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第1話
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フリーデは、結婚すれば幸せになれるのだと信じていた。
政略結婚であることは分かっていた。
それでも、そこからはじまる夫婦の愛の形もあるだろうと思っていた。
「一緒に暮らしていくうちに、少しずつ家族になれたらいいな」
そう願うことは、許されるはずだと信じていたのだ。
結婚とは努力と歩み寄りで温かくなるもの、そう父母に教えられて育った。
両親は家族の愛とはどういうものなのかをフリーデにたくさん教えてくれた。
だから、辺境伯家へ嫁ぐ馬車の中で、フリーデは未来への不安を抱えながらも、胸を高鳴らせていた。
辺境伯家は人の心を持たない冷徹な一族と噂されている。
現在の当主ヴィルヘルムは、隣国との国境を守る若き辺境伯。
先代当主が戦で重傷を負い後遺症が残ったため、まだ若くして家を継いだ。
戦場では鬼神のごとく敵を討ち、感情ひとつ見せず職務を果たす天才武人だという。
その苛烈な戦いぶりは味方からさえ恐れられ「血に染まった英雄」と囁かれているほどだった。
それでも、きっと時間が解決してくれる。
フリーデが笑顔でいれば、心から尽くせばいずれ家族になれる。
結婚式の日、ヴィルヘルム辺境伯はとても美しかった。
凛とした佇まい、澄んだ青い瞳。
まるで神が顕現したかのようだと人々が囁くのも納得できる。
彼が差し出した手を取る時、フリーデの指は少し震えていた。
「よろしくお願いいたします」
精一杯の声だった。
だが、ヴィルヘルムは一瞬だけフリーデを見てため息をついた。
それでもフリーデは気にしなかった。
きっと緊張しているのだ。不器用な人なのだ。
そう思いたかった。
初夜の部屋で、フリーデは胸を押さえていた。
心臓の鼓動がうるさい。
夫婦になる夜、新しい家族が始まる日。
不安もあったけれど、それ以上に期待があった。
ヴィルヘルムは部屋に入ると、ベッドには近づかず椅子に腰を下ろした。
その距離が、すでにおかしかった。
「フリーデ」
名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。
慌てて返事をする前に、ヴィルヘルムは言葉を続けた。
「この結婚は茶番だ」
フリーデはヴィルヘルムの語る言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……いま、なんとおっしゃいましたか?」
「我が家に跡継ぎが必要なのは事実だが、私は君を抱くつもりはない」
その言葉でフリーデの世界が止まった。
──抱くつもりがない?
フリーデは動きを止めたまま、何度も頭の中でその言葉を繰り返した。
「それでは……それでは、子供はどうするおつもりなのですか……?」
「いずれ考える。君は辺境伯夫人として務めを果たせばいい」
ようやく絞り出したフリーデの返事に、ヴィルヘルムは興味なさそうに吐き捨てた。
彼はそのまま立ち上がり、何事もなかったように扉へ向かう。
「……私は血に染まりすぎた。こんな業を、子に背負わせるわけにはいかない」
扉が閉まる音が、胸に突き刺さる。
フリーデはその場で呆然としていた。
頭が真っ白で、涙も出なかった。
この日、フリーデの胸に小さな穴が空いた。
「大丈夫。きっと平気よ。まだ出会ったばかりなのだから、焦る必要はないわ」
そう言い聞かせて、フリーデはひとりで眠りについた。
翌朝、フリーデはとびきりの笑顔を作った。
「おはようございます」
ヴィルヘルムは声をかけられても見向きもしなかった。
距離はまったく縮まらない。
それでも、諦めずに自分から歩み寄ればいい。
フリーデはヴィルヘルムの食事の好みを覚え、仕事の邪魔にならぬよう気遣い、夜には温かい言葉をかけた。
「おかえりなさいませ、お疲れでしょう? ご無理をなさらないでくださいませ」
ヴィルヘルムはフリーデを見ることなく、声も発しない。
ただの一度も、まるでフリーデの存在などないかのように振舞う。
日が経つにつれ、義母がフリーデに向ける視線が変わっていく。
「子供はまだなの?」
その一言に、フリーデは震える。
使用人たちの囁きが耳に届く。
「まだ抱かれてもいないのよ」
「何のために嫁いでいらっしゃったのかしら」
「役立たずね」
夜になると、フリーデは鏡の前で笑顔の練習をした。
崩れそうな口元を持ち上げる。
──大丈夫。まだ時間はある。きっといつか。
そう言い聞かせながら、何度も笑う。
けれど、心は少しずつ削れていった。
笑うたびに疲れる。
希望を持つたびに苦しくなる。
胸に空いた穴が日を追うごとに広がっていく気がした。
そうして穴が大きくなるにつれ、フリーデは自分が誰なのか、何をしているのかわからなくなっていく。
どんなにフリーデが尽くしても、ヴィルヘルムは変わらない。
初夜の日から一度たりとも声を聞いていない。
ある日、義母が食事の席で言った。
「あなたが無理なら、代わりはいくらでもいるわ」
その言葉で、フリーデは理解した。
自分はヴィルヘルムの妻にはなれない。
この家の人間が必要としているのは、辺境伯家の跡継ぎを作るための器であって、家族ではない。
産めなければ、不要なモノと判断されて捨てられる。
その夜、フリーデは声を殺して泣いた。
涙を流しながら、鏡を見た。
涙で頬を濡らし、目を腫らせた醜い女が佇んでいる。
鏡の前に立っていたのはどれだけ夫へ尽くしても愛情を得られなかった哀れな妻だった。
「……誰かに代わられるなんて、そんなのは嫌……捨てられたくない……」
