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グラウンドに落ちた雨
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梅雨入り宣言が出た日の放課後、チャイムが鳴り終わるころには、空はすでに水色の氷で覆われたみたいに冷たかった。
僕は教室の窓際で、サッカー部の集合がかかるグラウンドをぼんやり見下ろした。白いラインがまだらに滲み、芝の表面は薄く光っている。傘の群れが校門の方へ流れていくのを目で追いながら、帰宅部という名の自由業である僕は、ゆっくりと腰を上げた。
階段を降りる途中、汗と泥の匂いが混ざった風が吹き上がってくる。あの匂いが嫌いだった時期がある。体育の授業で転んで膝を擦りむいて以来、僕は地面に好かれていないと信じていた。けれど、二年になってからは少し違う。匂いが風に乗ってくると、胸のどこかが静かに騒ぐ。
原因は分かっている。
グラウンドの中央、キャプテンマークを巻いた十番の背中。
天城蓮。
嘘みたいな名字と、覚えやすい名前。目は猫みたいに切れ長で、笑うと右の口角にだけえくぼが寄る。走り出す前の屈伸がいつも丁寧で、その律儀さに気づいてから、僕は彼の毎日の細部を集めてしまうようになった。
昇降口で靴を履き替え、傘を取り出したところで、雨が一段強くなった。音が急に近くなる。グラウンドでは顧問が空を見上げ、笛を短く吹いた。練習はメニューを縮めてやるのか、それとも中止か。ざわっと部員が動く気配の中で、蓮だけがラインの上に立ったまま、雨に顔を預けていた。目を閉じて、呼吸を整えるみたいに。
僕は、傘を差した。
屋根の短い渡り廊下を抜け、観客席の屋根の下に入る。誰もいないベンチの端に腰を下ろすと、足もとに雨の跳ね返りが点々と跳んだ。視界の端で、蓮がゆっくりこちらを向くのが分かった。目が合った、気がした。次の瞬間、彼は顧問に何か言われ、軽く頷いてから、スパイクの紐を引き締めた。
練習は、結局やるらしい。
小さな声で声出しが始まる。パスとダッシュを短く刻む。足音と雨音が重なり、グラウンド全体が薄いリズムを刻む。僕は濡れないベンチの特権で、それを少し高いところから見ていた。
何分経ったのか分からない。ふいに、蓮が足首を押さえてしゃがみ込んだ。胸がぎゅっと詰まる。顧問が駆け寄り、数人の部員が取り囲む。立ち上がったけれど、表情は痛いのを隠す笑顔で、歩き方が少しだけぎこちない。
ベンチの前を通るとき、蓮は一瞬だけ視線を上げた。驚いたような顔をして、それからやわらかく笑う。
「新」
名前を呼ばれて、僕は傘の柄を握り直した。
「捻った?」
「ちょっとひねった。たいしたことないやつ」
「保健室、行く?」
「テーピング室、借りる。コーチ忙しそうだし、自分で巻く」
「……手、足りてる?」
気づいたら立ち上がっていた。声が少し上ずったのをごまかすために、咳払いする。蓮は片眉を上げて、雨に濡れた前髪を指で払った。
「手、貸してくれる?」
「うん」
何でもないやりとり。けれど、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
器具室に隣接した狭いテーピング室は、白い蛍光灯が雨の匂いを薄めるみたいに明るかった。机の上にテープ、ハサミ、消毒液。壁には簡単な巻き方の図。椅子が二つ。僕と蓮はそこに向き合って座り、彼は靴下をそっと下ろした。露わになった足首は、白くて、骨ばっていて、やけに脆そうだ。
「触るよ」
「どうぞ」
返事の軽さに比べて、僕の手は驚くほど慎重だった。両側から支えるように包むと、皮膚の温度が指先に移ってくる。雨に濡れた体温は、思っていたより高い。
「痛む?」
「その角度は平気。内側に入れると少し」
「わかった」
