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第10章『亀裂と絆』
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ノルディアとの同盟締結から三日後、王宮に新たな使節団が到着した。アルカディア共和国からの使者たちだ。
彼らは商人風の豪華な衣装を身につけ、宝石や金の装飾品を惜しげもなく身につけていた。先頭を歩く男は、太った体躯に派手な帽子を被り、絶えず笑みを浮かべている。
「リオネール王国女王陛下」
男が大袈裟な仕草で一礼した。
「我が名はマルコ・ヴェネツィアーノ。アルカディア共和国商人ギルド代表として参上いたしました」
「ようこそ、マルコ殿」
セリーヌが謁見の間で迎える。
「我が国の申し出を検討していただけたか」
「もちろんです」
マルコが満面の笑みを浮かべる。
「我が国は、常に利益をもたらす取引を歓迎します」
「では、条件は」
「まず、戦費として金貨十万枚を前払いでいただきます」
グレゴールの顔が強張る。十万枚は、王国の年間税収の半分に相当する額だ。
「次に、戦後の通商独占権。リオネール王国の全ての港において、我が国の商船が優先的に使用できる権利を五十年間」
「五十年だと?」
エドガー将軍が声を荒げる。
「それでは我が国の商人が干上がる」
「戦争に勝てなければ、商人どころか国そのものが消えますよ」
マルコが冷ややかに言う。
「我々は慈善事業をしているわけではありません。リスクに見合う報酬を求めているだけです」
「他の条件は」
セリーヌが冷静に尋ねる。
「鉱山の採掘権三十年、それと……」
マルコが言葉を区切る。
「王女様を、我が国の有力商人の息子に嫁がせていただきたい」
謁見の間が静まり返った。
「何だと?」
レオンが剣の柄に手をかける。
「陛下を商取引の道具にするつもりか」
「そう怒らないでください」
マルコが手を上げる。
「これも立派な外交手段です。婚姻によって両国の絆を強固にする。よくあることでしょう」
「断る」
セリーヌがきっぱりと言う。
「私の婚姻は、取引の材料ではない」
「では、我が国の支援も期待できませんな」
マルコが肩をすくめる。
「残念ですが、他を当たってください」
「待て」
グレゴールが割って入る。
「条件を修正すれば、交渉の余地はあるのか」
「もちろん」
マルコの目が光る。
「ビジネスとは、交渉です。落としどころを見つけましょう」
その後、交渉は難航した。セリーヌは婚姻の条件を完全に拒否し、代わりに鉱山採掘権を四十年に延長することを提案した。マルコは金額を十五万枚に引き上げ、港の優先使用権を三十年に短縮した。
三日間の交渉の末、ようやく合意に達した。金貨十二万枚、通商優遇措置三十年、鉱山採掘権四十年。その代わり、アルカディアは傭兵五千を派遣し、海上からの補給路を確保する。
「契約成立ですな」
マルコが満足そうに契約書にサインする。
「いい取引でした、女王陛下」
「これで我が軍は三万五千」
セリーヌが計算する。
「まだ敵より少ないが、戦える数字だ」
「ただし」
マルコが真面目な顔になる。
「我が国の傭兵は、金が切れれば帰ります。戦費の管理には、くれぐれもご注意を」
「わかっている」
セリーヌが頷く。
マルコたちが退出すると、グレゴールが深い溜息をついた。
「陛下、これで王国の財政は破綻寸前です」
「戦争に勝てなければ、財政も何もない」
セリーヌが窓の外を見つめる。
「まず生き残る。それから再建だ」
「ですが……」
「グレゴール、私にはわかっている」
セリーヌが振り返る。
「この戦争が終わった後、我が国は疲弊し、借金に苦しむことになる。民は重税に喘ぎ、不満が噴出するだろう」
「それでも、やるのですか」
「やらなければ、国が滅ぶ」
