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第5話:仮面の微笑み
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雨上がりの夜、住宅街の一角に佇む一軒家の応接間は、柔らかな照明に包まれていた。テーブルの上には手作りの料理が並び、グラスの中で揺れる赤ワインが仄かに光を反射している。沙織はエプロンを外し、髪を軽く整えながら席に着いた。彼女の微笑みは完璧だった。妻として、母として、誰もが求める理想の姿を体現するかのように、穏やかで優しい。しかしその瞳の奥には、昨夜の記憶が影のように潜んでいる。
「沙織、今日の料理も最高だよ。駿もそう思うだろ?」夫の声が響く。いつも通り、事務的で感情のこもらない口調だ。沙織は小さく頷き、「ありがとう」と答えたが、心の中では別の声が囁いていた。夫の言葉に反応する自分を演じながら、視線が自然と駿の方へと流れる。
駿はスーツの襟を緩め、ワイングラスを手にしながら軽く笑った。「本当に美味しいです。沙織さん、いつもこんな風に手間をかけてるんですか?」彼の声は低く、言葉の端々に何かを隠しているような響きがあった。沙織は一瞬、息を呑んだ。昨夜の記憶が脳裏を過る。深夜のバーで交わした言葉、雨に濡れた舗道を歩いた足音、モーテルの薄暗い部屋で感じた熱。彼女は微笑みを崩さず、「大したことないのよ。慣れてるから」と答えたが、声がわずかに震えた。
夫は気づかない。新聞をめくる手に意識を向け、会話から遠ざかっている。だが、沙織と駿の間には、言葉にならないものが流れていた。テーブルの下で、沙織の指が無意識にスカートの裾を握りしめる。駿の視線が彼女の手に落ち、口角がわずかに上がった。その微笑みは、まるで秘密を共有する者同士の暗号のようだった。
「駿、最近どうだ? 仕事は順調か?」夫が顔を上げ、話題を変えた。駿は姿勢を正し、丁寧に答える。「はい、なんとかやってます。課長のおかげで、いろいろ学ばせてもらってますよ」彼の言葉は模範的で、部下としての敬意に満ちていた。だが、沙織にはその裏に隠された意図が透けて見えた。『課長のおかげ』という言葉が、なぜか彼女の胸を刺す。夫を裏切る罪悪感と、駿の視線に引き込まれる欲望が、彼女の中でせめぎ合う。
食事が進むにつれ、部屋の中の空気は重く、湿ったものに変わっていった。窓の外では、街灯の光が雨に濡れた地面に反射し、薄暗い輝きを投げかけている。グラスが触れ合う音、フォークが皿に当たる小さな音、そして沈黙。それがすべてを支配していた。沙織は夫に気づかれないよう、駿と目を合わせないよう努めたが、ふとした瞬間に視線が絡み合う。駿の瞳には、昨夜の情熱がまだ燃えているようだった。彼女は慌てて目を逸らし、ワインを口に運んだ。アルコールの苦みが舌に広がるが、心のざわめきを抑えることはできなかった。
「沙織、顔が赤いぞ。飲みすぎじゃないか?」夫が初めて彼女に目を向けた。沙織は一瞬、凍りついた。心臓が早鐘を打つ。「大丈夫、ちょっと暑いだけ」と誤魔化し、微笑みを浮かべた。だがその笑顔は、どこかぎこちなく、仮面のように見えた。駿が小さく咳払いをする。彼の手がグラスを握る仕草が、なぜか沙織の目を引いた。長い指、力強い関節。昨夜、その手が彼女の腕に触れた感触が、まるで今も残っているかのように皮膚をざわつかせる。
「そういえば、沙織さん、昨夜は遅くまで起きてたんですか?」駿が突然、話題を振った。沙織の心臓が跳ね上がる。夫がいる前で、なぜそんなことを聞くのか。彼女は一瞬、言葉を失ったが、すぐに取り繕った。「ええ、ちょっと片付けがあって……」声が上ずる。駿は微笑んだまま、彼女を見つめる。「そうなんですね。夜遅くまで大変ですよね。僕も昨日は遅くまで出歩いてたんで、なんだか親近感が湧きます」彼の言葉は無邪気なようでいて、どこか含みを持っていた。沙織は彼の意図を読み取ろうと、必死にその瞳を覗き込む。だが、そこにはただ静かな笑みが浮かんでいるだけだった。
夫が眉をひそめた。「駿、昨日はどこに行ってたんだ? 遅くまで飲んでたのか?」その声には、部下を気遣う上司の口調が混じっていた。駿は肩をすくめ、「ちょっと友人と会ってただけです。たいしたことないですよ」と答えた。だが、沙織にはその言葉が嘘だとわかっていた。昨夜、彼は彼女と一緒にいた。雨上がりの街を歩き、薄暗いバーのカウンターで肩を寄せ合い、互いの孤独を埋めるように言葉を交わした。そして、その先へ――。
