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第二十四話 労役施設へ
第二十四話 労役施設へ
王宮の別棟には、貴族が足を踏み入れることのない場所がある。
白い回廊の奥。
華やかな広間とは違い、石壁は冷たく、窓は高く小さい。
そこに、アルベルトの妻は連れてこられていた。
昨日まで、彼女は男爵夫人だった。
その少し前までは、自らを公爵夫人だと叫んでいた。
けれど今、王宮の書類にはこう記されている。
――労役奴隷、女一名。
名前の横に、身分はなかった。
「こちらへ」
女官ではない。
労役施設の管理係が、淡々と告げる。
アルベルトの妻は身を引いた。
「触らないで」
かすれた声だった。
「私は……」
言いかけて、止まる。
公爵夫人。
男爵夫人。
そのどちらも、もう言えない。
管理係は冷たく言った。
「貴族籍は剥奪済みです」
その一言で、彼女の顔が歪んだ。
「分かっているわよ……!」
「では、従ってください」
返ってきたのは、それだけだった。
彼女は連れてこられた小部屋で、身につけていたものをすべて外すよう命じられた。
指輪。
耳飾り。
首飾り。
髪飾り。
袖口に縫い込ませていた小さな宝石まで、すべて取り上げられる。
「それは私の物よ!」
彼女は叫んだ。
管理係は、目録を確認する。
「公爵家名義で購入された品です」
「違うわ! 私が使っていたの!」
「使用者と所有者は違います」
その言葉に、彼女は黙った。
かつてエレノアが何度も言ったことだった。
似合うことと、支払えることは別。
使うことと、所有することは別。
あのときは聞かなかった。
聞く必要がないと思っていた。
だが今、その言葉は王宮の手によって実行されている。
ドレスも脱がされた。
豪奢な布地は目録へ。
代わりに渡されたのは、灰色の粗末な服だった。
厚く、重く、肌触りの悪い布。
彼女はそれを見て、震えた。
「こんなもの……着られるわけがないでしょう」
管理係は表情を変えない。
「では裸で労役に出ますか」
彼女は息を呑んだ。
その場にいた誰も、笑わない。
侮辱ですらない。
ただ、命令だった。
泣きながら袖を通す。
細い手首に、鉄の輪がはめられる。
がしゃり、と音がした。
彼女はその音を聞いて、初めて本当に理解した。
自分はもう、誰かに触られることを拒める立場ではない。
「お母様!」
廊下の向こうから、セシリアの声がした。
彼女は反射的に顔を上げる。
「セシリア!」
娘が、近衛兵に連れられていた。
まだ労役服ではない。
けれど宝石もドレスも奪われ、簡素な服に着替えさせられている。
泣き腫らした顔。
震える肩。
ついこの間まで、王太子妃を夢見ていた娘とは思えなかった。
「お母様、助けて……!」
セシリアは手を伸ばそうとした。
だが、兵が止める。
「接触は禁止だ」
「娘よ!」
アルベルトの妻が叫ぶ。
「せめて娘と話をさせて!」
管理係は書類をめくる。
「セシリアは別管理です」
「別……?」
「王宮保全後、弁済契約先を決定します」
その意味を、彼女はもう理解していた。
昨日の審理で聞いた。
労役契約。
国外商会。
売却。
「嫌よ……」
彼女は首を振った。
「この子はまだ若いのよ。何も分かっていなかったの。悪いのは私とアルベルトで――」
「王太子殿下の前で虚偽の名乗りをしたのは、本人です」
管理係の声は冷たかった。
「本人の責任は、本人が負います」
セシリアは泣き崩れた。
「お母様ぁ……!」
「セシリア!」
二人の声が廊下に響く。
だが、王宮の石壁は何も返さない。
セシリアは別の扉の向こうへ連れて行かれた。
母親の手は、届かなかった。
扉が閉まる。
その音に、アルベルトの妻は膝から崩れ落ちた。
「返して……娘を返して……」
管理係は淡々と言った。
「立ってください。移送時刻です」
「嫌……もう嫌……」
「立てない場合は、引きずります」
彼女は震えながら立ち上がった。
王宮の裏門には、荷馬車が待っていた。
アルベルトが乗せられた護送馬車よりは簡素だが、窓には格子がある。
行き先は、王宮管理の労役施設。
貴族籍を失った者、罰金を払えない者、労役で弁済を命じられた者が送られる場所だ。
そこでは名ではなく番号で呼ばれる。
食事は最低限。
仕事は一日中。
病めば休めるわけではなく、作業内容が変わるだけ。
「乗れ」
兵が言った。
彼女は最後に王宮を振り返った。
白い壁。
金の装飾。
美しい塔。
自分がいつか自由に歩けると思っていた場所。
娘が王太子妃になれば、笑顔で迎えられると思っていた場所。
それが今は、ただ冷たく自分を見下ろしている。
「私は……」
また言いかけて、言葉が消えた。
自分が何者だったのか。
もう、口にできない。
荷馬車の扉が閉まる。
鉄の音が響いた。
同じ頃、公爵邸では、エレノアが労役移送の報告書を受け取っていた。
「アルベルトの妻、王宮管理労役施設へ移送完了見込み」
ルークが静かに読み上げる。
「私物はすべて没収。公爵家名義購入品は返還目録へ」
「分かりました」
エレノアは短く答える。
「記録庫へ」
ルークは一礼した。
「セシリア嬢については、まだ王宮保全中とのことです」
「そうですか」
エレノアは窓の外を見る。
薔薇が風に揺れている。
あの女が玄関ホールで叫んだ声を思い出す。
――触らないで! 私は、公爵夫人よ!