セリーヌの目に、決意が宿る。
「私は、その責任を全て背負う。批判も、恨みも、全て受け止める。それが女王の務めだ」
グレゴールは深く頭を下げた。
「……陛下のご決断に、従います」
その夜、セリーヌは地下牢を訪れた。そこには、デュランをはじめとする裏切り者たちが収監されている。
だが今日、彼女が訪ねたのは別の囚人だった。
「久しぶりだな、ダリウス」
セリーヌが独房の前に立つ。
中には、かつての王宮騎士団副長が鎖に繋がれていた。サイラスの部下が、ザクセン国境で彼を捕らえたのだ。
「……女王陛下」
ダリウスが顔を上げる。かつての精悍な顔には、疲労と絶望が刻まれていた。
「お前が売った情報のせいで、何人の兵士が死んだと思う」
「……」
ダリウスは黙り込んだ。
「お前は、レオンの部下だった。彼を裏切り、国を裏切り、何を得た」
「金だ」
ダリウスが呟く。
「帝国から、金を得た」
「それだけか」
「……違う」
ダリウスが拳を握りしめる。
「俺は、認められたかった。俺の父は汚職で爵位を剥奪された。だが、俺は違う。俺は真面目に騎士として仕えてきた」
「それなのに、私がお前を冷遇したと」
「そうだ」
ダリウスが顔を上げる。
「お前は改革、改革と叫び、古い家系を次々と排除した。俺の家も、その犠牲になった。俺は、復讐したかっただけだ」
「復讐か」
セリーヌが冷たく笑う。
「私も、かつては復讐に生きていた。だが、復讐は何も生まない。ただ、憎しみの連鎖を生むだけだ」
「……わかっている」
ダリウスが俯く。
「俺は、もう終わりだ。好きにしてくれ」
「お前を処刑するのは簡単だ」
セリーヌが言う。
「だが、それでは死んだ兵士たちは報われない」
「では、どうする」
「お前に、贖罪の機会を与える」
セリーヌの言葉に、ダリウスが驚いて顔を上げる。
「帝国の内部情報を全て吐け。軍の配置、補給路、指揮官の性格、弱点。知っている全てをだ」
「それを話せば……」
「お前の命は助ける。だが、二度と自由の身にはなれない。終身牢獄だ」
ダリウスは長い沈黙の後、頷いた。
「……わかった。話そう」
その後数時間、ダリウスは帝国の機密情報を語り続けた。セリーヌとサイラスは、全てを書き留めていく。
「これで全てか」
「ああ」
ダリウスが力なく答える。
「……すまなかった」
「謝るな」
セリーヌが立ち上がる。
「謝罪は、生きて罪を償ってからだ」
地下牢を出ると、レオンが待っていた。
「陛下、ダリウスは何か」
「有益な情報を得た」
セリーヌが答える。
「彼の裏切りは許されないが、少なくとも最後に役に立った」
「……そうですか」
レオンの表情は複雑だった。
「レオン、お前はダリウスを恨んでいるか」
「正直に言えば、恨んでいます」
レオンが答える。
「俺を裏切り、仲間を売った。許せるはずがない」
「だが、それでもお前は、彼の情報を使うだろう」
「使います」
レオンがきっぱりと言う。
「俺は、陛下と王国のために戦っています。個人的な感情は、二の次です」
「立派だ」
セリーヌが微笑む。
「お前のような部下がいて、私は幸運だ」
「光栄です」
二人は王宮の廊下を歩いていった。窓の外では、兵士たちが訓練に励んでいる。出陣の日が、刻一刻と近づいていた。
数日後、サイラスが王都に戻ってきた。彼の顔には、珍しく疲労の色が浮かんでいる。
「陛下、報告します」
「アルトマルクは」
「失敗しました」
サイラスが苦い顔をする。
「連邦の首脳部は、帝国への恐怖が強すぎます。寝返りを持ちかけましたが、拒否されました」
「そうか」
セリーヌが溜息をつく。
「では、アルトマルクは敵のままか」
「ただし、情報は得ました」
サイラスが地図を広げる。
「アルトマルク軍の配置と、進軍予定ルートです。これを使えば、奇襲が可能です」
「よくやった」
セリーヌが地図を検討する。
