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25話「人魚姫は悩む」
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それからは、今まで通りのいたって普通の日常が戻ってきた。
仕事に行って業務をこなし、帰ってご飯を食べて寝る。変わったのは、人魚の餌やりのイベントと仕事終わりのプールだろうか。
そう。彼と会う前と同じように、毎日一人で日常を過ごしていた。
ただ前の生活に戻っただけだというのに、職場のみんなには「大丈夫?」「元気ないね」と言われる。睡眠時間も多くなったし、自分だけを考えて生活しているだけなのだから疲れるはずないのに、どうしてそう見えてしまうのか、七星にはよくわからなかった。
「へー。……じゃあ、七星はこれでよかったって思ってるんだ」
「うん」
今日は久しぶりに一番の友人である鈴菜との食事の日だった。個室がある焼き鳥が美味しい居酒屋で飲むことになっていた。何回か訪れた事があるお店なので、七星は自分のお気に入りの塩味の焼き鳥を口に入れる。けれど、いつもみたいな唸り声をあげるほどの旨味は感じられない。どうしたのだろうか。風邪でもひいてしまったのだろうか。夏風邪は厄介だから、早く治さないと。そんな事を考えながらも酎ハイを一口飲む。
「じゃあ、夕影くんと別れたって事なのね」
「……え」
「だってそうでしょ?もう連絡もとってなくて、会ってもいない。そんなの恋人同士じゃないじゃない」
「……そっか。私、夕影くんの彼女じゃないのか」
人に言われて、初めて実感出来た。
夕影と連絡を取らなくなってから1週間が経っていた。
七星から連絡もしないし、彼からメッセージが届くこともない。仕事終わりに彼が水族館の駐車場で待っていてくれる事ももちろんないため、共にプールに行く事も、夕食を食べる事もなくなっていた。
もっとショックを受けて泣いて過ごすか思っていたが、「夕影くんのために、私がいない方がやっぱりよかったんだ」と思ってしまうと、何だかホッとしてしまって涙も出なかった。
やっと夕影の役に立てているのだと思えると嬉しいぐらいだった。
「じゃあ、もう夕影くんとは会わないのね」
「もう、会えない。私、夕影くんと会えないのか」
「なんて顔してんのよ。そんな事、わかっててそうなったんでしょ?」
「どんな顔してる……?」
「泣いてる」
七星はハッとして自分の目元に触れると、そこには温かい涙が溜まっていた。
夕影と会わなくなってから一度も泣いていないのに、どうして泣いているんだろう。そんな自問をしなくてもわかっている。
「……夕影くんに会いたい」
「当たり前じゃない。七星はあんなに夕影くんの事が大好きだったんだから」
「でも、やっと夕影くんの役に立ててるとはわかってる。自分がいない事が、夕影くんのためになるなんて、自分で悲しかったけど、本当にその通りだなって思えて。情けなくなった。自分でも悲しくなる。でも、夕影くんにも会いたいの。私って、ほんとどうしようもないよね」
「あのね、七星。友達とか恋人、家族ってそんなもんじゃないの?」
「……え?」
「私があなたと友達なのは、何か役に立つからなの?」
「違う。そんな事ないよ。一緒にいたいから、だから友達なの、………あ」
「わかった?恋人同士だって同じなんだよ。何かしてあげたり、役に立ちたいって思う気持ちが出てくるのもわかる。けど、何もしなくてもいいから一緒にいると楽しくて嬉しくて笑顔になって幸せな気持ちになるから。だから、一緒にいれるだけでいいんだと。夕影くんだって、七星と一緒にいたときはそういう気持ちだったと思うんだ」
自分は本当にバカで世間知らずだ。
自分の殻に閉じこもって生きてきたから、知らなかった。何も出来ない自分は価値がないと思いがすぎていた。
こうやって何も出来ない自分と一緒に居たいと思ってくれる人がいるではないか。
夕影はずっと言ってくれていた。
幼い頃から自分に憧れていると言ってくれていた。会えて嬉しと言ってくれた。
そして、こんな自分を好きだと言ってくれた。
それなのに、自分はどうしてそんな事を言ってしまったのだろうか。
「じゃあ、夕影くんに会いに行かなきゃ、ね?」
「……でも、今は試合前の大事な時期だから」
「だから、会わなきゃいけないんじゃないの?」
「そんなのわからないじゃない。もしかしたら、一人の方が集中出来てるかもしれない。だから、会うとしても試合終わってからでいいよ」
「焦れったいな。じゃあ、試合は応援しに行かないのね」
「こっそり応援しに行く」
「もう!あんなに七星に振り回されても愛してくれた彼なんだから、信じてあげなきゃダメだよ」
それからの飲み会は、イジイジしている七星へのお説教タイムになり、鈴菜からいろいろと教えられた。
鈴菜からはいつもいろいろな事を教えられる、大切な友達。そんな彼女の言葉をありがたく聞きながらも、七星は会えない彼のことを考えていたのだった。
ーーー
ダメだ。