今、彼女は自分の身に触れられることすら拒めない。
身分を偽った者が、身分を失った。
それだけのことだった。
「お辛くはございませんか」
ルークが静かに問う。
エレノアは少しだけ考えた。
「公爵家の名を守るために必要な処分です」
その声は揺れなかった。
「情で戻せる段階は、とうに過ぎています」
王都の道を、労役施設行きの荷馬車が進む。
中で、アルベルトの妻は小さく震えていた。
指輪のない手。
飾りのない髪。
粗末な灰色の服。
石畳の振動が、体に響く。
外から誰かの声がした。
「王家を騙した女だってよ」
「公爵夫人を名乗っていたらしい」
「今は奴隷か」
笑い声。
彼女は耳を塞ぎたかった。
だが手枷が重く、うまく動かない。
涙がこぼれる。
それでも、馬車は止まらない。
やがて、王都の華やかな通りは遠ざかる。
建物は低くなり、道は荒れていく。
労役施設の黒い門が見えた。
門番が書類を確認する。
「新規登録か」
「女一名。王家欺瞞、爵位僭称関与、公爵家財産横領」
「番号は?」
管理係が答える。
「八〇三」
彼女は顔を上げた。
「番号……?」
門番は彼女を見た。
「ここでは名前は使わない」
その言葉に、彼女の身体から力が抜けた。
八〇三。
それが、今日からの自分。
門が開く。
中から、石を砕く音、布を洗う音、叱責の声が聞こえてきた。
彼女は後ずさろうとした。
だが、後ろには兵がいる。
「進め」
押される。
よろめく。
敷地の中へ入る。
門が閉まる。
重い音。
その瞬間、彼女の過去は完全に外へ置き去りにされた。
公爵夫人でもない。
男爵夫人でもない。
ただの労役番号八〇三。
エレノアはその報告を、夜にもう一度確認した。
書類に目を通し、署名欄へ静かに印を押す。
「確認済み」
それだけ。
彼女は振り返らない。
次に残るのは、セシリア。
王太子妃を夢見て、公爵令嬢を名乗った少女。
その夢の代償もまた、まもなく形になる。
王宮の別棟には、貴族が足を踏み入れることのない場所がある。
白い回廊の奥。
華やかな広間とは違い、石壁は冷たく、窓は高く小さい。
そこに、アルベルトの妻は連れてこられていた。
昨日まで、彼女は男爵夫人だった。
その少し前までは、自らを公爵夫人だと叫んでいた。
けれど今、王宮の書類にはこう記されている。
――労役奴隷、女一名。
名前の横に、身分はなかった。
「こちらへ」
女官ではない。
労役施設の管理係が、淡々と告げる。
アルベルトの妻は身を引いた。
「触らないで」
かすれた声だった。
「私は……」
言いかけて、止まる。
公爵夫人。
男爵夫人。
そのどちらも、もう言えない。
管理係は冷たく言った。
「貴族籍は剥奪済みです」
その一言で、彼女の顔が歪んだ。
「分かっているわよ……!」
「では、従ってください」
返ってきたのは、それだけだった。
彼女は連れてこられた小部屋で、身につけていたものをすべて外すよう命じられた。
指輪。
耳飾り。
首飾り。
髪飾り。
袖口に縫い込ませていた小さな宝石まで、すべて取り上げられる。
「それは私の物よ!」
彼女は叫んだ。
管理係は、目録を確認する。
「公爵家名義で購入された品です」
「違うわ! 私が使っていたの!」
「使用者と所有者は違います」
その言葉に、彼女は黙った。
かつてエレノアが何度も言ったことだった。
似合うことと、支払えることは別。
使うことと、所有することは別。
あのときは聞かなかった。
聞く必要がないと思っていた。
だが今、その言葉は王宮の手によって実行されている。
ドレスも脱がされた。
豪奢な布地は目録へ。
代わりに渡されたのは、灰色の粗末な服だった。
厚く、重く、肌触りの悪い布。
彼女はそれを見て、震えた。
「こんなもの……着られるわけがないでしょう」
管理係は表情を変えない。
「では裸で労役に出ますか」
彼女は息を呑んだ。
その場にいた誰も、笑わない。
侮辱ですらない。
ただ、命令だった。
泣きながら袖を通す。
細い手首に、鉄の輪がはめられる。
がしゃり、と音がした。
彼女はその音を聞いて、初めて本当に理解した。
自分はもう、誰かに触られることを拒める立場ではない。
「お母様!」
廊下の向こうから、セシリアの声がした。
彼女は反射的に顔を上げる。
「セシリア!」
娘が、近衛兵に連れられていた。
まだ労役服ではない。
けれど宝石もドレスも奪われ、簡素な服に着替えさせられている。
泣き腫らした顔。
震える肩。
ついこの間まで、王太子妃を夢見ていた娘とは思えなかった。
「お母様、助けて……!」
セシリアは手を伸ばそうとした。
だが、兵が止める。
「接触は禁止だ」
「娘よ!」