「この情報をエドガー将軍に渡せ。作戦を立てさせる」
「了解しました」
サイラスが去った後、セリーヌは一人で地図を見つめ続けた。
ノルディアとアルカディアの援軍が到着するまで、あと一週間。それまでに、防衛線を固め、補給路を確保し、兵士たちの士気を高めなければならない。
やるべきことは山積みだった。
その夜、セリーヌは執務室で書類の山と格闘していた。兵站報告、財政資料、外交文書。全てに目を通し、判断を下す。
深夜になっても、彼女は休まなかった。
その時、扉がノックされた。
「入れ」
レオンが入ってきた。手には、温かいスープの入った椀を持っている。
「陛下、少し休んでください」
「まだやることがある」
「倒れては、元も子もありません」
レオンがスープを机に置く。
「どうか、少しでも」
セリーヌは溜息をつき、羽ペンを置いた。
「ありがとう、レオン」
彼女はスープを一口飲む。温かさが、疲れた体に染み渡る。
「レオン、お前には家族がいたな」
「はい。故郷に、母と妹がいます」
「彼女たちは、今」
「避難させました」
レオンが答える。
「戦火が及ばない、東部の親戚の家に」
「そうか」
セリーヌが微笑む。
「戦争が終わったら、会いに行くといい」
「……陛下は」
レオンが躊躇いがちに言う。
「陛下には、守りたいものはありますか」
「守りたいもの?」
セリーヌが考え込む。
「この国だ。この民だ。そして……」
彼女は窓の外を見つめた。
「この平和な光景だ。子どもたちが笑い、老人たちが安らかに眠れる世界。それを守りたい」
「陛下らしい答えです」
レオンが微笑む。
「俺は、陛下のために戦います」
「いや、お前は自分のために戦え」
セリーヌがレオンの肩に手を置く。
「自分の大切なものを守るために。それが、最も強い力になる」
「……はい」
レオンが深く頷いた。
翌朝、王宮の中庭に全軍の代表が集められた。これから出陣する兵士たちに、セリーヌが訓示を与えるためだ。
セリーヌは鎧を身につけ、剣を腰に帯びて演壇に立った。
「兵士諸君」
彼女の声が響く。
「今日、我々は歴史的な戦いに臨む。四カ国を相手に、我が国の存亡をかけた戦いだ」
兵士たちが静かに聞き入る。
「確かに、敵は多い。我々は数で劣り、装備でも劣るかもしれない。だが、我々には彼らにないものがある」
セリーヌが剣を抜く。
「それは、守るべきものだ。家族がいる。故郷がいる。愛する人たちがいる。その全てを守るために、我々は戦う」
「女王陛下と共に!」
一人の兵士が叫ぶ。
「王国に栄光を!」
次々と声が上がる。
「出陣だ!」
セリーヌが剣を天に掲げる。
全軍が雄叫びを上げ、王都の門が開かれた。二万の兵士が隊列を組み、戦場へと向かって行進を始める。
その先頭に、セリーヌが馬に跨って立っていた。彼女の後ろには、レオン率いる近衛騎士団が続く。
民衆が道の両脇に並び、兵士たちに声援を送る。
「頑張ってください!」
「必ず勝って帰ってきて!」
その声援を背に、軍は王都を後にした。
北へ、東へ、西へ。三方向に軍が展開していく。ノルディア軍との合流地点は北部、アルカディア傭兵との合流は港町。全てが予定通りに進めば、一週間後には全軍が集結する。
だが、戦争に予定通りなどない。
セリーヌはそれを知っていた。だからこそ、彼女は最前線に立つ。指揮官として、女王として、そして一人の戦士として。
馬を走らせながら、彼女は心の中で誓う。
必ず勝つ。どんな犠牲を払っても、この国を守り抜く。
それが、民への誓いだ。
軍は街道を進み、やがて森の中へと入っていった。木々の間から差し込む光が、兵士たちの鎧を照らし出す。
戦争が、始まろうとしていた。
彼らは商人風の豪華な衣装を身につけ、宝石や金の装飾品を惜しげもなく身につけていた。先頭を歩く男は、太った体躯に派手な帽子を被り、絶えず笑みを浮かべている。
「リオネール王国女王陛下」
