ふたりの間に、雨が降る

yukataka

文字の大きさ
3 / 3

グラウンドに落ちた雨

しおりを挟む
梅雨入り宣言が出た日の放課後、チャイムが鳴り終わるころには、空はすでに水色の氷で覆われたみたいに冷たかった。
 僕は教室の窓際で、サッカー部の集合がかかるグラウンドをぼんやり見下ろした。白いラインがまだらに滲み、芝の表面は薄く光っている。傘の群れが校門の方へ流れていくのを目で追いながら、帰宅部という名の自由業である僕は、ゆっくりと腰を上げた。

 階段を降りる途中、汗と泥の匂いが混ざった風が吹き上がってくる。あの匂いが嫌いだった時期がある。体育の授業で転んで膝を擦りむいて以来、僕は地面に好かれていないと信じていた。けれど、二年になってからは少し違う。匂いが風に乗ってくると、胸のどこかが静かに騒ぐ。

 原因は分かっている。
 グラウンドの中央、キャプテンマークを巻いた十番の背中。
 天城蓮。

 嘘みたいな名字と、覚えやすい名前。目は猫みたいに切れ長で、笑うと右の口角にだけえくぼが寄る。走り出す前の屈伸がいつも丁寧で、その律儀さに気づいてから、僕は彼の毎日の細部を集めてしまうようになった。

 昇降口で靴を履き替え、傘を取り出したところで、雨が一段強くなった。音が急に近くなる。グラウンドでは顧問が空を見上げ、笛を短く吹いた。練習はメニューを縮めてやるのか、それとも中止か。ざわっと部員が動く気配の中で、蓮だけがラインの上に立ったまま、雨に顔を預けていた。目を閉じて、呼吸を整えるみたいに。

 僕は、傘を差した。

 屋根の短い渡り廊下を抜け、観客席の屋根の下に入る。誰もいないベンチの端に腰を下ろすと、足もとに雨の跳ね返りが点々と跳んだ。視界の端で、蓮がゆっくりこちらを向くのが分かった。目が合った、気がした。次の瞬間、彼は顧問に何か言われ、軽く頷いてから、スパイクの紐を引き締めた。

 練習は、結局やるらしい。
 小さな声で声出しが始まる。パスとダッシュを短く刻む。足音と雨音が重なり、グラウンド全体が薄いリズムを刻む。僕は濡れないベンチの特権で、それを少し高いところから見ていた。

 何分経ったのか分からない。ふいに、蓮が足首を押さえてしゃがみ込んだ。胸がぎゅっと詰まる。顧問が駆け寄り、数人の部員が取り囲む。立ち上がったけれど、表情は痛いのを隠す笑顔で、歩き方が少しだけぎこちない。

 ベンチの前を通るとき、蓮は一瞬だけ視線を上げた。驚いたような顔をして、それからやわらかく笑う。

「新」

 名前を呼ばれて、僕は傘の柄を握り直した。

「捻った?」

「ちょっとひねった。たいしたことないやつ」

「保健室、行く?」

「テーピング室、借りる。コーチ忙しそうだし、自分で巻く」

「……手、足りてる?」

 気づいたら立ち上がっていた。声が少し上ずったのをごまかすために、咳払いする。蓮は片眉を上げて、雨に濡れた前髪を指で払った。

「手、貸してくれる?」

「うん」

 何でもないやりとり。けれど、胸の奥で何かが小さく跳ねた。

 器具室に隣接した狭いテーピング室は、白い蛍光灯が雨の匂いを薄めるみたいに明るかった。机の上にテープ、ハサミ、消毒液。壁には簡単な巻き方の図。椅子が二つ。僕と蓮はそこに向き合って座り、彼は靴下をそっと下ろした。露わになった足首は、白くて、骨ばっていて、やけに脆そうだ。

「触るよ」

「どうぞ」

 返事の軽さに比べて、僕の手は驚くほど慎重だった。両側から支えるように包むと、皮膚の温度が指先に移ってくる。雨に濡れた体温は、思っていたより高い。

「痛む?」

「その角度は平気。内側に入れると少し」

「わかった」

 図を見ながら、ゆっくりとテープを引き出す。足の甲から足首、踵へ、固定のラインを作る。途中で何度も顔を上げると、蓮は視線で「大丈夫」を送ってくる。言葉より先に、そう合図してくれるところが昔から好きだった。いや、好き、はまだ言ってはいけない気がして、心の中だけで訂正する。

