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第9章「仕事と恋の狭間」
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悠斗と付き合い始めて一ヶ月が経った。
毎日カフェで会って、週末は一緒に過ごす。時々、悠斗の部屋に泊まることもあった。
幸せだった。
こんなに誰かと一緒にいて、こんなに心地よいと感じたことはなかった。
でも、その幸せに、少しずつ影が差し始めていた。
仕事が、さらに忙しくなったのだ。
十一月に入って、年末に向けた大型プロジェクトが動き始めた。大手飲料メーカーの新商品キャンペーン。予算は億単位。失敗は許されない。
亜季はそのプロジェクトのリーダーに任命された。
「高梨さん、このプロジェクト、あなたに任せます」
部長にそう言われたとき、亜季は嬉しかった。
これは、昇進のチャンスでもあった。
このプロジェクトを成功させれば、来年には課長に昇進できるかもしれない。
でも、同時に、大きなプレッシャーも感じた。
チームは十人。全員のマネジメントをしなければならない。クライアントとの調整も、上司への報告も、全て亜季の責任だ。
プロジェクトが始まって一週間。
残業は毎日深夜まで続いた。
カフェに行く時間もなくなった。
悠斗には、メッセージで謝った。
『ごめん、今日も残業で。カフェ行けない』
すぐに返信が来た。
『大丈夫。無理しないでね』
悠斗は優しかった。文句も言わず、いつも心配してくれた。
でも、会えない日が続くと、寂しさが募った。
週末も、仕事が入るようになった。
「高梨さん、土曜日、クライアントとの打ち合わせ入れたいんですけど」
「日曜日も、チームで作業進めたいので、出てきてもらえますか?」
次々と予定が入る。
悠斗との約束をキャンセルしなければならなくなった。
『ごめん、今週末も仕事が入っちゃった』
悠斗からの返信は、いつも同じだった。
『大丈夫。仕事、頑張って』
優しい言葉。
でも、その優しさが、時々重く感じられた。
本当に、大丈夫なんだろうか。
こんなに会えなくて、寂しくないんだろうか。
プロジェクト開始から二週間。
亜季は、ほとんど家に帰れていなかった。
会社に泊まり込むこともあった。デスクで仮眠を取って、朝からまた仕事。
体は悲鳴を上げていた。
頭痛がする。目がかすむ。食欲もない。
でも、止まれない。
このプロジェクトを成功させなければならない。
そう自分に言い聞かせて、働き続けた。
ある日の深夜、オフィスで一人作業をしていると、スマートフォンが鳴った。
悠斗からの電話だった。
「もしもし?」
「亜季?今、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
声が、かすれていた。
「声、おかしいよ。体調悪い?」
「ちょっと疲れてるだけ」
「ちょっとじゃないでしょ。最後に会ったの、いつだっけ?」
悠斗の声に、少し苛立ちが混じっていた。
「…一週間前?」
「十日前だよ」
「そんなに経ってた?」
亜季は驚いた。
時間の感覚が、なくなっていた。
「亜季、無理しすぎだよ。このままじゃ、体壊すよ」
「大丈夫。あと少しで落ち着くから」
「それ、前も言ってたよね」
悠斗の声が、少し冷たく聞こえた。
「ごめん」
「謝らなくていい。ただ、心配なんだ」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「…わかった。じゃあ、無理しないでね」
「うん」
電話を切って、亜季は深いため息をついた。
悠斗を、心配させてしまった。
でも、どうしようもない。
今は、仕事を優先しなければならない。
次の日、部長に呼ばれた。
「高梨さん、ちょっといいですか」
部長室に入ると、部長は真剣な顔で座っていた。
「座ってください」
亜季は椅子に座った。
「このプロジェクト、順調ですね」
「はい。チームのみんなが頑張ってくれています」
「あなたのリーダーシップのおかげです」
部長は満足そうに頷いた。
「実は、話があります」
「何でしょうか?」
「来年四月、課長に昇進してもらいたいと思っています」
亜季の心臓が跳ねた。
「本当ですか?」
「本当です。このプロジェクトを成功させれば、正式に決まります」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
部長は真剣な顔になった。
