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第10章 日野の夕陽、兼定の輝き
3話
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蔵の中は、凍てつくように冷え込んでいた。 だが、男たちの熱気で空気は張り詰めている。
相馬主計は、震える手で書状の封を切った。 市村鉄之助が、西南の戦場で散るその瞬間まで肌身離さず持っていた、土方歳三の遺品。 そこには、一通の命令書が入っていた。
日付は、明治二年五月十日。 土方が戦死する前日だ。
「……読みます」
相馬が広げる。 島田魁と佐藤彦五郎が覗き込む。 行灯の光に照らされた文字は、事務的で、それゆえに無慈悲だった。
『宛:陸軍奉行・大鳥圭介殿』 『差出人:箱館奉行・永井尚志』
『新政府軍との和平交渉において、徹底抗戦を主張する土方歳三の存在は最大の障害なり。一本木関門の激戦に乗じ、これを排除せよ。さすれば、榎本総裁以下の助命と、貴殿らの戦後の地位は保証されるものなり』
静寂。 呼吸音さえ消えた。
「……売ったのかッ!」
島田が吠えた。 拳を床に叩きつける。蔵の床板がミシミシと悲鳴を上げた。
「副長の命を……てめえらの出世と引き換えにしやがったのか!」
あまりにも冷徹な取引だった。 武士の誇りも、忠義もない。あるのは「保身」と「損得勘定」だけだ。 土方歳三という英雄一人の命で、自分たちの延命を買ったのだ。
「……やはり、そうか」
相馬は、奥歯が砕けるほど噛み締めた。 浜松の中島登の絵図面が示した「不自然な射線」。 立川主税が証言した「左脇腹からの銃創」。 そして、この命令書。 すべてが一本の線で繋がった。
「トシさんは……」
彦五郎が、絞り出すような声で言った。
「これを知っていたのか。自分が売られると知っていて、それでも前へ出たのか」
「恐らく」
相馬は頷いた。
「副長は、自分の命一つで多くの兵が助かるなら、甘んじて受け入れようとしたのかもしれません。……ですが」
相馬は、命令書の下から出てきたもう一枚の紙――土方の直筆の覚書らしきものを拾い上げた。 そこには、ただ一言だけ書かれていた。
『誠の旗は、折れず』
「魂までは、売り渡さなかった」
相馬の目から、熱いものがこみ上げた。
「だからこそ、この証拠を市村に託し、逃がしたんです。いつか時が来たら、正しき者がこれを開き、新選組の誇りを取り戻してくれると信じて」
「その時が、今というわけか」
島田が立ち上がった。 その目には、鬼が宿っていた。
「相馬。敵は割れたぞ。……実行犯は大鳥圭介。黒幕は永井尚志。そして、そのおこぼれに預かって歴史を捏造しているのが鈴木三樹三郎だ」
「だが、奴らは今どこにいる。警戒しているはずだ」
相馬の問いに、島田は懐から一冊の帳面を取り出した。
「……こいつを見てくれ」
「これは?」
「西本願寺で見つけた、永井の裏帳簿だ。横領した金の流れが書いてある。……最後の日付を見ろ」
相馬が指差された箇所を見る。 『二月二十日。東京にて資金決済』とある。 二月二十日。……明後日だ。
「奴らは明後日、東京のどこかで落ち合い、この汚れた金を山分けするか、何かに使うつもりだ。……だが、場所が分からん」
島田が悔しげに唸る。 その時、彦五郎がハッとしたように顔を上げた。
「……二十日か?」
彦五郎は立ち上がり、棚の上の文箱を漁り始めた。
「そういえば、先日……妙な招待状が届いていたな」
彦五郎が一通の封書を差し出す。 上質な和紙に、印刷された文字。
『旧幕臣育英会・発足記念祝賀会 御招待』 『日時:二月二十日 夕刻』 『場所:上野精養軒』 『発起人:永井尚志、大鳥圭介』
「……これだ」
相馬の手の中で、招待状が震えた。
「旧幕臣を救うための慈善事業……。表向きはそう装って、裏では横領した金の洗浄(資金移動)を行う気だ」
「場所は上野、精養軒か」
