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急転直カプリチョーザ
1.狂犬、走る。
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「待てやコラ!」
昼下がりの閑静な裏道に、関西弁混じりの罵声が響いた。
カーキが、白色の影にぐんぐんと近づいていく。一歩踏み込んで、あと数センチ——。
伸ばした手は、空虚を掴んだ。くそ、走りだけは警察学校で一番だったのに。そんなことを考えながら、曲がり角に消えた影を追って走り続ける。
革靴は走るのには向いていない。それでもスニーカーを履く気になれないのは、革靴が刑事のトレードマークだと思うからか。
「あーもう! くそ、くそっ」
裏道を出ると、そこには先ほどまでの白い影はなく、歩道、そしてその先にただ車が行き来する通りがあるだけだった。周りを見渡しても、人がまばらにいるだけで。
——ただのひったくりを逃したなんて。
真理は悔しかった。大層悔しかった。狂犬だと揶揄されるくらい、彼女はいつも犯人を全力で確保していた。不本意な名誉だとしても、犯人を逃した今、彼女のプライドは少し傷ついた。
「惜しかったね、刑事さん」
その声に振り向くと、白い肩までの髪の少女が、面白いものを見たとでもいったような顔で笑っていた。
「あー、ええと、どうも……」
かっこ悪いところを見られた真理は、少々バツが悪かった。刑事ドラマの主人公は、犯人を逃したりしないのに。同性に対しては紳士的に接するのが常の真理も、さすがに余裕がないのか、走っていた時と同じ怖い顔のまま答えた。
「白いジャージの人を追ってたんでしょう? あの人、どこに行ったのかな~」
知らんわ。こっちが聞きたいっての。
真理は余裕のない心で軽く悪態をつきながら、さあねと短く返した。
「ねえねえ刑事さん、どこ行ったか知りたくない?」
「はあ? そりゃ、知りたいよ。てか、君は一体……」
すると少女は、振り返って真っ直ぐに前を指差した。
「向こうの、そうだなー、信号を2つ行って、一つ目の曲がり角を右に入ったところにいるなあ」
まさか適当ちゃうやろな、もしそうやったら許さへんぞ。
そう思いながらも、真理は少女が指差した方向に向かって走り出した。礼を言うのも忘れて。
「うわ、足はやー! なんか大型犬っぽいな、あの刑事さん」
犬のお巡りさんじゃん、と喉元から声を漏らして笑いながら、少女もその場から去った。
その数分後。
「よう手こずらせてくれたな、観念し!」
息の荒い真理の下には、例のひったくり犯がいた。
その手首に手錠をかけ、そのままの体勢で署に電話をかける。
しばらくして、一台のパトカーが路地の入り口の前に停まった。扉を開けて一人の刑事が降りてくる。
「マリちゃんお待たせー!」
そう言ったのは同僚の三崎という男だ。歳は真理より3つ上だが、港湾署に配属されたのが同じ年だったので、兄弟のように互いを慕っている。
「ばか、まことだっての! ほら、さっさとしろよ」
「マリちゃん厳し~い」
おちゃらけながらも、三崎は手際良く白ジャージを後部座席に乗せ、真理が助手席に座ったのを確認して車を出した。
真理達が勤める港湾署のあるK区は、大半が埋め立てて開発された土地だ。内陸に人口が集中しているため、海側になればなるほど建物の間隔は開き、もの悲しさが漂う。
真理は背もたれに身を任せ、窓の外を見つめた。そんなK区を真理が大好きなのは、自宅のテレビの横に積み上がった刑事ドラマのDVDのせいだろう。言うなれば彼女は、底なしの刑事ドラマオタクだったのだ。ハードボイルドと港町はセットだというのが彼女の考えだった。
やがて車がロータリーに入った。
「それじゃあマリちゃんよろしくおねがいしますっ!」
三崎はびしっと敬礼して見せ、真理はそのどこから来るのか分からない調子の良さに、すこし笑った。
「はいはい。ほら、降りた降りた」
真理は車から降り、後部座席から白ジャージの腕を掴み連れ出す。
「そいつ、あんまり怖がらせちゃだめだぞ、マリちゃん」
窓から片手と顔を出してそう言う三崎に、真理は振り返ることなく、空いた方の手を持ち上げ、署のなかへと消えていった。
それを見た三崎は、ありゃあ情状酌量の余地なしだな、と白ジャージに幾分かの同情をして、片眉を持ち上げた。
「係長~ひったくりです」
「おお、お疲れ今坂。被害者の方は?」
「あ」
まずい。犯人を追うことに必死になりすぎた。
「……今坂?」
「え~っと、外で待っていただいているので、今お連れしま……」
「係長、被害者の方です」
「お~三崎! おつかれさん。じゃあこちらでお話を聞かせていただこうか」
現れたのは苦笑いをした三崎と、若い女性だった。女性は真理の方を見ると、ぺこりと一礼した。
ああ、すみません、本当に。恥の上塗りってやつだ、これは。
真理はやはりバツが悪くて、首をかいた。
「取り調べ、してきまーす……」
せめて取り調べだけはきちんとしようと、そっとその場を抜けようとした真理を、すれ違いざまに三崎がひきとめた。
「マリちゃん、マリちゃん、お客さん来てるよ」
「客ぅ?」
「うん、あの、受付のとこで待っててもらってるからさ。取り調べは俺がやっとくから」
すまん、三崎。いや三崎様か。マジでありがとうございます。これからは神様仏様三崎様って呼びます。
真理は一瞬三崎の後頭部を光が照らしている幻覚を見たが、ぶるぶる首を振ってなかったことにした。とりあえず、今は受付に行かなければ。
