必要最小限の優しさ -二本の傘と一つの判断

yukataka

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第三章 見えない火

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翌朝、温泉街は、雨にうたれて音だけがやさしかった。
コインランドリーの小窓に、ぐるぐる回る反射ベスト。湊はベンチに腰かけ、紙コップの味の薄いコーヒーをすすった。夜勤明けの身体は、えんぴつみたいに細く、芯の先だけが熱い。

「あなた、洗濯も最短ルートなんですね」
背後から緋色。白衣の上に透明なレインコート、髪は雨粒で重たげに光っていた。

「コインランドリーは救急に似てます。待つしかない時間が、いちばん長い」

「術場は、待ってるふりをしながら段取りを山ほど動かす」

言葉を重ねかけたとき、二人のポケットで同時に端末が震えた。
【温泉旅館あけぼの 複数名意識障害の通報 ガスの可能性】
湊は立ち上がり、緋色も反射的に踵を返した。コインランドリーのドラムが、彼らの背に合わせて速く回った気がした。

*

旅館の裏手は、湯気と雨と霧が混ざり合い、境目が消えていた。玄関からは薄い甘い匂い。
「一酸化炭素か——」
葛城が持った検知器がピピ、と短く鳴る。
「室内CO高濃度。換気、窓全開! 不要不急の進入なし!」

湊は頷き、まずは外に出ている二人へ。若い母親がふらつき、七歳くらいの女の子が涙で頬を濡らしている。顔色は妙にきれいで、逆に不安になる。
「大丈夫、ここで深呼吸。酸素つけます」
NRB(リザーバー付きマスク)を母に、簡易マスクを少女に。ゴムの匂いが雨の匂いにまざって、現実味を戻す。

「中に祖母が……寝てて……起きなくて……」
母親の声は紙のように薄い。湊は無線に親指を当てた。
「赤タグ疑い一名、屋内。CO検知。救助と医師同伴で進入します」

「行く」
緋色が短く言い、ゴーグルを額に上げた。白衣のうえから消防の黄色い防煙フードを被り、フードの下で目が強くなる。
「必要最小限。——でも必要は、全部やる」

「了解」

室内は静かだった。露天に面した窓が半端に閉じていて、炭火の囲炉裏の灰が赤いまま息を潜めている。甘い金属味が舌に触れる。
布団の上、老女。皮膚は桜色めいて、けれど反応が乏しい。
「呼吸は……浅い。脈細い」
緋色が瞳孔を見て、直ちに言う。
「100%酸素、確保。気道は開通。——搬出」

湊はブランケットで老女を包み、頸をニュートラルに保ちながら担架へ。窓はすべて全開、扇風機は玄関に向けて外気を吸い込む方向。葛城が炭の火を水で完全に落とす。

外に出たとたん、老女の胸が一度止まりかけた。
「呼吸、消えた。BVM!」
湊はマスクを密着させ、下顎を持ち上げて換気を押し込む。緋色が脈をとりながら、迷いなく指示する。
「意識なし、呼吸弱い。——挿管、いける」
彼女は器具を受け取り、雨に濡れた睫毛の先で一瞬だけ世界を止めた。
「視野、良好。コードが見える……通過」
チューブが声門を越える感触。湊がカフを膨らませ、バッグで送気。胸の上が均等に持ち上がる。
「音、両側あり。エンドタイダル、上がる」
緋色の頬に少しだけ血色が戻る。
「いい子だ。肺、動いてる」

母親がしゃくり上げながら近づくのを、相棒が優しく制した。
「おばあちゃん、すぐ病院に行きます。娘さんとお孫さんも酸素続けますね」

湊は無線で病院に飛ばす。
「CO中毒、三名。老女は挿管管理、他二名は意識あり。高圧酸素の適応検討を」
『天候悪化でヘリ不可能。高圧室は湾岸のセンター——トンネルの向こう。道路状況は?』
葛城が眉をしかめる。
「さっきの土砂で、長峰トンネルは片側交互の規制中。救急は先行許可を取る。——時間との勝負だな」

緋色が湊を見た。その目には、術場での決断の硬さがある。
「COは見えない炎。早く冷ますほど後遺症が減る。ロード・アンド・ゴー」
「了解」

*

救急車内。雨の音が屋根に連続して、鼓動を増幅する。
湊は換気を一定に保ち、緋色が老女の瞳孔、四肢の動き、血圧をリズムで追う。モニターの波が緩く踊る。
「娘さんとお孫さんは後続。あなたはこの人に集中して」
緋色はそう言って、肩で小さく息をした。
「父は、暖房器具だった。冬。匂いはなかった」
湊は視線だけで応えた。聞くべきときだけ聞くのが、現場の礼儀だ。

パトカーが先導し、トンネルの灯りの帯に入る。片側交互の赤い合図が、救急車の前でしおれるように退く。
「通す!」
警備員の声が反響し、天井ファンの重低音が車体を震わせる。
途中で老女の脈が一瞬沈んだ。
「血圧ドロップ。輸液上げる。——エピ、微量から」
緋色の声は凪いだ湖面みたいに平らで、しかし指先は速い。湊は送気の圧を少し落とし、胸郭の戻りを待つ。
SpO₂が90、92、95。波形が均される。
「戻る。——よし、まだ戦える」

トンネルを抜けた瞬間、雨脚が強くなった。山の肩から大粒の雨が滑り落ち、ワイパーが忙しく走る。
緋色が窓の外を見て、硬さの中にわずかな笑みを混ぜた。
「朝焼けの手前の色。あなたの好きな時間」
「今日は、好きになれない色だ」
「じゃあ変えよう。救えるときの色に」

センター到着。ハッチが開くと、高圧酸素室のスタッフが待ち構えていた。
「COHbの即値、のちほど。意識障害と挿管で適応あり、直行します」
引き渡しは、湊の手から静かに離れていった。布の手触りが、今度は確信に変わる。

*

小雨に戻った湾岸の駐車場で、湊と緋色は屋根の下に立った。街路樹の葉が濡れて深い緑。海風が、温泉の湯気の代わりに塩の匂いを運んだ。

「さっきの挿管、きれいでした」
「ありがとう。あなたの換気が一定だったから」
緋色は白衣の袖口を見た。インクの点はまだある。
「COは、見えないのに、後から全部見えてしまう。動かなくなった手とか、言葉の端が欠けるとか」
「だから、約束は見えるようにしておく」
湊はリュックから傘を取り出した。二本。
「返すよ。昨日の、借りっぱなしだと気になる」
「じゃあ一本は、今度あなたが忘れるために持ってて」
「理屈としては甘い」
「恋はだいたい、そう」

緋色は微笑んだ。けれど目は、まだ遠くを警戒している。
「私、きっとまたあなたに嫌な言い方をする。無謀だとか、最小限だとか」
「構いません。俺は多分、また先に動きたくなる」
「そのとき、私が屋根になる」
「俺は風下を探す」
二人の会話が、雨粒の間をすり抜けていった。

端末が再び震える。温泉郷に戻れ、の指示。
緋色は傘を開き、湊に目を細めた。
「長いトンネル、もう一往復」
「今度は、向こうから朝が来る」

二人は並んで、雨の中へ歩き出した。傘の骨が小さく鳴り、見えない火の記憶を、すこしずつ遠ざけていく。
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