「器用だね、新」

「手先だけはね」

「『だけ』って言うところが新だな」

「うるさい」

 口ではそう言いながら、心の中は落ち着いていく。動作に集中すれば、余計なことを考えずに済む。最後のテープを切り、端を押さえた。蓮が軽く足首を回す。

「どう?」

「いい感じ。ありがとう」

 言葉と一緒に、蓮の手が僕の手に重なった。一瞬、時間が止まる。雨音だけが遠くで続いている。運動部の汗と雨の匂いに、ハンドソープの匂いが混ざって、妙に清潔な気配がした。

 僕は、息を吐く。

「練習、戻る?」

「ううん。今日はここまで」

「顧問は?」

「珍しく優しかった」

「珍しい、ね」

「試合前だからね。怪我人を増やしたくないんだって」

「日曜の県予選?」

「そう。来るの?」

「……行く」

 即答してから、顔が熱くなる。行くなんて言って、もし蓮がスタンドを見上げたときに僕がいなかったら、彼はがっかりするだろうか。逆に、僕がいることで彼の集中が削がれたりしないだろうか。そんなことを一秒のうちに十個くらい考えて、考え過ぎて、苦笑する。

「来なくてもいいのにって顔、しないところが新のいいとこ」

「じゃあ来る」

「うん。雨っぽいけど」

「雨でも来る」

 蓮は少しだけ目を細めた。その目は、雨の日の光を知っている。好き、と言ったら、この目はどんなふうに細められるんだろう。想像が一瞬だけ喉を塞いで、僕は咳払いで誤魔化した。

 その日、僕は帰り道でコンビニに寄り、応援用に何か役に立ちそうなものを探した。冷えた体を温めるカイロは季節外れで置いていなくて、代わりにスポーツ用の大きめのタオルと、レモン味の飴を買った。財布は軽く、心はすこしだけ軽くなった。

 日曜日。
 朝から空は曇っていて、試合開始の頃には雨が細かく降り出した。スタンドの半分は傘で覆われ、もう半分は合羽の色で染まる。僕はバックスタンドの端に陣取り、ビニールシートを膝にかけた。前夜ほとんど眠れなかったことを、誰にも見抜かれたくなくて、目をこすらないように気をつける。

 ピッチに選手が入場する。蓮はいつもの足取りで、ラインに片足を置いて止まり、短く空を見上げた。それから、振り向いてスタンドを探すみたいに視線を巡らせる。胸が痛む。僕は傘の内側から、小さく手を上げた。気づかれなくてほっとして、気づかれなくて少し寂しかった。

 笛が鳴る。
 試合は、ぎゅっと詰まった均衡のまま進んだ。雨でボールが伸び、足もとが滑る。蓮は慎重に、でも大胆に、空いているスペースを味方に示しながら動く。捻った足首はもう気にならないみたいだった。前半の終わり、コーナーキックのチャンスで、彼はファーに抜けると見せかけてニアに走り込み、低いボールを頭で合わせた。ネットが揺れる。スタンドが沸く。僕は立ち上がりかけて、慌てて座った。叫びそうになった声を、喉の奥で握りつぶす。

 ハーフタイム。
 雨脚が強くなって、ピッチの一部に水が浮き始める。選手はベンチに引き上げるが、蓮は一瞬だけ立ち止まり、また空を見た。その横顔が、妙に大人びて見えた。三十秒だけ時間が止まって、その次の瞬間、彼はいつもの笑顔で誰かとハイタッチしていた。

 後半。
 相手も意地を見せ、同点に追いつかれる。グラウンドのコンディションはさらに悪くなり、パスは止まり、スライディングの跡が泥の線を引く。僕の足もとにまで、冷たい水の匂いがのぼってきた。

 残り十分。
 同点のまま、試合は延長の気配を帯びる。心臓が忙しい。雨が細かく顔を刺す。僕はタオルを握りしめ、いつでも誰かに渡せるように膝の上で折りたたんだ。渡す相手は、ひとりしかいない。

 残り七分。
 カウンター、蓮の前にスペースができる。ボールが出る。彼は足元に収め、相手の重心を見て、スッと中に切れ込んだ。足首のテーピングが白くのぞく。シュートのモーションに入った瞬間、相手のスライディングがわずかに遅れて、足と足が絡んだ。蓮が倒れる。笛。ペナルティエリアの外。フリーキック。