もしかしたら、本庁のお偉いさんで、捜査一課の窓際部署への異動とかかもしれないし。——そこまで考えて、真理はもう一度首をぶるぶる振った。
昼下がりの閑静な裏道に、関西弁混じりの罵声が響いた。
カーキが、白色の影にぐんぐんと近づいていく。一歩踏み込んで、あと数センチ——。
伸ばした手は、空虚を掴んだ。くそ、走りだけは警察学校で一番だったのに。そんなことを考えながら、曲がり角に消えた影を追って走り続ける。
革靴は走るのには向いていない。それでもスニーカーを履く気になれないのは、革靴が刑事のトレードマークだと思うからか。
「あーもう! くそ、くそっ」
裏道を出ると、そこには先ほどまでの白い影はなく、歩道、そしてその先にただ車が行き来する通りがあるだけだった。周りを見渡しても、人がまばらにいるだけで。
——ただのひったくりを逃したなんて。
真理は悔しかった。大層悔しかった。狂犬だと揶揄されるくらい、彼女はいつも犯人を全力で確保していた。不本意な名誉だとしても、犯人を逃した今、彼女のプライドは少し傷ついた。
「惜しかったね、刑事さん」
その声に振り向くと、白い肩までの髪の少女が、面白いものを見たとでもいったような顔で笑っていた。
「あー、ええと、どうも……」
かっこ悪いところを見られた真理は、少々バツが悪かった。刑事ドラマの主人公は、犯人を逃したりしないのに。同性に対しては紳士的に接するのが常の真理も、さすがに余裕がないのか、走っていた時と同じ怖い顔のまま答えた。
「白いジャージの人を追ってたんでしょう? あの人、どこに行ったのかな~」
知らんわ。こっちが聞きたいっての。
真理は余裕のない心で軽く悪態をつきながら、さあねと短く返した。
「ねえねえ刑事さん、どこ行ったか知りたくない?」
「はあ? そりゃ、知りたいよ。てか、君は一体……」
すると少女は、振り返って真っ直ぐに前を指差した。
「向こうの、そうだなー、信号を2つ行って、一つ目の曲がり角を右に入ったところにいるなあ」
まさか適当ちゃうやろな、もしそうやったら許さへんぞ。
そう思いながらも、真理は少女が指差した方向に向かって走り出した。礼を言うのも忘れて。
「うわ、足はやー! なんか大型犬っぽいな、あの刑事さん」
犬のお巡りさんじゃん、と喉元から声を漏らして笑いながら、少女もその場から去った。
その数分後。
「よう手こずらせてくれたな、観念し!」
息の荒い真理の下には、例のひったくり犯がいた。
その手首に手錠をかけ、そのままの体勢で署に電話をかける。
しばらくして、一台のパトカーが路地の入り口の前に停まった。扉を開けて一人の刑事が降りてくる。
「マリちゃんお待たせー!」
そう言ったのは同僚の三崎という男だ。歳は真理より3つ上だが、港湾署に配属されたのが同じ年だったので、兄弟のように互いを慕っている。
「ばか、まことだっての! ほら、さっさとしろよ」
「マリちゃん厳し~い」
おちゃらけながらも、三崎は手際良く白ジャージを後部座席に乗せ、真理が助手席に座ったのを確認して車を出した。
真理達が勤める港湾署のあるK区は、大半が埋め立てて開発された土地だ。内陸に人口が集中しているため、海側になればなるほど建物の間隔は開き、もの悲しさが漂う。
真理は背もたれに身を任せ、窓の外を見つめた。そんなK区を真理が大好きなのは、自宅のテレビの横に積み上がった刑事ドラマのDVDのせいだろう。言うなれば彼女は、底なしの刑事ドラマオタクだったのだ。ハードボイルドと港町はセットだというのが彼女の考えだった。
やがて車がロータリーに入った。
「それじゃあマリちゃんよろしくおねがいしますっ!」
三崎はびしっと敬礼して見せ、真理はそのどこから来るのか分からない調子の良さに、すこし笑った。
「はいはい。ほら、降りた降りた」
真理は車から降り、後部座席から白ジャージの腕を掴み連れ出す。
「そいつ、あんまり怖がらせちゃだめだぞ、マリちゃん」
窓から片手と顔を出してそう言う三崎に、真理は振り返ることなく、空いた方の手を持ち上げ、署のなかへと消えていった。
それを見た三崎は、ありゃあ情状酌量の余地なしだな、と白ジャージに幾分かの同情をして、片眉を持ち上げた。
「係長~ひったくりです」
「おお、お疲れ今坂。被害者の方は?」
「あ」
まずい。犯人を追うことに必死になりすぎた。
「……今坂?」
「え~っと、外で待っていただいているので、今お連れしま……」
「係長、被害者の方です」
「お~三崎! おつかれさん。じゃあこちらでお話を聞かせていただこうか」
現れたのは苦笑いをした三崎と、若い女性だった。女性は真理の方を見ると、ぺこりと一礼した。
ああ、すみません、本当に。恥の上塗りってやつだ、これは。
真理はやはりバツが悪くて、首をかいた。
「取り調べ、してきまーす……」
せめて取り調べだけはきちんとしようと、そっとその場を抜けようとした真理を、すれ違いざまに三崎がひきとめた。
「マリちゃん、マリちゃん、お客さん来てるよ」
「客ぅ?」
「うん、あの、受付のとこで待っててもらってるからさ。取り調べは俺がやっとくから」
すまん、三崎。いや三崎様か。マジでありがとうございます。これからは神様仏様三崎様って呼びます。
真理は一瞬三崎の後頭部を光が照らしている幻覚を見たが、ぶるぶる首を振ってなかったことにした。とりあえず、今は受付に行かなければ。
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