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第2章
第27話「地上」
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第六層に足を踏み入れた瞬間、アルティアが立ち止まった。
光苔の発光だ。通路の壁から天井まで、青みがかった光が満ちている。第七層の薄い発光とは密度が違う。色が違う。恒一はこの光の中を何度も歩いてきた。しかし今日は、隣にアルティアがいる。
アルティアは動かなかった。
壁を見ていた。天井を見ていた。床を見ていた。どこを見ているというより、全体を、一度に受け取ろうとしているような立ち方だった。
「……これがあったのか」
声ではなかった。息が、そのまま言葉になったような言い方だった。
「知識としては知っていましたか」
「知っていた」アルティアが言った「しかし、こういうものだったか」
恒一は、急かさなかった。アルティアが光を見る時間を、ただそこで待った。
何百年も、この部屋の外を見ていなかった。知識として知っていることと、体で感じることは違う、とアルティア自身が言っていた。その言葉の意味が、今この通路の中にある。
「眩しくありませんか」
「……眩しい。しかし、悪くない」
アルティアが、また少し歩いた。壁の光苔を、手の甲でそっと触れた。触れてから、手を引いた。
「冷たい」
「はい。光苔は、触ると冷たいです」
「……知らなかった。知識になかった」
その一言が、恒一には少し意外だった。アルティアが知らないことがある。何百年も情報を集め続けてきた者にも、触れてみなければ分からないことがある。
二人が、第六層を歩いた。
第五層の入り口で、空気が変わった。
灰色がかった靄が、通路の先に溜まっている。瘴気だ。光が遮られて、向こう側が見えにくくなっている。
「通れますか」と恒一が聞いた。
「この世界の法則で作られた瘴気は、私には作用しない」アルティアが言った「お前こそ、道具なしで通れるか」
「転移者はこの世界の法則が完全には作用しない体をしています。瘴気も同様のはずです。ただし、試したことはありません」
「理屈か」
「はい。証明はこれからです」
「……行くか」
靄の中に入った。
視界が狭くなった。息が少し重くなった。しかし歩けた。壁も床も見える。一歩ずつ、踏み出せた。空気清浄機があった時とは違う。あの時は何も感じなかった。今は、少し意識して呼吸する。それだけの違いだった。
抜けた。
「顔色が悪い」アルティアが言った。
「少し重かったです。しかし通れました。理屈は正しかったようです」
「そうか」
追及しなかった。道具があった方が楽だったという事実も、今は道具がないという現実も、どちらも責めなかった。ただそうかと言った。
第四層に入ると、温度が落ちた。
一歩ごとに、空気の冷たさが増す。床の一部が氷で覆われている。恒一はこの冷たさに慣れていた。あるいは、慣れたと思っていた。
アルティアが、氷の上に足を踏み出した。
止まった。
右足を、もう一度踏んだ。確かめるように、ゆっくりと体重をかけた。それから左足を乗せた。両足が、氷の上にある。
「冷たい」
アルティアが言った。
それだけだった。しかしその「冷たい」という言葉の中に、恒一には聞こえないものがあった気がした。何百年も同じ温度の部屋にいて、冷たいという感覚を感じなかった者が、今冷たいと言っている。その言葉の厚みが、普通の「冷たい」とは違う。
「久しぶりに、冷たいと感じましたか」
「そうだ」アルティアがもう一度、氷を踏んだ「覚えていた感覚と、少し違う。もっと痛いものだったか、あるいは今の私が鈍くなっているのか、どちらか分からない」
「感覚が戻ってくるかもしれません。これから」
「……そうかもしれない」
二人が、第四層を歩いた。アルティアは床の氷を、時々確かめるように踏みながら歩いた。
第三層の霧は、前より濃く感じた。
道具なしで来るのが初めてだからかもしれない。あるいは実際に濃くなっているのかもしれない。判断できなかった。
「以前はここで苦労しました」
「何を使った」
「空気清浄機です。霧の中の有害成分を除去して、清浄な空気を作る道具です」
「……道具か」アルティアが霧の奥を見た「今は、それなしで通るのか」
「はい。転移者は影響を受けにくい。理屈は第五層と同じです。ただし、第五層より濃い。念のため、呼吸は浅くしながら通ります」
霧に入った。
第五層とは比べ物にならない重さが来た。肺に入ってくる空気が違う。透明ではない空気を吸い込んでいる感覚がある。目が少し、滲んだ。
それでも歩けた。
出た瞬間、深く息を吸った。思ったより深く吸っていた。体が判断していた。
「顔色が悪い」
また、アルティアが言った。第四層でも同じことを言われた。
「……少し、苦しかったです」
「無理をするな」
「無理ではありませんでした。ただし、楽ではありませんでした」
「……正直だな」
「事実を言っただけです」
アルティアが「そうだな」と言って、また歩き始めた。
第二層で、光が消えた。
完全な暗闇だ。足元が見えない。手元が見えない。目を開けているのか閉じているのか、しばらく分からなくなるほどの暗さだ。
「暗い」
「はい。この層は明かりがありません。以前はLEDライトを使いました」
