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第三章 その夢は誰が為ぞ

五 心の距離感

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 囚われの小鳥は、その鳥籠から逃げる気力をすっかり無くしていた。
 連れてこられてからの三日間、全ての食事の時間をシュウと過ごしたが、彼女は、彼のビロードのような声や手つきに何の反応も示さず、ただぼうっと窓の外を見ていた。
 兄はそれに手を焼き、どうにかして興味を引き付けようとした。
 あれやこれやとリュリに贈り物をしたり、躍起になっていたが、贈り物もその行動もリュリの乾いた心には何の意味も持たなかった。
 夜にシュウがリュリの寝台に入ってこようとした際には、彼女は頑なに床で寝ることを主張したため、それ以降、彼は夜には来なくなった。
 リュリの心の中には、自身に関わったことで不幸になった人々のことが渦となって思い出されていた。
 孤児院の仲間たちが建物ごと炎に包まれる場面と、ルロイがシュウの手によって塔から投げ出される場面が脳裏にこびり付いて、寝ても覚めても彼女の考えを支配した。
 四日目の朝の食事が終わると、シュウはリュリの方をそっと抱き寄せ、その額にくちづけてリュリの部屋を後にした。彼女にとってそれは、何の感情も呼び覚ませるものではなかった。
 少女は彼のことを見送らず、やはり窓の向こうの青空を見ていた。
「でも……」
 もし、同じことをアルフレッドにされたなら、と、ふとリュリは考えてみた。
 無理に触れようとはしない、むしろ触れることに恐れを抱いているような彼のことが懐かしくなった。
 武骨で、そっけなくて、だけどもどこか優しさと少年らしさを秘めた彼の声をまた聴きたいとリュリは思った。
 彼のことを思うと、リュリの心臓は早鐘のように高なった。
 気持ちがふわりと浮き足立つ。
 しかし、次の瞬間にアルフレッドは貴婦人の手をとってリュリに背を向けるのだ。
「……」
 窓から入ってくる風が、彼女の白金の髪を大きくたなびかせる。
 薔薇の香りさえ感じさせる爽やかな風に、自身のフードが脱げていないか咄嗟に確認するも、彼女は今、誂えられた薄手のワンピース一枚しか着ていなかった為、その両手は虚空を掴んだ。
「どうしてだめなんだ?」
 リュリの耳に、彼の声が聴こえてきた気がした。
 彼女は立ち上がって、水をぐいと一飲みした。喉だけでなく、心の渇きまで潤される気持ちがした。
 アルくんに好きな人がいても、自分の気持ちを伝えたい。
 そう、決心がついた。
「だめじゃない!」
 リュリは自分自身に言い聞かせるように言うと、部屋の中を改めて見回した。
 彼女の大樹の部屋より、いささか狭い塔の部屋は、シュウの持ってきた贈り物の箱で居住区域がさらに狭められていた。
 リュリはその箱の山を掻き分け、ひとまず寝台の横にある窓から外を見渡してみた。
 目下には見たことのないような、大規模の市街が広がっていた。
 少女は、市街をくねくねと曲がって走る大通りを見て、まるで蛇のようだと思った。
 窓から身を乗り出してあたりを見回すも、リュリの居る塔は高い位置にあり、そこから抜け出す手段はたった一つに限られていると彼女はわかった。
 彼女は窓から離れると、シュウにしか開けられないという魔法の掛けられた扉の前に仁王立った。大きく深呼吸をする。
「ここからどうにか抜け出して、伝えなくちゃ。わたしの気持ち……!」
 彼女は瞳を閉じながら、扉が開くイメージを頭の中に描き念じ、扉に触れた。
 リュリは想像する。
 触れた取っ手が、かちりと軽やかな音を立てるのを。
 そして自身の右手によって容易く捻られ、いとも簡単に扉が開き、道が開かれるのを。
「お願い!」
 リュリは掛け声と共に気合を入れてドアノブを捻った。
