ふたりの間に、雨が降る

yukataka

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傘を差さないひと

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 六月の雨は、予報より律儀だった。
 駅前のロータリーでバスを待つ人の列が、いくつもの傘の花を咲かせている。その端っこ、広告掲示板の死角になるあたりに、ひとりだけ傘を持たない背中があった。

 濡れているのに、立ち方が静かだ。肩に落ちた水滴が流れ、黒いシャツに色の濃淡を作っている。少し伸びた髪。手首から覗く銀のバンド。横顔を見なくても、誰かは分かった。

 ――陸だ。

 喉が勝手に名前を呼ぼうとして、慌てて飲み込んだ。三年ぶりだ。呼んでしまえば、三年分の距離が嘘になる気がした。

 俺は列の外側に立って、傘の角度をわずかにずらした。雨粒の向きに合わせるみたいに、ゆっくりと。風が変わり、傘の影が少し広がる。彼の肩ぎりぎりまで届くか届かないかの場所で止めた。

 ふいに、陸がこちらを向いた。まっすぐ視線がぶつかる。あの黒目は、昔と同じ色をしていた。深くて、少し笑っているみたいに穏やかで、けれど油断していると全部飲まれてしまう。

「……久しぶり」

 自分の声が小さくて、雨音に削られる。陸は、目を細めただけで何も言わない。薄く笑って、俺の傘の縁に一歩近づいた。濡れた髪から水がぽた、と落ちる。

「傘、忘れたの?」

「うん。たぶん、癖」

「癖で忘れるなよ」

 軽く言うと、陸は喉の奥で笑った。昔から、少しだけ話す前に息を飲む癖がある。その間が、懐かしい。

「傘さすの、あんまり好きじゃなくて」

「濡れる方がいいって?」

「雨の温度が分かるから」

 彼らしい答えだと思った。理屈のようで、情緒だ。俺は少しだけ傘を傾け、肩が触れない程度に距離を詰めた。シャツの袖口が彼の腕に触れて、ひやりとする。体温より雨の方が、やっぱり冷たい。

 バスが来て、人の群れが波のように動いた。俺たちは列の最後に回り、結局同じ車両に乗り込んだ。混んでいるけれど、押しつぶされるほどではない。手すりにつかまって、窓の外を流れる街を眺めた。濡れたアスファルトがネオンを反射して、昔よく歩いた通りの名前が頭に浮かぶ。

「元気だった?」

 陸が先に言った。声が低くて、近い。

「そこそこ。陸は?」

「同じく、そこそこ。仕事は、変わってない?」

「転職した。四月から」

「へえ」

 短い相槌のあと、彼は視線を落とした。俺の指先に止まって、また窓の外に戻る。何も責めない目。何も求めない目。だから逆に、胸が詰まった。

 三年前、別れた日も雨だった。大学の卒業式の翌週、借りていた部屋の鍵を返すために会った。俺は卒業と同時に地方配属が決まっていて、陸はこの街で就職する。会える場所と時間は、これから急に減る。言葉にするまでもなく、それぞれの未来は別々の形をしていた。

 鍵を置いて、玄関のドアが閉まる音がするまで、俺は黙っていた。陸が泣くのを見たくなかったし、泣かれたら俺は絶対に引き返すと思ったからだ。あの頃の俺は、柔らかいものから目を逸らすことだけは上手かった。

 バスは二つ目の停留所で止まり、入れ替わる人の気配がした。陸が少し身を寄せる。濡れた髪から、雨とシャンプーの混ざった匂いがした。嗅ぎ覚えのある種類の、やさしい匂い。

「……降りる?」

「次で。海斗は?」

「同じ」

 名前を呼ばれて、一瞬だけ息が止まった。三年ぶりに、俺の名前を彼が口にした。落ち着いた言い方なのに、ひどく遠い場所から響いてくるみたいで、どうでもいい景色が急に鮮やかになる。

 次の停留所で、俺たちはほぼ同時にブザーを押した。小さく笑い合う。降りた先は、昔よく行った商店街に続く交差点だ。雨の匂いに、焼き立てのパンの匂いが混ざる。角のベーカリーは、まだやっているらしい。

「少し、歩く?」

 陸が傘を持たないまま言ったから、俺は傘を彼の肩に引き寄せた。二人で一本。背の高さが違う分だけ、腕が変な角度になる。ふざけていた大学の頃と違って、今は自然に距離を測れる。けれど、その自然さがかえって、ぎこちなさを照らす。