図を見ながら、ゆっくりとテープを引き出す。足の甲から足首、踵へ、固定のラインを作る。途中で何度も顔を上げると、蓮は視線で「大丈夫」を送ってくる。言葉より先に、そう合図してくれるところが昔から好きだった。いや、好き、はまだ言ってはいけない気がして、心の中だけで訂正する。
「器用だね、新」
「手先だけはね」
「『だけ』って言うところが新だな」
「うるさい」
口ではそう言いながら、心の中は落ち着いていく。動作に集中すれば、余計なことを考えずに済む。最後のテープを切り、端を押さえた。蓮が軽く足首を回す。
「どう?」
「いい感じ。ありがとう」
言葉と一緒に、蓮の手が僕の手に重なった。一瞬、時間が止まる。雨音だけが遠くで続いている。運動部の汗と雨の匂いに、ハンドソープの匂いが混ざって、妙に清潔な気配がした。
僕は、息を吐く。
「練習、戻る?」
「ううん。今日はここまで」
「顧問は?」
「珍しく優しかった」
「珍しい、ね」
「試合前だからね。怪我人を増やしたくないんだって」
「日曜の県予選?」
「そう。来るの?」
「……行く」
即答してから、顔が熱くなる。行くなんて言って、もし蓮がスタンドを見上げたときに僕がいなかったら、彼はがっかりするだろうか。逆に、僕がいることで彼の集中が削がれたりしないだろうか。そんなことを一秒のうちに十個くらい考えて、考え過ぎて、苦笑する。
「来なくてもいいのにって顔、しないところが新のいいとこ」
「じゃあ来る」
「うん。雨っぽいけど」
「雨でも来る」
蓮は少しだけ目を細めた。その目は、雨の日の光を知っている。好き、と言ったら、この目はどんなふうに細められるんだろう。想像が一瞬だけ喉を塞いで、僕は咳払いで誤魔化した。
その日、僕は帰り道でコンビニに寄り、応援用に何か役に立ちそうなものを探した。冷えた体を温めるカイロは季節外れで置いていなくて、代わりにスポーツ用の大きめのタオルと、レモン味の飴を買った。財布は軽く、心はすこしだけ軽くなった。
日曜日。
朝から空は曇っていて、試合開始の頃には雨が細かく降り出した。スタンドの半分は傘で覆われ、もう半分は合羽の色で染まる。僕はバックスタンドの端に陣取り、ビニールシートを膝にかけた。前夜ほとんど眠れなかったことを、誰にも見抜かれたくなくて、目をこすらないように気をつける。
ピッチに選手が入場する。蓮はいつもの足取りで、ラインに片足を置いて止まり、短く空を見上げた。それから、振り向いてスタンドを探すみたいに視線を巡らせる。胸が痛む。僕は傘の内側から、小さく手を上げた。気づかれなくてほっとして、気づかれなくて少し寂しかった。
笛が鳴る。
試合は、ぎゅっと詰まった均衡のまま進んだ。雨でボールが伸び、足もとが滑る。蓮は慎重に、でも大胆に、空いているスペースを味方に示しながら動く。捻った足首はもう気にならないみたいだった。前半の終わり、コーナーキックのチャンスで、彼はファーに抜けると見せかけてニアに走り込み、低いボールを頭で合わせた。ネットが揺れる。スタンドが沸く。僕は立ち上がりかけて、慌てて座った。叫びそうになった声を、喉の奥で握りつぶす。
ハーフタイム。
雨脚が強くなって、ピッチの一部に水が浮き始める。選手はベンチに引き上げるが、蓮は一瞬だけ立ち止まり、また空を見た。その横顔が、妙に大人びて見えた。三十秒だけ時間が止まって、その次の瞬間、彼はいつもの笑顔で誰かとハイタッチしていた。
後半。
相手も意地を見せ、同点に追いつかれる。グラウンドのコンディションはさらに悪くなり、パスは止まり、スライディングの跡が泥の線を引く。僕の足もとにまで、冷たい水の匂いがのぼってきた。
残り十分。
同点のまま、試合は延長の気配を帯びる。心臓が忙しい。雨が細かく顔を刺す。僕はタオルを握りしめ、いつでも誰かに渡せるように膝の上で折りたたんだ。渡す相手は、ひとりしかいない。
残り七分。
カウンター、蓮の前にスペースができる。ボールが出る。彼は足元に収め、相手の重心を見て、スッと中に切れ込んだ。足首のテーピングが白くのぞく。シュートのモーションに入った瞬間、相手のスライディングがわずかに遅れて、足と足が絡んだ。蓮が倒れる。笛。ペナルティエリアの外。フリーキック。
