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第三章 その夢は誰が為ぞ

四 座興をひとつ(2)

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 アルフレッドはルロイを担ぎあげてリュリの使っていた客室に運び込むと、サナの師匠が行う治療の一部始終を傍で見守った。
 サナの肩の上に乗った白カラスは首を捻り自身の羽を一本引き抜くと、それを彼女に渡した。サナがそれを沸かした湯の中に沈めると、湯はとろりとした紫の液体になった。それを寝台に横たえられたルロイの口に含ませると、彼は少々むせながらも全てを飲みきった。
「……おいしくない」
「そうでしょうね、薬ですから」
 苦さにその顔をしかめたルロイを、サナがたしなめる。白いカラスがくちばしを開いた。
「あとは寝るだけじゃ、若者よ」
「カラスから人の言葉が聴こえるのって慣れねえ……」
「奇遇だな、俺もだ」
 ルロイとアルフレッドは人の言葉を話す白いカラスに未だ戸惑っていた。
 サナは寝台の傍に椅子を持ってきて、そこに白カラスを恭しく乗せると、その傍に立った。
「改めてご紹介します、アルフレッドさま。こちらが賢人イグナート先生です。先生、アルフレッドさまのことはもうご存知でいらっしゃいますね?」
 白いカラスはアルフレッドに向かって、解かっているという風にその瞳をぱちくりして見せた。アルフレッドにとって、サナの発言は俄かに信じがたい話だった。疑問が口をついて出る。
「イグナート殿は確か六年前に……」
「そうです。先生の肉体は六年前、確かに滅びました。その有事において、先生はその精神をカラスの像に移したのです。五年前、わたしが先生の研究室においてその像に触れたとき、封印が解かれました。以来、わたしは弟子として行動をしています」
 アルフレッドとルロイの想像もつかない《魔法のギフト》の話に、二人は顔を見合わせた。
 ルロイが寝台からその体を起こし、白カラスに顔を寄せて軽い口調で質問する。
「イグナートさまって《ギフト》の有無を見極められるんだったよな? じゃあオレの当ててみてよ、カラスさん?」
 白カラスはその翼でふわりと飛び立ちルロイの膝の上に乗ると、そこで軽く足踏みをした。
「主は……。《力のギフト》……脚に宿っておるようじゃの」
「なんでわかるんだよ!」
 嘘だ、とぼやくルロイを放っておき、白カラスは傍に立つアルフレッドに向きなおった。
「主も《力のギフト》じゃ、間違いないじゃろう?」
 アルフレッドの全身の筋肉が強張った。
 彼は近しい人間以外に、そのことを言っていなかったし、見せていなかったのだ。
 彼は生まれつき視力が高かった。彼の見つけるものは、たいていの人間に見ることのできない距離にあった。それを近親者に話しても共感は得られなかった。視界の遮られる森においても、その木々の葉一枚ずつの違いを見分けられるほどだった。アルフレッドの体が成長してゆくと、その良くきく遠目は、父親の趣味であった狩りに大いに役立ったものだった。
 そしていつしか、アルフレッドは、誰よりも狩りの達人として腕を上げていた。それも全て《力のギフト》の為せる技だった。
「本当に、イグナート殿……?」
「そうじゃ。遠目だけでなく、夜目も利くじゃろう? いきなりの光の明暗にも」
 アルフレッドが神妙に頷くと、白カラスは満足したようにサナの用意した椅子の上に戻った。サナは白カラスの行動をちらりと見やると、つまらない話ですが、と枕詞を置いて話を続けた。
「わたしの《ギフト》は《魔法》……移動に関するものに特化されています。わたしは、五年前に東のイーシアから自身の《ギフト》を暴走させてこのヴィスタまで来ました。それというのも、わたしと同様に悪魔の子と呼ばれた、生き別れの兄がいるところに来たかったからです」
「なんだそれ? 悪魔? そいつなんか悪いことしたのか?」
 悪魔という物騒な単語に、ルロイがすかさず反応する。サナは静かに語りだした。
「……兄が生まれる際に、母親が死んだのです。イーシアに伝わる神話に倣って、生まれるときに母親を殺す子供は悪魔の子と呼ばれています。父親は兄を旅人に売ったと言っていました。その後に娶ったわたしの母も同様に、わたしを生み落として死にました。父親は二度までも妻を失って、ついに狂人になってしまいました」
 表情も声色も変えずに淡々と壮絶な生き様を話す年端も行かない少女に、アルフレッドは心の中でそっと同情を寄せることしかできなかった。
 言葉が何の慰めにならないことを彼は知っていた。
 彼女が抱え込んできた心の闇があまりにも大きすぎたせいで、彼女は年相応の無邪気さを失ってしまったのだと想像することは容易かった。
 ルロイに至っては、自身の体の痛みを堪えていた時よりももっと苦しそうな表情をしていた。
「九歳だったわたしは、父親に殺されそうになりました。冥土の土産にと、わたしに兄がいることを口走ったのが彼の過ちでしたね。わたしは今際の際に《ギフト》を目覚めさせたようです。気付いた時には、ブリューテブルク城の地下室に居ました。……後から知ったことですが」
 月の光が病的にまで色白のサナの頬と翠の瞳を照らす。
「そこで先生に出会い、わたしは自身の《ギフト》を磨きながら、兄を探していました。ボーマン家に入ったのも、実はその一環です。……王宮と制服が一緒ですから」
 サナがアルフレッドに視線を向けると、彼は軽く頷いた。
 ルロイはしばらく考えた後、合点がいったようで納得した表情を見せた。彼の様子を見て、サナが口の端をほんの少し上げたのを、アルフレッドは見過ごさなかった。
「わたしは《ギフト》を使って、このヒューゲルシュタットとブリューテブルクを行き来して情報を集めていました。兄のこと……、そして、兄の求める白い妖精のこと……」
 妖精という単語に、ルロイが食いついた。
「妖精! リュリちゃんを欲しがる奴……ってことは、サナちゃんの兄貴って……!」
 顎をあんぐりと下げるルロイに対し、サナはこくりと小さく首を動かして返事をして見せた。二つにまとめたくせのない黒髪が、さらりと肩から落ちた。
「先生とお話して分かったんです。仮面の魔術師こそが、先生の敵にしてわたしの兄だと」