「変わってないね、ここ」

「そうだな」

「パン屋、朝のままの匂いする」

「いつも言ってた。『焼きたての音がする』って」

「言ってたっけ」

「言ってた」

 他愛ない会話でも、言葉の一つ一つがどこか水を含んでいる。雨に濡れた路面のように、足を置くと音が出る。歩幅を合わせるのに少し時間がかかった。

 アーケードの切れ目で、雨脚が突然強くなった。傘に当たる音が大きくなり、陸の肩にまた水滴が散る。俺は反射的に傘を傾け、彼の肩を覆う。その拍子に、手の甲が陸の手に触れた。

 触れただけで、心臓が跳ねる。三年前と同じスイッチが、まだどこかに残っている。俺は逃げるみたいに、視線を前に向けた。

「喫茶店、まだあるかな」

「駅前の?」

「うん。角曲がって、地下に降りるとこ」

「……行ってみる?」

「行こう」

 螺旋階段を降りると、昼前の空気は珈琲豆の匂いで満ちていた。木の壁。小さなランプ。窓はなく、外の雨音だけが遠くに聞こえる。店主は年齢不詳で、目の奥だけ笑う。変わらない場所は、平等に時間が流れていない気がする。

 隅のテーブルに座る。陸はホットの深煎り、俺は昔と同じブレンドを頼んだ。湯気が立ちのぼる間、目の前の男の人相をそっと確かめる。頬の線が少しシャープになって、眉の癖はそのまま。笑うと目尻にほんの少し皺が寄る。三年分の変化と、三年分の変わらなさが同居している。

「仕事、きつい?」

「きつい。けど嫌いじゃない」

「似合う」

「勝手に似合わせてるだけだよ。海斗は?」

「転職して、今の方が落ち着く。あの頃は、いつも何かから逃げてた気がする」

「何から?」

 即答できず、カップの縁に視線を落とす。正直に言うのが、怖い。けれど、ここで嘘をつく方がずっと怖いと思った。

「陸から」

 彼は驚かなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。

「海斗のそういうところ、少し好きだったし、少し嫌いだった」

「うん」

「触れたら壊れるものだと思ってた?」

「逆。触れたら、壊れなくなるのが怖かった」

 言いながら、喉のどこかが熱くなる。陸の目が、珈琲の色を映して暗く深く見えた。店内の音が遠のいて、雨音だけが近い。

「大丈夫」

 陸が言う。昔から彼は、要らないところで約束をしない。だから「大丈夫」と言うときは、根拠のない優しさじゃない。彼自身の体温の話だ。

「今、海斗のことを掴み直そうとしてる俺がいて、その手は前より器用になってると思う。あの頃より」

「……ずるい」

「ずるい?」

「そう言われると、離れがたくなるだろ」

「なるといいと思ってる」

 短い沈黙のあと、二人とも笑った。陸の笑い方は、今も少しだけ音が漏れる。カップを置く音、椅子が軋む音、遠くの席でページがめくれる音。小さな音たちが優しく重なって、俺の背中の力が少し抜けた。

「ねえ、あの日のこと」

「どの日?」

「鍵を返した日。玄関で、俺、泣かなかったよね」

「泣かなかった」

「泣いたら、海斗が戻ると思った」

「戻ったと思う」

「だから、泣かなかった」

 言い切って、陸は目を伏せた。その仕草は、あの頃とまったく同じだった。苦しそうな顔を人に見せない癖。強がりのようで、優しさの形。

「じゃあ、今日泣いたらどうする?」

 俺が言うと、陸は首を傾げた。冗談みたいに聞こえたかもしれない。けれど、言葉は本気だった。三年前の分岐を、今日だけは別の方向に曲がり直したかった。

「泣かないよ。たぶん」

「うん」

「でも、外に出たら濡れると思う」

「傘はある」

「ささないかも」

「ささなくていい」

 視線が絡む。椅子から立ち上がるほどの勇気は要らない。ただ、テーブルの上で、手の甲と手の甲が触れ合うだけでいい。その距離は、どんなキスよりも危ういと分かっている。指先に伝わる心拍。浅く吸う息の音。触れ続けていられる時間が、思っていたより長い。