「今は」
「壁を伝います。道は、一度通っているので分かります」
恒一が先に入った。左手を壁につけた。冷たく、ざらついた石の感触がある。この感触を頼りに歩く。
「ここは私が道を知っています。後ろについてきてください」
「……分かった」
暗闇の中を、二人が歩いた。
音だけがある。恒一の足音と、アルティアの足音。二人のリズムが少し違う。しかし途切れない。アルティアの足音が聞こえている間、ついてきていると分かる。暗闇の中では、音が全てだ。
壁が曲がった。感触で分かった。
「右に曲がります」
「分かった」
また歩いた。先に、薄く光が漏れてきた。第一層の光だ。出口が近い。
第一層の空気が来た。
湿気だ。一歩踏み出すごとに、水分を含んだ空気が体にまとわりつく。この層の湿気には何度も慣れたつもりでいたが、第三層を通ってきた後では、むしろ清涼に感じた。
「湿い」アルティアが言った。
「はい。この層は特にそうです」
「……知っていたが、実際に感じると違う」
今日何度目かの言葉だった。第六層で、第四層で、今また。知っていたが、実際に感じると違う。アルティアはその言葉を繰り返している。繰り返すたびに、体が少しずつ、外の世界を取り戻していく。
階段が見えた。
石でできた、幅の広い階段だ。上から光が降りてきている。人工の光ではない。外の光だ。青でも橙でもない、白に近い光が、石段を照らしている。
アルティアが、階段を見た。
動かなかった。
光苔を初めて見た時のように、暗闇から抜けた時のように、立ち止まった。しかし今度の立ち止まり方は、少し違った。何かを受け取ろうとしているのではなく、何かを確かめている。
恒一は、隣で待った。
「……何百年ぶりか」
「数えていないと言っていましたね」
「そうだ」アルティアが言った「しかし、長かった。それだけは分かる。長かったということだけは、数えなくても分かる」
恒一は、その言葉を聞いた。
何百年分の記憶を経験した今、その「長かった」という言葉の中に何が入っているか、少しだけ分かった。少しだけ、だ。実際に生きてきたアルティアの長さとは、比べようがない。
「……行くか」
「はい」
二人が、階段を上り始めた。一段ずつ、光が強くなっていく。
上り切った瞬間、世界が変わった。
光の質が、全く異なる。第七層の壁の発光でも、光苔の青い光でも、どこかから漏れてくる光でもない。どこにでもある光だ。空から来て、地面に当たって、空気の中に満ちている。目の前に建物も壁もなく、視界が果てなく広がっている。
アルティアが、その場で止まった。
目を細めた。眩しさに対する、体の自然な反応だ。しかし、目を閉じなかった。眩しくても、そこにある光を受け取ろうとしていた。
風が来た。
地面から来るのではなく、横から来た。遺跡の中では感じなかった風だ。髪を動かして、通り過ぎていった。
アルティアが、風の方を向いた。どこから来たかを確かめるように、少し顔を上げた。
恒一も、隣で立ち止まった。急く理由は、ない。
「……空か」
アルティアが言った。上を向いたまま言った。
「はい」
「……覚えていたより、広い」
「そうですか」
「人間は、毎日これを見ているのか」
「はい」
「……そうか」
アルティアは、しばらく空を見続けた。雲が動いている。形を変えながら、ゆっくりと流れていく。恒一は毎日空を見てきたが、雲がこれほど動いていることを今日ほど意識したことはなかった。アルティアの隣で見ると、動いて見える。
「恒一」
声が来た。
振り向いた。遺跡の入口から少し離れた場所に、天幕を張った四人がいた。カインが立ち上がっていた。こちらに気づいて、早足で来た。
マルコが立ち上がった。リーナが、手を口に当てて動かなくなった。ゴルドが、恒一の方を静かに見た。
カインが、恒一の前で止まった。
少し間があった。カインが恒一の顔を見た。恒一もカインを見た。
「無事か」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
「魔法は」
恒一が「……まだです」
カインが「そうか」と言った。一度、目を伏せた。伏せたまま、また「そうか」と言った。同じ言葉を二度言った。一度目と二度目では、声の質が少し違った。
マルコが来た。走るほどではないが、早く来た。
「よかった」
来ながら言った。
「本当によかった」
恒一の肩を、両手で掴んだ。強く掴んだ。何か言おうとした。言葉が出てこなかった。また「よかった」と言った。言えたのはそれだけだった。
それで十分だった。
リーナが「……帰ってきたんですね」と言った。声の震えを抑えようとしていたが、隠しきれていなかった。それを隠そうともせず、ただ言った。
ゴルドが来た。無言だった。恒一の顔を、少しの間、見た。それだけで、何も言わなかった。しかしその目が、全部受け取っていた。
恒一は、四人の顔を見た。
言葉が、出てくるまで少し間があった。
「……ただいまです」
この世界に来て、一度も言ったことがない言葉だった。言うつもりもなかった。しかし出てきた。出てきてから気づいた。
マルコが「おかえり」と言った。声が掠れていた。
カインが「おかえり」と言った。短く、しかしはっきりと。
リーナが「おかえりなさい」と言った。
ゴルドが、頷いた。
