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第四章 絶望のクライ
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理事長室のドアがノックされる音が聞こえたのはそれからほどなくのことだった。
「御影理事長、雫石様がお見えになっていますが」
開いたドアから顔を覗かせたのは、先ほどの御影理事長の運転手だった。
御影理事長は雫石が来ることをあらかじめわかっていたのか、驚くことなく「通してくれ」と返事をした。
「もしかして父さんが来てるの?」
伊央が激しく動揺を見せる。
「わたしがさっき電話をしたんだ。雫石くんが来ていることを話したから、それで飛んできたんだろう」
伊央の父、雫石は理事長室に入ると、御影理事長に軽く頭をさげた。
「どうぞこちらに座ってください」
御影理事長が軽く腰を浮かし、自分の隣のスペースを空けた。
「雫石さん、申し訳ない。息子の話を先にさせてもらいました。まさか今日のこのタイミングになるとは」
「いいんですよ。予定より少し時期が早まっただけです。いずれすべてを打ち明けるつもりだったんですから」
彼が世界的権威の雫石豊。
明るめのベージュのスーツにきっちりと締められたワインレッドのネクタイ。還暦の雫石の頭はすっかり白髪だが、短く整えられ清潔感がある。シルバーフレームの眼鏡をかけた顔はあっさりとした和風で、はっきりとした顔立ちの伊央とはだいぶ雰囲気が違っていた。
「伊央、今まで苦しませて悪かったな。すべては、おまえが高校を卒業してから話そうと思っていたんだが、自分のルーツを知りたいと思うのは当然のことだよ。父さんが今から話すことは、おまえを産んだ母親のことだ。おまえにとってつらい話だと思う。だけどこれだけはわかってほしい。父さんは誰よりも伊央のことを心から大切に思っている」
雫石は心細そうにしている伊央に力強く伝えた。それから膝の上で手を組み合わせ、そこに軽く目を落とす。一呼吸つくと、ゆっくりと顔をあげた。
「おまえの母親の名前は玲奈といって、父さんの実の娘なんだ」
「父さんの娘? ということは、父さんは僕のおじいちゃん?」
「そうだよ。おまえを施設から引き取るときに養子にしたが、実際はおじいちゃんということになる」
「僕と血のつながりがあるのに、どうして六歳まで施設に預けていたんだよ?」
そう思ってしまうのは当然のこと。今は親子として順調に生活を送っているが、六年間の空白は大きい。
「父さんは育児をしたことがほとんどなかった。玲奈が赤んぼうの頃、玲奈の面倒は奥さん、つまりおまえのおばあちゃんにまかせきりで、おむつを替えたこともお風呂に入れたことも一度もなかったんだ。それに仕事で家を空けることも多かった。そんな自分におまえを育てられるとは思えなかった」
仕事が激務で、料理もほとんどできなかった雫石には、ひとりで子どもを育てることは到底無理な話だった。
伊央も六歳当時のことをよく覚えている。幼い頃は常に部屋がちらかっており、出された料理はひどいものばかり。ほどなくして家政婦が自宅に通うようになって、なんとかまともな暮らしができるようになったほどだ。
「昔見せてもらった写真の人が僕のおばあちゃんなの?」
「そうだよ。あのときは本当のことが言えなかったが、伊央のおばあちゃんだ」
雫石の妻、つまり伊央の祖母は十七年前に交通事故で亡くなっている。玲奈が高校に入学した直後のことだった。
伊央が十二歳のとき、雫石の妻について興味を抱き、雫石にねだって写真を見せてもらったことがある。
玲奈の存在を隠すため、妻の写真も伊央の目に触れないようにしてきた雫石は数少ない妻の写真のなかから、妻だけが写っているものを選んだのだ。
「父さんは子育てができなかったのに、どうして僕を引き取ろうと思ったの?」
「六歳のとき、おまえは施設を抜け出しただろう? 一時、行方不明になって、そのとき生きた心地がしなかった。施設でいじめられていたことも初めて知った。それがきっかけだな。それまでの罪滅ぼしということでもないが、おまえを守るためと、やはり一緒にいたいと思ったからだよ」
