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Chapter 3 僕の場合
3.7 Hyperbolic geometry
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翌日、ゴブリン集団を打倒する大型の協力クエストが発注されていた。
昨日の今日でこの騒ぎということは、僕達以外の報告例もあったのだろう。銅星適性の場所にゴブリンの巣があるのなら、強く警戒しなければならない。
「あんなに冒険者が必要なのか?」
「冒険者は集団戦が得意じゃないから、小さいパーティをたくさん動員することが多いんだ」
数ではゴブリンの方が圧倒的に多いので、少数精鋭で上位個体を強引に討伐するのが主流だ。最前線となる巣への突入組の適性は銀星等級以上。田舎ではかなりの難度のクエストと言える。
僕とラトちゃんは遊撃班に割り振られたので、ふたりで森の中を歩いていた。
「そういえば、ニゴさん依頼の泥棒の当てはある? 朝の聞き込みだと手掛かりなかったし、どうしようか」
「ぼくがいるうちに必ず巡り会うから、心配いらないよ。そういうお日柄なのだ」
ラトちゃんは林冠の隙間から覗く空を見上げる。
「でも、今日は待ってるばっかで退屈なのだ。ロザリィ達が手間取ってるのか?」
「もう討伐連絡が来ても良い頃だと思うんだけれど」
突入班は銀星2等級のパーティで、金星1等級のロザリィさんもいる。いくら上位個体がいたとしても、ゴブリン相手に苦戦するとは考えにくい。
「トラブルで長引いているのかもね。陽が落ちる前に夜営の準備をしようか」
「帰らないで森に泊まるの?」
「クエストの途中で帰ると評価が下がっちゃうんだよ」
僕の経験では準備不足で補給に戻ったりすると報酬が半分くらいになる。ただ、細かいところは冒険の神の匙加減で決まるようなので、気にしすぎることもない。
僕達は森の中の少し開けた湖のほとりを夜営地に選択した。
魔法収納のバッグから出したテントとタープをふたりで設置し、タープの下で膨らませたクッションに並んでもたれながら、薬草で作ったお茶を飲む。
少しだけスパイシーな香りと夕暮れの憩いを彩る温かな味が、僕にゆっくりと響き渡っていく。
「ルーちゃんのポッケ、小さいのにたくさん入っているのだ」
「魔法収納だからね。見た目の容積は関係ない」
バッグの中は違う世界になっていて、見た目よりもたくさんの物を入れることができる。
具体的には、魔法収納の中は距離の測り方が異なる世界だ。ここでは、中から入口に向かって距離が小さくなっていく。
こういう風に距離の測り方を決めると、例えばバッグをひっくり返しても、物はこぼれてこない。なぜならば、底から入口までの間が短くなるのと同じだけ、入れた物の大きさも小さくなるからだ。
一方、バッグの外の世界にいる僕たちは、中の世界の距離の測り方に従わないので、少しだけ魔力を使えば物を出し入れできるのだ。
これは双曲幾何モデルという概念で説明でき、断魔力系の構築などにも応用できる。正確な解説が欲しい方は成書を参照されたい。
「僕のは入れられるものが規定されていて、容量に限界もあるけどね」
「それならぼくの勝ちだな」
「ラトちゃん魔法収納持ってたっけ?」
「んぅ、き、気になるのだ…?」
ラトちゃんはお茶のカップを置くと、頬に手を当ててもじもじと揺れた。薄暗い中で微かに指す夕陽に、三日月のイヤリングが光り残鳴した。
そして僕に身体を寄せ、遠慮がちにこちらを見上げると、ローブの首もとを指で広げた。
「ぼくのポッケ、特別にルーちゃんは見ても…いいよ?」
「わ、ご、ごめんね、てっきり僕と同じようなのだと…。遠慮しとくよ」
慌てて顔を背けて身体を離そうとする僕を、ラトちゃんが物凄い力で引き留める。
「痛っ」
「……ルーちゃん、なんで遠慮するのだ」
思わず手放したコップが地面に転がり、彩りある香りと味が地面に吸い込まれて静かに見えなくなっていく。
