1 / 2
第1話 夏の終わり
しおりを挟む
──200◯年7月某日
大学一年生の夏休みは、人生で一番自由な時間だと聞いていた。
少なくともあの電話が鳴るまでは、麻衣もそうなのだと信じていた。
七月の終わり、講義がひと区切りついた日の夕方だった。
アパートの狭い部屋で、これから訪れる夏の予定を手帳に書き込んでいた。
サークルの合宿、友達との日帰り旅行、夜遅くまでの飲み会、大学生の夏休みはなにかと忙しい。
「お小遣い足りるかな。やっぱりバイトとかするべきなのかな」
手帳を眺めながら、そんな言葉が漏れ出ていた。
高校を卒業して地元を出てから初めて迎える長い休みだ。
やっとだ、ようやくここからが自分の時間なのだと、麻衣はそう意気込んでいた。
期待に胸が高鳴り、自然と口角が上がる。
頭の中では夏休みを満喫する自分の姿が鮮明に浮かんでいる。
携帯が鳴ったのはそんなときだった。
浮かれた気持ちのままテーブルの上に置いていた携帯を見ると、見覚えのありすぎる市外局番が表示されていた。
その数字の並びを見て、一瞬だけペンを持っていた手が止まる。
「……実家だ。なんだろう?」
嫌な予感がしたわけではない。ただ、ほんの少し気持ちが落ち込んでしまった。
未来を思い描いていた途中で、急に現実が割り込んできたのだ。気が滅入るのも仕方がない。
「……はい、もしもし」
「麻衣? やっと出た。今ちょっといい?」
たっぷりとコール音を聞いた後、麻衣はいつもよりも落ち着いた声色で電話に出た。
そんな麻衣よりも、母の声は普段より少し低かった。それだけで、続きを聞きたくない気持ちになった。
「……あのね、恵太くんのお母さんが、亡くなったんだって……」
一瞬、母の言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……お葬式はね、明後日だってさ。夏休みに入ったばかりで悪いんだけどもね……」
母の声は続いていたけれど、途中からよく聞こえなくなった。
耳鳴りのような音がして、麻衣は軽いめまいを覚えた。
──恵太。私の幼馴染。
小学生の頃、いつも一緒に遊んでいた男の子だ。
そしてある日、いなくなったまま帰ってこなかった子でもある。
麻衣はこれから大学生になって初めての夏休みを迎える。
きっと楽しい未来が待っていると、そう思っていた。
そんな未来が潰されたから、気分が沈んだわけじゃない。
ただ、もう終わったと思っていた名前を聞かされたことが、心に重くのしかかってきただけだった。
「……わかった。帰るよ」
そう答えた自分の声は、驚くほど冷静だった。
電話を切ってから、しばらくその場に座り込んでいた。
麻衣は大学の近くにある、学生ばかりの1Kのアパートで暮らしている。
開け放した窓の外では夏の夕方の明るさが残っていて、どこかの部屋から楽しそうな話し声が聞こえてくる。
みんなこれから迎える夏休みという時間を、遊ぶことで使い切るつもりでいるのだ。
声が明るくなるのは当然だろう。
その中で、麻衣は自分だけがその場に取り残されてしまったような気がした。
翌朝、新幹線に乗った。
東京から北へ、一時間ほど。窓の外の景色は、ビルの群れから低い建物へ、やがて畑と山ばかりになる。
駅で降りると、空気が違った。
じめじめと湿っていて、少し重い。
そこから、バスに乗り換える。
二時間に一本しか来ない路線バス。逃したら、次はだいぶ先になる。
車内には麻衣と買い物袋を持った年配の女性が二人だけだった。
エンジンの音だけがやけに大きく響く。
バスは、山の中へ入っていった。
カーブが増え、家の数が減っていく。
隣の家まで歩いて数分、という距離が当たり前の場所だ。
平成の市町村合併で、名前だけは「市」になった。
○○市と聞けば、それなりに発展した街を想像する人もいるらしい。
けれど、麻衣の知っているあそこはただのムラのままだ。
夜になれば、音は簡単に消える。
叫んだって、誰にも届かない。
強盗に入られたとしても、隣の家は気づかない。そんな場所だ。
バスを降り、歩き始める。
舗装された道の両脇には、雑草が伸び放題になっている。
蝉の声がうるさいほど響いているのに、人の気配はほとんどない。
歩きながら、ふと考える。
もし、恵太が生きていたら。
もし、大学生になっていたら。
この夏、どこで、何をしていただろう。
そんな想像をすること自体が、もうずいぶん久しぶりだった。
実家の屋根が見えたところで、足が少し重くなる。
戻ってきたくなかったわけじゃない。
ただ、ここに帰ると忘れたつもりでいたことまで、あの夏の続きを含めて、全部を思い出してしまいそうになる。
夏休みは始まったばかりだった。
それなのに、麻衣の中ではもう終わりに向かっている気がしていた。
