公爵さまは残念な人

はるきりょう

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公爵さまは残念な人

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空は黒い雲に覆われていた。土の匂いが鼻孔をくすぐる。

「ああ、可愛い僕のリア」

 そんな天気を吹き飛ばすよう熱視線を送っている者がいた。アルセン=オルシーニである。アルセンと言えば、ブロンドの髪に、目の色は青く、容姿端麗な男性だ。身長は高く、見た目は細いが肉付きのいいその身体は、妖艶さを醸し出す。頭の回転が速く、誰にでも優しい人。それが、周囲が囁く彼の評判だ。それだけではない。貿易商として働く彼は持つ財も多い。さらに公爵の爵位を持つ彼は、身分も申し分ないのだ。まさに「完璧な人」である。

 そんなアルセンは図書館のガラス越しに見えるリアナを愛おしそうに見つめた。図書館はリアナの勤務先であり、リアナはそこで働く図書司書であった。熱い視線に気付きながらも、リアナは何事もないように手を動かす。

「リアナ、またアルセン様が来ているわよ」

 同僚であり、親友でもあるクリアーナが肘でついて教える。その言葉にリアナはため息をついた。ガラス張りの大きな窓から見える端正な顔は先ほどから30分以上、リアナに視線を送っている。しかも今日が初めてではない。図書館の休館日を除くほとんど全ての日だ。

「放っておけばいいわ」

「かわいそうじゃない?」

「あのね、ここをどこだと思っているの?国立図書館よ。誰かの御屋敷ってわけではないんだし、誰にだって入る権利があるわ。入りたければ、入ってくればいいのよ。ご自分で」

 どこか怒りに似た感情につい語尾が荒くなる。それでもこれだけ公然と毎日ストーキングされているのだから無理もない。むしろ、自分がかわいそうなくらいだとリアナは思うのだが、そんなリアナの気持ちを理解できないのか、クリアーナは逆にアルセンの肩を持った。

「リアナに会いに来てるのに、そんな風に言うことないわ!」

 ああ、これだからイケメンはずるい。リアナの味方をしてもいいはずの親友でさえ味方にしてしまうのだから。

「それにここに入って来られないのは、リアナがこの前追い出したからでしょう?」

 1週間ほど前になるだろうか。毎日のように図書館に来ては、リアナに話しかけていたアルセンに言ったのだ。

「ここは図書館です。本を借りない人は、来ないでください」

「それじゃあ、本を借りていくよ。だから、来ないでなんて、そんな可愛い顔をして言わないでくれ」

 そんなアルセンの言葉に、リアナは眉間にしわを寄せた。

「…それじゃあ?今、それじゃあ、っておっしゃいました?」

「え?あ、その…」

「そんなの本に失礼です。そんな風に言う人に、本を借りてほしくないわ」

「…リアナ」

「もう来ないでください」

 そんな風に言い放ったリアナにアルセンは絵に描いたように落ち込んだ。そして、リアナにこれ以上嫌われるわけにはいかないと次の日から、リアナの言葉を従順に守り、中には入らず、外からリアナを見守っているのである。そしてそんな事実にリアナは全力でため息をついた。

「もう少しアルセン様に優しくしてあげてもいいんじゃないの?」

「…はぁ~」

 思わず出るため息は仕方がないと許してほしい。リアナも、自分が誰もが認める美女だったら、アルセンの行動にも頷けるのだ。しかし、リアナの容姿は「平凡」の一言だった。それは自他共に認める事実である。鼻は低くもなく、高くもない。目だって大きくはないが小さいと言うほど小さくはない。長い黒髪はこの国では多くないが、他国からの移民も多い現在では決して少なくはなかった。容姿にこれと言った特徴はない。

 身分だって、リアナの生まれたストルキオ家の持つ職位は「男爵」であり、アルセンと横に並ぶには身分が違いすぎた。

 性格が社交的かと言われれば決してそうではない。舞踏会より本を読むのが好きだった。舞踏会を風邪で休み、本を読んでいた、なんてことがしばしばである。というより大半だった。だから異性と出会う機会などほとんど無いに等しく、楽しいおしゃべりができるはずもない。

 本が好きで、勉強して図書司書となった。このミーラエ国では、貴族の身分である者は努力次第で希望する職につけた。その点だけについては、リアナは貴族で良かったと思う。そして、今年から晴れて国立図書館の司書として勤務している。

 リアナは、再来月の誕生日が来て、22歳となる。この国では女性は20歳までに結婚するのが一般的であった。つまり、リアナは結婚適齢期を過ぎている言わば売れ残りだ。けれどリアナに焦っている雰囲気は見られない。

 周りに比べ、色恋に興味がなく、毎日図書の管理に勤しんでいる今が楽しいのだから仕方がないのかもしれない。このまま結婚しなくてもいいとさえ思っている節がある。男爵家の末っ子であり、上の兄がすでに結婚し、家督を継ぐことになっている。それにリアナは遅れてできた待望の女の子であり、家族もリアナに甘い。そのため、望まない結婚を強要されることはなく、「結婚」をとやかく言われないのもリアナにとっては都合がよかった。

