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第11章 板橋の誓い、北の狼
3話
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夜明け前。
板橋の森は、まだ深い藍色に沈んでいる。
凍てつくような冷気が、廃屋の板壁の隙間から忍び込んでくる。
風が鳴くたびに、古びた柱が悲鳴を上げた。
相馬主計、永倉新八、島田魁。
三人の男たちは、崩れかけた茶屋の土間に車座になっていた。
中央には、小さな焚き火。
煙が出ないよう、乾いた炭だけを燃やしている。
赤い熾火が、男たちの顔を不気味に照らし出していた。
「……手入れは済んだか」
永倉が、愛刀を懐紙で拭いながら言った。
油の匂いが漂う。
刀身が火明かりを吸って、濡れたように輝いている。
その手つきは、愛しい女を撫でるように優しく、そして冷酷だった。
「ええ。……兼定は、いつでも斬れます」
相馬もまた、和泉守兼定を鞘に収めた。
カチリ、という音が静寂に響く。
彦五郎から受け継いだこの刀は、相馬の手によく馴染んでいた。
柄を握るたび、土方歳三の鼓動が伝わってくる錯覚を覚える。
「行け」と、背中を押されているようだった。
「島田。お前のそのデカいのは、なまくらじゃねえだろうな」
永倉が顎でしゃくった。
島田の膝の上には、三尺はある野太刀が横たわっている。
刃こぼれ一つない、研ぎ澄まされた剛剣だ。
「馬鹿を言っちゃいけません」
島田がニヤリと笑い、砥石を置いた。
「京都で毎日、素振りを欠かしたことはありませんよ。……西本願寺の柱を一本、叩き斬りそうになったくらいだ。僧侶たちに怒られてな」
「へッ。相変わらず馬鹿力だ」
永倉が笑い、竹筒の酒を煽った。
空気が緩む。
死地へ向かう前の、戦士たちだけが共有する安らぎの時間。
だが、その安らぎの下には、研ぎ澄まされた刃のような緊張が隠されている。
「……なあ、相馬」
永倉が、ふと真顔に戻って言った。
酒を置く。
「お前、女房はどうした」
相馬の手が止まった。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
「……別れました。三年前に、死を偽装した時に」
「そうか」
永倉はそれ以上、深くは訊かなかった。
だが、その眼差しには痛いほどの理解があった。
永倉自身も、北海道へ渡る際に多くのものを捨ててきた男だ。
生き残るということは、何かを捨て続けることと同義なのかもしれない。
「会いたくねえか」
「……会えば、決心が鈍ります」
相馬は炎を見つめた。
まつのの笑顔。温かい手料理。
そして、赤子の泣き声。
それらを思い出せば、この身が焼かれるほど恋しい。
だが、今の自分は修羅だ。血に塗れた手で、彼女に触れることはできない。
触れてしまえば、彼女まで血の海に引きずり込んでしまう。
「すべてが終わったら……もし生きて戻れたら、遠くから一目だけ、見に行こうかと思います。……ただの車屋として」
「そうかい」
永倉はポンと相馬の肩を叩いた。
分厚い手だった。
「生きて戻るさ。……俺たちがついてるんだ、泥舟に乗ったつもりでいろ」
「それを言うなら大船でしょう」
島田が突っ込み、三人は声を殺して笑った。
笑うことで、腹の底に溜まった恐怖と未練を吐き出す。
覚悟は決まった。
*
「さて、作戦の確認だ」
永倉が表情を引き締めた。
場の空気が一変する。
ここからは、軍議だ。
「敵の数は?」
「精養軒の警備は、表向きは巡査が数名。ですが、裏には鈴木が雇った無頼漢や、大鳥配下の元兵士たちが控えているはずです。総勢、三十から四十」
相馬が答える。
立川の店を襲った連中や、浜松の刺客を見る限り、敵は質も量も揃えている。
「四十か。……池田屋の時よりは少ねえな」
永倉が不敵に笑う。
あの夜、数人の同志で斬り込み、維新の夜明けを遅らせた伝説の剣客。
彼にとって、四十人など恐れるに足らない数字なのだろう。
「正面から突っ込めば、蜂の巣にされます。……まずは陽動が必要です」
相馬は島田を見た。
「島田さん。……あなたの出番です」
「おう。暴れればいいんだな?」
島田が野太刀を担ぎ上げた。
その姿は、金剛力士像のように頼もしい。
島田は、懐かしむように目を細めた。
「箱館の弁天台場と同じだな。……囮役は、俺の十八番だ」
「……ええ。あの時、あなたが敵を引きつけてくれたおかげで、俺は副長の元へ行けました」
相馬の脳裏に、九年前の光景が蘇る。
孤立した弁天台場。
「行け!」と叫び、泥まみれで敵陣へ突っ込んでいった島田の背中。
あの背中があったからこそ、相馬は土方を埋葬し、今日まで生き延びることができた。
「ですが、今回は違います」
相馬は島田の目を真っ直ぐに見た。
「あの時のように、死ぬ気でやる必要はありません。……必ず、生きて合流してください」
「分かってるよ」
島田はニカっと笑った。
「今度は、美味い酒を飲むために暴れるんだ。……精養軒の表門で派手にやって、警備の目を一点に引きつけてやる」
「頼みます。……その隙に、俺と永倉さんが厨房の搬入口から侵入します」
相馬は、頭の中に精養軒の見取り図を描いていた。
かつて司法省にいた頃、要人の警護計画で見た図面だ。
複雑な洋館の構造も、相馬の頭には叩き込まれている。
どこに死角があり、どこが心臓部か。すべて把握していた。
「二階の来賓室。……そこに、永井、大鳥、鈴木の三人がいるはずです」
「なるほど」
永倉が頷いた。
「俺たちが中へ入ったら、島田も退いて合流する。……あとは、地獄の釜の蓋を開けるだけか」
「はい。……ただし」
相馬は釘を刺した。
「殺すのは最後です。まずは、衆人環視の中で奴らの罪を暴き、名誉を剥ぎ取る。……それが、俺たちの復讐です」
「分かってるよ」
永倉は立ち上がり、外套を羽織った。
「だが、向こうが抜いてきたら、手加減はしねえぞ。……俺の剣は、止めるようにできちゃいねえ」
「その時は……思う存分、やってください。俺が背中を守ります」
「へッ。……頼もしいねえ」
永倉が、鞘走る音をさせて愛刀を確かめた。
準備は整った。
「よし」
島田が立ち上がり、野太刀を背負った。
その巨体が、狭い廃屋を圧迫する。
島田は、相馬と永倉の顔を順に見渡し、ニヤリと口元を歪めた。
「……へッ。これなら、地獄の門もへし折れるわ」
「違げえねえ」
永倉が笑った。
「行くか」
焚き火を踏み消す。
残り火が消え、あたりは完全な闇に戻った。
だが、男たちの目は慣れていた。
闇を見通し、血路を切り開く狼の目。
恐怖はない。あるのは、これから始まる狩りへの渇望だけだ。
三人は、中山道を南下する。
板橋宿を抜け、巣鴨、そして本郷へ。
東京の街並みが、朝霧の中に浮かび上がる。
街はまだ眠っている。
人々は、今日という日が平和に始まると信じて寝息を立てている。
だが、その静寂の裏で、歴史の歯車が大きく軋もうとしていた。
あそこで、敵が待っている。
文明開化の光の下で、過去を葬り去ろうとする者たちが。
のうのうと美酒を啜り、自分たちの保身のために死者を冒涜する古狸ども。
(待っていろ)
相馬は走った。
冷たい風が頬を切る。
息が白い。
だが、胸の奥には灼熱の塊があった。
走る。
風を切って走る。
かつて京の町を駆け抜けたあの日のように。
浅葱色の羽織はなくても、胸の中には同じ「誠」の旗が翻っている。
「……見えてきたぞ」
先頭を行く永倉が声を上げた。
上野の山。
鬱蒼とした木々の向こうに、洋風建築の屋根が見える。
上野精養軒。
あそこが、決戦の舞台だ。
「行くぞ、新選組!」
永倉の檄が飛ぶ。
「おう!」
相馬と島田が応える。
三匹の狼が、夜明け前の帝都へ向かって牙を剥く。
長く、苦しい冬が終わろうとしていた。
歴史の闇に葬られた真実を、その刃で切り拓くために。
碧血の夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
板橋の森は、まだ深い藍色に沈んでいる。
凍てつくような冷気が、廃屋の板壁の隙間から忍び込んでくる。
風が鳴くたびに、古びた柱が悲鳴を上げた。
相馬主計、永倉新八、島田魁。
三人の男たちは、崩れかけた茶屋の土間に車座になっていた。
中央には、小さな焚き火。
煙が出ないよう、乾いた炭だけを燃やしている。
赤い熾火が、男たちの顔を不気味に照らし出していた。
「……手入れは済んだか」
永倉が、愛刀を懐紙で拭いながら言った。
油の匂いが漂う。
刀身が火明かりを吸って、濡れたように輝いている。
その手つきは、愛しい女を撫でるように優しく、そして冷酷だった。
「ええ。……兼定は、いつでも斬れます」
相馬もまた、和泉守兼定を鞘に収めた。
カチリ、という音が静寂に響く。
彦五郎から受け継いだこの刀は、相馬の手によく馴染んでいた。
柄を握るたび、土方歳三の鼓動が伝わってくる錯覚を覚える。
「行け」と、背中を押されているようだった。
「島田。お前のそのデカいのは、なまくらじゃねえだろうな」
永倉が顎でしゃくった。
島田の膝の上には、三尺はある野太刀が横たわっている。
刃こぼれ一つない、研ぎ澄まされた剛剣だ。
「馬鹿を言っちゃいけません」
島田がニヤリと笑い、砥石を置いた。
「京都で毎日、素振りを欠かしたことはありませんよ。……西本願寺の柱を一本、叩き斬りそうになったくらいだ。僧侶たちに怒られてな」
「へッ。相変わらず馬鹿力だ」
永倉が笑い、竹筒の酒を煽った。
空気が緩む。
死地へ向かう前の、戦士たちだけが共有する安らぎの時間。
だが、その安らぎの下には、研ぎ澄まされた刃のような緊張が隠されている。
「……なあ、相馬」
永倉が、ふと真顔に戻って言った。
酒を置く。
「お前、女房はどうした」
相馬の手が止まった。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
「……別れました。三年前に、死を偽装した時に」
「そうか」
永倉はそれ以上、深くは訊かなかった。
だが、その眼差しには痛いほどの理解があった。
永倉自身も、北海道へ渡る際に多くのものを捨ててきた男だ。
生き残るということは、何かを捨て続けることと同義なのかもしれない。
「会いたくねえか」
「……会えば、決心が鈍ります」
相馬は炎を見つめた。
まつのの笑顔。温かい手料理。
そして、赤子の泣き声。
それらを思い出せば、この身が焼かれるほど恋しい。
だが、今の自分は修羅だ。血に塗れた手で、彼女に触れることはできない。
触れてしまえば、彼女まで血の海に引きずり込んでしまう。
「すべてが終わったら……もし生きて戻れたら、遠くから一目だけ、見に行こうかと思います。……ただの車屋として」
「そうかい」
永倉はポンと相馬の肩を叩いた。
分厚い手だった。
「生きて戻るさ。……俺たちがついてるんだ、泥舟に乗ったつもりでいろ」
「それを言うなら大船でしょう」
島田が突っ込み、三人は声を殺して笑った。
笑うことで、腹の底に溜まった恐怖と未練を吐き出す。
覚悟は決まった。
*
「さて、作戦の確認だ」
永倉が表情を引き締めた。
場の空気が一変する。
ここからは、軍議だ。
「敵の数は?」
「精養軒の警備は、表向きは巡査が数名。ですが、裏には鈴木が雇った無頼漢や、大鳥配下の元兵士たちが控えているはずです。総勢、三十から四十」
相馬が答える。
立川の店を襲った連中や、浜松の刺客を見る限り、敵は質も量も揃えている。
「四十か。……池田屋の時よりは少ねえな」
永倉が不敵に笑う。
あの夜、数人の同志で斬り込み、維新の夜明けを遅らせた伝説の剣客。
彼にとって、四十人など恐れるに足らない数字なのだろう。
「正面から突っ込めば、蜂の巣にされます。……まずは陽動が必要です」
相馬は島田を見た。
「島田さん。……あなたの出番です」
