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ねっとりと空気が肌に絡み付いた。ジリジリと耳障りな音が頭上で動き、ガザガサと葉擦れがする。瘴気が目に見えて現れ、あてられた蟲の死骸が地面に転がる。
聖樹が放つ光りは弱まり、聖域は薄暗い。甘く膿むような臭いが嗅覚を刺激して、ラウは鼻を寄せた。
先に様子を見た時と、全く様相が違っていた。
聖樹の枝葉を食い荒らすことしかしない蟲が、地面を這って狂ったように暴れ回っている。仰向けに転がる死骸を食い散らかし、あるいは玩具のように振り回し、戦い合う。
ハラハラと落ちる葉っぱは腐食して黒く染まり、中央に座す巨石を黒く汚す。
蟲に慣れているラウですら顔を顰め、目を覆いたくなる光景だった。
その中でラウはエリファレットの姿を探し、視線を走らせる。
氷雪の魔物の気配は聖域を支配し、エリファレットの存在感はひどく弱々しい。だが途切れることないそれを、ラウは懸命になって探す。
「ラウ!!」
美しい顔を歪め、瘴気と蟲の羽音に耐えるアルベルティーナが、巨石の影を指差した。
ハラハラと舞い落ちる黒い枯れ葉に埋もれるように、エリファレットの銀色が見えた。
「エリファレット!!」
ぐったりとするエリファレットの顔は青白い。そして卵にヒビが入るように、体中の至るところがヒビ割れている。
氷雪の魔物が孵化するのだ。
ラウは駆け寄ろうとするが、暴れ回る蟲が邪魔し、死骸に足を取られてうまく動けない。
「ちっ……!!」
ラウは腰に佩いた太刀に手をかけ、抜刀した。
カッと光が放たれ、一気に瘴気が薄れる。近くに群がっていた蟲が耳障りな音を立てて退き、足元に転がっていた死骸が砂のように崩れ落ちる。
アルベルティーナが目を眇めた。
「研いだばかりか……!」
「エリファ!!」
アルベルティーナの声すら耳に入らず、ラウはエリファレットに駆け寄る。
抱き起こそうと手を伸ばすが、ヒビ割れる体に迂闊に触れると崩れてしまいそうで逡巡する。
ピシピシと、音を立ててエリファレットの体に細かくヒビが入っていく。
「エリファレット!!」
「ラ、……ウ……」
うっすらとエリファレットの翠の目が開き、喘ぐようにラウを呼ぶ。
「エリファ!!」
焦点の合わない翠玉から、ハラハラと透明な涙が溢れ落ちる。喘ぐ唇は色を失い、何かを紡ごうと動くが声にならない。
ラウはエリファレットの両頬をそっと包み、顔を近付ける。
パキンと音を立てて、エリファレットの体から何かが剥がれ落ちる。背中はすでにウロのように真っ黒な穴が広がり、エリファレットの存在が半分消えかけている。
エリファレットが手の中から消え失せていく恐怖を急激に突きつけられ、ラウは体を震わせた。
「……エリファ……消えるな……! お前がそばにいないのは、もう考えられない……!」
エリファレットの願いは叶えてやれない。ラウはもうエリファレットを殺せない。殺してやれない。ただ愛おしいという感情だけが胸に灯るのだ。
屈託なく笑う顔が、殺される前提の上で成り立つものであって欲しくない。何物にも怯えることなく、幸せに微睡んで眠って欲しい。明日を生きることを、諦めないで欲しい。
殺されたいと願うことなく、ただラウと共に生きて欲しい。
聞いたことがないラウの懇願に、焦点の合わないエリファレットの翠玉が揺らめく。
色を失った唇が、震えて動く。
「……っ……ラウ……ぼ、くは……っしにたくないっ……こわ、っい……! ラウと、ずっ、……と……いっ、しょに……いたい……! いや、っだ……!」
辿々しく紡がれる言葉は、殺されたいと常に言い続けてきた子どもが、心の奥に沈めた偽らざる本心だった。
ここまで追い詰められないと吐き出せなかった本心に、ラウは胸が詰まる。
「あぁ……! エリファレット……ずっと一緒だ。ずっと一緒に、俺と生きてくれ……!」