 それなのに、だ。それなのに、アルセンという高物件になぜか求愛をされているため、両親ともに「アルセンならば」と思っている節があるようで、リアナの結婚、ひいては孫の存在を期待し出した感があり、最近の厄介事の一つになっている。

 公爵家と男爵家では身分があまりに違いすぎる。もちろん、アルセンから正式に結婚を申し込まれれば断ることのできない立場にある。しかし、それはないだろうとリアナは思う。それこそ、身分が違いすぎるからだ。アルセンの両親は健在であり、アルセンの気持ちがどうであろうとお家のマイナスにしかならない悪行を許すとは考えにくい。

 たとえリアナとアルセンが以前は仲の良かった幼馴染だとしてもだ。リアナが5歳、アルセンが7歳の時、オルシーニ一家はストルキオ家の隣に越してきた。アルセンの母とリアナの母はすぐに仲が良くなり、その子どもであるアルセンとリアナも年齢が近いということもあり、すぐに仲良くなった。

 いつも何をするのも一緒だった。いたずらをするのも、怒られるのも。アルセンが笑えばリアナも笑い、リアナが笑えばアルセンも笑った。しかし、そんな中を切り裂いたのは、身分と恋愛だった。

 年齢が大きくなるにつれて一緒にいる理由が「幼馴染」では通用しなくなったのだ。誰に、と言えば「世間に」である。そして2人が恋仲になるには身分が圧倒的に違った。母親たちは身分が違っても仲良くやっていけるのに、そう思ったことは1度や2度ではない。けれどそれでも子どもには子どものルールが存在した。身分違いの者が一緒にいることは「間違っている」それが、リアナたちを取り巻く環境のルールであった。

 周りの変化に初めに気づいたのはアルセンだっただろう、とリアナは思う。けれど彼は無視をしたのだ。何を言われてもかまわない、きっとそう思っていた。けれどリアナは違う。上級生の女子たちに責められるたび、アルセンと一緒に歩くのを周りがじろじろ見るたびに、離れなければいけないと思うようになった。だから離れたのだ。

 15歳の時に、親に頼み込んで、州を一つ離れた全寮制の学校に編入した。この国では男女ともに13歳から白い結婚が認められ、15歳には正式な結婚が認められた。だからこそ、15歳から学校で勉強をし直す貴族の娘は珍しいの一言であった。それでも、リアナは周りの目を気にせず勉学に励んだ。図書館司書への夢を叶えること、それからアルセンから離れるために。

 アルセンから送られた手紙には3回に1回しか返さず、内容も事務的なことだけを綴った。幼馴染の絆など、その程度で切れてしまうものだと思っていた。だから卒業をし、家の近くの国立図書館に勤めるようになって初めて気づいたのだ。幼馴染が変な方向に逸れてしまったということに。



 21歳になり、リアナは学校を卒業し地元に戻ってきた。国立図書館に勤務することが決まり、家でリアナの就職祝いをしている時、アルセンが連絡もなく訪ねてきたのだ。事前連絡がないなど無礼にもほどがある行いではあるが、地位は圧倒的にアルセンが上であるため、リアナは仕方がなく祝いの席を中断して、訪ねてきたアルセンの相手をしたのだ。

「おかえり、僕の可愛いリア」

 そんなリアナに一番初めにアルセンがかけた言葉がそれだった。恋人に言うような甘すぎる声色にリアナは頭を抱えたのだ。

「…オルシーニ様、お久しぶりでございます。…けれど、私はあなた様のものではありません」

「そんな堅苦しい言い方はやめてくれないか、リアナ。昔のようにアルセンと呼んでほしい」

「……わかりました、アルセン様」

「様もいらないんだけど」

「そういう訳にはいきません」

 断言したリアナに折れたのはアルセンの方だった。

「…ま、いいよ。でも結婚したら呼び捨てにしてね」

 アルセンから飛び出してきた「結婚」という言葉にリアナは目を丸くした。そんなリアナの反応にアルセンは笑いながら言う。

「そんなに驚くことないだろう?俺たちは、結婚を誓い合った仲じゃないか」

 アルセンの言葉にリアナの後ろで両親たちが驚いているのが分かった。いや、リアナだって同じように驚きたかった。けれど何のことを言っているのかリアナには理解できたので、叫びそうになる自分を必死で抑え、苦笑を浮かべてアルセンを見る。

「アルセン様、それはわたくしが8歳、アルセン様が10歳の時の子どもの約束ですわ。誓い合った、は言い過ぎでございます」

 今度はアルセンが目を丸くする。

「……それじゃあ、あの約束は嘘だとでもいうのかい?」

「…嘘、ではありませんが、子ども時の戯言。無効でございましょう」

「…俺は、こんなにリアナを愛しているというのに?」

 まっすぐに注がれた視線は熱く、リアナは次の言葉を繋げなかった。21年間貴族の娘をやってきてはいるが、男性に愛を囁かれたのは初めてで、どう対応すればいいかわからなかったのだ。けれどその反応が悪かった。リアナが見せたのは「隙」であり、だから、アルセンは「隙」に入り込むことに決めたのだ。

