必要最小限の優しさ -二本の傘と一つの判断

yukataka

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第二章 トンネルの心拍

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非常招集のブザーが鳴った瞬間、湊の体は先に立ち上がっていた。
「県道二十六号、長峰トンネル内で多重事故。車両八台、火災の疑い」
助手席の相棒が読み上げる。サイレンが谷に跳ね返り、トンネルの口は巨きな魚の喉みたいに暗く開いていた。

入線直後、排気ファンの低い唸り。オレンジのナトリウム灯が濡れた路面を金色に塗り、ガソリンと焦げた樹脂の匂いが喉につく。
「歩ける人は、このテープの向こうへ!」
湊は反射ベストの胸ポケットからトリアージタグを引き出し、声を張る。うずくまっていた若者が何人か立ち上がり、咳き込みながら出口方向へと歩く。緑。
「応答なし、呼吸は?」
ワゴン車の助手席、若い女性。顔面蒼白、浅い呼吸。湊は気道を確保しながら胸壁を見た。左右差、あり。
(片側呼吸音減弱。緊張性……? ここで針は打てない。換気優先、早搬送だ)
バッグバルブマスクでリズムを刻み、酸素を全開。相棒が頷き、ストレッチャーを寄せる。

三台前方、セダンが中央分離帯に斜めに刺さっていた。運転席のドアは変形。中の女性はうずくまり、右脚は短縮・外旋。骨盤部の皮下出血が広がっている。
「意識あり? 聞こえますか」
「……痛い、腰が……」
骨盤不安定。出血ショックが匂う。湊は無線を触った。
「外科当直、斎藤先生。赤タグ一名、骨盤不安定。FASTは現場で不可、バイタルは収縮圧九十台に落ちてます。バインダー適応」
無線の向こうで、澄んだ声が即答する。
『市販のバインダーがあるなら臍下で締結。なければシーツで代用。両膝は内転位。意識下なら疼痛管理は不可——換気と保温を優先、ロード・アンド・ゴー』
「了解。ロード・アンド・ゴー」

湊は救急車からバインダーを取り出し、濡れた路面に片膝をついた。女性の膝を揃え、踵を合わせ、骨盤の左右から包み込むように通して、力をかける。女性が短く叫び、それでも脈拍はわずかに規則を取り戻す。
「大丈夫、今締めてる。血が中で暴れないようにする包帯みたいなものです」
「……息が、少し……楽」
「いいね、その調子」

前方で火の手が一瞬、ボンネットの隙間から舌のようにのぞく。救助隊長の葛城が泡消火器を抱えて走り、部下がバッテリーを切断する。ヘルメットのつばに火の色が揺れた。
「湊、左の軽はペダルに足が噛まれてる。広げるまで十五分はかかる!」
「その間に赤二名搬出する。トンネル出口側でターニケットの再評価、酸素は継続!」

換気音が大きく、世界がそれで測られる。湊はBVMで押す手の圧を一定に保ち、女性の顔の汗を袖で拭った。鼻腔に差し込んだ酸素管が微かに震える。
「名前、言えますか」
「……中原、詩織……」
「詩織さん、ここから外に出たら、空気がもっと美味しくなる。あと少し」

無線が鳴る。
『外来、斎藤。第一受け、骨盤不安定用に止血・輸血ライン準備。CTスキップでハイブリッド室直行。——早瀬さん、例の“必要最小限”、今回は上手』
湊はBVMを握ったまま、目だけで笑う。
「じゃあ、病院で褒めてください」
『褒めるのは術後に』
その声が、カチンと閉まる扉の音のように心地よく響いた。

*

病院。救急車のハッチが開くと同時に、眩しい白が押し寄せる。
「外科、斎藤!」
緋色がストレッチャー脇に並走し、湊の報告を途中で拾って走る。
「骨盤バインダー良好。体温は?」
「三五・四。低い」
「保温ブランケット追加して。ハイブリッドへ。——ありがとう、締めは完璧」

扉が閉まり、湊の手から患者が離れる。空っぽになった指先に、まだバインダーの布の手触りが残った。
続いて搬入された青年は片側呼吸音が薄く、頸静脈が張っている。緋色は目で判断し、迷いなく命じた。
「すぐ胸腔ドレーン。——あなたたちはそのまま戻って、残りを拾ってきて。トンネルは長い」

「了解」

*

再びトンネル。排気ファンの風が霧と焦げの匂いを攪拌していた。軽自動車の運転手はペダルに足が噛まれ、額から血を流してぐったりしている。救助器具のスプレッダが金属を押し広げるたび、車体が軋む。
「もう一回、カウントでいくぞ。——三、二、一、開く!」
葛城の声。わずかに空間ができた瞬間、湊は頸椎を保持し、相棒が下肢を抜く。運転手の胸が一度、深く沈む。
「気道、顎先げ。——吸って、吐いて。いい、戻る」
SpO₂が88から92へ。波形が揺れ、また戻る。湊は胸の上に手を置き、呼吸のリズムと自分の心拍を合わせた。

外へ出ると、空気が広かった。長いトンネルの出口の向こう、夜の山が濡れている。救急車のドアが閉まり、サイレンがすべてを巻き取っていく。
湊は最後に振り返った。オレンジの灯りの帯の向こうに、まだ赤い点滅が点々と残っている。長い喉の奥で、心臓が打っているみたいだった。

*

搬送の波がひと区切りついたのは、深夜二時を回った頃。病院の裏口から外へ出ると、温泉街の湯気が夜気に紛れ、足湯の東屋にぼんやり灯りがともっていた。
湊はベンチの端に腰を下ろし、靴と靴下を脱いで湯に足を沈めた。皮膚の表面がじわりと緩む。ポケットから、折り畳み傘を二本——いつもの癖で、確かめるみたいに握る。

「本当に二本持ち歩くの、変わってます」
声に振り向くと、緋色がいた。スクラブの上に薄いカーディガン、髪はさっきより低い位置で結び直されている。足湯の縁に腰かけ、彼女も靴を脱いだ。
「約束したんです。昔、とても大事な人と。『どちらかが忘れても、片方が二本持っていれば、雨のとき困らない』」
「ロジックとしては甘い」
「恋はだいたい、そうです」
緋色は笑って、湯面で足指を揺らした。湯気が彼女の頬の赤をやわらかく隠す。

「今日のバインダー、助かった。あれで十分は稼げた」
「十分って、長いです」
「外科にとっては永遠」
彼女の横顔に、手術室の冷たい光の記憶が一瞬宿る。
「父のときは、誰も稼げなかった。——だから、稼ぎたい」
湊は頷いた。言葉は少なくていい。湯の温度が、代わりに会話を伸ばしてくれる。

遠くでタクシーが一台、橋を渡る音を立てた。東屋の屋根をたたく霧雨が、傘の骨の音に似ている。
湊は二本のうち一本を、緋色の膝の上に置いた。
「明け方、また降るかもしれない」
「必要最小限の優しさね」
「それなら怒られないかと思って」
「怒りません」
彼女は傘を受け取り、柄の先を軽く床にトン、とついた。まるで形のない何かに印をつけるみたいに。

湯気の向こうで、山が朝の色になる準備をしている。長いトンネルの心拍は、少しずつ落ち着いていく。
二人の沈黙は、静かで、暖かかった。
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