男が大袈裟な仕草で一礼した。
「我が名はマルコ・ヴェネツィアーノ。アルカディア共和国商人ギルド代表として参上いたしました」
「ようこそ、マルコ殿」
セリーヌが謁見の間で迎える。
「我が国の申し出を検討していただけたか」
「もちろんです」
マルコが満面の笑みを浮かべる。
「我が国は、常に利益をもたらす取引を歓迎します」
「では、条件は」
「まず、戦費として金貨十万枚を前払いでいただきます」
グレゴールの顔が強張る。十万枚は、王国の年間税収の半分に相当する額だ。
「次に、戦後の通商独占権。リオネール王国の全ての港において、我が国の商船が優先的に使用できる権利を五十年間」
「五十年だと?」
エドガー将軍が声を荒げる。
「それでは我が国の商人が干上がる」
「戦争に勝てなければ、商人どころか国そのものが消えますよ」
マルコが冷ややかに言う。
「我々は慈善事業をしているわけではありません。リスクに見合う報酬を求めているだけです」
「他の条件は」
セリーヌが冷静に尋ねる。
「鉱山の採掘権三十年、それと……」
マルコが言葉を区切る。
「王女様を、我が国の有力商人の息子に嫁がせていただきたい」
謁見の間が静まり返った。
「何だと?」
レオンが剣の柄に手をかける。
「陛下を商取引の道具にするつもりか」
「そう怒らないでください」
マルコが手を上げる。
「これも立派な外交手段です。婚姻によって両国の絆を強固にする。よくあることでしょう」
「断る」
セリーヌがきっぱりと言う。
「私の婚姻は、取引の材料ではない」
「では、我が国の支援も期待できませんな」
マルコが肩をすくめる。
「残念ですが、他を当たってください」
「待て」
グレゴールが割って入る。
「条件を修正すれば、交渉の余地はあるのか」
「もちろん」
マルコの目が光る。
「ビジネスとは、交渉です。落としどころを見つけましょう」
その後、交渉は難航した。セリーヌは婚姻の条件を完全に拒否し、代わりに鉱山採掘権を四十年に延長することを提案した。マルコは金額を十五万枚に引き上げ、港の優先使用権を三十年に短縮した。
三日間の交渉の末、ようやく合意に達した。金貨十二万枚、通商優遇措置三十年、鉱山採掘権四十年。その代わり、アルカディアは傭兵五千を派遣し、海上からの補給路を確保する。
「契約成立ですな」
マルコが満足そうに契約書にサインする。
「いい取引でした、女王陛下」
「これで我が軍は三万五千」
セリーヌが計算する。
「まだ敵より少ないが、戦える数字だ」
「ただし」
マルコが真面目な顔になる。
「我が国の傭兵は、金が切れれば帰ります。戦費の管理には、くれぐれもご注意を」
「わかっている」
セリーヌが頷く。
マルコたちが退出すると、グレゴールが深い溜息をついた。
「陛下、これで王国の財政は破綻寸前です」
「戦争に勝てなければ、財政も何もない」
セリーヌが窓の外を見つめる。
「まず生き残る。それから再建だ」
「ですが……」
「グレゴール、私にはわかっている」
セリーヌが振り返る。
「この戦争が終わった後、我が国は疲弊し、借金に苦しむことになる。民は重税に喘ぎ、不満が噴出するだろう」
「それでも、やるのですか」
「やらなければ、国が滅ぶ」
セリーヌの目に、決意が宿る。
「私は、その責任を全て背負う。批判も、恨みも、全て受け止める。それが女王の務めだ」
グレゴールは深く頭を下げた。
「……陛下のご決断に、従います」
その夜、セリーヌは地下牢を訪れた。そこには、デュランをはじめとする裏切り者たちが収監されている。
だが今日、彼女が訪ねたのは別の囚人だった。
「久しぶりだな、ダリウス」
セリーヌが独房の前に立つ。
中には、かつての王宮騎士団副長が鎖に繋がれていた。サイラスの部下が、ザクセン国境で彼を捕らえたのだ。
「……女王陛下」