雨音が一段高くなった気がした。
蹴るのは、たぶん蓮だ。
角度は悪くない。距離も悪くない。
でも、雨が強い。
笛。
走り込む。
ボールは壁の上を、ほんの指一本分だけ低く通った。濡れた芝に触れた瞬間、弾道が沈む。それでも、ゴールキーパーの指先をかすめ、ポストの内側に当たって、入った。
歓声の中で、僕は泣きそうになった。泣く代わりに、傘の柄を握りしめる。指が痛いほど強く。蓮は両手を広げて走り、仲間に抱き込まれた。真ん中で誰かに頭をぐしゃぐしゃにされ、笑いながらもみくちゃになる。その中心にいる彼の顔が、一瞬だけこちらを向いた気がしたが、気のせいだろう。そう自分に言い聞かせる。
試合はそのまま終わり、勝利の挨拶がスタンドに向けられる。僕は膝にかけていたタオルを鞄に詰め、飴をポケットに移した。選手が退場する通路の出口あたりで待っていれば、差し出すチャンスがあるかもしれない。傘を畳み、雨に濡れながら階段を降りる。足元のコンクリートが、雨で深い色になっている。
通路の出口は、人で詰まっていた。保護者、友達、後輩、顧問。声が交差する中で、濡れた髪の蓮が少しだけ背伸びをして周囲を見回し、僕を見つけた。目が合った。今度は、確かに合った。
「新!」
名前を呼ばれて、胸が跳ねる。蓮は人を避けながら近づいてきて、目の前に止まった。息が上がっている。頬が赤い。雨が睫毛に溜まって、光っている。
「タオル」
差し出すと、彼は笑って受け取った。顔を拭き、首に巻く。次に、僕の傘の下に半歩入って、声を少し落とした。
「来てくれて、ありがとう」
「来るって言ったから」
「新が言ったこと、いつもほんとだな」
「いつもは、ほんとじゃないよ」
「今日は、ほんとだった」
誰かが背中を叩いて蓮を連れて行こうとし、彼は「あとで行く」と手で合図した。雨が強い。傘の縁から落ちる水滴が、彼の肩と僕の肩の間に、細い線をつくる。その線の向こうから、蓮がふいに真顔で僕を見る。
「ねえ、新」
「なに」
「俺、雨の試合、好きなんだ」
「知ってる」
「滑るし、読みづらい。けど、目の前のことだけ見てればいい気がする。余計な声が全部、雨の音に溶けていくから」
「うん」
「今日、スタンド見上げたとき、傘の海の端っこに、新の傘が見えた気がした」
思わず呼吸が止まった。傘なんて、どれも似たような色に見えるだろうに。
「気のせいかもしれない。でも、見えた。見えたって思った」
「……見えたんだよ」
「だよね」
蓮は笑って、それから、声の温度をそっと落とした。
「俺、新のこと、好きだと思う」
世界が一瞬で静かになる。雨だけが残る。気のせいじゃない。今、確かに言った。
僕は、笑ってしまった。自分でも驚くくらい、自然に。
雨のせいで、泣くより先に笑いが出るのかもしれない。
「僕も」
それだけ言うと、蓮は肩の力を抜いた。安堵が表情に出るのを、こんなに近くで見たのは初めてだ。彼はタオルの端で僕の頬についた雨粒を拭き、それから、小さく「キスしてもいい?」と聞いた。
喉の奥が熱くなった。
誰かに見られるかもしれない。顧問もいる。部員もいる。
けれど、雨の音は、余計な声を全部遠くに押し流す。
「いいよ」
傘の内側で、短いキスをした。濡れた空気の味がして、思っていたよりも静かな触れ方だった。触れてから離れるまでのわずかな時間に、僕は三年間の雨全部を飲み込んだ気がした。ほんの数秒。それだけで、体温が少し上がる。
離れ際、蓮は少し照れくさそうに目を細めた。
「試合の後にキスするの、ルール違反かな」
「点を取った人の特権でしょ」
「じゃあ、また点取らなきゃ」
「お願いします」
二人で小さく笑った。
蓮が呼ばれて、彼は振り向く。行かなきゃいけない場所に、まっすぐ向かう人の背中は、やっぱりかっこいい。行ってしまうのが少しだけ惜しくて、けれど、惜しいと感じられること自体が幸運だと思った。