「課長になれば、さらに忙しくなります。プライベートの時間は、ほとんど取れないと思ってください」
「…はい」
「家庭との両立は、難しいかもしれません。結婚の予定とか、ありますか?」
その言葉に、亜季は少し躊躇した。
「今は、ありません」
「そうですか。じゃあ、大丈夫ですね」
部長は安心したように笑った。
「このまま頑張ってください。期待していますから」
「はい」
部長室を出て、亜季は自分のデスクに戻った。
昇進。
ずっと目指していたものだ。
でも、今、その話を聞いても、嬉しさより不安の方が大きかった。
課長になれば、さらに忙しくなる。
悠斗と会う時間は、もっとなくなる。
それでも、昇進を選ぶべきなんだろうか。
その夜、久しぶりにカフェに行くことができた。
九時には仕事を終えて、急いでカフェに向かった。
悠斗は、いつもの席にいた。
亜季を見つけると、嬉しそうに笑った。
「亜季」
「悠斗」
亜季は隣に座った。
「久しぶりだね」
「本当に。ごめん、全然会えなくて」
「いいよ。仕事、大変なんでしょ」
悠斗は優しく微笑んだ。
でも、その笑顔が、いつもより少し寂しそうに見えた。
コーヒーを注文して、二人は向かい合った。
「体調、大丈夫?」
「大丈夫。今日は少し早く終われたから」
「よかった」
悠斗はほっとしたように息をついた。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「来週の日曜日、空いてる?」
「日曜日…」
亜季はスケジュールを思い浮かべた。
クライアントとの打ち合わせが入っている。
「ごめん、打ち合わせが入ってて」
「そっか」
悠斗は少し残念そうな顔をした。
「じゃあ、再来週は?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
「たぶん?」
「ごめん、まだ確実じゃなくて」
悠斗は黙った。
沈黙が流れる。
いつもなら心地よい沈黙なのに、今日は重い。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「僕たち、このままでいいのかな」
その言葉に、亜季の胸がざわついた。
「どういう意味?」
「最近、全然会えないし、話せないし。これって、付き合ってるって言えるのかな」
悠斗は悲しそうな顔をした。
「僕、寂しいよ」
その言葉が、亜季の胸に刺さった。
「ごめん」
「謝らないで。亜季のせいじゃない。仕事が忙しいのは、わかってる」
「でも…」
「でも、僕も人間だから。会えないと寂しいし、話せないと不安になる」
悠斗は正直に言った。
「亜季は、僕のこと、まだ好き?」
「好きだよ。もちろん」
「じゃあ、どうして会ってくれないの?」
「会いたいよ。でも、仕事が…」
「仕事、仕事って。亜季にとって、仕事と僕、どっちが大事なの?」
その質問に、亜季は答えられなかった。
どっちも大事。
でも、今は仕事を優先しなければならない。
「…今は、仕事を頑張らないといけない時期なの。わかって」
「わかってるよ。でも、僕だって限界がある」
悠斗は立ち上がった。
「今日は、帰るね」
「え、もう?」
「うん。疲れたから」
悠斗は会計を済ませて、店を出て行った。
亜季は、その場に取り残された。
何が起きたんだろう。
悠斗と、喧嘩?
初めての喧嘩。
胸が苦しい。
涙が出そうになった。
家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。
悠斗の言葉が、頭の中で繰り返される。
「仕事と僕、どっちが大事なの?」
どっちも大事。
でも、選ばなければならないのだろうか。
スマートフォンを手に取って、美咲に電話をかけた。
「もしもし?亜季?」
「美咲…」
「どうしたの?声、泣きそうじゃん」
「ちょっと、話聞いてほしくて」
「いいよ。何があったの?」
亜季は、今日のことを全部話した。
仕事が忙しいこと。悠斗と会えないこと。喧嘩になったこと。
美咲は黙って聞いていた。
「それで、亜季はどうしたいの?」
「わからない。仕事も大事だし、悠斗も大事だし」
「両方は無理なの?」
「今は、無理。仕事が落ち着くまで、あと一ヶ月くらいかかる」
「じゃあ、そう説明すれば?」
「説明したよ。でも、悠斗は理解してくれなかった」
「それは、悠斗も辛いからだよ」
美咲は優しく言った。
「好きな人に会えないって、すごく辛いから。亜季だって、辛いでしょ?」
「辛い」
「悠斗も、同じだよ」
「でも、どうすればいいの?」
