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27話「人魚姫の王子様」
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かなりのスピードを出していたはずなのに、バイクに乗っていた時間はとても長く感じられた。試合が行われている会場は七星でも知っている大きな施設だった。その場所だったら十数分で到着できるはずなのに、体感は何時間にも思えた。それほどバイクの旅は七星にとって刺激が強すぎた。それに早くついて欲しい時ほど時間が長くなんじられるものなのが苦しい。
「まだバイクに乗ってるような感覚です」
「酔ってないなら大丈夫ですね。夕影の試合はたぶんもう少し。走れますか?」
「はい。もちろん!」
アスリートに落ち着けるはずはないが、七星は幸太郎の背中を必死に追いかけた。息が荒くなってくる頃には、施設の入り口に到着した。日本一を決める大会とあってかなりの混雑だった。客席に向かうと思っていた七星だったら通されたのは関係者以外立ち入り禁止の場所だった。幸太郎が関係者なので、すんなり入る事が出来た。
「よかった。夕影の試合はまだ始まってなかったですよ」
「そうなんですね。よかった。夕影くんは……」
「試合前のあいつはいつも1人になりたがって会場の外のベンチとかでボーッとしてる事が多いんです。俺の予想だと今は中庭にいます。俺がここを出るときもそうだったんで」
「ありがとうございます」
「あんまり時間はないので。後は夕影を頼みました」
七星は頷いた後に、ここまで連れてきてくれた事に対しての感謝を深く頭を下げて伝えて、すぐにその場から離れた。
水泳の1つの試合時間は短い。モタモタしていたら、夕影に会えないまま試合がスタートしてしまうのだ。そうならないために、七星は早足で会場の裏手にある自然豊かな広場になっていた。ランニングコースや、テニスコートなどが木々の間に隠れるように現れる。ここは総合運動施設なのだろう。ランニングコースを進むと、ベンチがいたるところに置かれている。そこでは休憩しているしアスリートや読書をしているおじいさんや、コーヒーを飲んで一休みをしているサラリーマンなど沢山の人が集っていた。その中に夕影もいるはずだと、七星は必死に探した。
試合会場とは違った静かな場所。
七星は風や木々が触れ合う音を聞きながら、必死に探したがなかなか夕影の姿は見つからない。焦りが出てきて、思わず走る足も早くなっていく。
「……夕影くん」
ここまで来たのに。
やっと会えると思ったのに。
夕影くんに力をあげれると思ったのに。
会えないまま終わってしまうのだろうか。苦しさを覚えて足が止まった時だった。
少し先のベンチで、足を伸ばし、顔を空に向けて、ただただ空を見ている男の人の横顔が七星の視界に飛び込んで来た。それが誰なのかわからないほど七星は彼を忘れるはずはなかった。
「夕影くんだ。よかった」
七星はゆっくりとゆっくりと木洩れ日が落ちるベンチへと足を進めた。
どんなに静かに歩いても足音は鳴るもの。けれど、彼はよほどと集中しているのか、こちらに全く気づいかない。
夕影の目の前に立っても全く気づかない。彼らしいなと思いながらもどこか寂しさを感じて、七星はゆっくりと彼の名前を呼んだ。
「……夕影くん」
「え……、七星さん」
夢の世界にいたのか。ここが現実なのかわからないといった様子の夕影は驚くというより呆然としながらゆっくりと七星へと視線を移した。
「……隣座っていいかな」
「は、はい。どうぞ……」
「ありがとう」
夕影はおどおどした様子でベンチの横を開けてくれる。七星は彼のすぐ隣に腰を下ろした。
そして、正面を向いたまま夕影に話掛けた。
「緊張してる、よね?」
「はい」
「私も緊張して仕方がない時はね、メダルが取れなかった事を想像してたの」
「え。それって逆なんじゃ……」
「普通は優勝する姿とか、失敗しないで練習したことを全て出し切れる姿を想像するのが正解だって言われてたけど私は違ったの。負けた事を考えて、すっごい悔しい思いを味わうの。そして、こんな思いを現実でもするぐらいなら、失敗してもいいからなんでも思い切ってやった方がいいって思えたの」
「……なんか、七星さんらしいですね」
「そうかな……」
七星は返事を聞いて、ゆっくりと彼の方へと視線を向けた。すると、バチンと夕影と目線が合う。夕影はずっと七星を見ていたのだろうか。