少しの間が、その場にあった。
風が通り過ぎた。草の匂いがした。
四人の視線が、恒一の後ろに動いた。
アルティアがいる。地上に出てから、少し離れた場所に立っていた。四人との再会の場に、踏み込まなかった。自分で、踏み込まないことを選んでいた。
「……誰だ」
カインが言った。
「紹介します。アルティアさんです」
「あの部屋にいた人か」
「はい」
「解放できたのか」
「はい」
カインがアルティアの方へ歩いた。アルティアも、来るカインを見ていた。どちらも、すぐには何も言わなかった。
「カインです」
カインが言った。
「恒一の仲間だ」
アルティアが「……知っている。何度も名前を聞いた」
カインが恒一を見た。
「各層で、仲間の話を何度もしていました」と恒一が言った。
カインが「そうか」と言って、また少しアルティアを見た。値踏みではない。この人物が何者で、恒一にとって何であるかを、静かに測っている目だった。その目のまま、カインは何も言わなかった。それがカインの、受け入れ方だった。
マルコが前に出た。
「俺はマルコです。えっと……」
少し間があった。
「大丈夫でしたか」
アルティアが「大丈夫とは、どういう意味か」
「いや、その、何百年も一人でいたって、恒一から聞いたから……大変だったんじゃないかと思って」
「そうだ。一人でいた」
「……大変でしたね」
マルコの言い方に、特別な重みはなかった。難しい言葉も、丁寧な配慮も込めていなかった。ただ、大変でしたね、と言った。普通の人間に言うように。
アルティアが、マルコを見た。
間があった。
「……そうだな」
アルティアが言った。
「大変だった」
マルコが「そっか」と言って、頷いた。それだけだった。それ以上引かなかった。引かないことで、受け取った。
リーナが前に出た。
「アルティアさん、お腹は空いていませんか。何か食べますか」
「食べなくても死なない。私の体は——」
「そうなんですね」
リーナがあっさりと言った。
「でも、食べたいかどうかは別じゃないかと思って」
アルティアが、リーナを見た。
責めていない。試していない。ただ聞いていた。食べたいかどうかを、本人に聞いていた。
「……そうだな」アルティアが言った「食べたい気は、する」
「では、用意します」
リーナが荷物の方へ戻りながら「何か嫌いなものはありますか」と聞いた。
アルティアが「……何百年も食べていないので、分からない」
「じゃあ、少しずつ試しましょう」とリーナが言った。当然のことのように言った。
ゴルドが、最後に前に出た。
無言でアルティアの前に来た。上から下まで、ゆっくりと見た。確認するように、全体を見た。
「恒一を助けてくれたか」
「……どちらが助けたか、判断が難しい」
「そうか」
「お前たちも、助けたのか」
「何もできなかった。地上で待っていただけだ」
「……待つことは、何もしないこととは違う」
ゴルドが、少し目を細めた。
「ならば、お互い様ということだ」
「……お前は、面白い人間だな」
「よく言われる」とゴルドが言った。それから「恒一もよく生きていた」と付け加えた。アルティアに言ったのか、独り言なのか、判断できない言い方だった。
アルティアが「……そうだな。よく生きていた」
今度は、はっきりとゴルドに向けて言った。
恒一は、少し離れた場所でその会話を聞いていた。
カインが恒一を手招きした。
四人から少し離れた、岩が積み重なった場所だ。アルティアはリーナから食料を受け取っていた。マルコが隣にいた。
「話せないことが、まだあるのか」
「はい」
「どのくらいある」
「……かなり、あります」
カインが頷いた。追及しなかった。
「ガルダムの動きについて、こちらで分かったことを話す。ここ数日で、状況が変わった」
「聞かせてください」
「ガルダムは、お前たちが遺跡にいる間、ギルドに姿を見せなかった。他のギルドメンバーも、居場所を把握していない。封鎖しに来なかったのは、別の何かを優先していたからだと考えている」
「……鎖が外れた瞬間に、ガルダムは感知した可能性があります。その後、次の手を打ちに動いたかもしれません」
「アルティアさんから聞いたか」
「はい」
「どこまで話せる」
「その点については話せます。ただし、なぜガルダムが感知できるのか、その理由については話せません」
カインが「分かった。理由は聞かない」と言った。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。必要な判断だからそうしている」
カインが少し間を置いた。それから、少し低い声で言った。
「一つだけ聞く」
「何ですか」
「お前は、ちゃんと眠れたか」
恒一が「……壁にもたれたまま眠っていました」
「それは眠れたとは言わない」
「……そうですね」
「今夜は地面に寝ろ。それだけだ」
カインが立ち上がった。以上だ、という立ち上がり方だった。ねぎらいの言葉も、詳しい確認もなかった。眠れ、それだけだった。しかしその一言の中に、この数日でカインが何を考えていたかが、少し見えた気がした。
マルコがアルティアに食料の使い方を説明していた。
「こっちを先に食べると、これが食べやすくなるんですよ。順番があるんです」
「そういう食べ方をするのか」
「俺だけかも」
アルティアが、マルコの言う順番で食べた。
