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31話「知りたい名前」
しおりを挟む31話「知りたい名前」
気づくと、畔はいつの間にか叶汰のベットに寝かされていた。泣きつかれたまま寝てしまっていたようだ。泣きすぎて目が腫れているのか、目が開けづらくなっている。畔は目を擦りながらベッドから起き上がった。
腕につけたままだった時計を見ると、まだ仕事には早い時間だった。昨日はメイクも落とさずに寝てしまった。もちろん、シャワーだって浴びていない。
畔は叶汰わ起こさないように、ゆっくりと歩きシャワーを借りることにした。寝室から出るとそこは叶汰が寝ているリビングだ。
まだ太陽が顔を出したばかりで薄暗い明朝。ソファで寝ている叶汰を盗み見る。すると、寝ているのに何故か怒っている表情だった。そんな彼を見て、畔は何故か可笑しくて笑みがこぼれた。
叶汰はお風呂を沸かしておいてくれたようだったので、遠慮なくお風呂に入った。
畔はボーッと体を丸めて座りながら、浴槽の中で考え事をした。もちろん、椿生の事だ。
(………やっぱりちゃんと知りたい。椿生の事を)
神水椿生という名前が嘘だというのならば、本当の名前は何というか?
そこまで考えて、畔はハッとした。
(名前を呼んでも、彼の本当の名前じゃなかったのかな……)
今更気づいてしまい、畔は切なくなる。だから、振り向いてくれなかったのかと、自分のしたことが恥ずかしいとさえ思った。
けれど、すぐに湯船のお湯を救い、顔にかける。パンパンッと両手で両頬を軽く叩き、畔は自分の気持ちを無理矢理変えた。
(名前が違うのなら、また練習すればいい。………だから、椿生に会って話をしなければ)
まだ別れの言葉の言われたわけではない。
ちゃんと会って話をしないと、お互いの気持ちを知らなければ。
畔はすぐに浴槽から飛び出て、着てきた服を身につけて幼馴染みの元へと向かって。
「なんだ……早かったな」
『起きてたんだ………』
怒られるのを覚悟で叶汰を叩き起こそうとしていたが、すでに彼は起きており朝食の準備をしていた。予想外の事にきょとんとしていると、叶汰はリビングのテーブルに視線を落とし「座れ」と口の動きで畔に伝えてきた。
叶汰はいつも料理をしているようで、手際よくホットサンドと野菜スープを作り、畔の前に置いた。カットされたホットサンドから、トロリと香りのいいチーズが顔を出しており、夕飯を食べていない畔のお腹から音が鳴りそうだった。
『おいしそう!いただきます』
『ありがたく食べろ』
『はーい!』
温かなスープを口に入れる。
すると、不思議と安心出来る。畔が『おいしー』と言えば、目の前に座り、ホットサンドを噛る叶汰が「当たり前だろ」と笑う。
何だか学生の頃に戻ったような感覚に襲われ、畔は自然と笑みがこぼれる。幼馴染みというのは、やはり特別な関係だなと思う。
一緒にいると安心して、一人じゃないと思える。それに、畔は叶汰に助けられてばかりだ。
耳が聞こえなくなった時も、畔がデビューした時も。そして、こうやって畔が苦しむ時もさりげなく助けてくれるのだ。何度感謝しても足りないぐらいだろう。
畔はホクホクとした気分でホットサンドとスープを完食した。すると、それを待っていた叶汰がすぐに手をあげた。
『さて、どこから話そうか?俺も仕事あるからそんなに長くは話せないぞ』
『ありがとう。……叶汰が知っている事、全部教えてほしい』
『わかった。………まず、おまえの彼氏があの神水の社長だという話を聞いた時何とも思わなかった。神水製薬の社長は大のメディア嫌いで、滅多な事では顔を出さない事で有名だったんだ』
『そうなんだ………』
『まぁ、若くてかなりのイケメンだって噂だけどな』
そう言って笑う叶汰を、畔は苦笑しながら見つめた。きっと、「おまえは面食いなんだろ」と言いたかったのだろう。確かに椿生と出会った時は、一目惚れに近かったので、否定は出来なかった。
『けど、さすがに人前に全く出ないわけじゃないんだ。大企業の社長となれば、知っている人も多いはずだ。だけど………畔が報道陣に囲まれそうになった時に車を運転してたのはあの男だろ?記者のだれも神水社長だと気づかなかったのか、と不思議に思ったんだ。それで、俺はあるパーティーに参加したんだ』
『まさか、それって………』
『あぁ、神水製薬の社長が参加すると言われてたものだ。それに参加してきた。そして、挨拶してきたよ』
『………それは彼ではなかったの?』
畔は緊張した面持ちで、彼の返事を待った。
すると、叶汰は真剣な表情で、ゆっくりと頷いた。
『あぁ。全くの別人だった』
『……そう、なの………』
わかっていた事だった。
何故なら恋人の椿生本人がそれを認めたのだから。畔は緊張して強張っていた肩を下ろした。彼の話は真実だろう。叶汰を信じているし、彼に嘘をつく理由などないのだから。
『まぁ、その前にあいつが偽物だってのはわかっていたんだけどな』
『え………』
『少し調べた。それと、あの病院でピアノを弾いていたのを偶然見てたんだ』
『叶汰もいたんだ』
『おまえもみてたのか?畔は見かけなかったから別の日だろうな。あそこのピアノで頻繁に音楽会をしているらしい』
叶汰もあのピアノを聞いたのだ。
畔は驚きつつも、彼がそこまで椿生の事を調べてくれている事なんて知らなかった。
『だから、病院関係者に聞いてみたんだよ。あそこにいる人はプロなんですか、って。そした、ベリーズヒルズビレッジのスタッフの一人だって。病院内の薬剤師をしているんだって教えてくれたよ』
『薬剤師………』
「あぁ。でも、まぁ……社長ってのも嘘ではないみたいだけどな」
『え……?』
ボソボソっと手話なしで、叶汰が何かを呟いたのを畔は口の動きだけでは理解出来ずに、彼に聞き返す。が、『なんでもない』と言うだけだった。
『ま、こんなところか。だから、あいつは名前も経歴も全て詐称して、おまえを騙してたんんだ。理由はわからないが、嘘をついていたのは事実。あいつの側にいる理由なんてないだろ?』
『それは………でも、理由を知りたいよ』
『それを俺が許すと思うか?』
『調べてくれて、教えてくれたのは感謝してる。でも、これは私の問題なの。それに、私はまだ椿生と別れたつもりはないわ』
『あいつに会うことは許さない』
『勝手に決めないで!』
畔がキリッと睨んで勢いよく手話をする。
と、ガタッとイスから立ち上がったのは叶汰の方だった。
畔の方に、どこかの鍵を置いた。
『この部屋の鍵だ。家を出る時に使え。返すのは今度でいい』
『まだ、話は終わってないわ!それに、私は勝手に椿生に連絡を………』
『スマホは隠した』
『え!?』
畔はハッとしてリビングを見る。
昨夜、テーブルの上に置きっぱなしにしていた自分のスマホがない事に今更気づいた。
『叶汰!どこに隠したの!?』
『あと、おまえのマネージャーにはここに来るように伝えてあるから。今夜家に帰るなら勝手にどうぞ』
そう言うと、イスにかけてあった薄いジャンバーを羽織り、叶汰はスタスタと玄関の方へ行ってしまう。
呆気にとられた畔は、ただただ彼の背中を見つめ、玄関のドアが閉まるのをみているしかなかった。
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