「私、ずっと夕影くんに会いたかったよ」
「俺もです」
「謝りたかった。応援したかった。一緒に手を繋ぎたかった。泳ぎたかった。……名前を呼びたかった」
「俺も全部同じです」
「だから、ずっとずっと名前を呼んでる。だから、私の声が聞こえたら笑って欲しいの。笑顔の人が幸せになるんだから」
「七星さんの声なら、何があっても耳に入りますね」
「そうでしょう。いい作戦だと思わない」
「はい。俺にとっての最高の作戦です」
そう言い合って、七星と夕影がクスクスと微笑み合った。
お互いに肩の力が抜けたのがわかり、七星は安心して息を吐いた。
「夕影!時間っ!!」
いつの間にか近くにいたのだろうか。幸太郎が手を振りながら大声で彼を呼んだ。
夕影が振り返って幸太郎の顔を見ると、幸太郎の顔は満面の笑みに変わった。「今、行く!」と返事をした夕影は今からプールに飛び込もうとしているのかと思うほどに真剣なものに変わっていた。
「……七星さん、行ってきます」
「いってらっしゃい。夕影くんに届くように応援する」
大きく頷くと夕影は急ぎ足で幸太郎の元へと走った。幸太郎も七星に向かって深く頭を下げると、2人は並んで会場へと走って向かって行く。その横顔には笑顔が見えて七星は安心する。七星は、彼らとは逆の道を走る。
愛しい彼の夢の舞台を見るために。
そして、彼の力を届けるために。
七星が会場に入ると、すでにすごい人で熱気が肌に伝わってきた。
水の音と、声援や歓喜の声。これが生の試合だと、久しぶりの感覚に七星は全身が震えてきた。
この視線と声の中心にいたのだと思うと、懐かしく不思議な気持ちになる。
空いている席に座りしばらくすると、夕影がエントリーする競技のアナウンスが流れ始めた。それと同時に、鍛えられた体と緊張した面持ちの男性たちが次々に会場に姿を現わす。それと同時に拍手や名前を呼ぶ声が大きくなる。七星は両手を組んで祈るように夕影の姿を見つけては「夕影くん頑張れ」と呪文のように言葉を紡いだ。
いよいよ、数分という短い時間の試合が始まる。
何年、何ヶ月をかけて皆が鍛え合い、苦しみながらも練習を積み重ねて臨んだ瞬間が始まる。一瞬かもしれない。けれど、彼らにとっては憧れの時なのだ。七星にはこの瞬間の選手の気持ちがよくわかる。皆が1番に到着する姿を想像してきたはずなのだ。けれど、それが現実になるのは1人だけ。そう考えると、熾烈な戦いだと実感する。
そんな事を考えているうちに夕影がスタートの台に上がる。すると、会場は一瞬の静けさが訪れる。スタートの合図が聞こえなくならないようにと、皆が応援の声を止めるのだ。七星は思わずに呼吸を止めてしまう。
『take your marks』
その言葉の音にポンッという電子音が響いた瞬間、選手は飛び、観客は声を上げる。
「夕影くんっ!!!」
七星は大声で彼を呼ぶ。
頑張って欲しい。負けないで欲しい。そして、この瞬間を楽しんで欲しい。そんな期待を込めて声援を届ける。
夕影の体は綺麗な弧を描いて水面へと落ちて行く。届いたのかわからない。彼の表情もわからない。けれど、七星には夕影の口元が微笑み、自分の名前を呼んでいたように思えた。
「よし!」
七星は夕影の完璧なスタートにそんな声が漏れる。それぐらいに、どこにも不備のないスタートだった。
そうなれば、夕影には大きな自信になるはずだ。だが、この大会に出場する選手は誰もが相当の実力の持ち主、そう簡単に勝てるわけではない。始めはほぼ横一列に並んで進む。皆が肩を上げて緊張した様子で応援する選手の泳ぎを祈りように見つめる。
ターンに入って、水面に出ると少しずつ差が出始める。
「夕影くんっ!」
なんと、夕影はトップで泳いでいたのだ。
けれど、両隣のレーンで泳ぐ選手と僅差でのトップだ。会場は一気に緊迫した雰囲気になる。
近くにいた夕影の所属する部活の応援にも力が入ります、皆が総立ちになって夕影を応援している。その様子を見て七星も力をもらい、ゴールに近づく夕影に最後の声援を送る。
「いっけーー!夕影くーんッ!!」
七星も勢いよく立ち上がり、目を見開いてその瞬間を見守る。
夕影のピンっと伸びた手は、プールの側面に届き、夕影はすぐに後の大型モニターに視線を向ける。
その瞬間、夕影の表情はほころび、手を力強く上げてガッツポーツをした。
夕影の名前の隣りには『1』の数字が光っていた。
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