「……違いが分からない」
「でしょうね」とマルコが言って、笑った「俺の好みの問題です」
「そうか。奇妙な男だな」
「よく言われます」
その会話を、恒一は少し離れた場所から見ていた。マルコは、アルティアが何百年も生きてきた存在であることを知っている。しかし今、食料の食べる順番について話していた。それが、マルコのやり方だった。大事なことから始めない。小さなことから始める。その積み重ねで、人と人の間に何かが生まれる、ということをマルコは知っているのかもしれなかった。あるいは、知らずにやっているのかもしれなかった。
ゴルドが、岩に座っていた。
恒一がその隣に来た。
「ゴルドさん」
「なんだ」
「石を、ありがとうございました。ずっと確認していました」
「役に立ったか」
「はい。光っていない時は、今は安全だと分かった。それだけで、随分と違いました」
「そうか」
石を返そうとした。ゴルドが手で制した。
「しばらく持っていろ。まだ必要になるかもしれない」
「……はい」
ゴルドが、前を向いたまま言った。
「話せないことが多いようだな」
「はい」
「話せることと、話せないことの境界は、お前が一番よく分かっているだろう」
「……はい」
「なら、それでいい」
少し間があった。
「ただし」
「ただし?」
「重くなりすぎたら、言え」
恒一が「……内容は、話せません」
「内容は聞かない」ゴルドが言った「重いということを、言えばいい。それだけでいい。内容が分からなくても、重さは受け取れる」
恒一は、その言葉を聞いた。
話せないことと、重さは別だ。内容を話さなくても、重いという事実だけは言える。言われた方は、内容は分からなくても、重さを受け取れる。
それは、恒一には思いつかない発想だった。しかし言われてみれば、当然のことだった。
「……重いです。今」
声に出した。
「そうか」ゴルドが言った「受け取った」
ただそれだけだった。
何も解決しなかった。話せないことは、まだある。しかし、ゴルドが受け取ったと言った。その言葉が、言葉以上のものとして届いた。
恒一は、少しの間そこにいた。ゴルドも、動かなかった。二人で、同じ方向を向いていた。
空が、色を変えていた。
青から橙へ。橙から赤へ。雲の端が、燃えるように染まっている。一日の終わりの色だ。
アルティアが、その空を見ていた。
マルコとの会話が一段落して、少し離れた場所に立っていた。ずっと見ていた。動かなかった。
恒一が、隣に来た。
「空を、見ていますか」
「そうだ」
「どうですか」
アルティアが、少し間を置いた。
「……言葉にするのが、難しい」
それだけ言った。
恒一も、空を見た。二人で、同じ方向を見た。
風が来た。夕方の風は、昼間より柔らかい。
「恒一」
「はい」
「仲間というのは、ああいうものか」
アルティアが言った。四人の方は見ずに、空を見たまま言った。
「どういう意味ですか」
「話せないことがあっても、傍にいる。理由が分からなくても、食料を渡す。内容は聞かずに、重さだけ受け取ると言う。ああいうものか」
「……そうだと思います」
アルティアが「そうか」と言った。
しばらく、風の音だけがあった。
「私には、いなかった。ガルダムは違った」
アルティアが言った。空を見たまま言った。
「最初からそういうものではなかった、ということが、今日分かった気がする。あの頃は分からなかった。比べるものがなかった」
「……これからは、います」
アルティアが、恒一を見た。
「お前だけか」
「いいえ」
恒一が、四人の方を見た。カインが地図を広げている。マルコがその隣で何か言っている。リーナが食料の整理をしている。ゴルドが目を閉じている。
「全員です」
アルティアも、四人の方を見た。
しばらく、見た。
風が通り過ぎた。
「……そうか」
「受け取れそうですか」
アルティアが「……分からない。忘れているから」
「それは、これから思い出せばいいと思います」
「同じことを、さっき言ったな」
「はい」
「……しつこい男だ」
「七度目ですね」
アルティアが「何が七度目だ」と言った。
「変わった男だと言ったのが六度、しつこい男だと言ったのが今日で一度。合計七度です」
「……数えるな」
「覚えていたいので」
短い沈黙があった。
「……お前は、本当に変わった男だ」
「七度目ですか、八度目ですか」
「……黙れ」
恒一が黙った。
しかし笑った。声は出さなかった。しかし、笑っていた。
この世界に来て、笑ったことが何度あったか数えていない。数えなくていいと思った。何もかも記録しようとしてきたが、これは記録しなくていい。今ここにあれば、それで十分だ。
「今夜はここで野営する」
カインの声が来た。
「飯にしよう」
「やった」とマルコが言った。
リーナが立ち上がって、準備を始めた。ゴルドが薪を探しに動いた。カインが場所を確認した。
「アルティアさん、行きましょう」
「……そうだな」
二人が、四人の方へ歩いた。
火が起こされた。
夜が来る前の、まだ少し明るい時間の中に、六人がいた。遺跡の入口から少し離れた場所だ。地面に火がある。
恒一は、その光景を見た。
第七層で壁に背を預けて一人でいた夜の後に、これがある。道具のない手の平を見ていた時間の後に、これがある。試練の中で「一人はきつかったです」と声に出した夜の後に、これがある。
