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しおりを挟むあれから、まだ火事は起きない。
もうそろそろ…夏が終わる。いや、もうほぼ秋だ。厳しかった日差しがやわらぎ、涼しいというよりは少々冷たい風がしばしばふく。
なにかがおかしい。山火事は、少なくとも夏の盛りごろには起きていなかったか。
どう考えてもなにかがおかしい。でも、私にどうにかできる話でもないのでただ待つことしかできない。もしかしたら、私が運命を狂わせたことによりなにかが発生して、山火事の時期がズレたという可能性もある。
最近の私はそのことで頭がいっぱいでどうにもならない。ここのところはしょっちゅう散歩に出て、なにか起きていないかと山の中を無意味に歩き回ることを繰り返している。ガトーから心配の目で見られていることはわかっているが、やめたくてもやめられない。
そして、こんなことを繰り返していたらいつかはありえるかもしれないと思いつつ、可能性は低いと目をそらしていた事態が起きた。
「メイ…!?」
マルガレーテに会って以降、久しく呼ばれていなかったその名前。
最近森の中でよく出会う白兎を撫でていた手を止め、思わずパッと振り返る。その動作と同時に兎がピョンと跳ねてどこかに姿を消す。
「え…」
緩くウェーブのかかった柔らかな黒髪、男性にしては白い肌、甘く垂れた目尻、凪いだ海のような穏やかなブルーの瞳…
「ハンス…」
一番会いたくて会いたくなかった人。
彼から、その綺麗な青い瞳をまっすぐに向けられている。でも、今の彼の瞳は凪いでいない。
私は、彼の青い瞳が好きだった。
前世では港町暮らしで、ずっと海とともに生きてきた。別に、海なんか好きでも嫌いでもなくて、あって当然のものだった。
でも、現世の村は、海の存在すら信じていない村人がいるぐらいには海から縁遠い。私も現世では海をみたことは一回もないし、海がどこにあるのかすら知らない。
そうなってみると、なんだか海がそこにないことが寂しくて…気が付くと彼の瞳を目で追っていた。勝手に、彼の穏やかなブルーの瞳の中に故郷の海を見出していた。
そしたら、いつの間にか彼自身のことを好きになっていた。
素直になれない不器用な優しさも、甘いものが苦手なところも、小柄な体格を気にしているところも、私とヨハン兄さんの誕生日を絶対に忘れないことも、ヨハン兄さんのことが大好きなことも…大好きになっていた。
彼の青い青い視線の先にいるのは私じゃない。そんなこと、ずっと見てた私にわからないわけがない。それでも、大好きなのだ。…ただ、だからといって彼の視線の先に行こうなんてつもりはもうない。
彼が海だとしたら…私は魚になりたいのだ。海にとっての魚のように、いつもそこにいるのが当然だけれど、いなくなっても別段困らない。でも、いなくなると少し寂しいかもしれない…そんな存在に。そんな存在になって、彼と彼の瞳をずっと見つめていたい。
ただ、今は彼の瞳がおそろしい。
あんなに大好きな瞳だったのに、今はそれを向けられていることがおそろしい。汚くて最低な私が見透かされている気がする。
「メイ…なんで…」
「…ごめん、ごめん…ハンス…」
その目を瞳が零れんばかりに見開くハンスに、私はただただ呆然と謝罪の言葉を繰り返す。謝罪以外の言葉がただ本当に思い付かない。
「…ヨハンが、どれだけメイのことを心配して…」
「ごめん、ごめん…」
「ごめんじゃなくて、はやく戻ってきてよ…。本当に、本当に…なんで…」
海から、ぽろぽろと透き通った潮水が溢れていく。
その光景にぎょっとすると同時に、胸がぎゅうと締め付けられる。混乱に、申し訳なさやらなにやらが混ざりに混ざって、さらなる混乱を生んでいく。
私は、私は、私は…
「…ごめん…!」
一目散に逃げだした。
真っすぐに、全速力で、わけがわからないままただただ走った。ハンスがなにか言っていた。でも、聞く余裕なんか私にはなかった。その場から逃げ出すことしか考えられなかった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
よりにもよってハンスに出会ってしまった。ハンスを泣かせてしまった。
色々な要素が混ざり合って、意味もわからないまま逃げ出してしまった。本当はちゃんと話をするべきだったのだろう。だけど…
ガチャン!!!!