雫石は落ち着いた様子でやさしく語りかけるが、伊央は激しく動揺しており、どう受け止めていいのかわからず瞬きを繰り返していた。
なにもかも大人の都合だ。御影理事長も雫石も自分のことだけを優先し、そこにひとつの命に対する尊厳はない。
玲奈や尚央だってそうだ。経済力のないふたりが子どもを作ることは無責任極まりない。そんなことは高校生の伊央でもわかる。
「父さんもみんなと同じだ。勝手だよ。どいつもこいつも自分のことばかりで、要するに僕は厄介者だったんだよね?」
「やめて、伊央! そんなことないよ。厄介者だなんて、誰もそんなこと思ってない!」
めぐるは大声で否定した。投げやりに吐き捨てる伊央が痛々しく、少しでも救ってやりたかった。
「だけど僕が産まれてこなかったら、きっとなんの問題もなかったんだよ。僕がいなかったら、実の母親も死なずにすんだし、実の父親は病気にならなかったかもしれない。きっと今頃、みんな幸せに暮らしていたはずだよ」
「伊央はなにも悪くないよ。そんなことを考える必要もない!」
「でもそう考えちゃうんだよ。どんな理由にせよ、僕が産院の前に捨てられていたことは事実なんだ。きっと僕のこの左手を見て、あまりのショックでそうしたんだよ」
「違う!」
「違わない。どうせ、めぐるにはわかんないよ。誕生日が来るたびに、あのときの恐怖が襲ってきて、そのたびに僕を暗闇に引きずり込むんだ」
伊央は立ちあがると、「ひとりにして」と言い残し、理事長室を出ていく。
めぐるが追いかけようとすると雫石がそれを止めた。
「あの子の好きにさせてほしい。大丈夫。『ひとりにして』というのは言葉通りなんだと思う。妙な気は起こさないよ」
「心配にならないんですか?」
「心配だよ。でも今のあの子はキャパオーバーだ。本当はもっと伝えたいことがあるが、これ以上はなにを言っても無駄のような気がする。少し気持ちを整理する時間が必要だ」
「だからって、ひとりきりにするなんて……」
「あの子の苦しみはあの子にしかわからない。こちらがどんなに寄り添おうとしても、伊央の孤独は埋められないんだよ」
その後、伊央は教室に姿を見せなかった。午後の全校集会のときも顔を見せず、結局めぐるは伊央に会うことなく、夏休みを迎えた。
「御影理事長、雫石様がお見えになっていますが」
開いたドアから顔を覗かせたのは、先ほどの御影理事長の運転手だった。
御影理事長は雫石が来ることをあらかじめわかっていたのか、驚くことなく「通してくれ」と返事をした。
「もしかして父さんが来てるの?」
伊央が激しく動揺を見せる。
「わたしがさっき電話をしたんだ。雫石くんが来ていることを話したから、それで飛んできたんだろう」
伊央の父、雫石は理事長室に入ると、御影理事長に軽く頭をさげた。
「どうぞこちらに座ってください」
御影理事長が軽く腰を浮かし、自分の隣のスペースを空けた。
「雫石さん、申し訳ない。息子の話を先にさせてもらいました。まさか今日のこのタイミングになるとは」
「いいんですよ。予定より少し時期が早まっただけです。いずれすべてを打ち明けるつもりだったんですから」
彼が世界的権威の雫石豊。
明るめのベージュのスーツにきっちりと締められたワインレッドのネクタイ。還暦の雫石の頭はすっかり白髪だが、短く整えられ清潔感がある。シルバーフレームの眼鏡をかけた顔はあっさりとした和風で、はっきりとした顔立ちの伊央とはだいぶ雰囲気が違っていた。
「伊央、今まで苦しませて悪かったな。すべては、おまえが高校を卒業してから話そうと思っていたんだが、自分のルーツを知りたいと思うのは当然のことだよ。父さんが今から話すことは、おまえを産んだ母親のことだ。おまえにとってつらい話だと思う。だけどこれだけはわかってほしい。父さんは誰よりも伊央のことを心から大切に思っている」
雫石は心細そうにしている伊央に力強く伝えた。それから膝の上で手を組み合わせ、そこに軽く目を落とす。一呼吸つくと、ゆっくりと顔をあげた。
「おまえの母親の名前は玲奈といって、父さんの実の娘なんだ」
「父さんの娘? ということは、父さんは僕のおじいちゃん?」
「そうだよ。おまえを施設から引き取るときに養子にしたが、実際はおじいちゃんということになる」