六人が、火を囲んでいた。
橙色の空が、少しずつ暗くなっていく。その下に、六人がいる。
光苔の発光だ。通路の壁から天井まで、青みがかった光が満ちている。第七層の薄い発光とは密度が違う。色が違う。恒一はこの光の中を何度も歩いてきた。しかし今日は、隣にアルティアがいる。
アルティアは動かなかった。
壁を見ていた。天井を見ていた。床を見ていた。どこを見ているというより、全体を、一度に受け取ろうとしているような立ち方だった。
「……これがあったのか」
声ではなかった。息が、そのまま言葉になったような言い方だった。
「知識としては知っていましたか」
「知っていた」アルティアが言った「しかし、こういうものだったか」
恒一は、急かさなかった。アルティアが光を見る時間を、ただそこで待った。
何百年も、この部屋の外を見ていなかった。知識として知っていることと、体で感じることは違う、とアルティア自身が言っていた。その言葉の意味が、今この通路の中にある。
「眩しくありませんか」
「……眩しい。しかし、悪くない」
アルティアが、また少し歩いた。壁の光苔を、手の甲でそっと触れた。触れてから、手を引いた。
「冷たい」
「はい。光苔は、触ると冷たいです」
「……知らなかった。知識になかった」
その一言が、恒一には少し意外だった。アルティアが知らないことがある。何百年も情報を集め続けてきた者にも、触れてみなければ分からないことがある。
二人が、第六層を歩いた。
第五層の入り口で、空気が変わった。
灰色がかった靄が、通路の先に溜まっている。瘴気だ。光が遮られて、向こう側が見えにくくなっている。
「通れますか」と恒一が聞いた。
「この世界の法則で作られた瘴気は、私には作用しない」アルティアが言った「お前こそ、道具なしで通れるか」
「転移者はこの世界の法則が完全には作用しない体をしています。瘴気も同様のはずです。ただし、試したことはありません」
「理屈か」
「はい。証明はこれからです」
「……行くか」
靄の中に入った。
視界が狭くなった。息が少し重くなった。しかし歩けた。壁も床も見える。一歩ずつ、踏み出せた。空気清浄機があった時とは違う。あの時は何も感じなかった。今は、少し意識して呼吸する。それだけの違いだった。
抜けた。
「顔色が悪い」アルティアが言った。
「少し重かったです。しかし通れました。理屈は正しかったようです」
「そうか」
追及しなかった。道具があった方が楽だったという事実も、今は道具がないという現実も、どちらも責めなかった。ただそうかと言った。
第四層に入ると、温度が落ちた。
一歩ごとに、空気の冷たさが増す。床の一部が氷で覆われている。恒一はこの冷たさに慣れていた。あるいは、慣れたと思っていた。
アルティアが、氷の上に足を踏み出した。
止まった。
右足を、もう一度踏んだ。確かめるように、ゆっくりと体重をかけた。それから左足を乗せた。両足が、氷の上にある。
「冷たい」
アルティアが言った。
それだけだった。しかしその「冷たい」という言葉の中に、恒一には聞こえないものがあった気がした。何百年も同じ温度の部屋にいて、冷たいという感覚を感じなかった者が、今冷たいと言っている。その言葉の厚みが、普通の「冷たい」とは違う。
「久しぶりに、冷たいと感じましたか」
「そうだ」アルティアがもう一度、氷を踏んだ「覚えていた感覚と、少し違う。もっと痛いものだったか、あるいは今の私が鈍くなっているのか、どちらか分からない」
「感覚が戻ってくるかもしれません。これから」
「……そうかもしれない」
二人が、第四層を歩いた。アルティアは床の氷を、時々確かめるように踏みながら歩いた。
第三層の霧は、前より濃く感じた。
道具なしで来るのが初めてだからかもしれない。あるいは実際に濃くなっているのかもしれない。判断できなかった。
「以前はここで苦労しました」
「何を使った」
「空気清浄機です。霧の中の有害成分を除去して、清浄な空気を作る道具です」
「……道具か」アルティアが霧の奥を見た「今は、それなしで通るのか」
「はい。転移者は影響を受けにくい。理屈は第五層と同じです。ただし、第五層より濃い。念のため、呼吸は浅くしながら通ります」
霧に入った。
第五層とは比べ物にならない重さが来た。肺に入ってくる空気が違う。透明ではない空気を吸い込んでいる感覚がある。目が少し、滲んだ。
それでも歩けた。
出た瞬間、深く息を吸った。思ったより深く吸っていた。体が判断していた。
「顔色が悪い」
また、アルティアが言った。第四層でも同じことを言われた。
「……少し、苦しかったです」
「無理をするな」
「無理ではありませんでした。ただし、楽ではありませんでした」
「……正直だな」
「事実を言っただけです」
アルティアが「そうだな」と言って、また歩き始めた。
第二層で、光が消えた。
完全な暗闇だ。足元が見えない。手元が見えない。目を開けているのか閉じているのか、しばらく分からなくなるほどの暗さだ。
「暗い」
「はい。この層は明かりがありません。以前はLEDライトを使いました」
「今は」
「壁を伝います。道は、一度通っているので分かります」
恒一が先に入った。左手を壁につけた。冷たく、ざらついた石の感触がある。この感触を頼りに歩く。
