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 寒い。
 ふるりと背を振るわせ顔を上げ、エリファレットは辺りを見渡した。
 誰もいなかった。誰かがいた痕跡すらなかった。さっきまで確かに炎が揺らめき、エリファレットの銀毛を照らしていた。近付きすぎて、焦げるぞ、とラウに笑いながら言われて慌てて身を引いたはずだ。
 ふわっと火の粉が舞い上がって、夜の闇に溶けていく。水の静寂の気配を持つラウも、炎に照らされオレンジ色に染まり、いつになく横顔が温かく感じられた。
 背後にはラウが作ってくれた寝床があり、少し離れた場所には一日中ラウとエリファレットを乗せて走ってくれた馬が繋がれていた。
 そのはずだった。それなのに、どこにも何もなかった。炎を消した痕跡すらなく、地面は乾いた土色をしていた。
 エリファレットは急激に襲ってきた不安に、落ち着きをなくした。
「ラ、ラウ……? どこですか……?」
 炎がなくなり、周囲は暗く静かだ。虫さえも眠る真夜中だ。空に星の瞬きはあれど、道を照らし出すほどの月明かりはない。
 ラウがいない。
 どれだけ狼の感覚を研ぎ澄ませて探ってみても、ラウの気配はおろか、生き物の気配すらない。
(なんで……?)
 ラウがいなくて、彼の愛馬もいない。荷物も何もなくなっているのなら、答えは一つだ。だが、ここに一人取り残されたのだと、頭が理解したがらなかった。
「ラウ……」
 か細い声が、男の名前を呼ぶ。
 だが答えはなくて、エリファレットはじわっと視界が揺れるのが分かった。鼻の奥がツンと痛んで、ほどなくしてパタパタと翠玉の瞳から涙が零れ落ちる。
「ど、して……ぼ、くを……おいて……ったんです、か……?」
 ひくっとしゃくりあげると同時、ピシっと右前足の甲が鋭く痛んだ。
「いっ!!」
 刺すような痛みに視線を落とし、エリファレットは小さく悲鳴を上げた。
 銀の被毛に覆われた前足がぱっくりと裂け、中から銀よりなお輝かしい毛が覗いていた。
 自身の身に何が起こっているのか理解できなくて、エリファレットはただ茫然と皮膚が裂けて内側から飛び出すそれを凝視する。
 ピシピシと音を立てながら前足の皮膚は割れ、大きく縦に裂けると、中から鋭い鉤爪が姿を現した。
 『それ』にエリファレットは絶望の咆哮を上げた。
 それは、引き裂かれることへの純粋なる恐怖だった。自身の存在が消え、いなくなることへの本能的な慟哭だった。
 ラウがそばにいないことへの、恐ろしいほど孤独感だった。








 気付いたら、夜が明けていた。
 重い目蓋を何度が瞬きさせると、頭がはっきりしてきた。
 寒くなかった。
 ラウがエリファレットを抱き上げ、膝の上で抱えていた。狼の姿では少々抱きにくかったのだろう。お互いに歪な姿勢になっていた。
 エリファレットは人型になって楽な姿勢になり、そっとラウの胸に顔を寄せた。変な姿勢なのにも関わらず、ラウはまだ眠っているようだった。
 火が消え、細く白い煙を立ち昇らせている。
 とくとくと、ラウの心臓の音が聞こえる。規則正しい鼓動に、心が落ち着いていく。
(こっちが、現実……)
 存在を確かめるように、背中に手を回してしがみつく。
 この何日かですっかり馴染んでしまったラウの匂いが鼻腔を満たしていく。すんすんと鼻を鳴らすと、エリファレットの体が強く抱き返された。
「ぎゃう!」
 驚いて飛び上がると、頭上で弾かれてようにラウの笑い声が響いた。
「ラ、ラウ!! なんですか!? なにするんですか!?」
 真っ赤になってすぐさま腕の中から抜け出そうともがいたが、ラウの腕ががっちりとエリファレットを囲い込む。
「お前が先に抱き付いてきたんだろう?」
 楽しそうに緩む口元がキリリと凛々しくて、朝日のように眩しい笑顔にエリファレットが思わず押し黙る。
 普段それほど表情を変えることがないので、この破顔は眼福だ。
 きゅうっと胸が鳴って頬が上気する。だが長く見ているには心臓が暴れ出しそうで、エリファレットは伸ばしていた腕を緩め、ラウの首筋に顔を埋める。
「……じゃぁ、しばらくこうしてます」
 どうせなら、思う存分ラウの体温を味わってやろう。今はどうにもこの体温と馴染んだ匂いから離れがたい。
 怖い夢を見ていた。ラウに置いていかれ、独り放り出された。あんなこと、夢でも味わいたくなかった。
 ラウにこの手を離されるのが、心底恐ろしいのだ。
「ラウ……僕を置いて行かないでください……」
 縋るように背中に手を回すと、ラウが笑いながら抱きしめ返してくれる。それに心から安堵して、エリファレットはひっそりと心の中で呟いた。
 置いて行かれる時は、この手がエリファレットの首を刎ねた時だけだ。

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