ひやりと冷たい手で頬を挟まれ、僕の顔はラトちゃんに向き直される。吸い込まれそうに黒い瞳の中に僕が映っている。
小さな口から、ざらついた声が発された。
「なんでぼくから顔を背けるのだ」
「なんでって」
ラトちゃんは、座る僕と向かい合うように膝の上にまたがる。僕はまるで動くことができない。
周囲の景色が深く深い青に沈んでいくのが聞こえる。
僕達の周りから急速に温度が失われていく。
僕の頬だけに赤い熱を残したまま。
「ルーちゃん、なんでぼくから離れ……なんで、ほっぺが赤いのだ?」
「ゆ、夕陽のせいかな」
僕の肩に手を置いて首をかしげている。
なんでって、聞かれても困るな。
だって僕は今、何だか恥ずかしいのだ。
しばらく不思議そうに僕の目を覗き込んだり、頬をつついたりしていたラトちゃんは、ふと僕の頭の横を見て動きを止めた。
「もしかしてルーちゃん……照れてるの?」
「な、なんでそんなこと言えるの」
「だって、ほら」
空中を掴んだ手には小さな文字が握られていた。手のひらの上で文字通り、てれてれ、と身動ぎしている。
この現象、触れたんだ。
いたずら顔で笑うラトちゃんに、僕は顔がもっと熱くなるのを感じた。
「それならそうと早く言えばいいのだ!」
「言えるわけないじゃんか」
寄せられた身体にドキっとしたなんて、近くで見つめられて照れていたなんて、言えるわけないじゃんか。
ラトちゃんが僕の胸に顔をくっつける。
「えへへ、凄くドキドキしてるのだ」
「ちょっと! 僕は今、とても恥ずかしいんだよ!」
「でも今は、ぼくの方がドキドキしてるかもね!」
そのまま僕に抱きついて上を向くラトちゃんは、きっと夕日のせいで赤い頬を見せて笑う。
僕にラトちゃんの鼓動が伝わってきて、僕の鼓動がラトちゃんに伝わっていく。
「どっちがどっちなんだか分かんなくなったね」
「これでもうドキドキしても恥ずかしくないよ」
夕陽が沈みゆく森の中の湖のほとりで、鼓動が闇に溶けていくまで、僕達はぼく達を感じていた。
その夜テントで寝ていた僕は、アラートにより覚醒した。
【Caution: Enemy Approaching】
キャンプ設営時に策敵用の魔法陣は展開しておいたので、魔力板を見れば敵が赤い●として表示されているはずだ。
「うわ! なんだこれ!」
「…んん…どうしたのだ…」
目を擦ってこちらを向くラトちゃんに魔力板を見せる。
表示範囲いっぱいに広がる真っ赤な一帯が、もはや巨大な面となって近づいてくる様子を。
「こんなの数百の規模じゃないよ。囮の魔力波でも出されてるのかな」
「いや、確かにうるさいのがいっぱい来てるのだ…ロザリィ達が失敗したか?」
「ゴブリン以外もいるみたいだから、どうだろう」
複数パターンの応答が観測されていることから、ゴブリン種以外のモンスターも想定される。
遊撃に出てるパーティはもちろん、街まで壊滅しかねない戦力だ。
ギルドで受けた共同クエストの最中にこうなると、さすがに冒険の神に文句の1つでも言いたくなってくる。
急いで出たテントの外は音もしない夜に覆われ、しぃんとした静けさに混ざる淡い月明かりが、うっすらと辺りを照らしていた。
湖の近くだからか、空気の湿った香りが少し肌寒い。
「さて、どうしたものか」
「眠りを妨げるものはみなごろしなのだ…ふわぁぁ…」
少しばかり不機嫌そうな欠伸だ。
「地形を変えないように敵だけやっつけるとなると、ラトちゃんの《マジックアロー》でも何回必要になるか分からないよ」
「弓を使うのだ」
そう言って前方、湖の前まで歩いてこちらを振り向くと、耳元の月のイヤリングが妖しく光る。天に向けたその指の上空にも、欠けた月が浮かんでいた。
「射法《ムーンアロー:弦月夜》」
刹那、一条の光が地上から高く登って月に達し、放射状に拡散した光のそれぞれが、巨大な柱となって降り注いだ。
目も眩むような月光の中心で、小さな輪郭が踊るように回る。どこまでも深く深い青髪が揺れ、明滅する視界に黝い残像を残した。
視界に焼き付いた幻想に近づいて手を伸ばすと、僕の腕のなかにラトちゃんが入ってくる。