「ここは私が道を知っています。後ろについてきてください」
「……分かった」
暗闇の中を、二人が歩いた。
音だけがある。恒一の足音と、アルティアの足音。二人のリズムが少し違う。しかし途切れない。アルティアの足音が聞こえている間、ついてきていると分かる。暗闇の中では、音が全てだ。
壁が曲がった。感触で分かった。
「右に曲がります」
「分かった」
また歩いた。先に、薄く光が漏れてきた。第一層の光だ。出口が近い。
第一層の空気が来た。
湿気だ。一歩踏み出すごとに、水分を含んだ空気が体にまとわりつく。この層の湿気には何度も慣れたつもりでいたが、第三層を通ってきた後では、むしろ清涼に感じた。
「湿い」アルティアが言った。
「はい。この層は特にそうです」
「……知っていたが、実際に感じると違う」
今日何度目かの言葉だった。第六層で、第四層で、今また。知っていたが、実際に感じると違う。アルティアはその言葉を繰り返している。繰り返すたびに、体が少しずつ、外の世界を取り戻していく。
階段が見えた。
石でできた、幅の広い階段だ。上から光が降りてきている。人工の光ではない。外の光だ。青でも橙でもない、白に近い光が、石段を照らしている。
アルティアが、階段を見た。
動かなかった。
光苔を初めて見た時のように、暗闇から抜けた時のように、立ち止まった。しかし今度の立ち止まり方は、少し違った。何かを受け取ろうとしているのではなく、何かを確かめている。
恒一は、隣で待った。
「……何百年ぶりか」
「数えていないと言っていましたね」
「そうだ」アルティアが言った「しかし、長かった。それだけは分かる。長かったということだけは、数えなくても分かる」
恒一は、その言葉を聞いた。
何百年分の記憶を経験した今、その「長かった」という言葉の中に何が入っているか、少しだけ分かった。少しだけ、だ。実際に生きてきたアルティアの長さとは、比べようがない。
「……行くか」
「はい」
二人が、階段を上り始めた。一段ずつ、光が強くなっていく。
上り切った瞬間、世界が変わった。
光の質が、全く異なる。第七層の壁の発光でも、光苔の青い光でも、どこかから漏れてくる光でもない。どこにでもある光だ。空から来て、地面に当たって、空気の中に満ちている。目の前に建物も壁もなく、視界が果てなく広がっている。
アルティアが、その場で止まった。
目を細めた。眩しさに対する、体の自然な反応だ。しかし、目を閉じなかった。眩しくても、そこにある光を受け取ろうとしていた。
風が来た。
地面から来るのではなく、横から来た。遺跡の中では感じなかった風だ。髪を動かして、通り過ぎていった。
アルティアが、風の方を向いた。どこから来たかを確かめるように、少し顔を上げた。
恒一も、隣で立ち止まった。急く理由は、ない。
「……空か」
アルティアが言った。上を向いたまま言った。
「はい」
「……覚えていたより、広い」
「そうですか」
「人間は、毎日これを見ているのか」
「はい」
「……そうか」
アルティアは、しばらく空を見続けた。雲が動いている。形を変えながら、ゆっくりと流れていく。恒一は毎日空を見てきたが、雲がこれほど動いていることを今日ほど意識したことはなかった。アルティアの隣で見ると、動いて見える。
「恒一」
声が来た。
振り向いた。遺跡の入口から少し離れた場所に、天幕を張った四人がいた。カインが立ち上がっていた。こちらに気づいて、早足で来た。
マルコが立ち上がった。リーナが、手を口に当てて動かなくなった。ゴルドが、恒一の方を静かに見た。
カインが、恒一の前で止まった。
少し間があった。カインが恒一の顔を見た。恒一もカインを見た。
「無事か」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
「魔法は」
恒一が「……まだです」
カインが「そうか」と言った。一度、目を伏せた。伏せたまま、また「そうか」と言った。同じ言葉を二度言った。一度目と二度目では、声の質が少し違った。
マルコが来た。走るほどではないが、早く来た。
「よかった」
来ながら言った。
「本当によかった」
恒一の肩を、両手で掴んだ。強く掴んだ。何か言おうとした。言葉が出てこなかった。また「よかった」と言った。言えたのはそれだけだった。
それで十分だった。
リーナが「……帰ってきたんですね」と言った。声の震えを抑えようとしていたが、隠しきれていなかった。それを隠そうともせず、ただ言った。
ゴルドが来た。無言だった。恒一の顔を、少しの間、見た。それだけで、何も言わなかった。しかしその目が、全部受け取っていた。
恒一は、四人の顔を見た。
言葉が、出てくるまで少し間があった。
「……ただいまです」
この世界に来て、一度も言ったことがない言葉だった。言うつもりもなかった。しかし出てきた。出てきてから気づいた。
マルコが「おかえり」と言った。声が掠れていた。
カインが「おかえり」と言った。短く、しかしはっきりと。
リーナが「おかえりなさい」と言った。
ゴルドが、頷いた。
少しの間が、その場にあった。
風が通り過ぎた。草の匂いがした。
四人の視線が、恒一の後ろに動いた。
アルティアがいる。地上に出てから、少し離れた場所に立っていた。四人との再会の場に、踏み込まなかった。自分で、踏み込まないことを選んでいた。