島田がニヤリと笑った。
「丁度いい。……あそこなら、西洋料理のついでに、奴らを血祭りに上げられる」
「決まりですね」
相馬は招待状を懐に収めた。 標的、日時、場所。すべてが揃った。
相馬は、腰に差していた和泉守兼定を外した。 黒塗りの鞘。 先ほどの戦いで血を吸ったが、その輝きは曇るどころか、より凄みを増している。
「……ありがとうございました」
相馬は兼定を両手で捧げ持ち、彦五郎に差し出した。
「おかげで助かりました。……お返しします」
彦五郎は、刀を受け取らなかった。 じっと、相馬の目を見つめている。
「彦五郎様?」
「相馬。……それはもう、遺品ではない」
彦五郎の声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「お前の刀だ」
「……!」
「トシさんも、草葉の陰で言っているはずだ。『頼んだぞ』とな。……この刀で、トシさんの無念を断ち切ってくれ」
相馬の手が震えた。 ずしりと重い。 だが、その重さは「借り物」の重さではない。 新選組という組織、土方歳三という男の人生、すべてを背負う覚悟の重さだ。
「……よろしいのですか」
「お前しかいない。……最後の局長として、その刀を持つ資格があるのは」
相馬は、深く頭を下げた。 そして、再び兼定を腰に帯びた。 カチリ。 鍔鳴りが、魂の継承を告げた。
「……お借りします。死んでも、離しません」
その瞬間、相馬主計は「死に損ない」から、真の「新選組局長」へと覚醒した。 彦五郎は、その姿を眩しそうに見つめていた。 かつて、この庭で剣を振るっていた土方歳三の姿が重なる。
「相馬」
彦五郎が、静かに口を開いた。
「その刀を帯びたお前にこそ、渡さねばならんものがある」
彦五郎は、文箱の底から一通の手紙を取り出した。 大切なものを扱う手つきだった。
「先月、東京の新聞で『土方の偽首』の騒ぎを知ってな。……わしは居ても立ってもいられず、北海道へ手紙を書いたんだ。もし、誰かが立ち上がるとすれば、あの男しかいないと思ってな」
「あの男……?」
「昨日、返事が届いた。……だが、わしはどうすべきか迷っていた。これを託せる者が、今の東京にいるのかとな」
彦五郎は、相馬の目を真っ直ぐに見た。
「だが、いた。……お前だ、相馬」
手紙が差し出される。 見覚えのある、豪快な筆跡。
『東京の新聞で、鈴木の野郎が悪ふざけをしていると知った。俺はもう我慢ならん。板橋の墓前で奴を斬る誓いを立てるために上京する。……もし生き残りがいるなら、伝えてくれ。俺は行く』
差出人は、永倉新八。
「永倉さんが……来る」
相馬の顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。 最強の援軍だ。 あの「ガムシン」が加われば、どんな軍隊が相手でも突破できる。 彦五郎は、相馬がここに来ることを予期していたかのように、この手紙を温めていたのだ。新選組の親父として。
「作戦を立てよう」
相馬は言った。
「永倉さんが東京に来て、真っ先に向かう場所は一つだ。……板橋。近藤局長の墓前だ」
「違いない」
島田が頷く。
「俺たちは先回りして、板橋で永倉さんと合流する。そこで三人揃って、上野へ殴り込む」
「……へッ。これなら、地獄の門もへし折れるわ」
島田が野太刀を担いだ。
「彦五郎様。……長い間、お世話になりました」
相馬と島田は、土下座して礼を述べた。
「行くか」
彦五郎は、優しく微笑んだ。
「行ってきなさい。……東京に、大事なものを忘れてきたのだろう」
「……はい」
相馬は顔を上げ、ニヤリと笑った。
「忘れ物を回収して……長い夜を終わらせてきます」
二人は立ち上がり、蔵を出た。
外は、夜明け前だった。 早春の冷気が、肌を刺す。 梅の香りが漂っていた。
相馬は東の空を見上げた。 東京の空が、白み始めている。
「行くぞ、島田さん」
「おうよ!」
二匹の狼が、甲州街道を蹴った。 目指すは東京。 そして、決戦の地、上野。
