触れない距離、触れられる距離 -秒とミリ秒のあいだで-

yukataka

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第5章 擬態するノイズ

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公開まで「あと一日」。朝礼のホワイトボードに、太いマーカーで二重線が引かれた。赤い丸の中に、小さく“油断禁止”。書いたのは佐久間だ。

「本番前の総合リハ。今日のテーマは“人が先に見て、機械が先に届く”だ」

佐久間の声に、薄い笑いがいくつか漏れる。橘は笑わない。広報用の台本がクリップで束ねられ、机の端に整列している。

「運転台に“介入宣言”カードを置く。非常時の役割分担を明文化して、迷いを潰す」

日名子が透明ファイルからカードを取り出す。白地に黒い字で、簡潔に。

《判断:人/実行:人と機械/責任:チーム》

御子柴はカードを運転台の隅、時刻表が差さる溝の横に差し込んだ。秒針の震えと、紙の静けさが並ぶ。いつきは一度深呼吸し、端末に今日の変更点を流し込む。反射対策の閾値を時間帯で揺らし、LIDARの点群フィルタを風速依存に切り替える。美しさは固定値ではない。美しさは、環境に合わせて変わる設計の別名だ。

午前の周回は穏やかに始まった。高架上の風は昨日より弱い。空は薄い水色。ホームのベンチに作業服の男が一人、湯気の出ない缶コーヒーを握りしめて座っている。カメラは彼を人として認識し、矩形は控えめに、だが確実に追う。

二周目、異常は影のように入ってきた。地上ビーコンが距離不相応の早さで鳴いた。ログに“ピッ”が規則的すぎる間隔で並ぶ。毎分七十二回——心拍みたいに。

「地上子が……早すぎる」

いつきの声が低くなる。御子柴の指はハンドルから離れない。日名子が後席で素早くノートPCに周波数解析を走らせる。

「偽の励磁。波形、綺麗すぎる。誰かがビーコンを“演じてる”」

橘が青ざめ、佐久間が無線で警備を飛ばす。前方、閉塞の表示が不自然に降りた。見えない壁が線路に置かれ、列車は急に遠い列車の幻を“前にいる”と誤解する。

「制限が厳しすぎる。速度、落とす」

御子柴は迷わない。ブレーキが静かに立ち上がる。ジャークは丸い。車体は前のめりに品よく重みを移し、停止は美しい。しかし、これは敵の望む遅延かもしれない。遅らせることが目的なら、美しさにも牙がある。

「パタンの送信元、どこ」

日名子が画面を指で弾き、スペクトラムの峰(みね)を追う。高架下、五号支柱の真下に小さな強い点。周波数は規格波の近傍、ずらし方がいやらしい。プロの手だ。

「行く」

佐久間が合図し、警備員二人が階段へ走る。いつきはタブレットを握ったまま、御子柴を見た。彼の目は静かだ。秒針がひとつ進む。

「俺はここにいる」

言葉の意味は二つ。運転台から離れないという意味と、あなたの横にいるという意味。いつきは頷き、画面に戻る。偽ビーコンが閉塞を次々に偽装し、線路上に“見えない先行列車”をいくつも置いていく。システムは安全側に倒れ続け、列車は何度も、綺麗に止まる。綺麗だが、動けない綺麗さは牢屋に似ている。

「優先順位切り替え。ビーコンを“一時不信”扱い。相対速度の積分で閉塞推定、GPRの路面地図使う。重み、こっちに寄せます」

いつきの指先は早い。コードではなく、運転モードの配合を調える。数字がわずかに重みを移し、アルゴリズムのバランスが変わる。次の瞬間、偽の閉塞が置かれたはずの区間で、列車は“迷い”を短く切り、前へ動いた。

「……行ける」

御子柴の声は低いが、確信を孕んでいる。美しさは守ったまま、牢屋の鍵を内側から外す。風がガラスを撫で、ホームの広告板の女優が一瞬だけ笑う。

そのとき、別のノイズが入った。前方の高架際、広告用の大型LEDが唐突にチカチカと瞬き、異様にコントラストの強い白黒パターンを高速に点滅させる。カメラ映像が一瞬、白痴のような硬さを見せた。人物検知の矩形が暴れ、世界が四角で埋まる。