 そこからである。アルセンが公然とストーキングを始めたのは。リアナへの愛を前面に押し出し、会いに来る。それがどれだけリアナに苦行を強いているのかも知らずに。



「いいじゃない!あんな素敵な人に好かれて、羨ましいわ」

 数か月前の出来事に思考を飛ばしていたリアナを呼び戻したのはクリアーナのその言葉だった。純粋にきらきらとするクリアーナにリアナは微苦笑を浮かべる。

「なら、変わってあげる」

「変われるものなら、変わりたいわよ!」

 図書館の中にいるとは思えない声のボリュームにリアナは慌てて口の前に人差し指を当て諫める。クリアーナははっとしたように手で口を覆った。

「でも、本当よ。アルセン様に好かれるなんて羨ましいわ」

 クリアーナはリアナより4歳年下であり、結婚適齢期真っ最中である。クリアーナは図書館で勤務しているが伯爵家の御令嬢であり、家柄に見合う男性を探している最中なのだ。それにクリアーナの容姿は淡麗だ。透き通るような白い肌に長い茶色の髪。顔は小さく、小動物のように可愛らしい。それでいて伯爵家で結婚適齢期。そんな彼女がいるのだから、男爵家のそれも売れ残りのリアナに目を向けなくてもいいのに、とリアナは思う。

「それでも、アルセン様が好きなのはリアナなのよね」

 クリアーナの言葉にリアナは聞こえるほど大きなため息をついた。うぬぼれではなく、リアナもそう思う。分かりやすいアルセンの態度に、周りも同じように気付いていた。「なぜ」なのかはまだ誰も解き明かしていないようだが。

 アルセンの評判はどこに行っても高い。そんな彼が恋焦がれるのがリアナのように地味な低い身分の男爵家であると知られれば起こる厄介事は想像に難くないだろう。ただ、普通であれば舞踏会でされるだろう嫌がらせも、リアナが何かと理由を付けて舞踏会にはいかないため、リアナが大好きな図書館で嫌がらせを受けるはめになるのだ。

「落ちぶれた男爵家の娘の癖に」

「不細工だわ」

「きっとあの貧相な身体で迫ったのよ」

 リアナに聞こえる声で根も葉もないことを言っていくなんてことは日常茶飯事であり、それに関しては、身体で迫った、というもの以外そのとおりだと思うので、何とも思わない。いや、家の事を言われるのは許せないが、それでも無視をできるくらいにはリアナは大人だった。しかも、リアナの代わりに殴りかかりそうな勢いで怒ってくれるクリアーナがいるので、リアナは安心して笑っていられた。

 彼女たちは本に興味がないようで、リアナに悪口を言うためだけにここに来るらしい。そんなことなら、勉強すればいいのに。そう思うが、そんなことは言えないため、言いたい気持ちを必死で飲み込み、悪意のある言葉を聞き流す。

 それだけなら、よかった。リアナが我慢するだけで済むのなら、いくらでも我慢したのに。

「ねぇ、この本、破いちゃおうよ」

「…そうね、あの人、ここの本とっても大事にしている見たいだから」

 そんな不穏な言葉を聞いたのは2日前のこと。小さな声で言ったのだろうが、図書館は静かな場所だ。小さな声でも響いてしまう。特に彼女たちのように高い声は響きやすい。

 思わずリアナは彼女たちの方を見た。その視線に気づいたのか、彼女たちは気まずそうに本を本棚に戻し、出て行った。彼女たちがいなくなったあと、急いで本を確認したが特に何かされたわけではなかった。けれどいつ、何をされるのかわからない。目を離した隙に、本を破かれる、なんてことが起こる可能性だって十分に考えられる。

 どうしてこんな思いをしなくちゃいけないのだろうかとリアナは思う。リアナがアルセンを好きなわけではない。アルセンが勝手にリアナを好きだと言っているだけだ。なのに、どうして嫌がらせを受けなくてはいけないのか。泣きそうになり、リアナは必死で涙を堪えた。泣いてやるもんかと自分を叱咤する。

 昨日、今日で彼女たちがこの図書館を訪れた様子はないが、それでも心配であることに変わりはない。だからだろう、アルセンへの言動に棘が多いのは。それでも、自業自得だと思う。どうして自分なのだろう。幼馴染というだけで、何もかも平凡の自分をどうして「好きだ」というのか、リアナには理解できなかった。

「あ、雨」

 クリアーナの声にどこかに飛んでいたリアナの思考が戻ってくる。クリアーナと同じように視線を外に向けた。パラパラと雨が降っている。雲は黒い。これから本降りになるだろうことがわかった。

