を止め、兼定についた血を振るった。 静寂が戻る。 あるのは、荒い息遣いと、風の音だけ。
「……ふぅ」
島田が、どさりとその場に座り込んだ。 野太刀を杖にして、巨体を支える。 その背中には、真新しい切り傷と、古い刀傷が無数に刻まれている。
「助かりました」
相馬は歩み寄り、男の顔を覗き込んだ。 月明かりが、男の顔を照らし出す。 厳つい髭面。 懐かしい、仁王のような顔。
「……島田さん」
島田が、怪訝そうに眉をひそめた。 自分の名を呼ぶ、眼の前の薄汚れた男を見る。 その声。 そして、腰にある黒塗りの刀を見て、島田の目が大きく見開かれた。
「その刀……兼定か? ならば、お前……」
島田が立ち上がり、相馬の肩を掴んだ。 間近で顔を見る。 土と血にまみれた顔の下にある、忘れ得ぬ面影。
「まさか……。相馬、か?」
「……ご無沙汰しております」
相馬が頭を下げるのと同時に、島田の太い腕が相馬を抱きすくめた。 骨が軋むほどの力だった。
「生きて……生きていたのか! 貴様ッ!」
島田の声が震えていた。
「新聞で死んだと聞いて……俺は、京の空の下で泣いたんだぞ! 馬鹿野郎が!」
「すいません……。死に損ないました」
「ああ、そうとも! 新選組はしぶといのが取り柄だ!」
島田は豪快に笑い、そして目元を拭った。
「彦五郎様を守りに来てみれば……死んだはずの男が暴れているとはな。……驚かせるな」
「お互い様です。……島田さんこそ、なぜここに?」
「勘だ」
島田は痛みに顔をしかめながら答えた。
「三日前、京都で俺も襲われた。西本願寺での警備中に、本職の刺客に囲まれたんだ」
「あなたも……」
「ああ。奴らの狙いは、俺の命というより、俺が知っている『何か』を消すことにあるようだった。……だから思った。俺が狙われるなら、もっとヤバい証拠がある場所も狙われるはずだと」
「それが、ここ……日野だと?」
「そうだ。副長の遺品だ。……鉄之助が持ち帰った荷物の中に、奴らにとって致命的な何かがあるはずだと踏んだ」
島田の監察としての嗅覚は、錆びついていなかった。 彼は自分の命よりも、証拠を守ることを優先し、東海道を走ってきたのだ。
「相馬さん、島田さん……」
母屋の入り口で、佐藤彦五郎が立ち尽くしていた。 荒らされた庭を見て、悲痛な表情を浮かべている。
「申し訳ありません、彦五郎様。……私たちのせいで」
相馬が頭を下げる。
「何を言う。……守ってくれたのはお前たちだ」
彦五郎は首を振り、二人を招き入れた。
「さあ、入りなさい。手当が先だ。……そして、確認しようじゃないか。トシさんが命がけで遺した、最後の声を」
三人は、蔵へと戻った。 日は完全に落ち、日野宿は深い闇に包まれている。 だが、蔵の中だけは、行灯の光で満たされていた。
彦五郎が、桐の箱から一通の書状を取り出す。 封蝋がされた、厳重な包み。 表書きには、土方歳三の筆跡でこう書かれていた。
『我が死後、同志の手によって開封すべし』
相馬は、兼定を鞘に収め、その書状を受け取った。 手が震える。 これを開けば、もう戻れない。 歴史の闇に葬られた真実を、直視することになる。
「……開けます」
相馬が封を切った。 中から出てきたのは、一枚の命令書と、数枚の手紙だった。
命令書の日付は、明治二年五月十日。 土方が戦死する前日だ。 そこには、永井尚志の花押と共に、信じがたい指令が記されていた。
三人の男たちが、書状を覗き込む。 そして、息を呑んだ。
そこに記されていたのは、単なる作戦命令ではなかった。 武士の誇りを、忠義を、そして一人の男の命を、金と保身のために売り渡す、悪魔の契約書だった。