「新」
呼びかけられて、顔を上げる。
「放課後、今度、一緒に帰ろう。雨じゃない日でも」
「うん」
短く返事をすると、蓮は安心したみたいに頷いて、仲間の輪に戻っていった。背中にかかるタオルが、雨に濡れて色が濃くなる。僕は傘を少し傾け、その背中が小さくなるまで見送った。
帰り道、校門を出ると、雨はさらに強くなっていた。アスファルトを打つ音がリズムになって、さっきの歓声の続きみたいに聞こえる。ポケットの中でレモンの飴が転がった。ひとつ取り出して口に入れる。酸っぱさが舌の上で弾け、喉に涼しさが降りていく。
ふたりの間に、雨が降る。
差す傘と差さない肩。濡れる指と拭うタオル。
そのどれもが、僕たちの距離を計る物差しになる。
これからずっと、雨じゃない日にも。
翌週の放課後、空はうす曇りだった。グラウンドは乾きかけて、ところどころに雨の名残が光っている。僕は観客席にいるふりをしながら、時計をちらちら見た。蓮が練習を終えてこちらに走ってくるのが見える。汗と風の匂いが、雨のない空気の中に流れ込んできた。
「待った?」
「少し」
「ごめん」
「全然」
言葉は短くて、歩幅は自然に揃った。校門を出る。アスファルトの黒さが、先週より浅い。蓮が、足首のテープを指でとんと叩いた。
「また巻いて」
「いいけど。器用税取るよ」
「高そう」
「飴一個でいい」
「安」
「レモン味限定」
「任せて」
蓮がポケットをごそごそやって、レモンの飴をひとつ渡してくる。包み紙が雨上がりの光を反射して、金色に見えた。二人で同じものを口に入れると、酸っぱさのタイミングがずれて、顔を見合わせて笑う。
雨が降っていないのに、会話は相変わらずやわらかい。
ふたりの間には、今日もちゃんと目に見えない天気がある。
きっと、これからも。
梅雨は長い。けれど、長い季節は、長い季節なりの優しさを持っている。濡れた道を歩きながら、僕は傘を肩にたたき、蓮の肩と同じリズムで鳴らした。
ふたりの間に降るものの名前を、僕たちは何度でも付け直せる。
そのたびに、少しずつ、歩幅は揃っていく。
僕は教室の窓際で、サッカー部の集合がかかるグラウンドをぼんやり見下ろした。白いラインがまだらに滲み、芝の表面は薄く光っている。傘の群れが校門の方へ流れていくのを目で追いながら、帰宅部という名の自由業である僕は、ゆっくりと腰を上げた。
階段を降りる途中、汗と泥の匂いが混ざった風が吹き上がってくる。あの匂いが嫌いだった時期がある。体育の授業で転んで膝を擦りむいて以来、僕は地面に好かれていないと信じていた。けれど、二年になってからは少し違う。匂いが風に乗ってくると、胸のどこかが静かに騒ぐ。
原因は分かっている。
グラウンドの中央、キャプテンマークを巻いた十番の背中。
天城蓮。
嘘みたいな名字と、覚えやすい名前。目は猫みたいに切れ長で、笑うと右の口角にだけえくぼが寄る。走り出す前の屈伸がいつも丁寧で、その律儀さに気づいてから、僕は彼の毎日の細部を集めてしまうようになった。
昇降口で靴を履き替え、傘を取り出したところで、雨が一段強くなった。音が急に近くなる。グラウンドでは顧問が空を見上げ、笛を短く吹いた。練習はメニューを縮めてやるのか、それとも中止か。ざわっと部員が動く気配の中で、蓮だけがラインの上に立ったまま、雨に顔を預けていた。目を閉じて、呼吸を整えるみたいに。
僕は、傘を差した。
屋根の短い渡り廊下を抜け、観客席の屋根の下に入る。誰もいないベンチの端に腰を下ろすと、足もとに雨の跳ね返りが点々と跳んだ。視界の端で、蓮がゆっくりこちらを向くのが分かった。目が合った、気がした。次の瞬間、彼は顧問に何か言われ、軽く頷いてから、スパイクの紐を引き締めた。
練習は、結局やるらしい。
小さな声で声出しが始まる。パスとダッシュを短く刻む。足音と雨音が重なり、グラウンド全体が薄いリズムを刻む。僕は濡れないベンチの特権で、それを少し高いところから見ていた。