「アルセン様、大丈夫かな?」

 心配そうな声な声を出し、クリアーナが外を見る。傘も差さず、雨に濡れているアルセンに動く気配は見られない。

「ねぇ、リアナ、傘を貸して差し上げたら?」

「……どうして私が」

「だって、リアナのためにあそこにいるのよ?」

「別に頼んでないわ」

「…そうかもしれないけど、…もうすぐ、雨が強くなりそうだし」

 外を見れば、雨の粒が次第に大きくなってきていることがわかる。アルセンはかろうじて木の下に入っているが、大雨になれば濡れてしまうだろう。それでも動こうとはしていない。通りかかる貴族の令嬢たちが傘を差し出そうとしているが、それを断っているようだった。

「リアナ。…ね!」

「……」

 リアナはため息をつきながら外に出た。一本の傘を自分にさし、一本の傘を手に持って。

「……これ、よろしければ使ってと、クリアーナが」

 アルセンが雨宿りをしている木のところまで来ると、リアナは一本の傘を差し出した。

「リアナ」

 嬉しそうに呼ばれる自分の名前にリアナは戸惑う。

「早く受け取ってください。でないと風邪を引いてしまいますわ」

「ありがとう、遠慮なく使わせてもらうよ。…リアナは優しいね」

 そう言いながらアルセンは傘を受け取り、開く。大きなそれは、アルセンをすっかり雨から隠した。

「…私じゃなくて、…クリアーナが持っていくように何度も言うから、持ってきただけです」

「それでも持ってきてくれてくれたのはリアナだ。ありがとう」

「…」

「でも、俺はいいから、早く中に入って。君が雨に揺れてしまうから」

「…あなたは?」

「…俺は、もう少しここにいるよ。従者に迎えを頼んであるんだけど、あと半刻先なんだ」

 どこか照れたように笑うアルセンにリアナはため息をつきながら言った。

「それなら図書館の中に入ればいいでしょう?」

「図書館には入れないよ」

「…あと半刻もここにいるつもりなんですか?雨に濡れながら?」

「まあ、そうなるね」

「なんだか、当てつけみたいで嫌だわ」

 リアナの言葉にアルセンは大きく首を横に振った。

「そんなことはない。そんなことはしないよ」

「…わかっています、そんなこと。わかっているから早く中に入りましょう」

「でも…」

 頷かないアルセンにリアナは小さく息を吐く。

「きっとこんな雨の日は、本を読む目的じゃなくて、雨宿りする人も多くいると思います」

「リアナ…?」

「…だからあなたも雨宿りで図書館に入られればいいと思います」

 どこか早口になってしまうのは、いたたまれないからだ。やさしさのない物言いに、けれどアルセンは嬉しそうに笑った。

「…ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて雨宿りさせてもらうよ」

 そう嬉しそうに答える。その笑顔にリアナは自分の頬が赤くなるのを感じて、慌てて視線を逸らす。

「早く入りましょう」

 足早に図書館に向かった。アルセンもリアナに従いついて行く。



 図書館に入ると、タオルを持ったクリアーナが待っていた。

「お久しぶりです、アルセン様。こちらのタオルをお使いください。リアナも服が少し濡れているわ」 

「ありがとう、クリアーナ」

「ありがとうございます、クリアーナ嬢」

 2人の声が重なる。そんな様子にクリアーナは笑みを浮かべ、事務室へ案内した。

「さあ、中にお入りください」

「クリアーナ、私はここでいいわ」

「私もこちらで大丈夫です。タオルを貸していただけただけで十分ですから」

 入り口でそういうアルセンとリアナにクリアーナは首を横に振った。

「本が濡れると大変ですから。…リアナ、本には湿気が厳禁だってあなたが一番知っているでしょう?わかったら、アルセン様を事務室にお連れしてちょうだい」

「…でも、私はそんなに濡れていないし」

「リアナ、本が大切でしょう?」

「…」

「わかったらさっさと行って」

 どこか強引な言い方ではあるものの、言っていることは正しいのでリアナは諦めてクリアーナの言葉に頷いた。

「じゃあ、風邪をひいても大変だし、本には湿気が最大の敵だから、ちゃんと乾かしてから出てきてくださいね」

 クリアーナはそう2人に声をかけ、仕事に戻る。その背中を見送りながらリアナは聞こえないように小さなため息をついた。クリアーナの行動がアルセンへの気遣いから来ていることがわかったからだ。

「早く拭かないと確かに風邪をひきます」

 頭を切り替え、アルセンにそう告げる。

「…うん。そうだね。リアナ、ありがとう」

「ありがとうはクリアーナに言ってください。私に傘を持っていくように言ったのも、タオルを貸してくれたのもはあの子ですから」

「うん。もちろん」

 そんな言葉を交わすと、部屋は静かになった。衣服を拭く微かな音が妙に大きく響く。そんな空気に耐えられなくなったのは、リアナが先だった。

「…私の言葉なんて無視して早く中に入ってくればよろしかったのに」

 リアナの言葉にアルセンは小さく笑みを浮かべて首を横に振る。

「俺にはできないよ」

「……どうしてですか?濡れるよりましでしょう?」

「濡れる方がましさ。だって、他の誰でもない君の言葉だから」

 端正な顔に微かに笑みを浮かべてそう言うアルセンにリアナは胸の鼓動が速くなるのを感じた。だからイケメンはずるいのだ、とまた思う。人のことをストーキングし、雨に濡れる残念な人なのに、甘い言葉を囁かれれば、簡単に胸の鼓動は音を立てる。