 店を出ると、雨はやや弱まっていた。アーケードの端から見える空は白く薄い。ビニール傘を開く音が重なって、俺の耳には波の引く音みたいに聞こえた。

「歩こう」

「どこまで?」

「どこでも」

 陸は傘を持たない。俺は傘を持っている。二人の間に、雨が降る。差すことも差さないことも、選べる。選ぶたびに、過去の同じ場所が少しずつ違う景色に変わる。

 信号待ちで立ち止まったとき、陸がふと空を見上げた。雨粒が睫毛に乗って、光った。俺は傘を少し傾け、彼の横顔に影を落とす。

「海斗」

「なに」

「うち、近い」

 言い方が既視感を連れてきて、俺は笑ってしまった。

「その誘い文句、どこかで聞いた」

「成功率が高い文句はアップデートしなくていいって、職場の先輩が」

「最低だな、その先輩」

「でも、今日は家に寄るより、歩いていたい」

「同意」

 足元を濡らす水たまりを踏むたび、靴底が柔らかく鳴る。商店街を抜け、川沿いの遊歩道に出る。水面が雨に揺れて、橋桁の下が薄暗い。誰もいないベンチが濡れている。高校の帰りみたいに、歩幅と沈黙が自然に揃っていく。

「海斗、さ」

「ん?」

「前より、言葉がまっすぐになった」

「陸が覚えてる俺のままではいられないから」

「覚えてる俺のままでも、いられない」

 橋の下で一旦雨脚が弱まり、川の音だけがする瞬間があった。陸が立ち止まる。俺も止まる。影の中で、彼は少しだけ背を丸めて、俺の方を見た。

「もう一回、付き合うとか、簡単には言わない」

「うん」

「でも、海斗に会ってから、今日の俺はずっと機嫌がいい。歩いてるだけで」

「俺も」

「この感じを、しばらく一緒に持って歩いてみない?」

 それは告白ではなかった。けれど、告白よりずっと強い。未来を簡単に約束せず、過去の失敗に責任を押しつけず、今の体温だけをきちんと差し出す提案。陸らしいやり方だ。

「……いいと思う」

 口に出した瞬間、胸の奥の硬い塊がほどけた。雨粒が頬に落ちて、冷たさが皮膚を通り抜ける。傘の内側に入った陸の肩が、手の甲に触れた。触れては離れ、形を持たない水のように、また触れる。

「海斗」

「なに」

「キス、したい」

 思わず笑ってしまった。三年前、陸はこんなふうに言わなかった。何も言わずに、玄関の灯りの下で俺の頬に触れ、息を吸い、少し迷って、やめた。やめたまま、俺は鍵を置いて帰った。

 だから今、彼は口に出す。雨の音が拍子木みたいに、背中を押す。

「いいよ」

 傘の柄が肩に当たって、少し痛い。鼻先が触れた瞬間、雨の匂いが濃くなる。触れるだけの短い口づけ。水の味。驚くほど懐かしくて、驚くほど新しい。

 唇を離すと、陸が少し照れた顔で笑った。笑うときの頬の筋肉の動きが、昔と同じだ。俺はたぶん、何度でもこの笑い方に救われる。

「泣かない?」

「泣かないね」

「濡れてるけど」

「それは雨」

「雨、便利だな」

「便利」

 ふたりで可笑しくなって、同時に肩の力が抜けた。橋の外側に出ると、また雨脚が濃くなる。傘の下に陸が寄る。俺は傘を持つ手を少し上げ、彼の肩をしっかりと覆った。

「このあと、時間ある?」

「ある」

「じゃあ、少し遠回りしよう」

「どっちに?」

「昔のアパートの方」

「まだあるかな」

「なくても、行こう」

 地図上の道は変わっていても、身体の中の道は残っている。信号を三つ越えて、パン屋の角を曲がって、坂を上がって、白い壁の古いアパートが見えるはずの場所に向かう。もし建て替えられていたとしても、濡れた地面の匂いの中に、確かに自分たちの時間が残っている。

 陸はやっぱり傘を差さないひとだ。雨の温度を、そのまま肌で受け取る。俺は傘を差す。ふたりの間に、雨が降る。その雨に、俺たちは何度でも名前を付け直せる。

 別れた日の雨は、終わりの音をしていた。今日の雨は、歩き出す音がする。どちらも同じ六月の、律儀な雨だ。

 遠回りの道は長い。けれど、その長さがありがたい。濡れた街全体が、少しだけやわらかく見えた。傘の内側で、陸の肩がときどき俺に触れる。触れては離れ、また戻ってくる。そのたびに、心臓の鼓動がゆっくりと整っていく。

「海斗」

「うん」

「ありがとう」

「なにが」

「傘、差してくれて」

「癖だから」

「じゃあ、俺は濡れる癖のままでいる」

「それは困る」

「困らせたい」

「ずるい」

「ずるいの、少しだけ覚えた」

 陸の声が、雨に混ざってやわらかく笑った。俺も笑って、傘の柄を持ち直す。二人で、同じ方向に傘を傾ける。小さな調整を、何度でも繰り返す。

 ふたりの間に、今日も雨が降る。
 それでも、歩幅はぴったりと揃っていた。
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