土方歳三の魂を腰に、相馬主計は走る。 長く、苦しい冬が終わろうとしていた。 碧血の夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
相馬主計は、震える手で書状の封を切った。 市村鉄之助が、西南の戦場で散るその瞬間まで肌身離さず持っていた、土方歳三の遺品。 そこには、一通の命令書が入っていた。
日付は、明治二年五月十日。 土方が戦死する前日だ。
「……読みます」
相馬が広げる。 島田魁と佐藤彦五郎が覗き込む。 行灯の光に照らされた文字は、事務的で、それゆえに無慈悲だった。
『宛:陸軍奉行・大鳥圭介殿』 『差出人:箱館奉行・永井尚志』
『新政府軍との和平交渉において、徹底抗戦を主張する土方歳三の存在は最大の障害なり。一本木関門の激戦に乗じ、これを排除せよ。さすれば、榎本総裁以下の助命と、貴殿らの戦後の地位は保証されるものなり』
静寂。 呼吸音さえ消えた。
「……売ったのかッ!」
島田が吠えた。 拳を床に叩きつける。蔵の床板がミシミシと悲鳴を上げた。
「副長の命を……てめえらの出世と引き換えにしやがったのか!」
あまりにも冷徹な取引だった。 武士の誇りも、忠義もない。あるのは「保身」と「損得勘定」だけだ。 土方歳三という英雄一人の命で、自分たちの延命を買ったのだ。
「……やはり、そうか」
相馬は、奥歯が砕けるほど噛み締めた。 浜松の中島登の絵図面が示した「不自然な射線」。 立川主税が証言した「左脇腹からの銃創」。 そして、この命令書。 すべてが一本の線で繋がった。
「トシさんは……」
彦五郎が、絞り出すような声で言った。
「これを知っていたのか。自分が売られると知っていて、それでも前へ出たのか」
「恐らく」
相馬は頷いた。
「副長は、自分の命一つで多くの兵が助かるなら、甘んじて受け入れようとしたのかもしれません。……ですが」
相馬は、命令書の下から出てきたもう一枚の紙――土方の直筆の覚書らしきものを拾い上げた。 そこには、ただ一言だけ書かれていた。
『誠の旗は、折れず』
「魂までは、売り渡さなかった」
相馬の目から、熱いものがこみ上げた。
「だからこそ、この証拠を市村に託し、逃がしたんです。いつか時が来たら、正しき者がこれを開き、新選組の誇りを取り戻してくれると信じて」
「その時が、今というわけか」
島田が立ち上がった。 その目には、鬼が宿っていた。
「相馬。敵は割れたぞ。……実行犯は大鳥圭介。黒幕は永井尚志。そして、そのおこぼれに預かって歴史を捏造しているのが鈴木三樹三郎だ」
「だが、奴らは今どこにいる。警戒しているはずだ」
相馬の問いに、島田は懐から一冊の帳面を取り出した。
「……こいつを見てくれ」
「これは?」
「西本願寺で見つけた、永井の裏帳簿だ。横領した金の流れが書いてある。……最後の日付を見ろ」
相馬が指差された箇所を見る。 『二月二十日。東京にて資金決済』とある。 二月二十日。……明後日だ。
「奴らは明後日、東京のどこかで落ち合い、この汚れた金を山分けするか、何かに使うつもりだ。……だが、場所が分からん」
島田が悔しげに唸る。 その時、彦五郎がハッとしたように顔を上げた。
「……二十日か?」
彦五郎は立ち上がり、棚の上の文箱を漁り始めた。
「そういえば、先日……妙な招待状が届いていたな」
彦五郎が一通の封書を差し出す。 上質な和紙に、印刷された文字。
『旧幕臣育英会・発足記念祝賀会 御招待』 『日時:二月二十日 夕刻』 『場所:上野精養軒』 『発起人:永井尚志、大鳥圭介』
「……これだ」
相馬の手の中で、招待状が震えた。
「旧幕臣を救うための慈善事業……。表向きはそう装って、裏では横領した金の洗浄(資金移動)を行う気だ」
「場所は上野、精養軒か」
島田がニヤリと笑った。
「丁度いい。……あそこなら、西洋料理のついでに、奴らを血祭りに上げられる」
「決まりですね」