「…次から、」

「え?」

「次から、雨が降る前に、中に入ってもいいですよ」

「リアナ…」

「さっきも言ったように、雨宿りとして使う人もいますから」

 どこか頬を赤くし、そう言うリアナにアルセンは嬉しそうに頷いた。

「ありがとう。やっぱり、君は優しいね」

 端正な顔で微笑まれ、リアナは視線を居心地の悪さから視線をさまよわせた。そしてふと、アルセンの右肩が濡れていることに気づく。

「…アルセン様、右肩がまだ」

 そう言って手を伸ばしたリアナからアルセンは一歩引き、距離を置いた。予想外の行動に、リアナの伸ばした手だけが宙に浮く。

「すみま…」

「俺に触らない方がいい」

 勝手に触れようとしたことが気に障ったのかと思い謝罪の言葉を口にしたリアナ。その言葉にかぶせるようにアルセンが言った。早口のその言葉にリアナは首を傾げる。そんな様子のリアナにアルセンは苦笑を浮かべた。

「…こんな狭い場所で君に触れられたら、何をするかわからないよ。何度も言っていると思うけど、俺は君が好きなんだから」

 真剣な表情に真剣な口調。男性であることを強く意識してしまうその言葉にリアナは頬を赤く染める。

「……そんなかわいい顔は逆効果だよ、リアナ」

 くすりと笑いアルセンがそっと手を伸ばす。伸ばされた手がリアナの頬に触れた。壊れ物のように優しく触れるそれに心臓の音が大きくなるのがわかる。

「…し、仕事に戻らないといけませんので、こ、ここで失礼いたします」

 そう言って耳まで赤くし、足早に出て行くリアナの背中をアルセンは愛おしそうに見つめた。



 昨日の雨が嘘のように、空は青く澄み渡っていた。頬を撫でる風は心地よい。

「たかが男爵家のくせに、アルセン様に色目を使って、何様のつもりなの」

 そんな空の下、リアナは3人の綺麗な伯爵令嬢に囲まれていた。ブロンドの長い髪が良く似合っている。身に付けているドレスもリアナの薄い紫色のドレスに比べ格段豪華だった。リアナのドレスが仕事服だということを差し引いてもだ。ダイヤやパールが散りばめられた青色のドレスと薄いピンクのドレス、それから薄い黄色のドレスがリアナの目の前で風に靡く。

 図書館に着く手前で声をかけられ、人があまり通らない近くの路地に連れて行かれた。いつも図書館まで送り迎えをしてくれる侍女を先に帰っていいと告げて帰しておいて正解だったなとリアナは彼女たちを見て思う。彼女たちの侍女は少し離れた所で待機をしているようだった。この場にいないのは悪いことをする、という自覚があるからだろうか。

「ねぇ、リアナ様、あなたには慎みというものがないのかしら」

 口を開いたのは黄色いドレスのマイアンヌだ。蔑むような目がリアナに刺さる。その言葉と言動から、昨日、事務室から出てきた姿を見られたのだと推測できた。アルセンと2人で入った事務室から慌てて出てきたリアナは、耳まで赤くしていた。「何かあったのかもしれない」想像力を発揮させるには十分な状況だ。

「行き遅れた男爵令嬢は、なんでもやるのね」

 青いドレスの彼女が言った。その言葉にすぐに首を横に振る。

「…色目など使っておりません」

 不義でリアナを責めることはアルセンへの冒涜となる。だから聞き流すことはできなかった。それに、身分は違えども、どう見てもリアナの方が年上だ。そちらほど貴族としての礼儀がなっていないのではないか、そう言いたい気持ちを必死でこらえる。

「お話はそれだけでしょうか?それならば、私は失礼いたします。仕事がありますので」

 そう言って軽く頭を下げる。これ以上ここに入れば喚き散らしてしまいそうだった。リアナは足早に立ち去ろうと足を前に踏み出す。しかし、そこにマリアンヌの足が伸びてきた。とっさのことに反応できず、リアナはその足に引っ掛かる。

「―――っ!」

 出そうになる声を押し殺し、とっさに両手を前に出す。転ぶことはかろうじて免れたが、ついた両手は昨日の雨でできた水たまりに触れていた。手が濡れ、ドレスが濡れる。

「あら、ごめんなさい。足が長くて」

 マリアンヌの言葉に他の2人が声を出して笑った。頭上から降ってくる笑い声に、リアナは浮かんでくる涙を必死にこらえる。泣くな、泣くな。そう自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。

「あなたが身の程知らずにアルセン様に近づくからそんな無様なことになるのよ」

「もう二度とアルセン様に近づかないで」

 そう言い残し、3人の令嬢は笑いながらその場を去っていく。リアナは唇をかみしめて、起き上った。去っていく背中を蹴りつけたい気持ちを必死でこらえる。

「…どうして、こんな目に合わなくちゃいけないの」

 呟いたその声に応えてくれる人はいなかった。



 濡れた手とドレスをハンカチで拭いた。水たまりが小さかったこともあり、ドレスは裾が汚れた程度で済んだようだった。このくらいならばあまり目立たずに済む。そう思って笑おうとしたが、巧く笑えなかった。