 雨音が一段高くなった気がした。
 蹴るのは、たぶん蓮だ。
 角度は悪くない。距離も悪くない。
 でも、雨が強い。

 笛。
 走り込む。
 ボールは壁の上を、ほんの指一本分だけ低く通った。濡れた芝に触れた瞬間、弾道が沈む。それでも、ゴールキーパーの指先をかすめ、ポストの内側に当たって、入った。

 歓声の中で、僕は泣きそうになった。泣く代わりに、傘の柄を握りしめる。指が痛いほど強く。蓮は両手を広げて走り、仲間に抱き込まれた。真ん中で誰かに頭をぐしゃぐしゃにされ、笑いながらもみくちゃになる。その中心にいる彼の顔が、一瞬だけこちらを向いた気がしたが、気のせいだろう。そう自分に言い聞かせる。

 試合はそのまま終わり、勝利の挨拶がスタンドに向けられる。僕は膝にかけていたタオルを鞄に詰め、飴をポケットに移した。選手が退場する通路の出口あたりで待っていれば、差し出すチャンスがあるかもしれない。傘を畳み、雨に濡れながら階段を降りる。足元のコンクリートが、雨で深い色になっている。

 通路の出口は、人で詰まっていた。保護者、友達、後輩、顧問。声が交差する中で、濡れた髪の蓮が少しだけ背伸びをして周囲を見回し、僕を見つけた。目が合った。今度は、確かに合った。

「新!」

 名前を呼ばれて、胸が跳ねる。蓮は人を避けながら近づいてきて、目の前に止まった。息が上がっている。頬が赤い。雨が睫毛に溜まって、光っている。

「タオル」

 差し出すと、彼は笑って受け取った。顔を拭き、首に巻く。次に、僕の傘の下に半歩入って、声を少し落とした。

「来てくれて、ありがとう」

「来るって言ったから」

「新が言ったこと、いつもほんとだな」

「いつもは、ほんとじゃないよ」

「今日は、ほんとだった」

 誰かが背中を叩いて蓮を連れて行こうとし、彼は「あとで行く」と手で合図した。雨が強い。傘の縁から落ちる水滴が、彼の肩と僕の肩の間に、細い線をつくる。その線の向こうから、蓮がふいに真顔で僕を見る。

「ねえ、新」

「なに」

「俺、雨の試合、好きなんだ」

「知ってる」

「滑るし、読みづらい。けど、目の前のことだけ見てればいい気がする。余計な声が全部、雨の音に溶けていくから」

「うん」

「今日、スタンド見上げたとき、傘の海の端っこに、新の傘が見えた気がした」

 思わず呼吸が止まった。傘なんて、どれも似たような色に見えるだろうに。

「気のせいかもしれない。でも、見えた。見えたって思った」

「……見えたんだよ」

「だよね」

 蓮は笑って、それから、声の温度をそっと落とした。

「俺、新のこと、好きだと思う」

 世界が一瞬で静かになる。雨だけが残る。気のせいじゃない。今、確かに言った。

 僕は、笑ってしまった。自分でも驚くくらい、自然に。
 雨のせいで、泣くより先に笑いが出るのかもしれない。

「僕も」

 それだけ言うと、蓮は肩の力を抜いた。安堵が表情に出るのを、こんなに近くで見たのは初めてだ。彼はタオルの端で僕の頬についた雨粒を拭き、それから、小さく「キスしてもいい?」と聞いた。

 喉の奥が熱くなった。
 誰かに見られるかもしれない。顧問もいる。部員もいる。
 けれど、雨の音は、余計な声を全部遠くに押し流す。

「いいよ」

 傘の内側で、短いキスをした。濡れた空気の味がして、思っていたよりも静かな触れ方だった。触れてから離れるまでのわずかな時間に、僕は三年間の雨全部を飲み込んだ気がした。ほんの数秒。それだけで、体温が少し上がる。

 離れ際、蓮は少し照れくさそうに目を細めた。

「試合の後にキスするの、ルール違反かな」

「点を取った人の特権でしょ」

「じゃあ、また点取らなきゃ」

「お願いします」

 二人で小さく笑った。
 蓮が呼ばれて、彼は振り向く。行かなきゃいけない場所に、まっすぐ向かう人の背中は、やっぱりかっこいい。行ってしまうのが少しだけ惜しくて、けれど、惜しいと感じられること自体が幸運だと思った。