何分経ったのか分からない。ふいに、蓮が足首を押さえてしゃがみ込んだ。胸がぎゅっと詰まる。顧問が駆け寄り、数人の部員が取り囲む。立ち上がったけれど、表情は痛いのを隠す笑顔で、歩き方が少しだけぎこちない。
ベンチの前を通るとき、蓮は一瞬だけ視線を上げた。驚いたような顔をして、それからやわらかく笑う。
「新」
名前を呼ばれて、僕は傘の柄を握り直した。
「捻った?」
「ちょっとひねった。たいしたことないやつ」
「保健室、行く?」
「テーピング室、借りる。コーチ忙しそうだし、自分で巻く」
「……手、足りてる?」
気づいたら立ち上がっていた。声が少し上ずったのをごまかすために、咳払いする。蓮は片眉を上げて、雨に濡れた前髪を指で払った。
「手、貸してくれる?」
「うん」
何でもないやりとり。けれど、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
器具室に隣接した狭いテーピング室は、白い蛍光灯が雨の匂いを薄めるみたいに明るかった。机の上にテープ、ハサミ、消毒液。壁には簡単な巻き方の図。椅子が二つ。僕と蓮はそこに向き合って座り、彼は靴下をそっと下ろした。露わになった足首は、白くて、骨ばっていて、やけに脆そうだ。
「触るよ」
「どうぞ」
返事の軽さに比べて、僕の手は驚くほど慎重だった。両側から支えるように包むと、皮膚の温度が指先に移ってくる。雨に濡れた体温は、思っていたより高い。
「痛む?」
「その角度は平気。内側に入れると少し」
「わかった」
図を見ながら、ゆっくりとテープを引き出す。足の甲から足首、踵へ、固定のラインを作る。途中で何度も顔を上げると、蓮は視線で「大丈夫」を送ってくる。言葉より先に、そう合図してくれるところが昔から好きだった。いや、好き、はまだ言ってはいけない気がして、心の中だけで訂正する。
「器用だね、新」
「手先だけはね」
「『だけ』って言うところが新だな」
「うるさい」
口ではそう言いながら、心の中は落ち着いていく。動作に集中すれば、余計なことを考えずに済む。最後のテープを切り、端を押さえた。蓮が軽く足首を回す。
「どう?」
「いい感じ。ありがとう」
言葉と一緒に、蓮の手が僕の手に重なった。一瞬、時間が止まる。雨音だけが遠くで続いている。運動部の汗と雨の匂いに、ハンドソープの匂いが混ざって、妙に清潔な気配がした。
僕は、息を吐く。
「練習、戻る?」
「ううん。今日はここまで」
「顧問は?」
「珍しく優しかった」
「珍しい、ね」
「試合前だからね。怪我人を増やしたくないんだって」
「日曜の県予選?」
「そう。来るの?」
「……行く」
即答してから、顔が熱くなる。行くなんて言って、もし蓮がスタンドを見上げたときに僕がいなかったら、彼はがっかりするだろうか。逆に、僕がいることで彼の集中が削がれたりしないだろうか。そんなことを一秒のうちに十個くらい考えて、考え過ぎて、苦笑する。
「来なくてもいいのにって顔、しないところが新のいいとこ」
「じゃあ来る」
「うん。雨っぽいけど」
「雨でも来る」
蓮は少しだけ目を細めた。その目は、雨の日の光を知っている。好き、と言ったら、この目はどんなふうに細められるんだろう。想像が一瞬だけ喉を塞いで、僕は咳払いで誤魔化した。
その日、僕は帰り道でコンビニに寄り、応援用に何か役に立ちそうなものを探した。冷えた体を温めるカイロは季節外れで置いていなくて、代わりにスポーツ用の大きめのタオルと、レモン味の飴を買った。財布は軽く、心はすこしだけ軽くなった。
日曜日。
朝から空は曇っていて、試合開始の頃には雨が細かく降り出した。スタンドの半分は傘で覆われ、もう半分は合羽の色で染まる。僕はバックスタンドの端に陣取り、ビニールシートを膝にかけた。前夜ほとんど眠れなかったことを、誰にも見抜かれたくなくて、目をこすらないように気をつける。