 今まで言葉で罵られたことは両手で足りないほどあった。けれど、今日みたいに直接言われたことはなかった。実力行使も今日が初めてである。

「…早く行かないと、クリアーナが心配するわ」

 自分を奮い立たせるようにそう言葉に出し、足を懸命に動かした。

「おはよう、リアナ。今日は遅かったのね」

 正面玄関をくぐれば、作業をしていたクリアーナがリアナに声をかける。その声があまりにも「いつもの」で、リアナは自然と笑みがこぼれた。

「クリアーナ、おはよう。少し遅くなってごめんなさい」

「……」

「クリアーナ?」

「リアナ、何かあった?」

「え?」

「ドレスの裾が濡れているわ。いつも身ぎれいにしているのに」

 クリアーナは心配そうにリアナのドレスを見つめた。そんなクリアーナによく見せるようにリアナはドレスを持ち上げる。

「ちょっと濡れただけで大げさよ、クリアーナ。少し遅れてしまったから走ったの。勢い余って水たまりを踏んでしまったから、ドレスに水がかかっただけだわ」

「…」

「本当よ」

 まだ心配そうに顔を歪めるクリアーナを安心させるよう笑ってそう付け加えた。少し考えるようにリアナを見ていたクリアーナだったが、何も言わないリアナに諦めたように小さく息を吐く。

「…わかった。でも、何かあったらすぐに言ってね」

「もちろんよ。ありがとう」

 リアナの素直なその言葉に、クリアーナは笑みを浮かべた。

「あ、アルセン様」

 クリアーナの声に窓の外を見れば、いつもと同じ場所にアルセンが立っていた。相変わらずこちらを見ている顔はどこか嬉しそうである。

「アルセン様、今日はお早いのね」

 クリアーナが壁に掛けてある時計を見て言った。針は朝の9時を指している。

「そうみたいね」

「もう、リアナってば。そんな他人事みたいな言い方して」

 小さく怒るクリアーナを無視してリアナはもう一度時計に目を向ける。確かに、こんな朝早くに来ることは今までなかった。いつも、仕事を終わらせて来ているのか夕方や閉館時間間近が多かった。仕事前に少し立ち寄ったということなのだろうか。

 作業をしながらもリアナはちらちらと外を確認してしまう。アルセンは5分もしないうちにどこかへ行ってしまった。従者の慌てている様子から、忙しいのかもしれない。忙しいのならば来なければいいのに、そう思う反面、きっと来なければ寂しく感じるのだろうなとリアナは思った。



 平穏な日常が続いていた。アルセンはやはり忙しいようで、この一週間、図書館近くに滞在している時間は5分とないことが多かった。けれどそれでもアルセンは毎日図書館に来る。話をするわけでもないリアナに会いに、だ。

 どうしてそこまでするのか、リアナには理解ができなかった。ただ、幼馴染だっただけ。子どもの時、戯れで結婚の約束をしただけだった。10歳の子どもが摘んできた花を花束にし、8歳の子どもに渡した、ただそれだけだ。

 一緒にいる時間は長かったが、それも兄妹のような関係だったはずだ。それなのに、どうしてここまでするのだろう。アルセンの好意に心が揺らがないと言えば嘘になる、リアナは心の中でそう思う。けれど、自信がなかった。容姿も家柄も何もかも誇れる所などない自分にとって、アルセンは高嶺の花だ。高すぎて手が届かない。今は届くかもしれない、なんて幻想を抱いているが、きっとアルセンに手を伸ばせば、アルセンがずっと遠いところにいるのだと分かるのだ。そう思ってしまうから、アルセンの手を掴むことができなかった。

 リアナは小さく息を吐く。もうすぐ閉館時間だというのに、今日はアルセンの姿を見られなかった。いつもはクリアーナと話しながら仕事をしているが、今日は用事のため、クリアーナは途中で帰宅した。心配そうなクリアーナに1時間くらい大丈夫だと言ったのはリアナだった。けれど、一人だと色んな事を考えてしまう。昔、アルセンと一緒にいた日々や自分の置かれた状況、今のアルセンの言動について。そして、自分勝手だとは思いながらも、アルセンが来ないことに寂しさを覚えてしまうのだ。

