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30話「名前を呼ぶ声」
しおりを挟む30話「名前を呼ぶ声」
(嘘………椿生さんが………)
頭が揺れ、手が震えた。
畔はフラフラになりながら、叶汰の手を払い椿生の正面に立った。彼がこちらを向いてくれないのだから、自分で目の前までいくしかない。
椿生の腕に触れた後、彼を見上げた。
すると、こちらに気づいた彼が視線だけ畔に向けて落とした。けれど、それはとても弱々しいものだった。
『椿生、教えてください。叶汰が言っている事は嘘ですよね?……嘘なんて、ついてないですね?』
わかっていても、どうしても彼の言葉を聞きたかった。彼から「違うよ。嘘なんてついていないよ」そう言ってもらいたかった。
けれど、彼の口は違う動きをした。
「………ごめん…………畔………」
手話もない、呟きだった。
畔は体がぐらつくのを感じながら、彼の腕を揺すった。けれど、椿生はこちらを見ずに苦しそうにするだけだった。
『どうしてですか?何で……なんで嘘をついたんですか?教えてください……何か理由があったんですよね?!………それを教えてください……』
彼の目の前で必死にそう手話をしていると、畔の瞳から涙があふれでてきた。
彼の目は閉じられ、畔の事を言葉を全く聞こうとしてくれないのだ。
それが悲しくて、苦しくて、畔はまた彼に抱きつこうとした。
けれど、それを叶汰が止めた。
『離してっ!離してよ………っっ!』
「こいつは嘘をついてたんだ。嘘が大嫌いなおまえに…………そんな奴に畔を任せられない」
『叶汰っ、私は椿生と話がしたいのっ』
「何が目的だったのかわかんねーけど、今後一切、畔の前に現れなんな」
叶汰が椿生にそう言うと、椿生はやっとこちらを向いた。
その瞳には光もなく、いつもの笑みもなく。
無表情の弱々しい彼の顔があった。
畔を一瞬見た後に、椿生は手を上げた。
そして、こめかみにつまんだ2指の指先をつけ、頭を下げながら構えた右手を少し前に出した。
手話で「ごめんなさい」という謝罪の言葉だった。
『っっ』
それを見た瞬間、畔は息を飲んだ。
手話の後、椿生は畔を一目見ることもやく、マンションの奥へと去っていこうとしたのだ。
ここで彼から離れてしまえば、もう会えなくなる。
椿生はもう自分に会うつもりもないのだ。
それを感じ、畔は叶汰の振りほどこうとした。けれど、彼の力は強く全く離してくれない。
畔は彼の背中をジッと見つめ、涙を流した。
椿生に見てもらわないと、自分の言葉は通じない。気持ちも伝わらない。
このまま別れを眺めているだけでいいのか。
愛しい人が目の前からいなくなってしまう。
「さようなら」になってしまう。
海のほとりの続きの物語のように。
畔は大きく息を吸った。
そして、意を決して口を開けた。
「つ………つば、き…………」
その声は弱々しく、音程も合っていないし、声もしゃがれていた。
それなのに、その場所に響き渡り、椿生の元へも届いた。
そして、椿生はハッとして足を止めた。
「つば……き………。つばき………つばきー…………」
「おまえ………声を………」
畔はゆっくりと彼の名前を呼んだ。
こっそりと練習していた、「つばき」という恋人の名前を。彼に名前を呼んで欲しかった。だから、畔も椿生に名前を呼びたかった。
喜んでもらえるように、畔はこっそりと発音の練習をしていたのだ。その時は彼の名前を呼ぶと笑顔になれた。
それなのに、どうして今は苦しいのだろうか。彼の名前をやっと声で呼べたというのに。
「つばき…………」
「………っ………」
涙をボロボロと溢しながら、必死に名前を呼んだ。人前で、歌以外の声を出したのは何年ぶりだっただろう。ずっと近くにいた幼馴染みでも驚くぐらいだから、長い間話をしていなかったのだ。
椿生に、自分の気持ちが伝わってほしい一心で名前を呼んだ。
こちらを向いてほしい、戻ってきてほしい。
だが、畔の思いは彼には届かなかった。
椿生は真っ直ぐに背を向けたまま、歩き出してしまった。
畔に背を向け、あっという間にいなくなってしまったのだ。
「つばきーー!!」
最後の声は、もう掠れて何と言っているのなわからないぐらい酷いものだった。
畔はその場に座り込み、泣き続けたのだった。
気がつくと、畔は叶汰の部屋にいた。
放心状態の畔をタクシーに乗せて連れて帰ったのだ。
ソファに座り呆然とする畔の目の前には、いつの間にかココアが入ったマグカップが置かれていた。だが、すでに冷えてしまっている。
『いつまでそうしてんだよ。さっさとそれ飲めよ』
『…………』
畔が泣き止むまで見守っていてくれた叶汰だったが、痺れを切らしたのか、イライラした様子で手話でそう言った。
ちらりとそれを見たが、畔は無視をして視線を逸らし、また呆然とした。
彼は神水製薬会社の社長ではなかった。
全くの別人だと、叶汰は話した。そして、それを椿生は否定しなかったのだ。
という事は、叶汰の話が真実なのだろう。
(そんなの……どうでもいいのに……)
畔はそう思い、また俯いた。
あんなにも嘘が嫌いだった。嘘を言われると悲しいより怖い。そう思ってしまっていた。
それなのに、嘘よりも椿生と離れる方がよっぽど怖いと感じてしまうのだ。
そして、どうして話してくれなかったのだろうか。その事の方が寂しくて仕方がない。
(おかしいな……今頃、一緒にスープカレー作って、食べてるはずだったのにな……)
温かく柔らかい笑顔で笑いながら、自分の作った料理を「おいしいよ」と食べてくれる椿生の姿を思い浮かべてしまうと、また瞳に涙が溜まる。
そんな日々は嘘のようで………。
もう、彼とはお別れなのかと感じてしまうのだ。
涙を拭うことなく、泣き続ける畔を見て叶汰は、ハーッと大きく溜め息をついた後、畔の隣にドカッと座った。ソファがガタッと動く。畔はやっと彼の方を向いた。
どうせ、今でも怒っているのだろう、そう思った。だが、いつもとは違った、心配している様子だった。
『とりあえず、今日は風呂入って寝ろ。そんなんじゃ冷静に話せないだろ?』
『………でも椿生が……』
『俺は話さないからな。あと、おまえベット使え。俺はソファで寝る』
『いいよ……そんな………』
畔が断ろうとするが、叶汰は無視して畔に着替えとタオルなどを押し付けた。
『それと……久しぶりにお前の話し声聞けて、なんか懐かしくなった』
『………叶汰………』
『頑張ったな』
『………うん………』
椿生とは違う、女の人のような華奢で細い手で、畔の頭をポンポンと撫でくれる。
最近、いや畔の耳が悪くなってから、叶汰は不機嫌な事が多かった。こんな穏やかで優しい表情は久しぶりだった。
それがとても懐かしく、安心させるもので、畔は止めるはずだった涙がまた止まることなく流れてしまった。
叶汰は「もう泣くな」とは言わなかった。
気がするまで泣けばいいと言わんばかりに、畔の頭を撫で続けてくれた。
ぐじゃぐじゃになった感情を、少しずつ落ち着かせながら、昔からの安心するぬくもりに、身を委ねて、畔は静かに目を瞑ったのだった。
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