「……誰だ」
カインが言った。
「紹介します。アルティアさんです」
「あの部屋にいた人か」
「はい」
「解放できたのか」
「はい」
カインがアルティアの方へ歩いた。アルティアも、来るカインを見ていた。どちらも、すぐには何も言わなかった。
「カインです」
カインが言った。
「恒一の仲間だ」
アルティアが「……知っている。何度も名前を聞いた」
カインが恒一を見た。
「各層で、仲間の話を何度もしていました」と恒一が言った。
カインが「そうか」と言って、また少しアルティアを見た。値踏みではない。この人物が何者で、恒一にとって何であるかを、静かに測っている目だった。その目のまま、カインは何も言わなかった。それがカインの、受け入れ方だった。
マルコが前に出た。
「俺はマルコです。えっと……」
少し間があった。
「大丈夫でしたか」
アルティアが「大丈夫とは、どういう意味か」
「いや、その、何百年も一人でいたって、恒一から聞いたから……大変だったんじゃないかと思って」
「そうだ。一人でいた」
「……大変でしたね」
マルコの言い方に、特別な重みはなかった。難しい言葉も、丁寧な配慮も込めていなかった。ただ、大変でしたね、と言った。普通の人間に言うように。
アルティアが、マルコを見た。
間があった。
「……そうだな」
アルティアが言った。
「大変だった」
マルコが「そっか」と言って、頷いた。それだけだった。それ以上引かなかった。引かないことで、受け取った。
リーナが前に出た。
「アルティアさん、お腹は空いていませんか。何か食べますか」
「食べなくても死なない。私の体は——」
「そうなんですね」
リーナがあっさりと言った。
「でも、食べたいかどうかは別じゃないかと思って」
アルティアが、リーナを見た。
責めていない。試していない。ただ聞いていた。食べたいかどうかを、本人に聞いていた。
「……そうだな」アルティアが言った「食べたい気は、する」
「では、用意します」
リーナが荷物の方へ戻りながら「何か嫌いなものはありますか」と聞いた。
アルティアが「……何百年も食べていないので、分からない」
「じゃあ、少しずつ試しましょう」とリーナが言った。当然のことのように言った。
ゴルドが、最後に前に出た。
無言でアルティアの前に来た。上から下まで、ゆっくりと見た。確認するように、全体を見た。
「恒一を助けてくれたか」
「……どちらが助けたか、判断が難しい」
「そうか」
「お前たちも、助けたのか」
「何もできなかった。地上で待っていただけだ」
「……待つことは、何もしないこととは違う」
ゴルドが、少し目を細めた。
「ならば、お互い様ということだ」
「……お前は、面白い人間だな」
「よく言われる」とゴルドが言った。それから「恒一もよく生きていた」と付け加えた。アルティアに言ったのか、独り言なのか、判断できない言い方だった。
アルティアが「……そうだな。よく生きていた」
今度は、はっきりとゴルドに向けて言った。
恒一は、少し離れた場所でその会話を聞いていた。
カインが恒一を手招きした。
四人から少し離れた、岩が積み重なった場所だ。アルティアはリーナから食料を受け取っていた。マルコが隣にいた。
「話せないことが、まだあるのか」
「はい」
「どのくらいある」
「……かなり、あります」
カインが頷いた。追及しなかった。
「ガルダムの動きについて、こちらで分かったことを話す。ここ数日で、状況が変わった」
「聞かせてください」
「ガルダムは、お前たちが遺跡にいる間、ギルドに姿を見せなかった。他のギルドメンバーも、居場所を把握していない。封鎖しに来なかったのは、別の何かを優先していたからだと考えている」
「……鎖が外れた瞬間に、ガルダムは感知した可能性があります。その後、次の手を打ちに動いたかもしれません」
「アルティアさんから聞いたか」
「はい」
「どこまで話せる」
「その点については話せます。ただし、なぜガルダムが感知できるのか、その理由については話せません」
カインが「分かった。理由は聞かない」と言った。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。必要な判断だからそうしている」
カインが少し間を置いた。それから、少し低い声で言った。
「一つだけ聞く」
「何ですか」
「お前は、ちゃんと眠れたか」
恒一が「……壁にもたれたまま眠っていました」
「それは眠れたとは言わない」
「……そうですね」
「今夜は地面に寝ろ。それだけだ」
カインが立ち上がった。以上だ、という立ち上がり方だった。ねぎらいの言葉も、詳しい確認もなかった。眠れ、それだけだった。しかしその一言の中に、この数日でカインが何を考えていたかが、少し見えた気がした。
マルコがアルティアに食料の使い方を説明していた。
「こっちを先に食べると、これが食べやすくなるんですよ。順番があるんです」
「そういう食べ方をするのか」
「俺だけかも」
アルティアが、マルコの言う順番で食べた。
「……違いが分からない」
「でしょうね」とマルコが言って、笑った「俺の好みの問題です」
「そうか。奇妙な男だな」
「よく言われます」