ピッチに選手が入場する。蓮はいつもの足取りで、ラインに片足を置いて止まり、短く空を見上げた。それから、振り向いてスタンドを探すみたいに視線を巡らせる。胸が痛む。僕は傘の内側から、小さく手を上げた。気づかれなくてほっとして、気づかれなくて少し寂しかった。
笛が鳴る。
試合は、ぎゅっと詰まった均衡のまま進んだ。雨でボールが伸び、足もとが滑る。蓮は慎重に、でも大胆に、空いているスペースを味方に示しながら動く。捻った足首はもう気にならないみたいだった。前半の終わり、コーナーキックのチャンスで、彼はファーに抜けると見せかけてニアに走り込み、低いボールを頭で合わせた。ネットが揺れる。スタンドが沸く。僕は立ち上がりかけて、慌てて座った。叫びそうになった声を、喉の奥で握りつぶす。
ハーフタイム。
雨脚が強くなって、ピッチの一部に水が浮き始める。選手はベンチに引き上げるが、蓮は一瞬だけ立ち止まり、また空を見た。その横顔が、妙に大人びて見えた。三十秒だけ時間が止まって、その次の瞬間、彼はいつもの笑顔で誰かとハイタッチしていた。
後半。
相手も意地を見せ、同点に追いつかれる。グラウンドのコンディションはさらに悪くなり、パスは止まり、スライディングの跡が泥の線を引く。僕の足もとにまで、冷たい水の匂いがのぼってきた。
残り十分。
同点のまま、試合は延長の気配を帯びる。心臓が忙しい。雨が細かく顔を刺す。僕はタオルを握りしめ、いつでも誰かに渡せるように膝の上で折りたたんだ。渡す相手は、ひとりしかいない。
残り七分。
カウンター、蓮の前にスペースができる。ボールが出る。彼は足元に収め、相手の重心を見て、スッと中に切れ込んだ。足首のテーピングが白くのぞく。シュートのモーションに入った瞬間、相手のスライディングがわずかに遅れて、足と足が絡んだ。蓮が倒れる。笛。ペナルティエリアの外。フリーキック。
雨音が一段高くなった気がした。
蹴るのは、たぶん蓮だ。
角度は悪くない。距離も悪くない。
でも、雨が強い。
笛。
走り込む。
ボールは壁の上を、ほんの指一本分だけ低く通った。濡れた芝に触れた瞬間、弾道が沈む。それでも、ゴールキーパーの指先をかすめ、ポストの内側に当たって、入った。
歓声の中で、僕は泣きそうになった。泣く代わりに、傘の柄を握りしめる。指が痛いほど強く。蓮は両手を広げて走り、仲間に抱き込まれた。真ん中で誰かに頭をぐしゃぐしゃにされ、笑いながらもみくちゃになる。その中心にいる彼の顔が、一瞬だけこちらを向いた気がしたが、気のせいだろう。そう自分に言い聞かせる。
試合はそのまま終わり、勝利の挨拶がスタンドに向けられる。僕は膝にかけていたタオルを鞄に詰め、飴をポケットに移した。選手が退場する通路の出口あたりで待っていれば、差し出すチャンスがあるかもしれない。傘を畳み、雨に濡れながら階段を降りる。足元のコンクリートが、雨で深い色になっている。
通路の出口は、人で詰まっていた。保護者、友達、後輩、顧問。声が交差する中で、濡れた髪の蓮が少しだけ背伸びをして周囲を見回し、僕を見つけた。目が合った。今度は、確かに合った。
「新!」
名前を呼ばれて、胸が跳ねる。蓮は人を避けながら近づいてきて、目の前に止まった。息が上がっている。頬が赤い。雨が睫毛に溜まって、光っている。
「タオル」
差し出すと、彼は笑って受け取った。顔を拭き、首に巻く。次に、僕の傘の下に半歩入って、声を少し落とした。
「来てくれて、ありがとう」
「来るって言ったから」
「新が言ったこと、いつもほんとだな」
「いつもは、ほんとじゃないよ」
「今日は、ほんとだった」
誰かが背中を叩いて蓮を連れて行こうとし、彼は「あとで行く」と手で合図した。雨が強い。傘の縁から落ちる水滴が、彼の肩と僕の肩の間に、細い線をつくる。その線の向こうから、蓮がふいに真顔で僕を見る。
「ねえ、新」
「なに」
「俺、雨の試合、好きなんだ」
「知ってる」
「滑るし、読みづらい。けど、目の前のことだけ見てればいい気がする。余計な声が全部、雨の音に溶けていくから」