沙織は考えるのをやめた。頭を振るようにして、記憶を追い払う。夫の前でこんなことを考える自分を恥じながら、彼女は再び微笑みを浮かべた。だが、その笑顔はどこか脆く、崩れそうだった。駿が彼女を見つめる視線は、まるでその仮面を剥がそうとするかのように鋭い。彼女は耐えきれず、席を立った。「ちょっとお皿を下げてくるわ」そう言ってキッチンへ向かう。背後で、駿の声が追いかけてきた。「手伝いましょうか、沙織さん?」その声は低く、まるで囁くようだった。
「いや、いいよ。沙織一人でできるだろ」夫の声が割って入る。沙織は振り返らずに、「大丈夫、すぐ終わるから」と答えた。だが、キッチンに立った瞬間、彼女の手は震えていた。シンクに置いた皿がカチャリと音を立てる。心の中では、駿の声が反響していた。『手伝いましょうか』――その言葉に込められた意味を、彼女は感じ取っていた。夫の前で交わされる秘密の視線と沈黙が、彼女の心を締め付ける。背徳感が、まるで体温のように熱を帯びて彼女を包む。
食事が終わり、駿が帰る時間になった。玄関で靴を履く彼を、沙織は夫の隣で見送った。「また来てくださいね、駿さん」彼女の声は穏やかで、完璧な主婦そのものだった。駿は軽く頭を下げ、「お邪魔しました。沙織さん、料理本当に美味しかったです」と答えた。だが、最後に彼女を見たその視線には、言葉にできない何かが宿っていた。沙織は一瞬、息を止めた。夫がその視線に気づいたのではないか――そんな不安が胸をよぎる。
「駿、気をつけて帰れよ」夫が声をかけ、玄関のドアが閉まる。沙織は夫の背中を見ながら、なぜか体が冷えるのを感じた。夫が振り返り、彼女を見た瞬間、その目には普段と違う光があった。「沙織、なんか変だな。さっきから落ち着かないみたいだが、大丈夫か?」その言葉に、沙織の心臓が凍りつく。夫は気づいたのか。昨夜のことを、駿との秘密を、何かを感じ取ったのか。彼女は必死に微笑みを浮かべ、「なんでもないの。ちょっと疲れてるだけ」と答えた。だが、夫の視線は彼女を離さず、まるで何かを探るようにじっと見つめていた。
雨が再び降り始めた。窓の外で、街灯の光が揺れる。沙織の胸には、不安と罪悪感が重くのしかかっていた。夫の視線が、彼女の仮面を剥がしてしまうのではないか――その恐怖が、夜の闇とともに彼女を包み込む。
「沙織、今日の料理も最高だよ。駿もそう思うだろ?」夫の声が響く。いつも通り、事務的で感情のこもらない口調だ。沙織は小さく頷き、「ありがとう」と答えたが、心の中では別の声が囁いていた。夫の言葉に反応する自分を演じながら、視線が自然と駿の方へと流れる。
駿はスーツの襟を緩め、ワイングラスを手にしながら軽く笑った。「本当に美味しいです。沙織さん、いつもこんな風に手間をかけてるんですか?」彼の声は低く、言葉の端々に何かを隠しているような響きがあった。沙織は一瞬、息を呑んだ。昨夜の記憶が脳裏を過る。深夜のバーで交わした言葉、雨に濡れた舗道を歩いた足音、モーテルの薄暗い部屋で感じた熱。彼女は微笑みを崩さず、「大したことないのよ。慣れてるから」と答えたが、声がわずかに震えた。
夫は気づかない。新聞をめくる手に意識を向け、会話から遠ざかっている。だが、沙織と駿の間には、言葉にならないものが流れていた。テーブルの下で、沙織の指が無意識にスカートの裾を握りしめる。駿の視線が彼女の手に落ち、口角がわずかに上がった。その微笑みは、まるで秘密を共有する者同士の暗号のようだった。
「駿、最近どうだ? 仕事は順調か?」夫が顔を上げ、話題を変えた。駿は姿勢を正し、丁寧に答える。「はい、なんとかやってます。課長のおかげで、いろいろ学ばせてもらってますよ」彼の言葉は模範的で、部下としての敬意に満ちていた。だが、沙織にはその裏に隠された意図が透けて見えた。『課長のおかげ』という言葉が、なぜか彼女の胸を刺す。夫を裏切る罪悪感と、駿の視線に引き込まれる欲望が、彼女の中でせめぎ合う。
