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第四章 傘の角度
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夕暮れの温泉街は、雨で色の濃度を上げていた。軒から落ちるしずくが風鈴みたいに音を刻み、提灯の橙が路面で揺れる。
湊はオフのパーカーにジーンズ。カメラアプリを立ち上げ、濡れた石畳の光を切り取った。
「勤務外のあなたは、静かですね」
振り向くと緋色。濃紺のワンピースに薄いグレーのカーディガン、白衣のかわりに細い黒の折りたたみ傘をさしている。髪は耳の後ろで留め、耳たぶに小さな金の点。
「勤務中は、静かにしてるつもりなんですが」
「サイレンがしゃべるからね」
緋色はわずかに笑い、湊の手元の画面を覗き込む。
「濡れた石は、きれい。——でも滑る」
「転倒予防の啓発ですか」
「職業病」
二人は細い路地を並んで歩く。湯気の白が傘の下に入り込み、体温みたいに温い。店先から湯気を上げる温泉まんじゅうの蒸籠、雨に艶を出した杉玉。
「この町に来た理由、もう少し聞いても?」
緋色が横目でたずねる。
「転勤。あと、朝焼けがよく撮れそうだったから」
「それ、半分でしょ」
「……半分以上です」
湊は笑い、胸の深いところで少しだけ固くなる。
「家族とは、ちょっと距離を置いてます。兄と母。宿題の山を積んだまま、引っ越してきた感じ」
緋色は頷いた。雨の音が会話の隙を埋める。
「前に言った“父”の話、補足させて。——トンネルの解離は父。昨日のCOは、研修医のときの子ども。二つの傷が、並列で残ってる」
「並列処理は、人間には難しい」
「だから歩く。順番に」
ちょうどそのとき、斜め前の共同浴場の「ゆ」の暖簾の下で、老人が腰を落とした。雨に濡れたスリッパが滑ったらしい。隣の男が慌てて肩を抱える。
「すみません! この人、急に……」
湊は反射的にしゃがみ込み、緋色は傘を男に持たせて手を空けた。
「お名前わかります?」
「……う、上田……目が、くるくるする」
顔色は妙につややか。汗はない。湯上がりの皮膚。脈は速いが弱い。
「湯上がりの失神か、低ナトリウムか。——横にしましょう」
湊は声を落として周囲に指示する。
「頭は低く、脚は少し上げます。きつい帯を緩めて。——上田さん、ゆっくり吸って、長く吐いて」
緋色は頸動脈に指を置き、瞳孔と舌の色を見た。
「発汗なし、顔面蒼白。冷えは軽い。意識は保たれてる。低血圧気味ね」
湊が相棒へ電話で搬送要請を飛ばし、ビニールのレインコートを広げて保温代わりにかける。
「さっき、湯でのぼせて水をがぶ飲みしたって?」
付き添いの男が頷く。
「塩分なしの水を一気に、ね。——無理に歩かせず、このまま。救急車来たら採血と補液、心電図」
上田の呼吸が落ち着くにつれ、雨音がふたたび大きくなる。
「すまんのう、迷惑を……」
「迷惑は、だいたい互助会です」
湊がそう言って笑うと、緋色も口の端だけで笑った。
「必要最小限、今日も合格」
「満点は出ないんですね」
「出したら次にサボるでしょ」
サイレンが近づき、角を曲がって救急車が白い水しぶきを上げる。引き継ぎは短く、正確に。ストレッチャーに乗るとき、上田は湊の手を握った。
「若いのに、落ち着いとる」
「さっきまでコインランドリーで鍛えてました」
搬送が去り、路地に雨の匂いが戻る。湊と緋色は、空いた傘の骨を軽く鳴らした。
「ラーメン、どうします?」
「塩分、必要そうね」
「医師の指示、ありがたく」
暖簾をくぐると、白い湯気が一気に顔を撫でた。カウンターの木目が濡れた傘の滴を受け止め、湯呑の緑茶が湯気の層を重ねる。
「あなたの“二本目”、今日は役に立った」
緋色が足元の傘を見た。
「いつか、その約束の話を聞く?」
「——線で引ける話じゃない。点が散らばってる。兄貴と、元相棒と、すれ違った時間と」
「じゃあ、点を一緒に数えればいい」
緋色は袖口を見る。あの小さなインクの点は、まだ落ちない。
「点は、消えにくいから」
ラーメンが届いた。湊はレンゲを持ち、スープの表面の小さな油の輪を数えた。
外では雨が少し弱まる。店の窓に、朝焼けの一歩手前の灰色がすこしだけ薄く塗られた。
食べ終わる頃、緋色が言った。
「今度は、本当に湯気の中で。反射ベストなしで会いましょう」