想いがこみ上げて、言葉がうまく出てこない。それでもなんとか言葉を吐き出すと、エリファレットの瞳にかすかに色が戻る。
透き通る翠玉からとめどなく涙が流れて、ラウはそれを両手で拭い取る。
「大丈夫だ、お前は俺が助ける。絶対に死なせない」
死なせてなるものか。この小さく健気ない命を、このまま失うわけにはいかない。
「だからエリファレット、希望を捨てるな。俺からお前を取り上げないでくれ」
無味乾燥したラウの世界に、愛おしさと言う新たな風を入れたのがエリファレットだ。この暖かさと胸に灯る明かりを知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。
意識を盛り返したエリファレットが、ラウの手を両手で握る。ひやりと氷のように冷たい手はいつもと逆で、ラウはエリファレットの手を握り締める。
ヒビ割れた頬に触れて、色を失った唇に口付けた。
ぬっと、エリファレットのウロのようになった背中から、鋭い鉤爪が現れたのはその時だった。
「っ!?」
ガタガタとエリファレットの体が震え、背中から鉤爪と白銀に覆われた薄い氷のような体毛が伸び上がる。
「どけっ!!」
色をなしたアルベルティーナがラウを突き飛ばし、場所を取って代わる。
再び意識をなくしたエリファレットの周辺に、二重円に囲まれた細かな金の文様が浮かび上がる。アルベルティーナが二重三重に呪文を唱えながら、呆気に取られたラウを鋭く射る。
「ラウ、これを殺せるかっ!?」
呪文を唱えながらの問いに、ラウはエリファレットを見てアルベルティーナに視線を戻す。
「エリファをかっ!?」
「たわけ! エリファレットではないわ!」
何を言っておる、とアルベルティーナの一喝は容赦がなかった。
常に整えられた髪を振り乱したアルベルティーナの美麗な顔には、玉のような汗が滲んでいる。よく見れば腕や足、頬にすり傷を幾つも負い、土と血で汚れていた。氷雪の魔物の瘴気に当てられ、狂ったように暴れ回る蟲からラウとエリファレットを守っていたのは彼女だ。
冷や汗を流し、苦痛に顔を歪めた森の麗人がラウに怒鳴る。
「いにしえの魔物はこのまま孵化させる!」
「なっ……!?」
アルベルティーナの宣言にラウは絶句する。
このまま孵化させて氷雪の魔物が発現すれば、ディノクルーガーの森は無事では済まない。当然、エリファレットの命も助からない。
看過できない宣言に色をなしたラウの胸倉を、アルベルティーナが勢いよく引き寄せる。
玉のような汗が、アルベルティーナの額からパラパラと零れ落ちる。
「よいか、ラウ。いにしえの魔物を殺さないことにはエリファは救えん。孵化したら即殺せ」
氷雪の魔物はエリファレットから孵化を始めている。今更エリファレットの内に封じ直すことは出来ない。そしてそれでは、エリファレットは完全には救われない。殺されたい理由を抱えたままでは、今と同じ状況がいつ起こるかわからない。
氷雪の魔物は孵化したらまず宿主であったエリファレットを食いにかかる。エリファレットを食って初めて、氷雪の魔物として完成する。だが孵化したてはまだ動きが鈍い。活動を始めた氷雪の魔物よりは、ずっと楽に殺せるはずだ。
「エリファレットは妾が守る。孵化したら即刻首を落とせ」
退魔の太刀は研いだばかりだ。抜いただけで蟲が退き、瘴気が薄らぐ。氷雪の魔物の首も苦もなく落とせるはずだ。
「いにしえの魔物との縁を完全に断ち切ってやれ。それはその太刀を持つラウにしか出来ぬことじゃ」
アルベルティーナがうっすらと月光色の瞳を細める。掴んだままの胸倉をさらに引き寄せ、吐息の触れる位置でラウを見つめる。
触れるか触れないかの位置で、アルベルティーナが苦笑した。
「……毒はすでに残っておらぬだろう?」
残念だがな、と笑ってアルベルティーナはラウを突き放した。
「来るぞ!!」
勢いよく突き放されラウは体勢を崩したが、アルベルティーナの声に素早く体を立て直した。
のったりとした動作で、いにしえより銀の狼族に封じられし魔が出現する。