 月がその役目を太陽に明け渡す頃、客室にはルロイとアルフレッドだけになっていた。
 サナは女中としての仕事のために去っていた。
 白カラスは二人の男性がうたた寝から覚めるとその姿を消していた。
 一条の光に目を覚ました二人は、まずルロイの回復に驚いた後、リュリについて話し合った。
 途中何度もルロイが赤面する場面があったが、なんとかその話が終わると、アルフレッドはすっかり彼女を何が何でも取り戻す気持ちになっていた。
 陽だまりのような暖かな笑顔をもう一度見るために。
 もう一度その腕に抱く為に。
 ふと、アルフレッドの脳裏に思い出したくもない義姉の誘惑が蘇ってきた。
 今度はアルフレッドが、そのルロイにいきさつを簡単に説明した。
「義姉上は、俺のことをリチャードと呼んでいた。そんなことは一度もないし、そんな当てつけるようなことをする人ではなかったのに……。なぜだと思う?」
 耳まで真っ赤に染めたルロイが、極めて真面目そうな顔つきをして答える。
「うーん。未亡人の悪戯にしては、ちょっと変な感じだな。母ちゃんに聞いてみるか……?」
「かあちゃん? 屋敷に知り合いでも居るのか?」
 アルフレッドが驚いて日光に照らされ始めたルロイの方を見ると、彼はあっけらかんとして答えた。彼の栗色の髪が透けて赤い炎のように見えた。
「一つ耳の熊、って言ったら解かりますか? あれ、うちのお袋です」
「……ハンナのことか? もしかして、俺たちは同じ熊に育てられたのか?」
 二人は顔を見合わせて大笑いした。
 そして、アルフレッドが右手を差し出すと、ルロイもその右手でそれを受け止めた。
 乳兄弟は、固く握手を交わした。
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