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第一章 悲しみのエンパシー
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それからふたりは座り込み、伊央のアメリカ生活の話で盛りあがった。ショッピングモールのなかにあるアイスクリーム屋がお気に入りだったとか、合気道の日本人の先生に連れていってもらった川釣りが楽しかったなど。それらはありふれた日常の一部ではあったが、日本を出たことのないめぐるは興味津々といったふうに聞き入っていた。
「アメリカかあ。行ってみたくなっちゃった。ってことは、伊央は英語がペラペラなんだね」
「まあね。でも父さんが厳しくて、日本語もみっちり勉強させられた。漢字に敬語にことわざ、あと日本の歴史も」
「すごいね。きっと人一倍がんばってきたんだね」
「この先、左手の障がいのせいで苦労するかもしれない。だけど勉強さえしておけば、将来の選択肢は広がるからって。それが父さんの口癖だった」
ふたりはまるで昔からの友達同士のようだった。一緒にいる時間は短いのに、もうすっかり深い絆で結ばれている。
なぜもっと早くこうしていなかったのだろう。同じクラスで席も隣同士なのにと、めぐるは時折白い歯をこぼす伊央を見て思った。
「この場所は特等席だね。ひと気もあんまりないから、さぼるのにうってつけ」
周囲は背の高いイチョウの木々が生い茂り、南側の校庭からも目立たない。豊かに育った緑のイチョウの葉が風に揺れるたびに、湿気を帯びた生ぬるい空気を清々しいものに変えてくれる。
「教室にいたくないなら、ここに来ればいいよ」
「これからも来ていいの?」
「もちろん」
伊央がやさしく頷く。
伊央自身もこんなにも人の心を温かく感じるのは久しぶりだった。少なくとも日本に戻ってからは一度も笑ったことがなかった。学校ではもちろん、それ以外でも伊央の孤独は変わらない。
アメリカでもそうだったが、今の父に引き取られるまで過ごしていた児童養護施設でも、伊央は左手が原因で子どもたちから壮絶ないじめを受けていたため、毎日が地獄だった。伊央は小さな身体で、その地獄の苦しみをたったひとりで耐え抜いてきたのだ。
「誰かと、こんなに楽しい時間を過ごせるなんて思ってもみなかった」
伊央はよほどうれしかったのだろう。感慨深げに言う。
「わたしも。こうして話せてよかった。じゃなかったら伊央が昔会ったあの男の子だったなんて気づけなかったと思うの」
「僕ってそんなに面影ない?」
「その前に昔の伊央の顔を思い出せなかった。だって十年も前だよ。しかもまだ六歳だったんだから」
「僕は覚えてた」
「それは伊央の記憶力がすごすぎるの。でもなんで、あのときひとりであの場所にいたの?」
めぐるの家があるところよりもさらに高い場所。草が生い茂る小高い丘の上で伊央と出会った。宅地整備は徐々に進んでいたが、その近辺は住宅がまばらで、夜ともなれば深い闇となる。そんな 辺鄙な場所に六歳の男の子がいるというのは奇妙なことだ。
けれどその疑問に伊央は答えることはなかった。
というのは、そのときちょっとだけ風が強めに吹いて、葉の擦れる音が流れてくるとともに、なにやら騒がしい音も聞こえてきたからだ。
「なんだろう?」
「そういえば、さっきからパトカーや消防車のサイレンの音がしてるよね。どこかで火事でもあったのかな」
めぐるが不安そうに口にすると、いよいよその音が無視できないレベルとなる。尋常じゃないほどの騒音に、伊央が「すぐ近くだよ」と校庭のほうを見た。そしてそれと同時に聞こえてきた人の声。
「誰かいるの?」
めぐると伊央は顔を見合わせた。声の主は非常階段の下のほうにいるようだ。
「まずいよ、見つかった」
めぐるは声のトーンを抑える。
「この声って、誰?」
伊央に言われ、めぐるは鉄柵の間から恐る恐る下を見た。ショートボブに意志の強そうなキリリとした目もと、スレンダー体型の彼女は学園一の有名人だ。
「 如月先輩だよ」
「知ってる人?」
「なに言ってるの? 生徒会長じゃない」
めぐるが振り向きながら伊央に言う。
「先生じゃないんだ。なら平気だろう」
「そういえば授業中なのにおかしいよね。如月先輩が授業をさぼるわけないし」
生徒会長である三年の如月 華耶子は、この学園はじまって以来の優等生。全国模試でもトップレベルの成績で東大や京大を狙えるほどの高い偏差値の持ち主。おまけに日本人離れしたスタイルで顔立ちもエキゾチックで美しく、非の打ちどころのない人間だ。
だが、それだけではない。華耶子の祖父は学園の理事長である 御影 徳之助であり、父は学園長の如月 柊誠である。
そのため完璧すぎる華耶子に歯向かう者はいない。皆が雲の上の人と崇めるほどにまで登りつめている華耶子は、もはや嫉む対象にすらならないのだ。
「あなたたち、避難指示が出ているのに、こんなところでなにをやってるの⁉」
非常階段の下から華耶子が大声を張りあげる。
「避難指示ってなんだろう。今日、避難訓練の予定なんてあった?」
めぐるが伊央にたずねるが、伊央もわからないという意味で首を傾げる。
めぐるは立ちあがって、下にいる華耶子に向かって言った。
「すみません、今行きます!」
よくわからないが、天下の生徒会長に言われては無視できない。
「伊央、行こう」