「あ゛あ゛っ…!!!!」
痛い痛い痛い痛い…!!!!!
鋭い音と共に左足に途轍もない激痛。とっさに足を引こうとしても引けずに、その場でうずくまる。
「…うぅ…」
痛みを訴える場所をおそるおそる見ると、トラバサミについた鋭利な刃が私の足に喰いこんでいた。なかなかにグロい光景が広がっていて思わず目を逸らす。…周辺の村の猟師かなにかが設置したものだろう。おそらくこのサイズは熊あたりを狙っていたのだろうか。確かにこの辺りは熊がしばしば出る。
…明らかに、私に外せるような代物ではない。
無理に外そうとすれば、むしろ悪化することが目に見えている。
左足には今もなお激痛が走り続けているが、どうにもできない。おそらく骨は折れているだろうし、肉もぐちゃぐちゃだし、トラバサミが外れたところで動ける未来が見えない。
「…誰かー!!!!誰か!!!」
いくら叫んでみても、誰かが来るような気配はない。ハンスは…私がめちゃくちゃに森の中を駆けているうちに、撒いてしまったのだろう。
別に、ハンスじゃなくてもいい。誰か…誰か助けてほしい…。
「誰か…誰か助けて!!!!!!!」
不安と情けなさで、涙が零れていく。
泣いたって仕方ないし、むしろ無駄に体力と水分を使うだけだとわかっているのに泣くのをやめられない。みっともなくわぁわぁと泣き叫びながら、ひたすら「たすけて」を繰り返す。
それでもやっぱり人は来ない。何度何度何度叫んでも人は来ない。
だんだんと涙は止まるけれど、代わりに諦めの感情とどこにぶつければいいのかわからない怒りが増長していく。
叫んでいた喉ももうガラガラで、まともな声もでない。…もう諦めよう。疲れた。面倒くさい。このまま死んでも…どうでもいい。全部無駄な悪足掻きだ。
少しずつ周囲が暗くなってくると、不安が再び強くなってくる。
もしかしたら、本当にこのまま誰にも見つけてもらえないかもしれない。さっきはどうでもいいと思ったけど、やっぱりこんなところで死にたくない。それに、私がここで死んだら…村はどうなる?
スカートをどうにかこうにか切り裂いて、足に巻き付ける。足元には血だまりが広がっていて…最悪だ。下手したら左足のトラバサミに挟まれているところから下は、もう壊死しているかもしれない。
「誰か…誰か…」
やっぱりもう声は出ないし、血があまりにも出すぎたのか…体力を消耗しすぎたのか…意識も朦朧としてくる。
「誰か…」
今は何時なのだろう。このまま夜になると危険な野生動物も出てくるだろうし…ああ…
…このまま、本当に死んでしまうのかもしれない。
暗い…暗い…寒い…。これは世界と私の意識…どちらが暗いのだろう…。全てが暗闇に沈んでいく。
「ハンス…」
その吐息のような声が吐き出されると同時に、息を切らしたなにかが近づいてきた気配があった。
疲労と喉の渇きのせいで、ほとんど声らしい声は出ない。でも、どうにか「たすけて…」と呟くと、その人は優しく優しく抱きしめてくれた。そして、私が落ち着いたことを確認すると、足に喰いこんでいたトラバサミを丁寧に時間をかけて外し、背中と膝裏に腕を差し込みそっと抱き上げてくれた。
「…ハンス…ありがとう…」
了解を示すように強くなった腕の力に安心して、私の意識は今度こそ暗闇におちていった。
ただ、そこに先ほどのような恐怖はなく、絶対的な安心のみがそこにはあった。
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