「んん…もうひとねむりなのだ」
「お疲れ様」
僕は赤い表示が無くなった魔力板をバッグにしまい、預けられた身体を抱えてテントに戻った。
昨日の今日でこの騒ぎということは、僕達以外の報告例もあったのだろう。銅星適性の場所にゴブリンの巣があるのなら、強く警戒しなければならない。
「あんなに冒険者が必要なのか?」
「冒険者は集団戦が得意じゃないから、小さいパーティをたくさん動員することが多いんだ」
数ではゴブリンの方が圧倒的に多いので、少数精鋭で上位個体を強引に討伐するのが主流だ。最前線となる巣への突入組の適性は銀星等級以上。田舎ではかなりの難度のクエストと言える。
僕とラトちゃんは遊撃班に割り振られたので、ふたりで森の中を歩いていた。
「そういえば、ニゴさん依頼の泥棒の当てはある? 朝の聞き込みだと手掛かりなかったし、どうしようか」
「ぼくがいるうちに必ず巡り会うから、心配いらないよ。そういうお日柄なのだ」
ラトちゃんは林冠の隙間から覗く空を見上げる。
「でも、今日は待ってるばっかで退屈なのだ。ロザリィ達が手間取ってるのか?」
「もう討伐連絡が来ても良い頃だと思うんだけれど」
突入班は銀星2等級のパーティで、金星1等級のロザリィさんもいる。いくら上位個体がいたとしても、ゴブリン相手に苦戦するとは考えにくい。
「トラブルで長引いているのかもね。陽が落ちる前に夜営の準備をしようか」
「帰らないで森に泊まるの?」
「クエストの途中で帰ると評価が下がっちゃうんだよ」
僕の経験では準備不足で補給に戻ったりすると報酬が半分くらいになる。ただ、細かいところは冒険の神の匙加減で決まるようなので、気にしすぎることもない。
僕達は森の中の少し開けた湖のほとりを夜営地に選択した。
魔法収納のバッグから出したテントとタープをふたりで設置し、タープの下で膨らませたクッションに並んでもたれながら、薬草で作ったお茶を飲む。
少しだけスパイシーな香りと夕暮れの憩いを彩る温かな味が、僕にゆっくりと響き渡っていく。
「ルーちゃんのポッケ、小さいのにたくさん入っているのだ」
「魔法収納だからね。見た目の容積は関係ない」
バッグの中は違う世界になっていて、見た目よりもたくさんの物を入れることができる。
具体的には、魔法収納の中は距離の測り方が異なる世界だ。ここでは、中から入口に向かって距離が小さくなっていく。
こういう風に距離の測り方を決めると、例えばバッグをひっくり返しても、物はこぼれてこない。なぜならば、底から入口までの間が短くなるのと同じだけ、入れた物の大きさも小さくなるからだ。
一方、バッグの外の世界にいる僕たちは、中の世界の距離の測り方に従わないので、少しだけ魔力を使えば物を出し入れできるのだ。
これは双曲幾何モデルという概念で説明でき、断魔力系の構築などにも応用できる。正確な解説が欲しい方は成書を参照されたい。
「僕のは入れられるものが規定されていて、容量に限界もあるけどね」
「それならぼくの勝ちだな」
「ラトちゃん魔法収納持ってたっけ?」
「んぅ、き、気になるのだ…?」
ラトちゃんはお茶のカップを置くと、頬に手を当ててもじもじと揺れた。薄暗い中で微かに指す夕陽に、三日月のイヤリングが光り残鳴した。
そして僕に身体を寄せ、遠慮がちにこちらを見上げると、ローブの首もとを指で広げた。
「ぼくのポッケ、特別にルーちゃんは見ても…いいよ?」
「わ、ご、ごめんね、てっきり僕と同じようなのだと…。遠慮しとくよ」
慌てて顔を背けて身体を離そうとする僕を、ラトちゃんが物凄い力で引き留める。
「痛っ」
「……ルーちゃん、なんで遠慮するのだ」
思わず手放したコップが地面に転がり、彩りある香りと味が地面に吸い込まれて静かに見えなくなっていく。
ひやりと冷たい手で頬を挟まれ、僕の顔はラトちゃんに向き直される。吸い込まれそうに黒い瞳の中に僕が映っている。
小さな口から、ざらついた声が発された。
「なんでぼくから顔を背けるのだ」
「なんでって」
ラトちゃんは、座る僕と向かい合うように膝の上にまたがる。僕はまるで動くことができない。