「正直に話すしかないよ。今の状況と、これからのこと。ちゃんと向き合って話さないと」
美咲の言葉が、胸に響いた。
「ありがとう、美咲」
「いいよ。頑張ってね」
電話を切って、亜季は天井を見つめた。
向き合って話す。
それが必要なんだ。
でも、何を話せばいいんだろう。
次の日、亜季は悠斗にメッセージを送った。
『昨日は、ごめん。話したいことがあるから、今日会えないかな?』
しばらくして、返信が来た。
『いいよ。何時にどこで?』
『仕事終わったら連絡する。たぶん八時くらいになると思う』
『わかった。待ってる』
その日、亜季は集中して仕事を進めた。
できるだけ早く終わらせて、悠斗に会いたかった。
八時に仕事を終えて、カフェに向かった。
悠斗は、もう待っていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様」
二人は席に座った。
「話って、何?」
悠斗が聞いた。
「昨日のこと、ちゃんと話したくて」
亜季は深呼吸をした。
「私、昇進のチャンスがあるの」
「昇進?」
「うん。今のプロジェクトを成功させれば、来年四月に課長になれる」
「それは…すごいね。おめでとう」
悠斗は笑顔を作った。でも、その笑顔は少し寂しそうだった。
「ありがとう。でも、課長になったら、もっと忙しくなる。部長にそう言われた」
「…そっか」
「だから、今はこのプロジェクトを成功させることが、最優先なの」
亜季は正直に言った。
「悠斗と会えなくて、寂しい。本当に寂しい。でも、今は仕事を頑張らないといけない」
悠斗は黙って聞いていた。
「プロジェクトは、あと一ヶ月で終わる。それまで、待ってもらえないかな」
亜季は悠斗を見た。
悠斗は、少し考えるような顔をした。
「僕、待つよ」
「本当?」
「うん。亜季が頑張ってるの、わかってるから。応援したい」
「ありがとう」
亜季は涙が出そうになった。
「でも、一つだけ約束して」
「何?」
「体、壊さないで。亜季の体が一番大事だから」
「約束する」
悠斗が亜季の手を握った。
「僕、亜季のこと好きだよ。だから、待てる」
「私も、好き」
二人は手を繋いだまま、しばらく黙っていた。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「一ヶ月後、プロジェクトが終わったら、旅行行かない?」
「旅行?」
「うん。温泉とか。ゆっくり休んで、二人でいっぱい話そう」
「いいね。楽しみにしてる」
「じゃあ、それまで頑張ろう。お互いに」
「うん」
亜季は、少し安心した。
悠斗は、待ってくれる。
理解してくれる。
それだけで、心強かった。
その後、亜季はさらに仕事に打ち込んだ。
悠斗との約束を守るために。
プロジェクトを成功させるために。
チームのみんなと夜遅くまで働いた。
クライアントとの打ち合わせも、何度も重ねた。
体は疲れていたけれど、心は折れなかった。
悠斗が待ってくれている。
それが、支えになった。
カフェには、なかなか行けなかった。
でも、毎日メッセージのやり取りはした。
『今日も残業。ごめんね』
『大丈夫。頑張って』
『ありがとう。悠斗のこと、考えてる』
『僕も。早く会いたいな』
そんな、短いやり取り。
でも、それだけで十分だった。
悠斗が、そばにいてくれる。
そう感じられた。
週末も、ほとんど仕事だった。
でも、たまに時間が取れたときは、悠斗に会った。
一時間だけでも。三十分だけでも。
会って、話して、抱き合って。
それだけで、また頑張れた。
「あと少しだね」
悠斗が言った。
「うん。あと少し」
「温泉、楽しみにしてるからね」
「私も」
亜季は笑った。
あと少し。
この忙しさが終われば、また悠斗とゆっくり過ごせる。
そう信じて、亜季は走り続けた。
十一月の終わり。
プロジェクトは、佳境を迎えていた。
最終プレゼンが、来週に迫っていた。
亜季は、毎日深夜まで資料を作り続けた。
チームのみんなも、限界に近かった。
でも、誰も弱音を吐かなかった。
みんな、このプロジェクトを成功させたいと思っていた。
「高梨さん、これで最後の確認です」
部下が資料を持ってきた。
亜季は、一ページずつ丁寧にチェックした。
完璧だ。
これなら、いける。
「みんな、お疲れ様。あとは、プレゼン頑張るだけだね」
「はい」
チームのみんなが、疲れた顔で笑った。
亜季も、笑った。
ここまで来た。
あと少しで、終わる。
スマートフォンを見ると、悠斗からメッセージが届いていた。
『頑張ってね。応援してる』