ラウは抜刀して、太刀を構えた。
この一振りがエリファレットを解放する唯一の術ならば、迷いはしない。
聖樹が放つ光りは弱まり、聖域は薄暗い。甘く膿むような臭いが嗅覚を刺激して、ラウは鼻を寄せた。
先に様子を見た時と、全く様相が違っていた。
聖樹の枝葉を食い荒らすことしかしない蟲が、地面を這って狂ったように暴れ回っている。仰向けに転がる死骸を食い散らかし、あるいは玩具のように振り回し、戦い合う。
ハラハラと落ちる葉っぱは腐食して黒く染まり、中央に座す巨石を黒く汚す。
蟲に慣れているラウですら顔を顰め、目を覆いたくなる光景だった。
その中でラウはエリファレットの姿を探し、視線を走らせる。
氷雪の魔物の気配は聖域を支配し、エリファレットの存在感はひどく弱々しい。だが途切れることないそれを、ラウは懸命になって探す。
「ラウ!!」
美しい顔を歪め、瘴気と蟲の羽音に耐えるアルベルティーナが、巨石の影を指差した。
ハラハラと舞い落ちる黒い枯れ葉に埋もれるように、エリファレットの銀色が見えた。
「エリファレット!!」
ぐったりとするエリファレットの顔は青白い。そして卵にヒビが入るように、体中の至るところがヒビ割れている。
氷雪の魔物が孵化するのだ。
ラウは駆け寄ろうとするが、暴れ回る蟲が邪魔し、死骸に足を取られてうまく動けない。
「ちっ……!!」
ラウは腰に佩いた太刀に手をかけ、抜刀した。
カッと光が放たれ、一気に瘴気が薄れる。近くに群がっていた蟲が耳障りな音を立てて退き、足元に転がっていた死骸が砂のように崩れ落ちる。
アルベルティーナが目を眇めた。
「研いだばかりか……!」
「エリファ!!」
アルベルティーナの声すら耳に入らず、ラウはエリファレットに駆け寄る。
抱き起こそうと手を伸ばすが、ヒビ割れる体に迂闊に触れると崩れてしまいそうで逡巡する。
ピシピシと、音を立ててエリファレットの体に細かくヒビが入っていく。
「エリファレット!!」
「ラ、……ウ……」
うっすらとエリファレットの翠の目が開き、喘ぐようにラウを呼ぶ。
「エリファ!!」
焦点の合わない翠玉から、ハラハラと透明な涙が溢れ落ちる。喘ぐ唇は色を失い、何かを紡ごうと動くが声にならない。
ラウはエリファレットの両頬をそっと包み、顔を近付ける。
パキンと音を立てて、エリファレットの体から何かが剥がれ落ちる。背中はすでにウロのように真っ黒な穴が広がり、エリファレットの存在が半分消えかけている。
エリファレットが手の中から消え失せていく恐怖を急激に突きつけられ、ラウは体を震わせた。
「……エリファ……消えるな……! お前がそばにいないのは、もう考えられない……!」
エリファレットの願いは叶えてやれない。ラウはもうエリファレットを殺せない。殺してやれない。ただ愛おしいという感情だけが胸に灯るのだ。
屈託なく笑う顔が、殺される前提の上で成り立つものであって欲しくない。何物にも怯えることなく、幸せに微睡んで眠って欲しい。明日を生きることを、諦めないで欲しい。
殺されたいと願うことなく、ただラウと共に生きて欲しい。
聞いたことがないラウの懇願に、焦点の合わないエリファレットの翠玉が揺らめく。
色を失った唇が、震えて動く。
「……っ……ラウ……ぼ、くは……っしにたくないっ……こわ、っい……! ラウと、ずっ、……と……いっ、しょに……いたい……! いや、っだ……!」
辿々しく紡がれる言葉は、殺されたいと常に言い続けてきた子どもが、心の奥に沈めた偽らざる本心だった。
ここまで追い詰められないと吐き出せなかった本心に、ラウは胸が詰まる。
「あぁ……! エリファレット……ずっと一緒だ。ずっと一緒に、俺と生きてくれ……!」
想いがこみ上げて、言葉がうまく出てこない。それでもなんとか言葉を吐き出すと、エリファレットの瞳にかすかに色が戻る。
透き通る翠玉からとめどなく涙が流れて、ラウはそれを両手で拭い取る。
