夜に溶ける約束

yukataka

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第7話:濡れた夜風

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雨が降りしきる地方都市の夜。住宅街の細い路地を抜ける風は冷たく、湿ったアスファルトの匂いが鼻をつく。街灯の薄明かりが、濡れた舗道にぼんやりと反射している。沙織は傘を手に、足早に歩いていたが、心の中はざわついていた。夫の無関心に耐えきれず、ただ一時の逃避を求めて家を出ただけだった。だが、待ち合わせの場所に立っていたのは、駿だった。

「遅いな、沙織さん。もう来ないかと思ったよ」
駿の声は低く、どこか挑発的な響きを帯びていた。長身の彼は、黒いコートの襟を立て、雨に濡れた髪を無造作にかき上げた。精悍な顔立ちに浮かぶ笑みは、沙織の胸を締め付ける。夫の部下である彼と、こんな夜に二人きりでいること自体が、すでに許されない一線を踏み越えているような気がした。

「ごめんなさい、ちょっと迷って……。でも、こんな時間に、こんな場所で会うなんて……」
沙織は言葉を濁し、視線を逸らした。傘の縁から滴る雨粒が、彼女の指先に触れて冷たく滑り落ちる。心臓が早鐘のように鳴り、理性が「帰るべきだ」と叫ぶ。だが、駿の視線が彼女を捕らえて離さない。

「迷うような場所じゃないだろ。俺が呼んだんだ、来てくれたんだから、それでいい」
駿は一歩近づき、沙織の傘に手を添えた。その指先が彼女の手と触れ合い、わずかな熱が伝わる。沙織は息を呑み、反射的に手を引こうとしたが、駿の力がそれを許さなかった。雨音が二人の間の沈黙を埋める。グラスが触れ合うような、微かな緊張の音が耳に響くようだった。

「駿くん、私……こんなこと、だめだと思う。家族が、夫が……」
沙織の声は震え、湿った夜風が彼女の頬を撫でる。衣服が肌に張り付き、冷たさが体を包む。だが、駿の視線は熱を帯び、彼女の言葉を遮るように笑った。

「だめだと思うなら、来なきゃよかった。だけど、来た。沙織さん、俺と同じ気持ちなんだろ?」
彼の言葉は鋭く、沙織の心を突き刺す。彼女は否定しようと口を開いたが、言葉が出てこない。夫の冷たい態度、家の重苦しい空気、そして何よりも、自分が「女」として見られたいという渇望が、彼女をここに立たせていた。

二人は人目を避けるように、路地を抜けて歩き始めた。雨に濡れた舗道を踏む音が、まるで心臓の鼓動のように響く。駿が先を歩き、沙織は彼の背中を追いかける。夜風が吹き抜けるたび、彼女の髪が乱れ、首筋に冷たい雫が落ちる。だが、その冷たさとは裏腹に、胸の奥が熱く燃えていた。理性と欲望がせめぎ合い、彼女を苛む。

「ここだ」
駿が立ち止まったのは、街外れの古いアパートだった。薄暗い階段を上り、彼が鍵を開ける音が静かな夜に響く。沙織は一瞬、足を止めた。扉の向こうに踏み込むことは、取り返しのつかない一線を越える予感を孕んでいる。だが、駿が振り返り、彼女を見つめる瞳には、逃げ場を許さない力が宿っていた。

「入らないのか? 雨で濡れてるだろ。少しだけ、暖まっていけよ」
彼の声は優しく、しかしどこか命令口調だった。沙織は唇を噛み、迷いながらも一歩を踏み出した。部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、床に細い線を描いている。アルコールとタバコの匂いが微かに漂い、夜風に混じる彼の香水が沙織の鼻をつく。ソファの布地がざらつき、彼女が腰を下ろすと、湿った衣服が肌にまとわりつく感覚が不快で、しかしどこか生々しかった。

「寒いだろ。ちょっと待ってて」
駿はキッチンへと消え、すぐにグラスとボトルを持って戻ってきた。琥珀色の液体が注がれる音、グラスが触れ合う微かな音が、部屋の静寂を破る。沙織はグラスを受け取り、指先に残る湿気と、駿の視線を感じながら、わずかに震えた。

「沙織さん、いつも思うけど、もっと笑えばいい。こんな顔、勿体ない」
駿がグラスを傾けながら言う。彼の視線は沙織の瞳を捉え、逃がさない。彼女は無理に笑おうとしたが、頬が強張るだけだった。孤独が、承認を求める渇望が、彼女をここに縛り付けている。夫には決して見せられない、女としての自分が、駿の前では剥き出しになる。

「笑うなんて、最近忘れちゃったみたい……。駿くんは、いつもそんな風に言うけど、私、ただの主婦で、母で……」
沙織の声は途切れ、グラスを握る手が震える。駿は彼女の言葉を遮るように、ソファに身を寄せた。二人の距離が縮まり、彼女の肩に触れる彼の指先が、熱を帯びている。外の雨音が強まり、窓を叩く音がまるで心の葛藤を代弁しているようだった。

「主婦とか母とか、そんなの関係ない。俺が見てるのは、沙織さんだ。俺の前では、それだけでいい」
駿の声は低く、囁くようだった。沙織の心が揺れる。罪悪感が胸を締め付けるが、彼の言葉がその痛みを溶かしていく。彼女は目を閉じ、夜風が運ぶ湿った空気を吸い込んだ。体温が近づく感覚、衣服越しに伝わる熱が、彼女を包む。理性が最後の抵抗を見せるが、欲望がそれを押し潰そうとしていた。

「駿くん、私……これ以上は、だめだと思う。帰らなきゃ……」
沙織の声は弱々しく、しかし彼女の体は動かない。駿の手が彼女の頬に触れ、冷たい指先が熱を帯びた肌を撫でる。雨に濡れた夜風が、カーテンの隙間から吹き込み、二人の間に漂う緊張をさらに高めた。

「帰るかどうかは、沙織さんが決めることだ。俺はただ、ここにいる」
彼の言葉は静かで、しかし重く響いた。沙織の瞳が揺れ、駿の視線と交わる。その瞬間、時間が止まったかのように、部屋の中の空気が張り詰めた。外の雨音が遠く、車の走行音が微かに聞こえるだけだった。彼女の心は熱を帯び、理性が最後の糸を切ろうとしている。

駿が立ち上がり、扉の方へ歩く。沙織の視線が彼を追い、胸が締め付けられる。彼が振り返り、彼女を見つめる瞳には、欲望と葛藤が混じり合っていた。扉がゆっくりと閉まる音が、静かな部屋に響き渡る。その音は、まるで一線を越える予感を孕んだ警告のようだった。沙織の息が浅くなり、交わる視線が互いを縛り付ける。次の瞬間が、二人をどこへ導くのか、誰も知らない。

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