このままではいけない。
わかっているのに、体が硬くなり、微かに震え出してしまう。そんな自分に喝を入れるように夕影はパンッと両手で両頬を叩く。隣のレーンに飛び込もうとしていた部員がびっくりしてこちらを見るが夕影には何か反応を示す余裕などなかった。
「おい、大丈夫か?」
「………ぁ。監督」
「たかが部員とのタイムレースで何を緊張しているんだ。普段のお前の力を出せば余裕だろう。力を抜け」
「はい」
夕影は短く返事をすると、台の上でスタートの姿勢をとる。大きく深呼吸を1つ。強く目を瞑って、ゆっくりと瞼を開き、夕影はまっすぐ前を見据える。本番と同じようなポンッという電子音が施設内に響き渡る。部員達は一斉に飛び込む。が、夕影だけが一歩出遅れて水面に飛び込んだ。誰が見てもわかるスタートミスだ。夕影は、内心舌打ちをしつつ、遅れをとり戻るように必死に泳ぐ。けれど、それがよくない。それもわかっているが、出遅れてしまえば、焦ってしまうのは当たり前の事。夕影は、泳げば泳ぐほどにリズムを崩してペースが下がって行く。
練習が終わって、プールの側面に手をつき顔を上げると、すでに他の部員たちは床に足を着けた後だった。
「夕影!」
「……」
「待てよ、夕影ってば!」
「ああ、……幸太郎か」
練習が終わってプール場を後にしようとしていた夕影を引き止めたのは幸太郎だった。
何度か声を掛けられたのだろうか。彼は「無視すんなよ」と言っていたが、考え事をしていたため全く聞こえなかった。
「悪い。聞こえてなかった」
「明後日本番なのに、調子悪すぎだろう。おまえ、どうしたんだよ」
「やっぱり俺、おかしいよな。泳げば泳ぐほど遅くなってるような気がする」
「気がするんじゃなくて、遅くなってる。最後の泳ぎなんて、やばかったぞ。緊張してんのか?」
「そうみたいだ。また悪い癖が出てきた」
「……まじかよ」
幸太郎は自分の事のように心配そうに、大きく息を吐いた。
夕影自身もよくわかっていた。試合直前になると、不安と焦りと緊張から恐怖感を感じてしまい、ミスを呼んでしまういつもの癖。また、その焦燥感に襲われているのだ。
それがいつからか。原因は何なのかもわかっている。そう、七星と会わなくなった日からだった。
「感覚を取り戻すためにこれから、近くのプールに入ってくる。本番までに治すようにやることはやってみる」
「今からプールって。人魚姫の所に行くんじゃないのか?」
「七星さんとはもう会えない」
「何でだよ?何かあったのか?」
「別れた。たぶん」
「別れたッ!?何でだよ」
プール場は反響音が大きい。幸太郎の叫び声は瞬く間に場内に響き渡った。練習で残っていた部員達は驚いた様子でこちらを見てきたので、思わず2人で小さく頭を下げる。
「まあ、いろいろあったんだ。俺だって七星さんと会いたい。けど、七星さんに俺は余計な心配をかけてしまってたみたいなんだ。七星さんを焦らせてしまってた。それに気づかないで自分の事でいっぱいいっぱいになってた。俺が全部悪いんだ」
「夕影。振られても、人魚姫が好きなんだな」
「当たり前だろう。昔からの憧れの人で、俺が水泳を始めたきっかけをくれた大切な人なんだ。やっと見つけて、恋人になれたのに。七星さんのやりたい事を素直に応援できない弱い俺なんて、振られても仕方がないんだ」
「……おまえ、相当やられてるな」
「試合なんて忘れたいぐらいにな。でも、ずっと七星さんが応援してくれてた試合だから、絶対に出るさ」
「そう決めたなら、優勝しろよ」
「出るなら結果は出すよ。心配かけて悪かったな」
「いいんだ」
「お互いベストを尽くそう」
「……そうだな」
幸太郎はそう言うと、まだ練習をするのかプールサイドに戻っていった。
夕影はいつもとは違うプール場に向かうために準備をすることにした。
目的地に向かうまでもトレーニングの一環で、ランニングをして向かう。
いつもは無心で走っているが、今の夕影は、最後に見た悲しげ七星の表情が頭の中に張り付いて離れないのだ。
どうして、彼女のやりたい事を応援してあげられなかったのだろうか。
それと同時に、どうしてあんな苦しい思いをしたのに、イベントをしたいと言ってくるのか。夕影には彼女の考えがよくわからなかった。
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七星に試合を見て欲しかった。
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けれど、彼女は試合会場に来ることはないだろう。
それなのに、自分は試合で泳ぐほど意味などあるのだろうか。
七星がいないのに、何を目標とすればいいのだろうか。彼女の隣で生きて行くのが1番の夢だったのに。
「……七星さん」
名前を呼んでも、笑顔が返ってくることはない。
荒い呼吸と共に吐いた彼女の名前は、ただただ夕影の心を苦しめるだけだった。
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