「とうとうアルセン様に飽きられましたのね?」

 返却された図書を戻しているリアナにそう声がかけられた。

「…マリアンヌ様」

 視線を声の方に移せば、立っていたのは一週間前にリアナに足を引っ掛けた伯爵令嬢だった。今日はこの前にいた2人の姿は見られない。

「たかが男爵家の娘ですものね。しかも、平凡なお顔に平凡なお胸。アルセン様が飽きるのも当然だわ」

「…」

 バカにしたようなマリアンヌの言葉に反論したくて、けれどできなかった。悔しさを噛み殺して小さく頭を下げる。

「私、業務が残っておりますので、失礼いたします」

「男爵家は娘が汗水かいて働かなくてはいけないほど逼迫してらっしゃるのね」

「……私が好きで働いているだけですわ」

「そうでしたの?そんなみすぼらしいドレスを着ているからてっきり、家計が苦しいのかと思ってしまいましたわ。ごめんなさい」

 マリアンヌの言葉にリアナは自分のドレスを見直す。仕事着として使っている物なので、余計な装飾はない。目の前のマリアンヌのドレスに比べれば数段見劣りするのも事実だった。勝ち誇ったように胸を張るマリアンヌ。リアナはそんなマリアンヌに笑みを浮かべる。

「…それでも、アルセン様が見ているのは、素敵なドレスのマリアンヌ様ではなく私なのだから、世の中って不思議ですわね」

 マリアンヌがリアナの言葉に目を見開く。リアナも自分の発言に驚いた。しかしすぐに、腑に落ちる。むかついていたのだなと思った。自分はどうしようもなくむかついていたのだと。足を引っ掛けられたこともリアナとアルセンの関係の邪推も家をバカにされたことも、マリアンヌの発言のすべてに。

 怒りで震えているマリアンヌに片頬を持ち上げながら頭を下げる。そのまま背を向け、その場を離れようとしたその時だった。ビリッと不快な音が耳に入る。振り向けば、マリアンヌが手にしていた本を破いていた。

「何をしているの!」

 リアナは慌ててマリアンヌの手を掴む。その手はすぐに振り払われた。

「あなたなんかに、どうして、私が!」

 金切り声が耳に響く。リアナが一瞬ひるんだ間に、マリアンヌはもう一度本に手を伸ばし、再び破ろうとした。

 けれど、できなかった。伸びてきた大きな手に阻まれたから。リアナが視線を向けた先にいたのはアルセンだった。

「…アル…セ…ン…様」

 呆然としながらマリアンヌが彼の名を呼ぶ。こんな中でも、そこにはかすかに甘い響きが含まれていた。けれど、マリアンヌを見下ろすアルセンの目は恐ろしく冷たい。

 マリアンヌ、そしてリアナもその目に言葉を失った。

「出て行ってもらおうか」

 熱を持たないその声にマリアンヌは首を横に振る。

「ち、違うんです。アルセン様。わ、私は…」

「聞こえませんでしたか、マリアンヌ嬢。私は、出て行けと言ったのですが」

「そ、そんな……アルセン様…」

「リアナを傷つける人に、名前を呼んでほしくはありません。…さっさと出て行け」

 地を這うような低いその声に、抗うことはできなかった。マリアンヌは涙を浮かべながら、図書館から出て行った。

「リアナ、大丈夫かい?」

 マリアンヌへの言葉からは考えられない優しい声がリアナにかけられる。

「…俺のせいだね」

 アルセンが足元に落ちた破れた本を拾った。

「怖い思いをさせて、ごめん」

「……どうして、私なんですか?」

 リアナは目を逸らすことなくアルセンを見つめてそう問いかけた。その真剣な表情にアルセンは言葉を選んでいるようで黙ったままだった。

「どうして、私なんかを好きなんて言うんですか?」

 答えないアルセンに詰め寄るようにもう一度リアナは問う。

「…なんか、じゃない。リアナ、君は素敵な女性だ」

「容姿だって、家柄だって、何もかも平凡な私のどこが素敵だというの?」

「リアナ…」

「どうして、私が巻き込まれないといけないの。どうして、私がこんな目に合わなければいけないの。…幼馴染だから?結婚の約束をしたから?それだけで、私の大事な本は破られたとでもいうの?」

「…」

「これ以上、私に構わないでください。…あなたも、出て行って」

 アルセンの手にした本を奪うように取ってリアナはそう言った。睨むような、けれどどこか悲しむような表情にアルセンは思わずリアナに手を伸ばす。事務室に行こうとしていたリアナを後ろから抱きしめた。

 抗うように身をよじるリアナだったか、力の差は歴然で、絡まる腕の力はさらに強まるばかりだった。

「俺が考えなしで動いてしまったばかりに、君や君の大事なものを傷つけてしまった。本当にすまない」

「…」

 真摯なアルセンの声に、リアナは抵抗を止め、静かに耳を傾ける。

「本当は君の前から消えるべきなのかもしれない。でも、……それができないほど、俺は君が好きなんだ、リアナ。…俺を好きになれ、なんて言わない。そりゃ、好きになってほしいけど、でも、無理に好きになれないんて言わないよ。だけど、…俺がリアナを好きでいることは許してほしいんだ」

 まっすぐな言葉はリアナにしっかりと届いた。自分を抱きしめるその腕の温かさをリアナは肌で感じる。

 どうしても欲しいのなら、持てる力を使えば、リアナをどうすることだってアルセンには可能なのだ。家の格も財力も圧倒的にアルセンが上なのだから。けれど、アルセンはそれを使わずただ、リアナに伝えてくれる。「君が好き」だと。