「大丈夫だ、お前は俺が助ける。絶対に死なせない」
死なせてなるものか。この小さく健気ない命を、このまま失うわけにはいかない。
「だからエリファレット、希望を捨てるな。俺からお前を取り上げないでくれ」
無味乾燥したラウの世界に、愛おしさと言う新たな風を入れたのがエリファレットだ。この暖かさと胸に灯る明かりを知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。
意識を盛り返したエリファレットが、ラウの手を両手で握る。ひやりと氷のように冷たい手はいつもと逆で、ラウはエリファレットの手を握り締める。
ヒビ割れた頬に触れて、色を失った唇に口付けた。
ぬっと、エリファレットのウロのようになった背中から、鋭い鉤爪が現れたのはその時だった。
「っ!?」
ガタガタとエリファレットの体が震え、背中から鉤爪と白銀に覆われた薄い氷のような体毛が伸び上がる。
「どけっ!!」
色をなしたアルベルティーナがラウを突き飛ばし、場所を取って代わる。
再び意識をなくしたエリファレットの周辺に、二重円に囲まれた細かな金の文様が浮かび上がる。アルベルティーナが二重三重に呪文を唱えながら、呆気に取られたラウを鋭く射る。
「ラウ、これを殺せるかっ!?」
呪文を唱えながらの問いに、ラウはエリファレットを見てアルベルティーナに視線を戻す。
「エリファをかっ!?」
「たわけ! エリファレットではないわ!」
何を言っておる、とアルベルティーナの一喝は容赦がなかった。
常に整えられた髪を振り乱したアルベルティーナの美麗な顔には、玉のような汗が滲んでいる。よく見れば腕や足、頬にすり傷を幾つも負い、土と血で汚れていた。氷雪の魔物の瘴気に当てられ、狂ったように暴れ回る蟲からラウとエリファレットを守っていたのは彼女だ。
冷や汗を流し、苦痛に顔を歪めた森の麗人がラウに怒鳴る。
「いにしえの魔物はこのまま孵化させる!」
「なっ……!?」
アルベルティーナの宣言にラウは絶句する。
このまま孵化させて氷雪の魔物が発現すれば、ディノクルーガーの森は無事では済まない。当然、エリファレットの命も助からない。
看過できない宣言に色をなしたラウの胸倉を、アルベルティーナが勢いよく引き寄せる。
玉のような汗が、アルベルティーナの額からパラパラと零れ落ちる。
「よいか、ラウ。いにしえの魔物を殺さないことにはエリファは救えん。孵化したら即殺せ」
氷雪の魔物はエリファレットから孵化を始めている。今更エリファレットの内に封じ直すことは出来ない。そしてそれでは、エリファレットは完全には救われない。殺されたい理由を抱えたままでは、今と同じ状況がいつ起こるかわからない。
氷雪の魔物は孵化したらまず宿主であったエリファレットを食いにかかる。エリファレットを食って初めて、氷雪の魔物として完成する。だが孵化したてはまだ動きが鈍い。活動を始めた氷雪の魔物よりは、ずっと楽に殺せるはずだ。
「エリファレットは妾が守る。孵化したら即刻首を落とせ」
退魔の太刀は研いだばかりだ。抜いただけで蟲が退き、瘴気が薄らぐ。氷雪の魔物の首も苦もなく落とせるはずだ。
「いにしえの魔物との縁を完全に断ち切ってやれ。それはその太刀を持つラウにしか出来ぬことじゃ」
アルベルティーナがうっすらと月光色の瞳を細める。掴んだままの胸倉をさらに引き寄せ、吐息の触れる位置でラウを見つめる。
触れるか触れないかの位置で、アルベルティーナが苦笑した。
「……毒はすでに残っておらぬだろう?」
残念だがな、と笑ってアルベルティーナはラウを突き放した。
「来るぞ!!」
勢いよく突き放されラウは体勢を崩したが、アルベルティーナの声に素早く体を立て直した。
のったりとした動作で、いにしえより銀の狼族に封じられし魔が出現する。
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