その言葉が、胸に染みた。
悠斗が、待っていてくれる。
だから、頑張れる。
亜季は、最終プレゼンに向けて、最後の準備を始めた。
毎日カフェで会って、週末は一緒に過ごす。時々、悠斗の部屋に泊まることもあった。
幸せだった。
こんなに誰かと一緒にいて、こんなに心地よいと感じたことはなかった。
でも、その幸せに、少しずつ影が差し始めていた。
仕事が、さらに忙しくなったのだ。
十一月に入って、年末に向けた大型プロジェクトが動き始めた。大手飲料メーカーの新商品キャンペーン。予算は億単位。失敗は許されない。
亜季はそのプロジェクトのリーダーに任命された。
「高梨さん、このプロジェクト、あなたに任せます」
部長にそう言われたとき、亜季は嬉しかった。
これは、昇進のチャンスでもあった。
このプロジェクトを成功させれば、来年には課長に昇進できるかもしれない。
でも、同時に、大きなプレッシャーも感じた。
チームは十人。全員のマネジメントをしなければならない。クライアントとの調整も、上司への報告も、全て亜季の責任だ。
プロジェクトが始まって一週間。
残業は毎日深夜まで続いた。
カフェに行く時間もなくなった。
悠斗には、メッセージで謝った。
『ごめん、今日も残業で。カフェ行けない』
すぐに返信が来た。
『大丈夫。無理しないでね』
悠斗は優しかった。文句も言わず、いつも心配してくれた。
でも、会えない日が続くと、寂しさが募った。
週末も、仕事が入るようになった。
「高梨さん、土曜日、クライアントとの打ち合わせ入れたいんですけど」
「日曜日も、チームで作業進めたいので、出てきてもらえますか?」
次々と予定が入る。
悠斗との約束をキャンセルしなければならなくなった。
『ごめん、今週末も仕事が入っちゃった』
悠斗からの返信は、いつも同じだった。
『大丈夫。仕事、頑張って』
優しい言葉。
でも、その優しさが、時々重く感じられた。
本当に、大丈夫なんだろうか。
こんなに会えなくて、寂しくないんだろうか。
プロジェクト開始から二週間。
亜季は、ほとんど家に帰れていなかった。
会社に泊まり込むこともあった。デスクで仮眠を取って、朝からまた仕事。
体は悲鳴を上げていた。
頭痛がする。目がかすむ。食欲もない。
でも、止まれない。
このプロジェクトを成功させなければならない。
そう自分に言い聞かせて、働き続けた。
ある日の深夜、オフィスで一人作業をしていると、スマートフォンが鳴った。
悠斗からの電話だった。
「もしもし?」
「亜季?今、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
声が、かすれていた。
「声、おかしいよ。体調悪い?」
「ちょっと疲れてるだけ」
「ちょっとじゃないでしょ。最後に会ったの、いつだっけ?」
悠斗の声に、少し苛立ちが混じっていた。
「…一週間前?」
「十日前だよ」
「そんなに経ってた?」
亜季は驚いた。
時間の感覚が、なくなっていた。
「亜季、無理しすぎだよ。このままじゃ、体壊すよ」
「大丈夫。あと少しで落ち着くから」
「それ、前も言ってたよね」
悠斗の声が、少し冷たく聞こえた。
「ごめん」
「謝らなくていい。ただ、心配なんだ」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「…わかった。じゃあ、無理しないでね」
「うん」
電話を切って、亜季は深いため息をついた。
悠斗を、心配させてしまった。
でも、どうしようもない。
今は、仕事を優先しなければならない。
次の日、部長に呼ばれた。
「高梨さん、ちょっといいですか」
部長室に入ると、部長は真剣な顔で座っていた。
「座ってください」
亜季は椅子に座った。
「このプロジェクト、順調ですね」
「はい。チームのみんなが頑張ってくれています」
「あなたのリーダーシップのおかげです」
部長は満足そうに頷いた。
「実は、話があります」
「何でしょうか?」
「来年四月、課長に昇進してもらいたいと思っています」
亜季の心臓が跳ねた。
「本当ですか?」
「本当です。このプロジェクトを成功させれば、正式に決まります」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
部長は真剣な顔になった。
「課長になれば、さらに忙しくなります。プライベートの時間は、ほとんど取れないと思ってください」
「…はい」
「家庭との両立は、難しいかもしれません。結婚の予定とか、ありますか?」