裂帛の気合いと共に、相馬は踏み込んだ。 和泉守兼定が、夕闇の中に銀色の弧を描く。 先頭の男が刀を振り上げるより速く、相馬の刃が胴を薙いだ。
斬った感触がなかった。 あまりに鋭く、あまりに滑らかに、刃が肉と骨を断っていた。 男が崩れ落ちる。 血飛沫が舞い、庭の枯草を赤く染めた。
(……凄い)
相馬は戦慄した。 これが、土方歳三の愛刀か。 振るえば羽毛のように軽く、敵に当たれば岩をも砕く重みを持つ。 まるで、刀そのものが意志を持ち、相馬の腕を導いているようだ。
「怯むな! たかが一人だ!」
敵の指揮官が叫ぶ。 黒装束の男たちが、半円を描いて包囲網を縮めてきた。 総勢、十名以上。 いかに名刀があろうと、相馬一人で捌ききれる数ではない。 しかも、背後には病み上がりの彦五郎がいる。
「死ね!」
側面から、二人が同時に斬りかかってきた。 相馬は兼定を返し、一人の突きを弾く。 だが、もう一人の刃が、相馬の脇腹を掠めた。 着物が裂け、熱い痛みが走る。
(くそッ……)
相馬は歯を食いしばった。 ここで倒れるわけにはいかない。 俺が死ねば、彦五郎様も殺され、土方の遺品も奪われる。 そんな結末を、あの世の副長が許すはずがない。
「燃やせ! 蔵ごと焼き払え!」
指揮官が松明を投げようとする。
「させんッ!」
相馬が飛び出そうとした、その時だった。
ズドンッ!
屋敷の土塀が、内側へ向かって爆ぜた。 爆発ではない。 何か、巨大な質量を持った物体が、外から投げ込まれたのだ。 庭石だ。 大人が抱えるほどもある石の塊が、砲弾のように敵の群れに突っ込んだ。
「ぐわぁッ!?」
直撃を受けた男が、紙屑のように吹き飛ぶ。 土煙が舞い上がった。 敵の動きが止まる。
「な、なんだ!?」
崩れた塀の向こうから、地響きのような足音が近づいてくる。 逆光の中に、一人の巨漢が立っていた。 丸太のように太い腕。 岩のような胸板。 手には、身の丈ほどもある野太刀が握られている。
「……まったく。京都で俺を襲ったかと思えば、今度はここか」
男は、低く太い声で唸った。 腹の底に響く重低音だ。
「卑怯者めらが。……新選組のゆかりの地を焼こうなどと、片腹痛いわ!」
「誰だ、貴様ッ!」
敵の一人が斬りかかる。 巨漢は避けなかった。 野太刀を、片手で横薙ぎに振るった。 技ではない。ただの暴力だ。
ガキンッ!
金属が砕ける音がした。 敵の刀ごと、鎖骨を叩き割る一撃。 男が悲鳴を上げて転がる。
「雑魚が! 道を開けろ!」
巨漢が踏み込む。 ぶちかましだ。 相撲で鍛えた腰の強さが、敵の包囲網を粉砕する。 人が人の上に重なり、将棋倒しになる。
「おい、そこの侍!」
巨漢が、敵をなぎ倒しながら相馬の方へ叫んだ。 その目は相馬を見ていない。群がる敵を睨みつけている。 土埃と夕闇で、相馬の顔など判別できるはずもない。どこぞの食客か地侍だと思っているのだろう。
「助太刀してやる! 彦五郎様をお守りしろ!」
「……感謝します!」
相馬は短く応じ、兼定を構え直した。
京都。 そして、この馬鹿げた怪力。 間違いない。 島田魁だ。 あの男が、ここに来た。
「行くぞ!」
島田が駆ける。 敵を薙ぎ払い、強引に道を切り開く。 相馬はその背後に滑り込み、島田が打ち漏らした敵を刺突する。
初めて組むはずなのに、呼吸が合う。 男が右へ動けば、自然と左が空くことを体が知っている。 男が大きく振りかぶれば、その隙を埋めるように相馬の剣が出る。
阿吽の呼吸。 かつて同じ釜の飯を食い、同じ修羅場を潜り抜けてきた身体が、理屈抜きで反応していた。
「ひ、ひぃッ……」 「化け物だ……逃げろ!」
残った敵たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 指揮官も、松明を捨てて闇へと消えていく。