胸に空いた小さな穴は広がり続け、やがて闇となってフリーデを飲み込んだ。
政略結婚であることは分かっていた。
それでも、そこからはじまる夫婦の愛の形もあるだろうと思っていた。
「一緒に暮らしていくうちに、少しずつ家族になれたらいいな」
そう願うことは、許されるはずだと信じていたのだ。
結婚とは努力と歩み寄りで温かくなるもの、そう父母に教えられて育った。
両親は家族の愛とはどういうものなのかをフリーデにたくさん教えてくれた。
だから、辺境伯家へ嫁ぐ馬車の中で、フリーデは未来への不安を抱えながらも、胸を高鳴らせていた。
辺境伯家は人の心を持たない冷徹な一族と噂されている。
現在の当主ヴィルヘルムは、隣国との国境を守る若き辺境伯。
先代当主が戦で重傷を負い後遺症が残ったため、まだ若くして家を継いだ。
戦場では鬼神のごとく敵を討ち、感情ひとつ見せず職務を果たす天才武人だという。
その苛烈な戦いぶりは味方からさえ恐れられ「血に染まった英雄」と囁かれているほどだった。
それでも、きっと時間が解決してくれる。
フリーデが笑顔でいれば、心から尽くせばいずれ家族になれる。
結婚式の日、ヴィルヘルム辺境伯はとても美しかった。
凛とした佇まい、澄んだ青い瞳。
まるで神が顕現したかのようだと人々が囁くのも納得できる。
彼が差し出した手を取る時、フリーデの指は少し震えていた。
「よろしくお願いいたします」
精一杯の声だった。
だが、ヴィルヘルムは一瞬だけフリーデを見てため息をついた。
それでもフリーデは気にしなかった。
きっと緊張しているのだ。不器用な人なのだ。
そう思いたかった。
初夜の部屋で、フリーデは胸を押さえていた。
心臓の鼓動がうるさい。
夫婦になる夜、新しい家族が始まる日。
不安もあったけれど、それ以上に期待があった。
ヴィルヘルムは部屋に入ると、ベッドには近づかず椅子に腰を下ろした。
その距離が、すでにおかしかった。
「フリーデ」
名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。
慌てて返事をする前に、ヴィルヘルムは言葉を続けた。
「この結婚は茶番だ」
フリーデはヴィルヘルムの語る言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……いま、なんとおっしゃいましたか?」
「我が家に跡継ぎが必要なのは事実だが、私は君を抱くつもりはない」
その言葉でフリーデの世界が止まった。
──抱くつもりがない?
フリーデは動きを止めたまま、何度も頭の中でその言葉を繰り返した。
「それでは……それでは、子供はどうするおつもりなのですか……?」
「いずれ考える。君は辺境伯夫人として務めを果たせばいい」
ようやく絞り出したフリーデの返事に、ヴィルヘルムは興味なさそうに吐き捨てた。
彼はそのまま立ち上がり、何事もなかったように扉へ向かう。
「……私は血に染まりすぎた。こんな業を、子に背負わせるわけにはいかない」
扉が閉まる音が、胸に突き刺さる。
フリーデはその場で呆然としていた。
頭が真っ白で、涙も出なかった。
この日、フリーデの胸に小さな穴が空いた。
「大丈夫。きっと平気よ。まだ出会ったばかりなのだから、焦る必要はないわ」
そう言い聞かせて、フリーデはひとりで眠りについた。
翌朝、フリーデはとびきりの笑顔を作った。
「おはようございます」
ヴィルヘルムは声をかけられても見向きもしなかった。
距離はまったく縮まらない。
それでも、諦めずに自分から歩み寄ればいい。
フリーデはヴィルヘルムの食事の好みを覚え、仕事の邪魔にならぬよう気遣い、夜には温かい言葉をかけた。
「おかえりなさいませ、お疲れでしょう? ご無理をなさらないでくださいませ」
ヴィルヘルムはフリーデを見ることなく、声も発しない。
ただの一度も、まるでフリーデの存在などないかのように振舞う。
日が経つにつれ、義母がフリーデに向ける視線が変わっていく。
「子供はまだなの?」
その一言に、フリーデは震える。
使用人たちの囁きが耳に届く。
「まだ抱かれてもいないのよ」
「何のために嫁いでいらっしゃったのかしら」
「役立たずね」
夜になると、フリーデは鏡の前で笑顔の練習をした。
崩れそうな口元を持ち上げる。
──大丈夫。まだ時間はある。きっといつか。
そう言い聞かせながら、何度も笑う。
けれど、心は少しずつ削れていった。
笑うたびに疲れる。
希望を持つたびに苦しくなる。
胸に空いた穴が日を追うごとに広がっていく気がした。
そうして穴が大きくなるにつれ、フリーデは自分が誰なのか、何をしているのかわからなくなっていく。
どんなにフリーデが尽くしても、ヴィルヘルムは変わらない。
初夜の日から一度たりとも声を聞いていない。
ある日、義母が食事の席で言った。
「あなたが無理なら、代わりはいくらでもいるわ」
その言葉で、フリーデは理解した。
自分はヴィルヘルムの妻にはなれない。
この家の人間が必要としているのは、辺境伯家の跡継ぎを作るための器であって、家族ではない。
産めなければ、不要なモノと判断されて捨てられる。
その夜、フリーデは声を殺して泣いた。
涙を流しながら、鏡を見た。
涙で頬を濡らし、目を腫らせた醜い女が佇んでいる。
鏡の前に立っていたのはどれだけ夫へ尽くしても愛情を得られなかった哀れな妻だった。
「……誰かに代わられるなんて、そんなのは嫌……捨てられたくない……」
胸に空いた小さな穴は広がり続け、やがて闇となってフリーデを飲み込んだ。
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