周囲の景色が深く深い青に沈んでいくのが聞こえる。
僕達の周りから急速に温度が失われていく。
僕の頬だけに赤い熱を残したまま。
「ルーちゃん、なんでぼくから離れ……なんで、ほっぺが赤いのだ?」
「ゆ、夕陽のせいかな」
僕の肩に手を置いて首をかしげている。
なんでって、聞かれても困るな。
だって僕は今、何だか恥ずかしいのだ。
しばらく不思議そうに僕の目を覗き込んだり、頬をつついたりしていたラトちゃんは、ふと僕の頭の横を見て動きを止めた。
「もしかしてルーちゃん……照れてるの?」
「な、なんでそんなこと言えるの」
「だって、ほら」
空中を掴んだ手には小さな文字が握られていた。手のひらの上で文字通り、てれてれ、と身動ぎしている。
この現象、触れたんだ。
いたずら顔で笑うラトちゃんに、僕は顔がもっと熱くなるのを感じた。
「それならそうと早く言えばいいのだ!」
「言えるわけないじゃんか」
寄せられた身体にドキっとしたなんて、近くで見つめられて照れていたなんて、言えるわけないじゃんか。
ラトちゃんが僕の胸に顔をくっつける。
「えへへ、凄くドキドキしてるのだ」
「ちょっと! 僕は今、とても恥ずかしいんだよ!」
「でも今は、ぼくの方がドキドキしてるかもね!」
そのまま僕に抱きついて上を向くラトちゃんは、きっと夕日のせいで赤い頬を見せて笑う。
僕にラトちゃんの鼓動が伝わってきて、僕の鼓動がラトちゃんに伝わっていく。
「どっちがどっちなんだか分かんなくなったね」
「これでもうドキドキしても恥ずかしくないよ」
夕陽が沈みゆく森の中の湖のほとりで、鼓動が闇に溶けていくまで、僕達はぼく達を感じていた。
その夜テントで寝ていた僕は、アラートにより覚醒した。
【Caution: Enemy Approaching】
キャンプ設営時に策敵用の魔法陣は展開しておいたので、魔力板を見れば敵が赤い●として表示されているはずだ。
「うわ! なんだこれ!」
「…んん…どうしたのだ…」
目を擦ってこちらを向くラトちゃんに魔力板を見せる。
表示範囲いっぱいに広がる真っ赤な一帯が、もはや巨大な面となって近づいてくる様子を。
「こんなの数百の規模じゃないよ。囮の魔力波でも出されてるのかな」
「いや、確かにうるさいのがいっぱい来てるのだ…ロザリィ達が失敗したか?」
「ゴブリン以外もいるみたいだから、どうだろう」
複数パターンの応答が観測されていることから、ゴブリン種以外のモンスターも想定される。
遊撃に出てるパーティはもちろん、街まで壊滅しかねない戦力だ。
ギルドで受けた共同クエストの最中にこうなると、さすがに冒険の神に文句の1つでも言いたくなってくる。
急いで出たテントの外は音もしない夜に覆われ、しぃんとした静けさに混ざる淡い月明かりが、うっすらと辺りを照らしていた。
湖の近くだからか、空気の湿った香りが少し肌寒い。
「さて、どうしたものか」
「眠りを妨げるものはみなごろしなのだ…ふわぁぁ…」
少しばかり不機嫌そうな欠伸だ。
「地形を変えないように敵だけやっつけるとなると、ラトちゃんの《マジックアロー》でも何回必要になるか分からないよ」
「弓を使うのだ」
そう言って前方、湖の前まで歩いてこちらを振り向くと、耳元の月のイヤリングが妖しく光る。天に向けたその指の上空にも、欠けた月が浮かんでいた。
「射法《ムーンアロー:弦月夜》」
刹那、一条の光が地上から高く登って月に達し、放射状に拡散した光のそれぞれが、巨大な柱となって降り注いだ。
目も眩むような月光の中心で、小さな輪郭が踊るように回る。どこまでも深く深い青髪が揺れ、明滅する視界に黝い残像を残した。
視界に焼き付いた幻想に近づいて手を伸ばすと、僕の腕のなかにラトちゃんが入ってくる。
「んん…もうひとねむりなのだ」
「お疲れ様」
僕は赤い表示が無くなった魔力板をバッグにしまい、預けられた身体を抱えてテントに戻った。
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