相馬は招待状を懐に収めた。 標的、日時、場所。すべてが揃った。
相馬は、腰に差していた和泉守兼定を外した。 黒塗りの鞘。 先ほどの戦いで血を吸ったが、その輝きは曇るどころか、より凄みを増している。
「……ありがとうございました」
相馬は兼定を両手で捧げ持ち、彦五郎に差し出した。
「おかげで助かりました。……お返しします」
彦五郎は、刀を受け取らなかった。 じっと、相馬の目を見つめている。
「彦五郎様?」
「相馬。……それはもう、遺品ではない」
彦五郎の声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「お前の刀だ」
「……!」
「トシさんも、草葉の陰で言っているはずだ。『頼んだぞ』とな。……この刀で、トシさんの無念を断ち切ってくれ」
相馬の手が震えた。 ずしりと重い。 だが、その重さは「借り物」の重さではない。 新選組という組織、土方歳三という男の人生、すべてを背負う覚悟の重さだ。
「……よろしいのですか」
「お前しかいない。……最後の局長として、その刀を持つ資格があるのは」
相馬は、深く頭を下げた。 そして、再び兼定を腰に帯びた。 カチリ。 鍔鳴りが、魂の継承を告げた。
「……お借りします。死んでも、離しません」
その瞬間、相馬主計は「死に損ない」から、真の「新選組局長」へと覚醒した。 彦五郎は、その姿を眩しそうに見つめていた。 かつて、この庭で剣を振るっていた土方歳三の姿が重なる。
「相馬」
彦五郎が、静かに口を開いた。
「その刀を帯びたお前にこそ、渡さねばならんものがある」
彦五郎は、文箱の底から一通の手紙を取り出した。 大切なものを扱う手つきだった。
「先月、東京の新聞で『土方の偽首』の騒ぎを知ってな。……わしは居ても立ってもいられず、北海道へ手紙を書いたんだ。もし、誰かが立ち上がるとすれば、あの男しかいないと思ってな」
「あの男……?」
「昨日、返事が届いた。……だが、わしはどうすべきか迷っていた。これを託せる者が、今の東京にいるのかとな」
彦五郎は、相馬の目を真っ直ぐに見た。
「だが、いた。……お前だ、相馬」
手紙が差し出される。 見覚えのある、豪快な筆跡。
『東京の新聞で、鈴木の野郎が悪ふざけをしていると知った。俺はもう我慢ならん。板橋の墓前で奴を斬る誓いを立てるために上京する。……もし生き残りがいるなら、伝えてくれ。俺は行く』
差出人は、永倉新八。
「永倉さんが……来る」
相馬の顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。 最強の援軍だ。 あの「ガムシン」が加われば、どんな軍隊が相手でも突破できる。 彦五郎は、相馬がここに来ることを予期していたかのように、この手紙を温めていたのだ。新選組の親父として。
「作戦を立てよう」
相馬は言った。
「永倉さんが東京に来て、真っ先に向かう場所は一つだ。……板橋。近藤局長の墓前だ」
「違いない」
島田が頷く。
「俺たちは先回りして、板橋で永倉さんと合流する。そこで三人揃って、上野へ殴り込む」
「……へッ。これなら、地獄の門もへし折れるわ」
島田が野太刀を担いだ。
「彦五郎様。……長い間、お世話になりました」
相馬と島田は、土下座して礼を述べた。
「行くか」
彦五郎は、優しく微笑んだ。
「行ってきなさい。……東京に、大事なものを忘れてきたのだろう」
「……はい」
相馬は顔を上げ、ニヤリと笑った。
「忘れ物を回収して……長い夜を終わらせてきます」
二人は立ち上がり、蔵を出た。
外は、夜明け前だった。 早春の冷気が、肌を刺す。 梅の香りが漂っていた。
相馬は東の空を見上げた。 東京の空が、白み始めている。
「行くぞ、島田さん」
「おうよ!」
二匹の狼が、甲州街道を蹴った。 目指すは東京。 そして、決戦の地、上野。
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