「おう。暴れればいいんだな?」
島田が野太刀を担ぎ上げた。
その姿は、金剛力士像のように頼もしい。
島田は、懐かしむように目を細めた。
「箱館の弁天台場と同じだな。……囮役は、俺の十八番だ」
「……ええ。あの時、あなたが敵を引きつけてくれたおかげで、俺は副長の元へ行けました」
相馬の脳裏に、九年前の光景が蘇る。
孤立した弁天台場。
「行け!」と叫び、泥まみれで敵陣へ突っ込んでいった島田の背中。
あの背中があったからこそ、相馬は土方を埋葬し、今日まで生き延びることができた。
「ですが、今回は違います」
相馬は島田の目を真っ直ぐに見た。
「あの時のように、死ぬ気でやる必要はありません。……必ず、生きて合流してください」
「分かってるよ」
島田はニカっと笑った。
「今度は、美味い酒を飲むために暴れるんだ。……精養軒の表門で派手にやって、警備の目を一点に引きつけてやる」
「頼みます。……その隙に、俺と永倉さんが厨房の搬入口から侵入します」
相馬は、頭の中に精養軒の見取り図を描いていた。
かつて司法省にいた頃、要人の警護計画で見た図面だ。
複雑な洋館の構造も、相馬の頭には叩き込まれている。
どこに死角があり、どこが心臓部か。すべて把握していた。
「二階の来賓室。……そこに、永井、大鳥、鈴木の三人がいるはずです」
「なるほど」
永倉が頷いた。
「俺たちが中へ入ったら、島田も退いて合流する。……あとは、地獄の釜の蓋を開けるだけか」
「はい。……ただし」
相馬は釘を刺した。
「殺すのは最後です。まずは、衆人環視の中で奴らの罪を暴き、名誉を剥ぎ取る。……それが、俺たちの復讐です」
「分かってるよ」
永倉は立ち上がり、外套を羽織った。
「だが、向こうが抜いてきたら、手加減はしねえぞ。……俺の剣は、止めるようにできちゃいねえ」
「その時は……思う存分、やってください。俺が背中を守ります」
「へッ。……頼もしいねえ」
永倉が、鞘走る音をさせて愛刀を確かめた。
準備は整った。
「よし」
島田が立ち上がり、野太刀を背負った。
その巨体が、狭い廃屋を圧迫する。
島田は、相馬と永倉の顔を順に見渡し、ニヤリと口元を歪めた。
「……へッ。これなら、地獄の門もへし折れるわ」
「違げえねえ」
永倉が笑った。
「行くか」
焚き火を踏み消す。
残り火が消え、あたりは完全な闇に戻った。
だが、男たちの目は慣れていた。
闇を見通し、血路を切り開く狼の目。
恐怖はない。あるのは、これから始まる狩りへの渇望だけだ。
三人は、中山道を南下する。
板橋宿を抜け、巣鴨、そして本郷へ。
東京の街並みが、朝霧の中に浮かび上がる。
街はまだ眠っている。
人々は、今日という日が平和に始まると信じて寝息を立てている。
だが、その静寂の裏で、歴史の歯車が大きく軋もうとしていた。
あそこで、敵が待っている。
文明開化の光の下で、過去を葬り去ろうとする者たちが。
のうのうと美酒を啜り、自分たちの保身のために死者を冒涜する古狸ども。
(待っていろ)
相馬は走った。
冷たい風が頬を切る。
息が白い。
だが、胸の奥には灼熱の塊があった。
走る。
風を切って走る。
かつて京の町を駆け抜けたあの日のように。
浅葱色の羽織はなくても、胸の中には同じ「誠」の旗が翻っている。
「……見えてきたぞ」
先頭を行く永倉が声を上げた。
上野の山。
鬱蒼とした木々の向こうに、洋風建築の屋根が見える。
上野精養軒。
あそこが、決戦の舞台だ。
「行くぞ、新選組!」
永倉の檄が飛ぶ。
「おう!」
相馬と島田が応える。
三匹の狼が、夜明け前の帝都へ向かって牙を剥く。
長く、苦しい冬が終わろうとしていた。
歴史の闇に葬られた真実を、その刃で切り拓くために。
碧血の夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
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