 窓の外から向けられる視線にも交わす言葉にも、「好き」だという気持ちが込められていた。そんな気持ちをぶつけられて、アルセンに惹かれていない、なんて言ったら嘘になる。格好良くて、頭が良くて、そして何より優しい人。そんな人から好意を向けられて嬉しくないわけがない。アルセンが視線でリアナを追うように、リアナもまた視線でアルセンを探していた。けれど、アルセンを見れば見るほど、どうしていいかわからなくなるのだ。だって、自分には何もないから。誇れるものなんて、何もないから。

「…あなたに好きになってもらう理由がわからないんです」

 かき消されてしまいそうなどほど小さな声だった。けれど、アルセンは聞き漏らすことなくリアナの言葉を受け取る。

「…初めてリアナに会った日、俺には君が天使に見えた」

「…え?」

 アルセンの言葉に、思わずリアナはアルセンの方を向いた。リアナの瞳に映るアルセンはどこか照れたような表情をしていた。

「一目惚れだったんだ」

 そんなはずはない、そう否定しようとして、けれどリアナは言葉を紡げなかった。リアナを見るアルセンの表情が真剣そのものだったから。

「だから、結婚の約束は俺にとっては本気だった。子どもの戯言なんかじゃなくて」

「…」

「でも容姿だけに惹かれたわけじゃない。リアナと一緒にいるとどんどん好きになっていった。本が好きで、図書司書になるために、一生懸命勉強しているところ。貴族の令嬢なんだ、働かなくたって生活に支障はないのに、君は寝る間を惜しんで努力していた。自分の信念に貫いている姿は本当に綺麗だった」

「…」

「司書としてこの図書館で働くようになってから、凛として、仕事をしている姿を綺麗だと思ったよ。本を手に取る君が楽しそうで、俺まで嬉しくなった。着飾っている女の子たちなんて目に入らないくらい、本を手に取る君は綺麗で、愛おしい」

「…そんなことないわ。だって、私なんて何の取り柄もないし、行き遅れだし。私なんて…」

「リアナ」

 言葉を続けようとしたリアナを遮るようにアルセンが名前を呼んだ。

「周りの評価も君の自分への評価も俺には関係ない。俺は、リアナを綺麗だと思うし、愛おしいと思う。…一生をともにしてくれると約束してくれるなら、どんなことだってできそうなくらい嬉し、実際どんなことだってやり遂げる自信がある」

「でも、……私とアルセン様では身分が違い過ぎます」

「公爵家と男爵家では確かに身分は違うよ。でも、俺はそんなことに流されないようにこれまで一生懸命やってきた。貿易で結果を出したし、交友関係だって広めてきた。俺の選択に誰にも何も言わせないために」

「…え?」

「リアナの心が掴めれば、君と結婚してもいいと父上から許しは得ている。だから、君の心次第なんだよ、リアナ」

 リアナにはアルセンの言葉の意味が理解できなかった。もう一度咀嚼するように頭の中でアルセンの言葉を繰り返す。

「…私と結婚するために、お仕事を頑張った、と?誰にも文句を言わせないために」

「ああ」

 当たり前だ、と言わんばかりにアルセンが頷いた。アルセンは普通の人では到底築くことのできないほどの財をたった24歳で築き上げている。それもすべては、リアナと結婚するために。

「…あなた、変だわ」

 どこか力が抜けたようにリアナはそう言った。リアナの言葉にアルセンは頷く。

「俺もそう思う。でも、俺を変にしたのは、君だよ、リアナ」

「…それだけの美貌も、才能も、家柄もあるのに、私なんかが好きで、私なんかのためにそれを使うなんて、とっても残念な人」

「リアナ、何度も言うけど、『私なんか』なんて言わないで。君は世界で一番かわいくて、世界で一番優しいんだから」

「…残念ね。あなたの世界はとっても狭いわ」

「それでもいいよ。その世界に君がいるなら」

 そういうとアルセンはにこやかに笑いリアナを見る。その顔が格好良くて、素敵で、だからやっぱり残念だとリアナは思った。 

 アルセンは跪いてリアナを見上げる。左手を取り、手の甲に口づけた。

「リアナ、俺と結婚してくれますか」

 アルセンのまっすぐな瞳にリアナが映っていた。リアナに触れるアルセンの手はかすかに震えている。恐れているのだ、リアナに拒否されることを。それがわかるから、リアナは泣き出しそうになる。

 この先、アルセンの瞳に自分が映ることがなくなったとしても、この手を放せそうもないことがわかってしまったから。

「…はい」

 残念だけど、目の前のアルセンの世界が狭い内は、傍にいたい、そう願ってしまった。リアナの言葉にアルセンは立ち上がり、嬉しそうにリアナを両手で抱きしめる。

「リアナ、愛してる。世界中の誰よりも」



 リアナが好きになったのは、世界で一番残念な人。だって、平凡でなんの取り柄もないリアナを好きだと言うのだから。

 でも、このまま残念なままでいてくれればいいとリアナは思った。だって、リアナも残念なくらい、アルセンを好きになってしまったのだから。
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