「新」

 呼びかけられて、顔を上げる。

「放課後、今度、一緒に帰ろう。雨じゃない日でも」

「うん」

 短く返事をすると、蓮は安心したみたいに頷いて、仲間の輪に戻っていった。背中にかかるタオルが、雨に濡れて色が濃くなる。僕は傘を少し傾け、その背中が小さくなるまで見送った。

 帰り道、校門を出ると、雨はさらに強くなっていた。アスファルトを打つ音がリズムになって、さっきの歓声の続きみたいに聞こえる。ポケットの中でレモンの飴が転がった。ひとつ取り出して口に入れる。酸っぱさが舌の上で弾け、喉に涼しさが降りていく。

 ふたりの間に、雨が降る。
 差す傘と差さない肩。濡れる指と拭うタオル。
 そのどれもが、僕たちの距離を計る物差しになる。
 これからずっと、雨じゃない日にも。

 翌週の放課後、空はうす曇りだった。グラウンドは乾きかけて、ところどころに雨の名残が光っている。僕は観客席にいるふりをしながら、時計をちらちら見た。蓮が練習を終えてこちらに走ってくるのが見える。汗と風の匂いが、雨のない空気の中に流れ込んできた。

「待った?」

「少し」

「ごめん」

「全然」

 言葉は短くて、歩幅は自然に揃った。校門を出る。アスファルトの黒さが、先週より浅い。蓮が、足首のテープを指でとんと叩いた。

「また巻いて」

「いいけど。器用税取るよ」

「高そう」

「飴一個でいい」

「安」

「レモン味限定」

「任せて」

 蓮がポケットをごそごそやって、レモンの飴をひとつ渡してくる。包み紙が雨上がりの光を反射して、金色に見えた。二人で同じものを口に入れると、酸っぱさのタイミングがずれて、顔を見合わせて笑う。

 雨が降っていないのに、会話は相変わらずやわらかい。
 ふたりの間には、今日もちゃんと目に見えない天気がある。
 きっと、これからも。

 梅雨は長い。けれど、長い季節は、長い季節なりの優しさを持っている。濡れた道を歩きながら、僕は傘を肩にたたき、蓮の肩と同じリズムで鳴らした。
 ふたりの間に降るものの名前を、僕たちは何度でも付け直せる。
 そのたびに、少しずつ、歩幅は揃っていく。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

俺の彼氏は真面目だから

西を向いたらね
BL
受けが攻めと恋人同士だと思って「俺の彼氏は真面目だからなぁ」って言ったら、攻めの様子が急におかしくなった話。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

魔王に飼われる勇者

たみしげ
BL
BLすけべ小説です。 敵の屋敷に攻め込んだ勇者が逆に捕まって淫紋を刻まれて飼われる話です。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

クズ彼氏にサヨナラして一途な攻めに告白される話

雨宮里玖
BL
密かに好きだった一条と成り行きで恋人同士になった真下。恋人になったはいいが、一条の態度は冷ややかで、真下は耐えきれずにこのことを塔矢に相談する。真下の事を一途に想っていた塔矢は一条に腹を立て、復讐を開始する——。 塔矢(21)攻。大学生&俳優業。一途に真下が好き。 真下(21)受。大学生。一条と恋人同士になるが早くも後悔。 一条廉(21)大学生。モテる。イケメン。真下のクズ彼氏。

俺にだけ厳しい幼馴染とストーカー事件を調査した結果、結果、とんでもない事実が判明した

あと
BL
「また物が置かれてる!」 最近ポストやバイト先に物が贈られるなどストーカー行為に悩まされている主人公。物理的被害はないため、警察は動かないだろうから、自分にだけ厳しいチャラ男幼馴染を味方につけ、自分たちだけで調査することに。なんとかストーカーを捕まえるが、違和感は残り、物語は意外な方向に…? ⚠️ヤンデレ、ストーカー要素が含まれています。 攻めが重度のヤンデレです。自衛してください。 ちょっと怖い場面が含まれています。 ミステリー要素があります。 一応ハピエンです。 主人公:七瀬明 幼馴染:月城颯 ストーカー:不明 ひよったら消します。 誤字脱字はサイレント修正します。 内容も時々サイレント修正するかもです。 定期的にタグ整理します。 批判・中傷コメントはお控えください。 見つけ次第削除いたします。

処理中です...