「うん」
「今日、スタンド見上げたとき、傘の海の端っこに、新の傘が見えた気がした」
思わず呼吸が止まった。傘なんて、どれも似たような色に見えるだろうに。
「気のせいかもしれない。でも、見えた。見えたって思った」
「……見えたんだよ」
「だよね」
蓮は笑って、それから、声の温度をそっと落とした。
「俺、新のこと、好きだと思う」
世界が一瞬で静かになる。雨だけが残る。気のせいじゃない。今、確かに言った。
僕は、笑ってしまった。自分でも驚くくらい、自然に。
雨のせいで、泣くより先に笑いが出るのかもしれない。
「僕も」
それだけ言うと、蓮は肩の力を抜いた。安堵が表情に出るのを、こんなに近くで見たのは初めてだ。彼はタオルの端で僕の頬についた雨粒を拭き、それから、小さく「キスしてもいい?」と聞いた。
喉の奥が熱くなった。
誰かに見られるかもしれない。顧問もいる。部員もいる。
けれど、雨の音は、余計な声を全部遠くに押し流す。
「いいよ」
傘の内側で、短いキスをした。濡れた空気の味がして、思っていたよりも静かな触れ方だった。触れてから離れるまでのわずかな時間に、僕は三年間の雨全部を飲み込んだ気がした。ほんの数秒。それだけで、体温が少し上がる。
離れ際、蓮は少し照れくさそうに目を細めた。
「試合の後にキスするの、ルール違反かな」
「点を取った人の特権でしょ」
「じゃあ、また点取らなきゃ」
「お願いします」
二人で小さく笑った。
蓮が呼ばれて、彼は振り向く。行かなきゃいけない場所に、まっすぐ向かう人の背中は、やっぱりかっこいい。行ってしまうのが少しだけ惜しくて、けれど、惜しいと感じられること自体が幸運だと思った。
「新」
呼びかけられて、顔を上げる。
「放課後、今度、一緒に帰ろう。雨じゃない日でも」
「うん」
短く返事をすると、蓮は安心したみたいに頷いて、仲間の輪に戻っていった。背中にかかるタオルが、雨に濡れて色が濃くなる。僕は傘を少し傾け、その背中が小さくなるまで見送った。
帰り道、校門を出ると、雨はさらに強くなっていた。アスファルトを打つ音がリズムになって、さっきの歓声の続きみたいに聞こえる。ポケットの中でレモンの飴が転がった。ひとつ取り出して口に入れる。酸っぱさが舌の上で弾け、喉に涼しさが降りていく。
ふたりの間に、雨が降る。
差す傘と差さない肩。濡れる指と拭うタオル。
そのどれもが、僕たちの距離を計る物差しになる。
これからずっと、雨じゃない日にも。
翌週の放課後、空はうす曇りだった。グラウンドは乾きかけて、ところどころに雨の名残が光っている。僕は観客席にいるふりをしながら、時計をちらちら見た。蓮が練習を終えてこちらに走ってくるのが見える。汗と風の匂いが、雨のない空気の中に流れ込んできた。
「待った?」
「少し」
「ごめん」
「全然」
言葉は短くて、歩幅は自然に揃った。校門を出る。アスファルトの黒さが、先週より浅い。蓮が、足首のテープを指でとんと叩いた。
「また巻いて」
「いいけど。器用税取るよ」
「高そう」
「飴一個でいい」
「安」
「レモン味限定」
「任せて」
蓮がポケットをごそごそやって、レモンの飴をひとつ渡してくる。包み紙が雨上がりの光を反射して、金色に見えた。二人で同じものを口に入れると、酸っぱさのタイミングがずれて、顔を見合わせて笑う。
雨が降っていないのに、会話は相変わらずやわらかい。
ふたりの間には、今日もちゃんと目に見えない天気がある。
きっと、これからも。
梅雨は長い。けれど、長い季節は、長い季節なりの優しさを持っている。濡れた道を歩きながら、僕は傘を肩にたたき、蓮の肩と同じリズムで鳴らした。
ふたりの間に降るものの名前を、僕たちは何度でも付け直せる。
そのたびに、少しずつ、歩幅は揃っていく。
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