アルベルトの妻が叫ぶ。
「せめて娘と話をさせて!」
管理係は書類をめくる。
「セシリアは別管理です」
「別……?」
「王宮保全後、弁済契約先を決定します」
その意味を、彼女はもう理解していた。
昨日の審理で聞いた。
労役契約。
国外商会。
売却。
「嫌よ……」
彼女は首を振った。
「この子はまだ若いのよ。何も分かっていなかったの。悪いのは私とアルベルトで――」
「王太子殿下の前で虚偽の名乗りをしたのは、本人です」
管理係の声は冷たかった。
「本人の責任は、本人が負います」
セシリアは泣き崩れた。
「お母様ぁ……!」
「セシリア!」
二人の声が廊下に響く。
だが、王宮の石壁は何も返さない。
セシリアは別の扉の向こうへ連れて行かれた。
母親の手は、届かなかった。
扉が閉まる。
その音に、アルベルトの妻は膝から崩れ落ちた。
「返して……娘を返して……」
管理係は淡々と言った。
「立ってください。移送時刻です」
「嫌……もう嫌……」
「立てない場合は、引きずります」
彼女は震えながら立ち上がった。
王宮の裏門には、荷馬車が待っていた。
アルベルトが乗せられた護送馬車よりは簡素だが、窓には格子がある。
行き先は、王宮管理の労役施設。
貴族籍を失った者、罰金を払えない者、労役で弁済を命じられた者が送られる場所だ。
そこでは名ではなく番号で呼ばれる。
食事は最低限。
仕事は一日中。
病めば休めるわけではなく、作業内容が変わるだけ。
「乗れ」
兵が言った。
彼女は最後に王宮を振り返った。
白い壁。
金の装飾。
美しい塔。
自分がいつか自由に歩けると思っていた場所。
娘が王太子妃になれば、笑顔で迎えられると思っていた場所。
それが今は、ただ冷たく自分を見下ろしている。
「私は……」
また言いかけて、言葉が消えた。
自分が何者だったのか。
もう、口にできない。
荷馬車の扉が閉まる。
鉄の音が響いた。
同じ頃、公爵邸では、エレノアが労役移送の報告書を受け取っていた。
「アルベルトの妻、王宮管理労役施設へ移送完了見込み」
ルークが静かに読み上げる。
「私物はすべて没収。公爵家名義購入品は返還目録へ」
「分かりました」
エレノアは短く答える。
「記録庫へ」
ルークは一礼した。
「セシリア嬢については、まだ王宮保全中とのことです」
「そうですか」
エレノアは窓の外を見る。
薔薇が風に揺れている。
あの女が玄関ホールで叫んだ声を思い出す。
――触らないで! 私は、公爵夫人よ!
今、彼女は自分の身に触れられることすら拒めない。
身分を偽った者が、身分を失った。
それだけのことだった。
「お辛くはございませんか」
ルークが静かに問う。
エレノアは少しだけ考えた。
「公爵家の名を守るために必要な処分です」
その声は揺れなかった。
「情で戻せる段階は、とうに過ぎています」
王都の道を、労役施設行きの荷馬車が進む。
中で、アルベルトの妻は小さく震えていた。
指輪のない手。
飾りのない髪。
粗末な灰色の服。
石畳の振動が、体に響く。
外から誰かの声がした。
「王家を騙した女だってよ」
「公爵夫人を名乗っていたらしい」
「今は奴隷か」
笑い声。
彼女は耳を塞ぎたかった。
だが手枷が重く、うまく動かない。
涙がこぼれる。
それでも、馬車は止まらない。
やがて、王都の華やかな通りは遠ざかる。
建物は低くなり、道は荒れていく。
労役施設の黒い門が見えた。
門番が書類を確認する。
「新規登録か」
「女一名。王家欺瞞、爵位僭称関与、公爵家財産横領」
「番号は?」
管理係が答える。
「八〇三」
彼女は顔を上げた。
「番号……?」
門番は彼女を見た。
「ここでは名前は使わない」
その言葉に、彼女の身体から力が抜けた。
八〇三。
それが、今日からの自分。
門が開く。
中から、石を砕く音、布を洗う音、叱責の声が聞こえてきた。
彼女は後ずさろうとした。
だが、後ろには兵がいる。
「進め」
押される。
よろめく。
敷地の中へ入る。
門が閉まる。
重い音。
その瞬間、彼女の過去は完全に外へ置き去りにされた。
公爵夫人でもない。
男爵夫人でもない。
ただの労役番号八〇三。
エレノアはその報告を、夜にもう一度確認した。
書類に目を通し、署名欄へ静かに印を押す。
「確認済み」
それだけ。
彼女は振り返らない。
次に残るのは、セシリア。
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その夢の代償もまた、まもなく形になる。
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