「アドバーサリアル(擬似物体)。カメラへの攻撃だ」

日名子が吐き、いつきが即座にルールを入れ替える。

「LIDAR優先、カメラは低信頼。地図の予測値で補完。ノイズを“見ない勇気”に切り替えます」

御子柴は速度を保つ。攻撃の白黒模様が車窓の外で狂ったように踊り、車内の吊り革が風で揺れる。列車は落ち着いて、予定通りに、予定通りより少し綺麗に止まった。

基地に戻ると、警備が五号支柱の根本で小さなケースを回収していた。弁当箱より少し大きい。3Dプリントのザラついた黒いケース。中には簡素な送信機とバッテリー、そして雑に切られた反射テープの切れ端。テープには油性ペンで“ゼロ”の文字。

「“ゼロ介入”。皮肉だ」

佐久間が呟く。ケースの内壁に、さらに小さな刻印が見えた。三文字。

《K·R·G》

いつきは目を細める。見覚えのない記号。日名子がスマホで企業ロゴのデータベースをざっと当たり、「工学系の同人イベントで見るクラスタの刻印に似ている」と眉を寄せた。内通者か、外の職人か。いずれにせよ、スケジュールの細部を知っている。

「誰かが時刻を知ってる。非公開の“テスト窓”に合わせて来てる」

御子柴が言う。視線が橘に流れる。橘は椅子に沈み、顔色が悪い。

「俺じゃない」

言い訳は早かった。早すぎた。佐久間は追及を留め、代わりに断言する。

「公開は中止しない。だが“物語”は変える。『ゼロ介入』は打ち切り、『協奏』で行く。守りは倍」

橘は反論しなかった。彼の声から、数字の自信が少し抜けた。

夜。リハと対策会議が終わり、センターの灯りが一部消える。高架の輪は暗闇に溶け、街の灯が欠けた指輪みたいに滲む。いつきは整備ヤードの端に立って、冷えた手をポケットに入れた。金属の匂い、遠いタイヤの音、低い風。

「寒い」

背後の声。御子柴が紙コップを二つ持っている。砂糖は入っていない。かき混ぜない。湯気だけが、やさしい嘘みたいに立ち上る。

「ありがとう」

いつきは受け取り、唇を火傷しない位置を探す。夜は思考を遅くするが、感情を速くする。彼女は自分の欠陥を、初期化みたいに並べた。

「私、対人バグが多い。正しさを優先して、人の顔を見失うことがある。今日、あの“ゼロ”を見たとき、怒りで全部真っ白になった。怒りはアルゴリズムを壊す」

「怒りは、ブレーキの踏みすぎみたいなもんだな。タイヤは鳴くし、止まるけど、跡が残る」

「あなたは、鳴らさない」

「鳴るときは鳴る。七年前は、鳴った」

沈黙が、風の音を連れてくる。二人の影がレールに細く重なる。いつきは決めた。ミリ秒の躊躇をやめる。

「明日、怖いよね」

「怖い」

「私も怖い。でも、あなたと一緒なら、怖さの形がわかる」

御子柴はいつきを見た。視線は真っ直ぐで、やさしくない。嘘が嫌う種類の目だ。

「お前の“美しさ”は、俺の“やり直し”だ。俺の“遅らせ方”は、お前の“早め方”だ。二人で、ちょうどいい」

言い終わっても、風は何も言わない。いつきは一歩、近づいた。触れない距離。触れられる距離。彼の左手が少しだけ動き、彼女の指先に、紙コップ越しじゃない温度が触れた。ミリ秒の接触。ディレイなし。世界は即座に応答し、でも、急がない。

遠くで、警備の無線が短く鳴る。五号支柱の下で、誰かが置いた小さなマーカーが見つかったという。蛍光オレンジのスプレー痕。矢印。矢印の先には、排水溝。蓋は内側から外されていた。

「中から開けられてる」

佐久間の声が冷える。内部情報、内部経路。敵は、輪の内側にも足を置いている。

いつきは御子柴の手を、そっと離した。胸の中の恐怖は消えない。でも、形がわかった恐怖は、対処できる。

「明日、止めよう」

「止める」

二人の声は、小さいが、強かった。秒針がひとつ進む。ミリ秒が満ちていく。ループは世界を囲むが、明日は世界を開く。
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