食事が進むにつれ、部屋の中の空気は重く、湿ったものに変わっていった。窓の外では、街灯の光が雨に濡れた地面に反射し、薄暗い輝きを投げかけている。グラスが触れ合う音、フォークが皿に当たる小さな音、そして沈黙。それがすべてを支配していた。沙織は夫に気づかれないよう、駿と目を合わせないよう努めたが、ふとした瞬間に視線が絡み合う。駿の瞳には、昨夜の情熱がまだ燃えているようだった。彼女は慌てて目を逸らし、ワインを口に運んだ。アルコールの苦みが舌に広がるが、心のざわめきを抑えることはできなかった。
「沙織、顔が赤いぞ。飲みすぎじゃないか?」夫が初めて彼女に目を向けた。沙織は一瞬、凍りついた。心臓が早鐘を打つ。「大丈夫、ちょっと暑いだけ」と誤魔化し、微笑みを浮かべた。だがその笑顔は、どこかぎこちなく、仮面のように見えた。駿が小さく咳払いをする。彼の手がグラスを握る仕草が、なぜか沙織の目を引いた。長い指、力強い関節。昨夜、その手が彼女の腕に触れた感触が、まるで今も残っているかのように皮膚をざわつかせる。
「そういえば、沙織さん、昨夜は遅くまで起きてたんですか?」駿が突然、話題を振った。沙織の心臓が跳ね上がる。夫がいる前で、なぜそんなことを聞くのか。彼女は一瞬、言葉を失ったが、すぐに取り繕った。「ええ、ちょっと片付けがあって……」声が上ずる。駿は微笑んだまま、彼女を見つめる。「そうなんですね。夜遅くまで大変ですよね。僕も昨日は遅くまで出歩いてたんで、なんだか親近感が湧きます」彼の言葉は無邪気なようでいて、どこか含みを持っていた。沙織は彼の意図を読み取ろうと、必死にその瞳を覗き込む。だが、そこにはただ静かな笑みが浮かんでいるだけだった。
夫が眉をひそめた。「駿、昨日はどこに行ってたんだ? 遅くまで飲んでたのか?」その声には、部下を気遣う上司の口調が混じっていた。駿は肩をすくめ、「ちょっと友人と会ってただけです。たいしたことないですよ」と答えた。だが、沙織にはその言葉が嘘だとわかっていた。昨夜、彼は彼女と一緒にいた。雨上がりの街を歩き、薄暗いバーのカウンターで肩を寄せ合い、互いの孤独を埋めるように言葉を交わした。そして、その先へ――。
沙織は考えるのをやめた。頭を振るようにして、記憶を追い払う。夫の前でこんなことを考える自分を恥じながら、彼女は再び微笑みを浮かべた。だが、その笑顔はどこか脆く、崩れそうだった。駿が彼女を見つめる視線は、まるでその仮面を剥がそうとするかのように鋭い。彼女は耐えきれず、席を立った。「ちょっとお皿を下げてくるわ」そう言ってキッチンへ向かう。背後で、駿の声が追いかけてきた。「手伝いましょうか、沙織さん?」その声は低く、まるで囁くようだった。
「いや、いいよ。沙織一人でできるだろ」夫の声が割って入る。沙織は振り返らずに、「大丈夫、すぐ終わるから」と答えた。だが、キッチンに立った瞬間、彼女の手は震えていた。シンクに置いた皿がカチャリと音を立てる。心の中では、駿の声が反響していた。『手伝いましょうか』――その言葉に込められた意味を、彼女は感じ取っていた。夫の前で交わされる秘密の視線と沈黙が、彼女の心を締め付ける。背徳感が、まるで体温のように熱を帯びて彼女を包む。
食事が終わり、駿が帰る時間になった。玄関で靴を履く彼を、沙織は夫の隣で見送った。「また来てくださいね、駿さん」彼女の声は穏やかで、完璧な主婦そのものだった。駿は軽く頭を下げ、「お邪魔しました。沙織さん、料理本当に美味しかったです」と答えた。だが、最後に彼女を見たその視線には、言葉にできない何かが宿っていた。沙織は一瞬、息を止めた。夫がその視線に気づいたのではないか――そんな不安が胸をよぎる。
「駿、気をつけて帰れよ」夫が声をかけ、玄関のドアが閉まる。沙織は夫の背中を見ながら、なぜか体が冷えるのを感じた。夫が振り返り、彼女を見た瞬間、その目には普段と違う光があった。「沙織、なんか変だな。さっきから落ち着かないみたいだが、大丈夫か?」その言葉に、沙織の心臓が凍りつく。夫は気づいたのか。昨夜のことを、駿との秘密を、何かを感じ取ったのか。彼女は必死に微笑みを浮かべ、「なんでもないの。ちょっと疲れてるだけ」と答えた。だが、夫の視線は彼女を離さず、まるで何かを探るようにじっと見つめていた。
雨が再び降り始めた。窓の外で、街灯の光が揺れる。沙織の胸には、不安と罪悪感が重くのしかかっていた。夫の視線が、彼女の仮面を剥がしてしまうのではないか――その恐怖が、夜の闇とともに彼女を包み込む。
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