その言葉に、亜季は少し躊躇した。
「今は、ありません」
「そうですか。じゃあ、大丈夫ですね」
部長は安心したように笑った。
「このまま頑張ってください。期待していますから」
「はい」
部長室を出て、亜季は自分のデスクに戻った。
昇進。
ずっと目指していたものだ。
でも、今、その話を聞いても、嬉しさより不安の方が大きかった。
課長になれば、さらに忙しくなる。
悠斗と会う時間は、もっとなくなる。
それでも、昇進を選ぶべきなんだろうか。
その夜、久しぶりにカフェに行くことができた。
九時には仕事を終えて、急いでカフェに向かった。
悠斗は、いつもの席にいた。
亜季を見つけると、嬉しそうに笑った。
「亜季」
「悠斗」
亜季は隣に座った。
「久しぶりだね」
「本当に。ごめん、全然会えなくて」
「いいよ。仕事、大変なんでしょ」
悠斗は優しく微笑んだ。
でも、その笑顔が、いつもより少し寂しそうに見えた。
コーヒーを注文して、二人は向かい合った。
「体調、大丈夫?」
「大丈夫。今日は少し早く終われたから」
「よかった」
悠斗はほっとしたように息をついた。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「来週の日曜日、空いてる?」
「日曜日…」
亜季はスケジュールを思い浮かべた。
クライアントとの打ち合わせが入っている。
「ごめん、打ち合わせが入ってて」
「そっか」
悠斗は少し残念そうな顔をした。
「じゃあ、再来週は?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
「たぶん?」
「ごめん、まだ確実じゃなくて」
悠斗は黙った。
沈黙が流れる。
いつもなら心地よい沈黙なのに、今日は重い。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「僕たち、このままでいいのかな」
その言葉に、亜季の胸がざわついた。
「どういう意味?」
「最近、全然会えないし、話せないし。これって、付き合ってるって言えるのかな」
悠斗は悲しそうな顔をした。
「僕、寂しいよ」
その言葉が、亜季の胸に刺さった。
「ごめん」
「謝らないで。亜季のせいじゃない。仕事が忙しいのは、わかってる」
「でも…」
「でも、僕も人間だから。会えないと寂しいし、話せないと不安になる」
悠斗は正直に言った。
「亜季は、僕のこと、まだ好き?」
「好きだよ。もちろん」
「じゃあ、どうして会ってくれないの?」
「会いたいよ。でも、仕事が…」
「仕事、仕事って。亜季にとって、仕事と僕、どっちが大事なの?」
その質問に、亜季は答えられなかった。
どっちも大事。
でも、今は仕事を優先しなければならない。
「…今は、仕事を頑張らないといけない時期なの。わかって」
「わかってるよ。でも、僕だって限界がある」
悠斗は立ち上がった。
「今日は、帰るね」
「え、もう?」
「うん。疲れたから」
悠斗は会計を済ませて、店を出て行った。
亜季は、その場に取り残された。
何が起きたんだろう。
悠斗と、喧嘩?
初めての喧嘩。
胸が苦しい。
涙が出そうになった。
家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。
悠斗の言葉が、頭の中で繰り返される。
「仕事と僕、どっちが大事なの?」
どっちも大事。
でも、選ばなければならないのだろうか。
スマートフォンを手に取って、美咲に電話をかけた。
「もしもし?亜季?」
「美咲…」
「どうしたの?声、泣きそうじゃん」
「ちょっと、話聞いてほしくて」
「いいよ。何があったの?」
亜季は、今日のことを全部話した。
仕事が忙しいこと。悠斗と会えないこと。喧嘩になったこと。
美咲は黙って聞いていた。
「それで、亜季はどうしたいの?」
「わからない。仕事も大事だし、悠斗も大事だし」
「両方は無理なの?」
「今は、無理。仕事が落ち着くまで、あと一ヶ月くらいかかる」
「じゃあ、そう説明すれば?」
「説明したよ。でも、悠斗は理解してくれなかった」
「それは、悠斗も辛いからだよ」
美咲は優しく言った。
「好きな人に会えないって、すごく辛いから。亜季だって、辛いでしょ?」
「辛い」
「悠斗も、同じだよ」
「でも、どうすればいいの?」
「正直に話すしかないよ。今の状況と、これからのこと。ちゃんと向き合って話さないと」
美咲の言葉が、胸に響いた。
「ありがとう、美咲」
「いいよ。頑張ってね」