ダリウスが顔を上げる。かつての精悍な顔には、疲労と絶望が刻まれていた。
「お前が売った情報のせいで、何人の兵士が死んだと思う」
「……」
ダリウスは黙り込んだ。
「お前は、レオンの部下だった。彼を裏切り、国を裏切り、何を得た」
「金だ」
ダリウスが呟く。
「帝国から、金を得た」
「それだけか」
「……違う」
ダリウスが拳を握りしめる。
「俺は、認められたかった。俺の父は汚職で爵位を剥奪された。だが、俺は違う。俺は真面目に騎士として仕えてきた」
「それなのに、私がお前を冷遇したと」
「そうだ」
ダリウスが顔を上げる。
「お前は改革、改革と叫び、古い家系を次々と排除した。俺の家も、その犠牲になった。俺は、復讐したかっただけだ」
「復讐か」
セリーヌが冷たく笑う。
「私も、かつては復讐に生きていた。だが、復讐は何も生まない。ただ、憎しみの連鎖を生むだけだ」
「……わかっている」
ダリウスが俯く。
「俺は、もう終わりだ。好きにしてくれ」
「お前を処刑するのは簡単だ」
セリーヌが言う。
「だが、それでは死んだ兵士たちは報われない」
「では、どうする」
「お前に、贖罪の機会を与える」
セリーヌの言葉に、ダリウスが驚いて顔を上げる。
「帝国の内部情報を全て吐け。軍の配置、補給路、指揮官の性格、弱点。知っている全てをだ」
「それを話せば……」
「お前の命は助ける。だが、二度と自由の身にはなれない。終身牢獄だ」
ダリウスは長い沈黙の後、頷いた。
「……わかった。話そう」
その後数時間、ダリウスは帝国の機密情報を語り続けた。セリーヌとサイラスは、全てを書き留めていく。
「これで全てか」
「ああ」
ダリウスが力なく答える。
「……すまなかった」
「謝るな」
セリーヌが立ち上がる。
「謝罪は、生きて罪を償ってからだ」
地下牢を出ると、レオンが待っていた。
「陛下、ダリウスは何か」
「有益な情報を得た」
セリーヌが答える。
「彼の裏切りは許されないが、少なくとも最後に役に立った」
「……そうですか」
レオンの表情は複雑だった。
「レオン、お前はダリウスを恨んでいるか」
「正直に言えば、恨んでいます」
レオンが答える。
「俺を裏切り、仲間を売った。許せるはずがない」
「だが、それでもお前は、彼の情報を使うだろう」
「使います」
レオンがきっぱりと言う。
「俺は、陛下と王国のために戦っています。個人的な感情は、二の次です」
「立派だ」
セリーヌが微笑む。
「お前のような部下がいて、私は幸運だ」
「光栄です」
二人は王宮の廊下を歩いていった。窓の外では、兵士たちが訓練に励んでいる。出陣の日が、刻一刻と近づいていた。
数日後、サイラスが王都に戻ってきた。彼の顔には、珍しく疲労の色が浮かんでいる。
「陛下、報告します」
「アルトマルクは」
「失敗しました」
サイラスが苦い顔をする。
「連邦の首脳部は、帝国への恐怖が強すぎます。寝返りを持ちかけましたが、拒否されました」
「そうか」
セリーヌが溜息をつく。
「では、アルトマルクは敵のままか」
「ただし、情報は得ました」
サイラスが地図を広げる。
「アルトマルク軍の配置と、進軍予定ルートです。これを使えば、奇襲が可能です」
「よくやった」
セリーヌが地図を検討する。
「この情報をエドガー将軍に渡せ。作戦を立てさせる」
「了解しました」
サイラスが去った後、セリーヌは一人で地図を見つめ続けた。
ノルディアとアルカディアの援軍が到着するまで、あと一週間。それまでに、防衛線を固め、補給路を確保し、兵士たちの士気を高めなければならない。
やるべきことは山積みだった。
その夜、セリーヌは執務室で書類の山と格闘していた。兵站報告、財政資料、外交文書。全てに目を通し、判断を下す。
深夜になっても、彼女は休まなかった。
その時、扉がノックされた。
「入れ」
レオンが入ってきた。手には、温かいスープの入った椀を持っている。