大学一年生の夏休みは、人生で一番自由な時間だと聞いていた。
少なくともあの電話が鳴るまでは、麻衣もそうなのだと信じていた。
七月の終わり、講義がひと区切りついた日の夕方だった。
アパートの狭い部屋で、これから訪れる夏の予定を手帳に書き込んでいた。
サークルの合宿、友達との日帰り旅行、夜遅くまでの飲み会、大学生の夏休みはなにかと忙しい。
「お小遣い足りるかな。やっぱりバイトとかするべきなのかな」
手帳を眺めながら、そんな言葉が漏れ出ていた。
高校を卒業して地元を出てから初めて迎える長い休みだ。
やっとだ、ようやくここからが自分の時間なのだと、麻衣はそう意気込んでいた。
期待に胸が高鳴り、自然と口角が上がる。
頭の中では夏休みを満喫する自分の姿が鮮明に浮かんでいる。
携帯が鳴ったのはそんなときだった。
浮かれた気持ちのままテーブルの上に置いていた携帯を見ると、見覚えのありすぎる市外局番が表示されていた。
その数字の並びを見て、一瞬だけペンを持っていた手が止まる。
「……実家だ。なんだろう?」
嫌な予感がしたわけではない。ただ、ほんの少し気持ちが落ち込んでしまった。
未来を思い描いていた途中で、急に現実が割り込んできたのだ。気が滅入るのも仕方がない。
「……はい、もしもし」
「麻衣? やっと出た。今ちょっといい?」
たっぷりとコール音を聞いた後、麻衣はいつもよりも落ち着いた声色で電話に出た。
そんな麻衣よりも、母の声は普段より少し低かった。それだけで、続きを聞きたくない気持ちになった。
「……あのね、恵太くんのお母さんが、亡くなったんだって……」
一瞬、母の言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……お葬式はね、明後日だってさ。夏休みに入ったばかりで悪いんだけどもね……」
母の声は続いていたけれど、途中からよく聞こえなくなった。
耳鳴りのような音がして、麻衣は軽いめまいを覚えた。
──恵太。私の幼馴染。
小学生の頃、いつも一緒に遊んでいた男の子だ。
そしてある日、いなくなったまま帰ってこなかった子でもある。
麻衣はこれから大学生になって初めての夏休みを迎える。
きっと楽しい未来が待っていると、そう思っていた。
そんな未来が潰されたから、気分が沈んだわけじゃない。
ただ、もう終わったと思っていた名前を聞かされたことが、心に重くのしかかってきただけだった。
「……わかった。帰るよ」
そう答えた自分の声は、驚くほど冷静だった。
電話を切ってから、しばらくその場に座り込んでいた。
麻衣は大学の近くにある、学生ばかりの1Kのアパートで暮らしている。
開け放した窓の外では夏の夕方の明るさが残っていて、どこかの部屋から楽しそうな話し声が聞こえてくる。
みんなこれから迎える夏休みという時間を、遊ぶことで使い切るつもりでいるのだ。
声が明るくなるのは当然だろう。
その中で、麻衣は自分だけがその場に取り残されてしまったような気がした。
翌朝、新幹線に乗った。
東京から北へ、一時間ほど。窓の外の景色は、ビルの群れから低い建物へ、やがて畑と山ばかりになる。
駅で降りると、空気が違った。
じめじめと湿っていて、少し重い。
そこから、バスに乗り換える。
二時間に一本しか来ない路線バス。逃したら、次はだいぶ先になる。
車内には麻衣と買い物袋を持った年配の女性が二人だけだった。
エンジンの音だけがやけに大きく響く。
バスは、山の中へ入っていった。
カーブが増え、家の数が減っていく。
隣の家まで歩いて数分、という距離が当たり前の場所だ。
平成の市町村合併で、名前だけは「市」になった。
○○市と聞けば、それなりに発展した街を想像する人もいるらしい。
けれど、麻衣の知っているあそこはただのムラのままだ。
夜になれば、音は簡単に消える。
叫んだって、誰にも届かない。
強盗に入られたとしても、隣の家は気づかない。そんな場所だ。
バスを降り、歩き始める。
舗装された道の両脇には、雑草が伸び放題になっている。
蝉の声がうるさいほど響いているのに、人の気配はほとんどない。
歩きながら、ふと考える。
もし、恵太が生きていたら。
もし、大学生になっていたら。
この夏、どこで、何をしていただろう。
そんな想像をすること自体が、もうずいぶん久しぶりだった。
実家の屋根が見えたところで、足が少し重くなる。
戻ってきたくなかったわけじゃない。
ただ、ここに帰ると忘れたつもりでいたことまで、あの夏の続きを含めて、全部を思い出してしまいそうになる。
夏休みは始まったばかりだった。
それなのに、麻衣の中ではもう終わりに向かっている気がしていた。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる