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四章
54 レーニャと異端の花
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十年ほど前……子どもの頃の話だ。
夜になると、父親がまた娼婦を家に連れ込んできた。
俺は父親と同じ空間にいるのがいやだったから、そういうときは家を出て、外の畑から少し離れた森の近くで一人過ごすことにしていた。
母は幼い頃に病気で死んだ。朝から夕方まで畑仕事をして、夜になれば硬いパンを食べたあとで父親から逃げる。そんな日々を送っていた。
夜に子どもが一人で出歩けるのは、人形の法具が町の見回りをしていたおかげだった。
犯罪者どころか野犬さえ、人形の法具に見つかれば処理されている世の中だ。
野生の獣だって怖がって町の近くには近づかなかった。
第五位階でいさえすれば、少なくとも平和だった。そのために献金に身を削らなければならないわけだが。
その日の夜は、月の光が強い夜だった。
畑の近くの切り株に腰をおろしていると、なにか女の子のうめき声のようなものが森の奥から聞こえてきた。
恐る恐るだが、暇を紛らわせるためにそこに行ってみると、その子はいた。
「だ、誰?」
長い銀髪がきれいな女の子だった。
足を抑えながら、泥だらけの服でその場に腰をおろしている。
「足、痛いの?」
俺がそろそろと近づいていくと、同じ子どもだと安心したらしい少女はうなずいた。
「うん、くじいた」
「大丈夫?」
「うん……」
俺は医者からもらっていた捻挫用の軟膏を家から持ってきて、患部に塗り、布を巻いてやった。
少女の名前はレーニャといった。
レーニャは夜になると、近くに生えている花を摘みに来ているらしい。
「手も痛そうだね」
俺はレーニャの手の甲を見て言った。
彼女の手には、第六位階を示す焼印が押されていたが、その時は変な火傷くらいにしか思わなかった。
「これ、何だか知らないの?」
「知らない。何?」
「奴隷の証」
「奴隷?」
「召使い、っていうのかな?」
「そうなんだ」
よくわからないままうなずいた。
ずっと畑仕事をしていて友達もいなかった俺は、世間常識に欠けるほど無知だった。
第六位階とか第五位階とか、言葉はどこかで聞いていても教養として身についているわけではなかった。
だからか、変な先入観も持っていなかったせいか、すぐに仲良くなった。
レーニャは二日に一回くらい、森の中に生えている花を摘みに来ていた。
来るのは必ず夜の決まった時間だった。
自分の主人に言われてやっている、とだけ言っていた。
夜レーニャと会って話をするのが日課になっていた。
時々怪我をしてくることがあったが、レーニャは転んだ、などと言ってごまかしていた。
ただ、あまり遅くなるとレーニャが主人に怒られてしまうので、長話はできなかった。
それでも一緒にいると楽しかった。
ある日、ゲッカレイメイが咲いている場所を案内してもらった。
木々や雑草の中に溶け込むようにゲッカレイメイが群生している地帯。
月の光の下でのみ開花する特別な植物の白い花弁が、薄暗い森の中にいくつも浮かび上がって揺れている。
「私、共和国から連れてこられたの。知ってる?」
「知らない。遠いの?」
「うん」
ツァール共和国が海を挟んだ先にある島国であることは、そのときにレーニャに教わった。
皇国領内では珍しい銀の髪も、共和国ではありふれた髪の色らしいことも、そのときに教えてもらった。
「帰りたい?」
俺が訊くと、レーニャはうなずいた。
「うん、でも、まだ帰れない」
「なんで?」
「ご主人様の命令に従って働かないといけないから。でも、ちゃんと言うことを聞いて働いていれば、十年以内には還してくれるって言われた。だから、おうちに帰るために、今は我慢して、何でも言うことを聞いて、どうにか生きていかなきゃいけないの」
語るレーニャの顔は寂しげだった。
今思えば、第六位階にそんな自由は許されないことはわかった。
おそらくレーニャを反抗させずにこき使うための、主人の方便だったのではと思う。
レーニャは主人の言葉を信じていた。
おそらくそれにすがるしか、生きていけなかったのだろう。
レーニャはやさしくて朗らかな性格だった。
聡明そうな笑顔と、月明かりに揺れる銀髪は、何の娯楽もなかった俺の心を癒してくれた。
だから、レーニャの仕事の力になりたいと、その時の俺は思った。
次にレーニャと会う夜の少し前、俺はゲッカレイメイが群生している場所へと一人でやってきた。
いくつも生えていたそれを、俺は両手で持てる限り摘み取った。
たくさんあれば彼女の仕事が早く終わるのではないかと思った。
俺は世間知らずで、無知だった。
その花が、ゲッカレイメイという採取を禁じられている花だと知らなかった。
それが毒草であることも、レーニャの主人が毒草を彼女に摘ませていたことも、そのときはわからなかった。
一星宗がルールを破った者にどのような仕打ちを与えるかも、実感がなかった。
レーニャがわざわざ少量ずつ摘んでいたのも、一星宗の目から逃れるためだったのだ。
幼かった俺にとっては、あらゆることに配慮が及ばず、ただレーニャの喜ぶ顔しか考えていなかった。
レーニャがやってくると、俺は両手いっぱいのゲッカレイメイを差し出した。
「これは?」
「その、俺もレーニャの力になりたいと、思って……いや、べつに、本当はどうでもいいんだけど」
途中で照れくさくなって、押し付けるようにゲッカレイメイを手渡した。
「……ありがとう、エン」
戸惑いながらも、大量の異端の花束を両手に抱えながら、レーニャは笑った。
彼女はやさしい性格だった。
ありったけの純真で差し出された好意を無下に捨てる事は、レーニャにはできなかった。
大満足の俺は、レーニャと一緒にゲッカレイメイの花畑を後にする。
別れ際、人形の法具――赤い色をした兵隊型(マナナンガル)が、彼女の後を追っていったように見えて、そこで初めて、何か漠然とした胸騒ぎを覚えた。
ゲッカレイメイの花束は、隠すには多すぎて結局両手に抱えていくしかなかった。
いつもと違う点といったらそれくらいで、人形の法具が追っていく理由はそれくらいしか思いつかなかった。
当時の俺はそれほど心配症ではなかったが、少ししてすぐに、妙な胸騒ぎと不安感に駆られてレーニャの後を追った。
なぜ夜にこそこそゲッカレイメイを少量ずつ摘んでいたのか、その理由をいまさらになって疑問視した。
町の大通りに入る直前の路地だった。
俺が駆けつけた時には、レーニャは赤い色のマナナンガルに貫かれていた。
マナナンガルが去るまで、俺は動けなかった。
去った後にようやく駆けつけて、しかしどうしていいかわからずに、ただレーニャを抱えた。
「エンは、生きてね……」
ただ一言彼女はそう言って動かなくなった。
一気に自分の頭が重くなったのを感じた。
彼女の心からの願いをほかでもない俺が壊してしまったことをことさらに理解してしまった。
――自分の好意でレーニャを殺したあの時から、俺はレーニャの最後の言葉にすがり続けている。
意志も心も幼い頃の思い出に置いてきて、少しの進歩もすることはなく、あらゆる手を尽くしてでも生き続けなければならないと、呪いのように常に自分に言い聞かせ続けている。
夜になると、父親がまた娼婦を家に連れ込んできた。
俺は父親と同じ空間にいるのがいやだったから、そういうときは家を出て、外の畑から少し離れた森の近くで一人過ごすことにしていた。
母は幼い頃に病気で死んだ。朝から夕方まで畑仕事をして、夜になれば硬いパンを食べたあとで父親から逃げる。そんな日々を送っていた。
夜に子どもが一人で出歩けるのは、人形の法具が町の見回りをしていたおかげだった。
犯罪者どころか野犬さえ、人形の法具に見つかれば処理されている世の中だ。
野生の獣だって怖がって町の近くには近づかなかった。
第五位階でいさえすれば、少なくとも平和だった。そのために献金に身を削らなければならないわけだが。
その日の夜は、月の光が強い夜だった。
畑の近くの切り株に腰をおろしていると、なにか女の子のうめき声のようなものが森の奥から聞こえてきた。
恐る恐るだが、暇を紛らわせるためにそこに行ってみると、その子はいた。
「だ、誰?」
長い銀髪がきれいな女の子だった。
足を抑えながら、泥だらけの服でその場に腰をおろしている。
「足、痛いの?」
俺がそろそろと近づいていくと、同じ子どもだと安心したらしい少女はうなずいた。
「うん、くじいた」
「大丈夫?」
「うん……」
俺は医者からもらっていた捻挫用の軟膏を家から持ってきて、患部に塗り、布を巻いてやった。
少女の名前はレーニャといった。
レーニャは夜になると、近くに生えている花を摘みに来ているらしい。
「手も痛そうだね」
俺はレーニャの手の甲を見て言った。
彼女の手には、第六位階を示す焼印が押されていたが、その時は変な火傷くらいにしか思わなかった。
「これ、何だか知らないの?」
「知らない。何?」
「奴隷の証」
「奴隷?」
「召使い、っていうのかな?」
「そうなんだ」
よくわからないままうなずいた。
ずっと畑仕事をしていて友達もいなかった俺は、世間常識に欠けるほど無知だった。
第六位階とか第五位階とか、言葉はどこかで聞いていても教養として身についているわけではなかった。
だからか、変な先入観も持っていなかったせいか、すぐに仲良くなった。
レーニャは二日に一回くらい、森の中に生えている花を摘みに来ていた。
来るのは必ず夜の決まった時間だった。
自分の主人に言われてやっている、とだけ言っていた。