「追うな!」
島田が制した。 相馬は足を止め、兼定についた血を振るった。 静寂が戻る。 あるのは、荒い息遣いと、風の音だけ。
「……ふぅ」
島田が、どさりとその場に座り込んだ。 野太刀を杖にして、巨体を支える。 その背中には、真新しい切り傷と、古い刀傷が無数に刻まれている。
「助かりました」
相馬は歩み寄り、男の顔を覗き込んだ。 月明かりが、男の顔を照らし出す。 厳つい髭面。 懐かしい、仁王のような顔。
「……島田さん」
島田が、怪訝そうに眉をひそめた。 自分の名を呼ぶ、眼の前の薄汚れた男を見る。 その声。 そして、腰にある黒塗りの刀を見て、島田の目が大きく見開かれた。
「その刀……兼定か? ならば、お前……」
島田が立ち上がり、相馬の肩を掴んだ。 間近で顔を見る。 土と血にまみれた顔の下にある、忘れ得ぬ面影。
「まさか……。相馬、か?」
「……ご無沙汰しております」
相馬が頭を下げるのと同時に、島田の太い腕が相馬を抱きすくめた。 骨が軋むほどの力だった。
「生きて……生きていたのか! 貴様ッ!」
島田の声が震えていた。
「新聞で死んだと聞いて……俺は、京の空の下で泣いたんだぞ! 馬鹿野郎が!」
「すいません……。死に損ないました」
「ああ、そうとも! 新選組はしぶといのが取り柄だ!」
島田は豪快に笑い、そして目元を拭った。
「彦五郎様を守りに来てみれば……死んだはずの男が暴れているとはな。……驚かせるな」
「お互い様です。……島田さんこそ、なぜここに?」
「勘だ」
島田は痛みに顔をしかめながら答えた。
「三日前、京都で俺も襲われた。西本願寺での警備中に、本職の刺客に囲まれたんだ」
「あなたも……」
「ああ。奴らの狙いは、俺の命というより、俺が知っている『何か』を消すことにあるようだった。……だから思った。俺が狙われるなら、もっとヤバい証拠がある場所も狙われるはずだと」
「それが、ここ……日野だと?」
「そうだ。副長の遺品だ。……鉄之助が持ち帰った荷物の中に、奴らにとって致命的な何かがあるはずだと踏んだ」
島田の監察としての嗅覚は、錆びついていなかった。 彼は自分の命よりも、証拠を守ることを優先し、東海道を走ってきたのだ。
「相馬さん、島田さん……」
母屋の入り口で、佐藤彦五郎が立ち尽くしていた。 荒らされた庭を見て、悲痛な表情を浮かべている。
「申し訳ありません、彦五郎様。……私たちのせいで」
相馬が頭を下げる。
「何を言う。……守ってくれたのはお前たちだ」
彦五郎は首を振り、二人を招き入れた。
「さあ、入りなさい。手当が先だ。……そして、確認しようじゃないか。トシさんが命がけで遺した、最後の声を」
三人は、蔵へと戻った。 日は完全に落ち、日野宿は深い闇に包まれている。 だが、蔵の中だけは、行灯の光で満たされていた。
彦五郎が、桐の箱から一通の書状を取り出す。 封蝋がされた、厳重な包み。 表書きには、土方歳三の筆跡でこう書かれていた。
『我が死後、同志の手によって開封すべし』
相馬は、兼定を鞘に収め、その書状を受け取った。 手が震える。 これを開けば、もう戻れない。 歴史の闇に葬られた真実を、直視することになる。
「……開けます」
相馬が封を切った。 中から出てきたのは、一枚の命令書と、数枚の手紙だった。
命令書の日付は、明治二年五月十日。 土方が戦死する前日だ。 そこには、永井尚志の花押と共に、信じがたい指令が記されていた。
三人の男たちが、書状を覗き込む。 そして、息を呑んだ。
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