「僕と血のつながりがあるのに、どうして六歳まで施設に預けていたんだよ?」
そう思ってしまうのは当然のこと。今は親子として順調に生活を送っているが、六年間の空白は大きい。
「父さんは育児をしたことがほとんどなかった。玲奈が赤んぼうの頃、玲奈の面倒は奥さん、つまりおまえのおばあちゃんにまかせきりで、おむつを替えたこともお風呂に入れたことも一度もなかったんだ。それに仕事で家を空けることも多かった。そんな自分におまえを育てられるとは思えなかった」
仕事が激務で、料理もほとんどできなかった雫石には、ひとりで子どもを育てることは到底無理な話だった。
伊央も六歳当時のことをよく覚えている。幼い頃は常に部屋がちらかっており、出された料理はひどいものばかり。ほどなくして家政婦が自宅に通うようになって、なんとかまともな暮らしができるようになったほどだ。
「昔見せてもらった写真の人が僕のおばあちゃんなの?」
「そうだよ。あのときは本当のことが言えなかったが、伊央のおばあちゃんだ」
雫石の妻、つまり伊央の祖母は十七年前に交通事故で亡くなっている。玲奈が高校に入学した直後のことだった。
伊央が十二歳のとき、雫石の妻について興味を抱き、雫石にねだって写真を見せてもらったことがある。
玲奈の存在を隠すため、妻の写真も伊央の目に触れないようにしてきた雫石は数少ない妻の写真のなかから、妻だけが写っているものを選んだのだ。
「父さんは子育てができなかったのに、どうして僕を引き取ろうと思ったの?」
「六歳のとき、おまえは施設を抜け出しただろう? 一時、行方不明になって、そのとき生きた心地がしなかった。施設でいじめられていたことも初めて知った。それがきっかけだな。それまでの罪滅ぼしということでもないが、おまえを守るためと、やはり一緒にいたいと思ったからだよ」
雫石は落ち着いた様子でやさしく語りかけるが、伊央は激しく動揺しており、どう受け止めていいのかわからず瞬きを繰り返していた。
なにもかも大人の都合だ。御影理事長も雫石も自分のことだけを優先し、そこにひとつの命に対する尊厳はない。
玲奈や尚央だってそうだ。経済力のないふたりが子どもを作ることは無責任極まりない。そんなことは高校生の伊央でもわかる。
「父さんもみんなと同じだ。勝手だよ。どいつもこいつも自分のことばかりで、要するに僕は厄介者だったんだよね?」
「やめて、伊央! そんなことないよ。厄介者だなんて、誰もそんなこと思ってない!」
めぐるは大声で否定した。投げやりに吐き捨てる伊央が痛々しく、少しでも救ってやりたかった。
「だけど僕が産まれてこなかったら、きっとなんの問題もなかったんだよ。僕がいなかったら、実の母親も死なずにすんだし、実の父親は病気にならなかったかもしれない。きっと今頃、みんな幸せに暮らしていたはずだよ」
「伊央はなにも悪くないよ。そんなことを考える必要もない!」
「でもそう考えちゃうんだよ。どんな理由にせよ、僕が産院の前に捨てられていたことは事実なんだ。きっと僕のこの左手を見て、あまりのショックでそうしたんだよ」
「違う!」
「違わない。どうせ、めぐるにはわかんないよ。誕生日が来るたびに、あのときの恐怖が襲ってきて、そのたびに僕を暗闇に引きずり込むんだ」
伊央は立ちあがると、「ひとりにして」と言い残し、理事長室を出ていく。
めぐるが追いかけようとすると雫石がそれを止めた。
「あの子の好きにさせてほしい。大丈夫。『ひとりにして』というのは言葉通りなんだと思う。妙な気は起こさないよ」
「心配にならないんですか?」
「心配だよ。でも今のあの子はキャパオーバーだ。本当はもっと伝えたいことがあるが、これ以上はなにを言っても無駄のような気がする。少し気持ちを整理する時間が必要だ」
「だからって、ひとりきりにするなんて……」
「あの子の苦しみはあの子にしかわからない。こちらがどんなに寄り添おうとしても、伊央の孤独は埋められないんだよ」
その後、伊央は教室に姿を見せなかった。午後の全校集会のときも顔を見せず、結局めぐるは伊央に会うことなく、夏休みを迎えた。
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