その会話を、恒一は少し離れた場所から見ていた。マルコは、アルティアが何百年も生きてきた存在であることを知っている。しかし今、食料の食べる順番について話していた。それが、マルコのやり方だった。大事なことから始めない。小さなことから始める。その積み重ねで、人と人の間に何かが生まれる、ということをマルコは知っているのかもしれなかった。あるいは、知らずにやっているのかもしれなかった。
ゴルドが、岩に座っていた。
恒一がその隣に来た。
「ゴルドさん」
「なんだ」
「石を、ありがとうございました。ずっと確認していました」
「役に立ったか」
「はい。光っていない時は、今は安全だと分かった。それだけで、随分と違いました」
「そうか」
石を返そうとした。ゴルドが手で制した。
「しばらく持っていろ。まだ必要になるかもしれない」
「……はい」
ゴルドが、前を向いたまま言った。
「話せないことが多いようだな」
「はい」
「話せることと、話せないことの境界は、お前が一番よく分かっているだろう」
「……はい」
「なら、それでいい」
少し間があった。
「ただし」
「ただし?」
「重くなりすぎたら、言え」
恒一が「……内容は、話せません」
「内容は聞かない」ゴルドが言った「重いということを、言えばいい。それだけでいい。内容が分からなくても、重さは受け取れる」
恒一は、その言葉を聞いた。
話せないことと、重さは別だ。内容を話さなくても、重いという事実だけは言える。言われた方は、内容は分からなくても、重さを受け取れる。
それは、恒一には思いつかない発想だった。しかし言われてみれば、当然のことだった。
「……重いです。今」
声に出した。
「そうか」ゴルドが言った「受け取った」
ただそれだけだった。
何も解決しなかった。話せないことは、まだある。しかし、ゴルドが受け取ったと言った。その言葉が、言葉以上のものとして届いた。
恒一は、少しの間そこにいた。ゴルドも、動かなかった。二人で、同じ方向を向いていた。
空が、色を変えていた。
青から橙へ。橙から赤へ。雲の端が、燃えるように染まっている。一日の終わりの色だ。
アルティアが、その空を見ていた。
マルコとの会話が一段落して、少し離れた場所に立っていた。ずっと見ていた。動かなかった。
恒一が、隣に来た。
「空を、見ていますか」
「そうだ」
「どうですか」
アルティアが、少し間を置いた。
「……言葉にするのが、難しい」
それだけ言った。
恒一も、空を見た。二人で、同じ方向を見た。
風が来た。夕方の風は、昼間より柔らかい。
「恒一」
「はい」
「仲間というのは、ああいうものか」
アルティアが言った。四人の方は見ずに、空を見たまま言った。
「どういう意味ですか」
「話せないことがあっても、傍にいる。理由が分からなくても、食料を渡す。内容は聞かずに、重さだけ受け取ると言う。ああいうものか」
「……そうだと思います」
アルティアが「そうか」と言った。
しばらく、風の音だけがあった。
「私には、いなかった。ガルダムは違った」
アルティアが言った。空を見たまま言った。
「最初からそういうものではなかった、ということが、今日分かった気がする。あの頃は分からなかった。比べるものがなかった」
「……これからは、います」
アルティアが、恒一を見た。
「お前だけか」
「いいえ」
恒一が、四人の方を見た。カインが地図を広げている。マルコがその隣で何か言っている。リーナが食料の整理をしている。ゴルドが目を閉じている。
「全員です」
アルティアも、四人の方を見た。
しばらく、見た。
風が通り過ぎた。
「……そうか」
「受け取れそうですか」
アルティアが「……分からない。忘れているから」
「それは、これから思い出せばいいと思います」
「同じことを、さっき言ったな」
「はい」
「……しつこい男だ」
「七度目ですね」
アルティアが「何が七度目だ」と言った。
「変わった男だと言ったのが六度、しつこい男だと言ったのが今日で一度。合計七度です」
「……数えるな」
「覚えていたいので」
短い沈黙があった。
「……お前は、本当に変わった男だ」
「七度目ですか、八度目ですか」
「……黙れ」
恒一が黙った。
しかし笑った。声は出さなかった。しかし、笑っていた。
この世界に来て、笑ったことが何度あったか数えていない。数えなくていいと思った。何もかも記録しようとしてきたが、これは記録しなくていい。今ここにあれば、それで十分だ。
「今夜はここで野営する」
カインの声が来た。
「飯にしよう」
「やった」とマルコが言った。
リーナが立ち上がって、準備を始めた。ゴルドが薪を探しに動いた。カインが場所を確認した。
「アルティアさん、行きましょう」
「……そうだな」
二人が、四人の方へ歩いた。
火が起こされた。
夜が来る前の、まだ少し明るい時間の中に、六人がいた。遺跡の入口から少し離れた場所だ。地面に火がある。
恒一は、その光景を見た。
第七層で壁に背を預けて一人でいた夜の後に、これがある。道具のない手の平を見ていた時間の後に、これがある。試練の中で「一人はきつかったです」と声に出した夜の後に、これがある。
六人が、火を囲んでいた。
橙色の空が、少しずつ暗くなっていく。その下に、六人がいる。
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