夜レーニャと会って話をするのが日課になっていた。
時々怪我をしてくることがあったが、レーニャは転んだ、などと言ってごまかしていた。
ただ、あまり遅くなるとレーニャが主人に怒られてしまうので、長話はできなかった。
それでも一緒にいると楽しかった。
ある日、ゲッカレイメイが咲いている場所を案内してもらった。
木々や雑草の中に溶け込むようにゲッカレイメイが群生している地帯。
月の光の下でのみ開花する特別な植物の白い花弁が、薄暗い森の中にいくつも浮かび上がって揺れている。
「私、共和国から連れてこられたの。知ってる?」
「知らない。遠いの?」
「うん」
ツァール共和国が海を挟んだ先にある島国であることは、そのときにレーニャに教わった。
皇国領内では珍しい銀の髪も、共和国ではありふれた髪の色らしいことも、そのときに教えてもらった。
「帰りたい?」
俺が訊くと、レーニャはうなずいた。
「うん、でも、まだ帰れない」
「なんで?」
「ご主人様の命令に従って働かないといけないから。でも、ちゃんと言うことを聞いて働いていれば、十年以内には還してくれるって言われた。だから、おうちに帰るために、今は我慢して、何でも言うことを聞いて、どうにか生きていかなきゃいけないの」
語るレーニャの顔は寂しげだった。
今思えば、第六位階にそんな自由は許されないことはわかった。
おそらくレーニャを反抗させずにこき使うための、主人の方便だったのではと思う。
レーニャは主人の言葉を信じていた。
おそらくそれにすがるしか、生きていけなかったのだろう。
レーニャはやさしくて朗らかな性格だった。
聡明そうな笑顔と、月明かりに揺れる銀髪は、何の娯楽もなかった俺の心を癒してくれた。
だから、レーニャの仕事の力になりたいと、その時の俺は思った。
次にレーニャと会う夜の少し前、俺はゲッカレイメイが群生している場所へと一人でやってきた。
いくつも生えていたそれを、俺は両手で持てる限り摘み取った。
たくさんあれば彼女の仕事が早く終わるのではないかと思った。
俺は世間知らずで、無知だった。
その花が、ゲッカレイメイという採取を禁じられている花だと知らなかった。
それが毒草であることも、レーニャの主人が毒草を彼女に摘ませていたことも、そのときはわからなかった。
一星宗がルールを破った者にどのような仕打ちを与えるかも、実感がなかった。
レーニャがわざわざ少量ずつ摘んでいたのも、一星宗の目から逃れるためだったのだ。
幼かった俺にとっては、あらゆることに配慮が及ばず、ただレーニャの喜ぶ顔しか考えていなかった。
レーニャがやってくると、俺は両手いっぱいのゲッカレイメイを差し出した。
「これは?」
「その、俺もレーニャの力になりたいと、思って……いや、べつに、本当はどうでもいいんだけど」
途中で照れくさくなって、押し付けるようにゲッカレイメイを手渡した。
「……ありがとう、エン」
戸惑いながらも、大量の異端の花束を両手に抱えながら、レーニャは笑った。
彼女はやさしい性格だった。
ありったけの純真で差し出された好意を無下に捨てる事は、レーニャにはできなかった。
大満足の俺は、レーニャと一緒にゲッカレイメイの花畑を後にする。
別れ際、人形の法具――赤い色をした兵隊型(マナナンガル)が、彼女の後を追っていったように見えて、そこで初めて、何か漠然とした胸騒ぎを覚えた。
ゲッカレイメイの花束は、隠すには多すぎて結局両手に抱えていくしかなかった。
いつもと違う点といったらそれくらいで、人形の法具が追っていく理由はそれくらいしか思いつかなかった。
当時の俺はそれほど心配症ではなかったが、少ししてすぐに、妙な胸騒ぎと不安感に駆られてレーニャの後を追った。
なぜ夜にこそこそゲッカレイメイを少量ずつ摘んでいたのか、その理由をいまさらになって疑問視した。
町の大通りに入る直前の路地だった。
俺が駆けつけた時には、レーニャは赤い色のマナナンガルに貫かれていた。
マナナンガルが去るまで、俺は動けなかった。
去った後にようやく駆けつけて、しかしどうしていいかわからずに、ただレーニャを抱えた。
「エンは、生きてね……」
ただ一言彼女はそう言って動かなくなった。
一気に自分の頭が重くなったのを感じた。
彼女の心からの願いをほかでもない俺が壊してしまったことをことさらに理解してしまった。
――自分の好意でレーニャを殺したあの時から、俺はレーニャの最後の言葉にすがり続けている。
意志も心も幼い頃の思い出に置いてきて、少しの進歩もすることはなく、あらゆる手を尽くしてでも生き続けなければならないと、呪いのように常に自分に言い聞かせ続けている。
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