電話を切って、亜季は天井を見つめた。
向き合って話す。
それが必要なんだ。
でも、何を話せばいいんだろう。
次の日、亜季は悠斗にメッセージを送った。
『昨日は、ごめん。話したいことがあるから、今日会えないかな?』
しばらくして、返信が来た。
『いいよ。何時にどこで?』
『仕事終わったら連絡する。たぶん八時くらいになると思う』
『わかった。待ってる』
その日、亜季は集中して仕事を進めた。
できるだけ早く終わらせて、悠斗に会いたかった。
八時に仕事を終えて、カフェに向かった。
悠斗は、もう待っていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様」
二人は席に座った。
「話って、何?」
悠斗が聞いた。
「昨日のこと、ちゃんと話したくて」
亜季は深呼吸をした。
「私、昇進のチャンスがあるの」
「昇進?」
「うん。今のプロジェクトを成功させれば、来年四月に課長になれる」
「それは…すごいね。おめでとう」
悠斗は笑顔を作った。でも、その笑顔は少し寂しそうだった。
「ありがとう。でも、課長になったら、もっと忙しくなる。部長にそう言われた」
「…そっか」
「だから、今はこのプロジェクトを成功させることが、最優先なの」
亜季は正直に言った。
「悠斗と会えなくて、寂しい。本当に寂しい。でも、今は仕事を頑張らないといけない」
悠斗は黙って聞いていた。
「プロジェクトは、あと一ヶ月で終わる。それまで、待ってもらえないかな」
亜季は悠斗を見た。
悠斗は、少し考えるような顔をした。
「僕、待つよ」
「本当?」
「うん。亜季が頑張ってるの、わかってるから。応援したい」
「ありがとう」
亜季は涙が出そうになった。
「でも、一つだけ約束して」
「何?」
「体、壊さないで。亜季の体が一番大事だから」
「約束する」
悠斗が亜季の手を握った。
「僕、亜季のこと好きだよ。だから、待てる」
「私も、好き」
二人は手を繋いだまま、しばらく黙っていた。
「ねえ、亜季」
「うん?」
「一ヶ月後、プロジェクトが終わったら、旅行行かない?」
「旅行?」
「うん。温泉とか。ゆっくり休んで、二人でいっぱい話そう」
「いいね。楽しみにしてる」
「じゃあ、それまで頑張ろう。お互いに」
「うん」
亜季は、少し安心した。
悠斗は、待ってくれる。
理解してくれる。
それだけで、心強かった。
その後、亜季はさらに仕事に打ち込んだ。
悠斗との約束を守るために。
プロジェクトを成功させるために。
チームのみんなと夜遅くまで働いた。
クライアントとの打ち合わせも、何度も重ねた。
体は疲れていたけれど、心は折れなかった。
悠斗が待ってくれている。
それが、支えになった。
カフェには、なかなか行けなかった。
でも、毎日メッセージのやり取りはした。
『今日も残業。ごめんね』
『大丈夫。頑張って』
『ありがとう。悠斗のこと、考えてる』
『僕も。早く会いたいな』
そんな、短いやり取り。
でも、それだけで十分だった。
悠斗が、そばにいてくれる。
そう感じられた。
週末も、ほとんど仕事だった。
でも、たまに時間が取れたときは、悠斗に会った。
一時間だけでも。三十分だけでも。
会って、話して、抱き合って。
それだけで、また頑張れた。
「あと少しだね」
悠斗が言った。
「うん。あと少し」
「温泉、楽しみにしてるからね」
「私も」
亜季は笑った。
あと少し。
この忙しさが終われば、また悠斗とゆっくり過ごせる。
そう信じて、亜季は走り続けた。
十一月の終わり。
プロジェクトは、佳境を迎えていた。
最終プレゼンが、来週に迫っていた。
亜季は、毎日深夜まで資料を作り続けた。
チームのみんなも、限界に近かった。
でも、誰も弱音を吐かなかった。
みんな、このプロジェクトを成功させたいと思っていた。
「高梨さん、これで最後の確認です」
部下が資料を持ってきた。
亜季は、一ページずつ丁寧にチェックした。
完璧だ。
これなら、いける。
「みんな、お疲れ様。あとは、プレゼン頑張るだけだね」
「はい」
チームのみんなが、疲れた顔で笑った。
亜季も、笑った。
ここまで来た。
あと少しで、終わる。
スマートフォンを見ると、悠斗からメッセージが届いていた。
『頑張ってね。応援してる』
その言葉が、胸に染みた。
悠斗が、待っていてくれる。
だから、頑張れる。
亜季は、最終プレゼンに向けて、最後の準備を始めた。
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