「陛下、少し休んでください」
「まだやることがある」
「倒れては、元も子もありません」
レオンがスープを机に置く。
「どうか、少しでも」
セリーヌは溜息をつき、羽ペンを置いた。
「ありがとう、レオン」
彼女はスープを一口飲む。温かさが、疲れた体に染み渡る。
「レオン、お前には家族がいたな」
「はい。故郷に、母と妹がいます」
「彼女たちは、今」
「避難させました」
レオンが答える。
「戦火が及ばない、東部の親戚の家に」
「そうか」
セリーヌが微笑む。
「戦争が終わったら、会いに行くといい」
「……陛下は」
レオンが躊躇いがちに言う。
「陛下には、守りたいものはありますか」
「守りたいもの?」
セリーヌが考え込む。
「この国だ。この民だ。そして……」
彼女は窓の外を見つめた。
「この平和な光景だ。子どもたちが笑い、老人たちが安らかに眠れる世界。それを守りたい」
「陛下らしい答えです」
レオンが微笑む。
「俺は、陛下のために戦います」
「いや、お前は自分のために戦え」
セリーヌがレオンの肩に手を置く。
「自分の大切なものを守るために。それが、最も強い力になる」
「……はい」
レオンが深く頷いた。
翌朝、王宮の中庭に全軍の代表が集められた。これから出陣する兵士たちに、セリーヌが訓示を与えるためだ。
セリーヌは鎧を身につけ、剣を腰に帯びて演壇に立った。
「兵士諸君」
彼女の声が響く。
「今日、我々は歴史的な戦いに臨む。四カ国を相手に、我が国の存亡をかけた戦いだ」
兵士たちが静かに聞き入る。
「確かに、敵は多い。我々は数で劣り、装備でも劣るかもしれない。だが、我々には彼らにないものがある」
セリーヌが剣を抜く。
「それは、守るべきものだ。家族がいる。故郷がいる。愛する人たちがいる。その全てを守るために、我々は戦う」
「女王陛下と共に!」
一人の兵士が叫ぶ。
「王国に栄光を!」
次々と声が上がる。
「出陣だ!」
セリーヌが剣を天に掲げる。
全軍が雄叫びを上げ、王都の門が開かれた。二万の兵士が隊列を組み、戦場へと向かって行進を始める。
その先頭に、セリーヌが馬に跨って立っていた。彼女の後ろには、レオン率いる近衛騎士団が続く。
民衆が道の両脇に並び、兵士たちに声援を送る。
「頑張ってください!」
「必ず勝って帰ってきて!」
その声援を背に、軍は王都を後にした。
北へ、東へ、西へ。三方向に軍が展開していく。ノルディア軍との合流地点は北部、アルカディア傭兵との合流は港町。全てが予定通りに進めば、一週間後には全軍が集結する。
だが、戦争に予定通りなどない。
セリーヌはそれを知っていた。だからこそ、彼女は最前線に立つ。指揮官として、女王として、そして一人の戦士として。
馬を走らせながら、彼女は心の中で誓う。
必ず勝つ。どんな犠牲を払っても、この国を守り抜く。
それが、民への誓いだ。
軍は街道を進み、やがて森の中へと入っていった。木々の間から差し込む光が、兵士たちの鎧を照らし出す。
戦争が、始まろうとしていた。
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荒瀬ヤヒロ
ファンタジー
妹に婚約者を奪われ、歳の離れた女好きに嫁がされそうになったことに反発し家を捨てたレイチェル。彼女が向かったのは「蛇に呪われた公爵」が住む離宮だった。
「お願いします、私と結婚してください!」
「はあ?」
幼い頃に蛇に呪われたと言われ「生贄公爵」と呼ばれて人目に触れないように離宮で暮らしていた青年ヴェンディグ。
そこへ飛び込んできた侯爵令嬢にいきなり求婚され、成り行きで婚約することに。
しかし、「蛇に呪われた生贄公爵」には、誰も知らない秘密があった。
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