夜に溶ける約束

yukataka

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第4話:雨音の密室

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大雨が降りしきる夜だった。地方都市の住宅街を抜ける細い道を、沙織と駿を乗せた車がゆっくりと進んでいた。フロントガラスを叩く雨粒が視界をぼやけさせ、ワイパーの単調な音が車内に響く。沙織は助手席で膝の上に手を置き、窓の外に目をやっていたが、雨に濡れた舗道や薄暗い街灯の光は、彼女の心をさらに重くするだけだった。

「こんな日に限って車が故障するなんて……」駿がハンドルを握りながら、苦笑交じりに呟いた。彼の声は低く、少し掠れていた。沙織は彼の方をちらりと見る。スーツの襟が少し乱れ、ネクタイを緩めた首筋に汗が光っている。家族ぐるみの食事会の帰り道、夫が急な仕事で先に帰り、駿が沙織を送る役目を引き受けた。だが、途中で車が動かなくなり、二人きりでこの狭い空間に閉じ込められることになった。

「本当にごめんなさい、こんな時間まで付き合わせてしまって……」沙織は小さな声で謝る。彼女の声には、どこか自分を責めるような響きがあった。駿は首を振り、軽く笑った。

「気にしないでください。沙織さんが悪いわけじゃない。雨が止むまで、ちょっと待つしかないですね。」

車内の空気は湿気を帯び、窓ガラスが曇り始めていた。沙織はバッグからハンカチを取り出し、窓を拭こうと身を乗り出したが、その動きで彼女の肩が駿の腕に触れそうになる。彼女は咄嗟に体を引いた。心臓が跳ねる音が、雨音に混じって耳に響くようだった。

「す、すみません……」沙織は顔を赤らめ、視線を逸らす。駿は一瞬、彼女の横顔を見つめたが、すぐに前を向いた。

「いや、大丈夫です。」彼の声は落ち着いていたが、どこか抑えたような響きがあった。車内の沈黙が再び重く落ちる。雨音がその沈黙を埋めるように、窓を激しく叩いていた。まるで外の世界から二人を隔絶する壁のように。

沙織は膝の上で指を組み、目を伏せた。夫との冷え切った関係、家庭の中での自分の居場所のなさ。それらが胸の中で渦巻き、駿の存在がその隙間を埋めるように迫ってくる。彼の視線を感じるたびに、彼女の心は揺れ動く。母として、妻としての自分を保とうとする理性と、女として見られたいという欲望が、激しくせめぎ合っていた。

「沙織さん、寒くないですか?」駿が突然口を開いた。沙織は驚いて顔を上げる。彼の目は真剣で、彼女を気遣うような柔らかさがあった。だが、その奥には何か別の感情が潜んでいるようにも見えた。

「大丈夫です。ありがとう……」沙織は微笑もうとしたが、唇がわずかに震えた。車内の空気がさらに重くなる。湿った衣服の匂いと、駿の香水が微かに混じり合い、彼女の鼻腔をくすぐる。彼女は無意識に息を詰めた。

駿はハンドルから手を離し、シートに体を預けた。雨音が一層強くなり、車内はまるで密室のように感じられた。外の音も、時間の流れも、すべてが遠くに感じられる。二人だけの世界がそこにあった。

「こんな夜、なんか……落ち着かないですよね。」駿がぽつりと呟く。彼の声は低く、どこか探るような響きがあった。沙織は彼の言葉に反応するべきか迷いながら、ただ頷くことしかできなかった。

「沙織さん、いつも笑顔でいてくれますけど……本当は、結構無理してるんじゃないですか?」彼の言葉が、沙織の心に鋭く突き刺さる。彼女は目を丸くし、彼を見つめた。駿の視線は真っ直ぐで、逃げ場を与えない強さがあった。

「そんなこと……ないです。」沙織は否定するが、声が震えていた。彼女は自分の感情を隠そうと、膝の上の手を強く握りしめる。だが、駿は彼女の動揺を見逃さなかった。

「俺、気づいてたんです。沙織さんが時々、遠くを見るような目をするの。なんか、寂しそうで……」彼の声は優しく、しかしどこか危険な響きを帯びていた。沙織の胸が締め付けられる。彼女は彼から目を逸らし、窓の外を見つめた。雨粒がガラスを流れ落ちる様が、彼女の心の揺れを映しているようだった。

「駿さん、そんなこと言わないでください……私、ちゃんとやってます。家族のために、ちゃんと……」沙織の声は途切れがちで、まるで自分に言い聞かせるようだった。駿は一瞬黙り、彼女の横顔を見つめた。

「沙織さん、俺、ただ……あなたが笑っててほしいだけなんです。無理してほしくない。」彼の言葉は静かだったが、その中に熱がこもっていた。沙織は彼の声に引き寄せられるように、顔を向けた。二人の視線が絡み合う。車内の薄暗い光の中で、駿の瞳が鋭く光っていた。彼女の心臓が激しく鼓動し、息が浅くなる。

距離が近すぎた。沙織は無意識に体を引こうとしたが、シートベルトがそれを許さなかった。駿の手が、まるで無意識のように、彼女の膝の近くに置かれたハンカチに触れる。彼の指先が、ほんの一瞬、沙織の手に触れた。電流のような感覚が彼女の全身を走り抜ける。

「あ……」沙織が小さく声を漏らす。駿もまた、指を引こうとしたが、その動きは遅く、まるでその感触を確かめるようだった。二人は互いに目を逸らし、沈黙が再び車内を支配する。だが、その沈黙は先ほどとは違う。そこには、抑えきれない緊張と、触れてはいけない何かへの渇望が漂っていた。

雨音が一層激しく窓を叩く。沙織は唇を噛み、目を伏せた。彼女の心は罪悪感と欲望の間で引き裂かれていた。駿の手が再び動くことはなかったが、彼の視線は彼女から離れなかった。まるで、言葉にできない何かを訴えるように。

「沙織さん……」駿が口を開きかけたが、言葉は途中で飲み込まれた。彼の声には、抑えた感情が滲み出ていた。沙織は彼の顔を見ることができず、ただ膝の上で手を握りしめた。触れてしまった指先の熱が、彼女の肌に残り続けていた。
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