めぐるは渋る伊央の左腕を引っ張りあげる。その弾みで袖がめくれ、ちらりと三本指が見えた。めぐるはその手を取り、ぎゅっと握ると、伊央を連れて非常階段を駆けおりた。
「早く校庭に避難して! 学園に爆破予告があったの!」
「アメリカかあ。行ってみたくなっちゃった。ってことは、伊央は英語がペラペラなんだね」
「まあね。でも父さんが厳しくて、日本語もみっちり勉強させられた。漢字に敬語にことわざ、あと日本の歴史も」
「すごいね。きっと人一倍がんばってきたんだね」
「この先、左手の障がいのせいで苦労するかもしれない。だけど勉強さえしておけば、将来の選択肢は広がるからって。それが父さんの口癖だった」
ふたりはまるで昔からの友達同士のようだった。一緒にいる時間は短いのに、もうすっかり深い絆で結ばれている。
なぜもっと早くこうしていなかったのだろう。同じクラスで席も隣同士なのにと、めぐるは時折白い歯をこぼす伊央を見て思った。
「この場所は特等席だね。ひと気もあんまりないから、さぼるのにうってつけ」
周囲は背の高いイチョウの木々が生い茂り、南側の校庭からも目立たない。豊かに育った緑のイチョウの葉が風に揺れるたびに、湿気を帯びた生ぬるい空気を清々しいものに変えてくれる。
「教室にいたくないなら、ここに来ればいいよ」
「これからも来ていいの?」
「もちろん」
伊央がやさしく頷く。
伊央自身もこんなにも人の心を温かく感じるのは久しぶりだった。少なくとも日本に戻ってからは一度も笑ったことがなかった。学校ではもちろん、それ以外でも伊央の孤独は変わらない。
アメリカでもそうだったが、今の父に引き取られるまで過ごしていた児童養護施設でも、伊央は左手が原因で子どもたちから壮絶ないじめを受けていたため、毎日が地獄だった。伊央は小さな身体で、その地獄の苦しみをたったひとりで耐え抜いてきたのだ。
「誰かと、こんなに楽しい時間を過ごせるなんて思ってもみなかった」
伊央はよほどうれしかったのだろう。感慨深げに言う。
「わたしも。こうして話せてよかった。じゃなかったら伊央が昔会ったあの男の子だったなんて気づけなかったと思うの」
「僕ってそんなに面影ない?」
「その前に昔の伊央の顔を思い出せなかった。だって十年も前だよ。しかもまだ六歳だったんだから」
「僕は覚えてた」
「それは伊央の記憶力がすごすぎるの。でもなんで、あのときひとりであの場所にいたの?」
めぐるの家があるところよりもさらに高い場所。草が生い茂る小高い丘の上で伊央と出会った。宅地整備は徐々に進んでいたが、その近辺は住宅がまばらで、夜ともなれば深い闇となる。そんな 辺鄙な場所に六歳の男の子がいるというのは奇妙なことだ。
けれどその疑問に伊央は答えることはなかった。
というのは、そのときちょっとだけ風が強めに吹いて、葉の擦れる音が流れてくるとともに、なにやら騒がしい音も聞こえてきたからだ。
「なんだろう?」
「そういえば、さっきからパトカーや消防車のサイレンの音がしてるよね。どこかで火事でもあったのかな」
めぐるが不安そうに口にすると、いよいよその音が無視できないレベルとなる。尋常じゃないほどの騒音に、伊央が「すぐ近くだよ」と校庭のほうを見た。そしてそれと同時に聞こえてきた人の声。
「誰かいるの?」
めぐると伊央は顔を見合わせた。声の主は非常階段の下のほうにいるようだ。
「まずいよ、見つかった」
めぐるは声のトーンを抑える。
「この声って、誰?」
伊央に言われ、めぐるは鉄柵の間から恐る恐る下を見た。ショートボブに意志の強そうなキリリとした目もと、スレンダー体型の彼女は学園一の有名人だ。
「 如月先輩だよ」
「知ってる人?」
「なに言ってるの? 生徒会長じゃない」
めぐるが振り向きながら伊央に言う。
「先生じゃないんだ。なら平気だろう」
「そういえば授業中なのにおかしいよね。如月先輩が授業をさぼるわけないし」
生徒会長である三年の如月 華耶子は、この学園はじまって以来の優等生。全国模試でもトップレベルの成績で東大や京大を狙えるほどの高い偏差値の持ち主。おまけに日本人離れしたスタイルで顔立ちもエキゾチックで美しく、非の打ちどころのない人間だ。
だが、それだけではない。華耶子の祖父は学園の理事長である 御影 徳之助であり、父は学園長の如月 柊誠である。
そのため完璧すぎる華耶子に歯向かう者はいない。皆が雲の上の人と崇めるほどにまで登りつめている華耶子は、もはや嫉む対象にすらならないのだ。
「あなたたち、避難指示が出ているのに、こんなところでなにをやってるの⁉」
非常階段の下から華耶子が大声を張りあげる。
「避難指示ってなんだろう。今日、避難訓練の予定なんてあった?」
めぐるが伊央にたずねるが、伊央もわからないという意味で首を傾げる。
めぐるは立ちあがって、下にいる華耶子に向かって言った。
「すみません、今行きます!」
よくわからないが、天下の生徒会長に言われては無視できない。
「伊央、行こう」
めぐるは渋る伊央の左腕を引っ張りあげる。その弾みで袖がめくれ、ちらりと三本指が見えた。めぐるはその手を取り、ぎゅっと握ると、伊央を連れて非常階段を駆けおりた。
「早く校庭に避難して! 学園に爆破予告があったの!」
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