「約束は、見える場所に」
湊はテーブルの端に、二本の傘の先を軽く並べて置いた。角度は、同じだった。
湊はオフのパーカーにジーンズ。カメラアプリを立ち上げ、濡れた石畳の光を切り取った。
「勤務外のあなたは、静かですね」
振り向くと緋色。濃紺のワンピースに薄いグレーのカーディガン、白衣のかわりに細い黒の折りたたみ傘をさしている。髪は耳の後ろで留め、耳たぶに小さな金の点。
「勤務中は、静かにしてるつもりなんですが」
「サイレンがしゃべるからね」
緋色はわずかに笑い、湊の手元の画面を覗き込む。
「濡れた石は、きれい。——でも滑る」
「転倒予防の啓発ですか」
「職業病」
二人は細い路地を並んで歩く。湯気の白が傘の下に入り込み、体温みたいに温い。店先から湯気を上げる温泉まんじゅうの蒸籠、雨に艶を出した杉玉。
「この町に来た理由、もう少し聞いても?」
緋色が横目でたずねる。
「転勤。あと、朝焼けがよく撮れそうだったから」
「それ、半分でしょ」
「……半分以上です」
湊は笑い、胸の深いところで少しだけ固くなる。
「家族とは、ちょっと距離を置いてます。兄と母。宿題の山を積んだまま、引っ越してきた感じ」
緋色は頷いた。雨の音が会話の隙を埋める。
「前に言った“父”の話、補足させて。——トンネルの解離は父。昨日のCOは、研修医のときの子ども。二つの傷が、並列で残ってる」
「並列処理は、人間には難しい」
「だから歩く。順番に」
ちょうどそのとき、斜め前の共同浴場の「ゆ」の暖簾の下で、老人が腰を落とした。雨に濡れたスリッパが滑ったらしい。隣の男が慌てて肩を抱える。
「すみません! この人、急に……」
湊は反射的にしゃがみ込み、緋色は傘を男に持たせて手を空けた。
「お名前わかります?」
「……う、上田……目が、くるくるする」
顔色は妙につややか。汗はない。湯上がりの皮膚。脈は速いが弱い。
「湯上がりの失神か、低ナトリウムか。——横にしましょう」
湊は声を落として周囲に指示する。
「頭は低く、脚は少し上げます。きつい帯を緩めて。——上田さん、ゆっくり吸って、長く吐いて」
緋色は頸動脈に指を置き、瞳孔と舌の色を見た。
「発汗なし、顔面蒼白。冷えは軽い。意識は保たれてる。低血圧気味ね」
湊が相棒へ電話で搬送要請を飛ばし、ビニールのレインコートを広げて保温代わりにかける。
「さっき、湯でのぼせて水をがぶ飲みしたって?」
付き添いの男が頷く。
「塩分なしの水を一気に、ね。——無理に歩かせず、このまま。救急車来たら採血と補液、心電図」
上田の呼吸が落ち着くにつれ、雨音がふたたび大きくなる。
「すまんのう、迷惑を……」
「迷惑は、だいたい互助会です」
湊がそう言って笑うと、緋色も口の端だけで笑った。
「必要最小限、今日も合格」
「満点は出ないんですね」
「出したら次にサボるでしょ」
サイレンが近づき、角を曲がって救急車が白い水しぶきを上げる。引き継ぎは短く、正確に。ストレッチャーに乗るとき、上田は湊の手を握った。
「若いのに、落ち着いとる」
「さっきまでコインランドリーで鍛えてました」
搬送が去り、路地に雨の匂いが戻る。湊と緋色は、空いた傘の骨を軽く鳴らした。
「ラーメン、どうします?」
「塩分、必要そうね」
「医師の指示、ありがたく」
暖簾をくぐると、白い湯気が一気に顔を撫でた。カウンターの木目が濡れた傘の滴を受け止め、湯呑の緑茶が湯気の層を重ねる。
「あなたの“二本目”、今日は役に立った」
緋色が足元の傘を見た。
「いつか、その約束の話を聞く?」
「——線で引ける話じゃない。点が散らばってる。兄貴と、元相棒と、すれ違った時間と」
「じゃあ、点を一緒に数えればいい」
緋色は袖口を見る。あの小さなインクの点は、まだ落ちない。
「点は、消えにくいから」
ラーメンが届いた。湊はレンゲを持ち、スープの表面の小さな油の輪を数えた。
外では雨が少し弱まる。店の窓に、朝焼けの一歩手前の灰色がすこしだけ薄く塗られた。
食べ終わる頃、緋色が言った。
「今度は、本当に湯気の中で。反射ベストなしで会いましょう」
「約束は、見える場所に」
湊はテーブルの端に、二本の傘の先を軽く並べて置いた。角度は、同じだった。
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