「あれ? うそ? 開いた……あああああ!」
 すると、あっけなく扉は開き、リュリは自身の力の反動でそのまま転んでしまった。
 それだけでなく、階段はくだりだったので、彼女は体のあちこちを擦り剥きながら階段が無くなるところまで転げ落ちてしまった。
「痛いよう……」
「……曲者! 貴様、ここで何をしている!」
 埃まみれのリュリが打ってしまったところを撫でさすっていると、若い兵士の声が彼女のすぐ上で聴こえた。茜色の長い前髪を持つ青年が、リュリを見下ろしていた。
「……何もしてないよ。お兄さん、出口はどっちかなあ?」
「ん? ああ、ここを右に曲がって……って待ちなさいよ! みんな、曲者だぞ!」
 リュリは青年兵士が目を逸らした隙に駆けだした。
 とりあえず下り階段を見つけてどんどん降りて行けば、この建物から出られると思っていたのだが。しかし、その考えが浅はかだったことに彼女は遅まきながら気づくこととなった。
 階段を見つけるたびに、そこから兵士がこちらにやってくるのが見え、それを避けざるを得なかったのだ。
 と、走るリュリの前方に、床に付きそうなほどの長い髪と、たっぷりとしたドレスの裾とを揺らして歩く小さな少女が見えた。どうやら、部屋の一つに入るところのようだ。
 リュリは彼女と共に部屋に入ってやり過ごそうと思いついた。
 だがしかし、勢いのついたリュリの足は止まる術を知らなかった。
「ひゃああ! どいて、どいてええ!」
「一体何事なの……へぶっ!」
 リュリが小さな少女にぶつかってしまったせいで、彼女は持っていた本を取り落としてしまった。リュリを受け止めた彼女は見た目にそぐわぬ大きな態度で詰め寄った。
「あなたねえ、一体何のつもりよ! いきなりぶつかってきて……あら、白い妖精? あなた、リューリカ?」
「ごめんなさい、ごめんなさい! とりあえず一緒にそこの部屋に入ろ!」
 リュリは少女の落とした本を急いで拾うと、彼女の背中を押して部屋に入り、扉を閉めた。
 その部屋は、大きな寝椅子がいくつかと、大きな机のあるシンプルな部屋だった。
 リュリは敷かれた絨毯の上にへたり込んだ。
 扉の向こうで鎧の擦れる音と兵士の大きな足音が聞こえ、リュリはびくついた。そのうちに足音が遠のくと彼女はほっと肩を撫で下ろした。
 道連れにした少女は、リュリの様子をつま先から頭のてっぺんまで横目でじろじろと観察し、不遜な態度で言った。
「あなた、その調子じゃあ、兵士に追われていたのね。……まあ仕方ないとは思うけど」
「えへへ……そういうこと」
 少女に対し、リュリは苦笑いを見せた。
 それを目の端で捉えた彼女は、鼻からため息をひとつ漏らすと、リュリに腕を突き出した。
 リュリは何のことか解からずに首を回すと、自身の持っている革で装丁された本に気付き、慌ててそれを少女に差し出した。
「あなたのことはジー……魔術師から聞いているわ。……リューリカ。白い妖精」
 うっすらと桃色の混じった長い金髪を翻し、少女はリュリに向きなおった。
 その瞳が品定めをするかのような鋭い光を宿しているのに、リュリは気付いた。
 彼女は、小さな少女とはいえ初対面の相手だからと考え、自身に出来る最高の挨拶をすることにした。
 すっくと立ち上がり、薄いワンピースの端を軽く摘むと、少女に対して勢いよく礼をした。元気良く上げられた彼女の顔は、汗に濡れつつも笑顔に満ちていた。
「妖精さんじゃないよ、私はリュリ。あなたは?」
「……ロザリンデ・ツェツィーリア・フォン・ヴィスタ」
 少女はリュリの宮廷式の礼に黄金色の瞳を丸くしたと思うと、すぐに俯きぼそぼそと呟いた。
 リュリも、彼女の名前のあまりの長さに目を見開いた。
「ロザ……あうう……短い言い方、無い?」
「……ロゼでいいわよ」
「ロゼちゃん! 良い名前だね!」
「べ! ……別に……」
 ロゼと名乗った少女は俯いたままだったが、頭の上のティアラがずり落ちてきたので慌てて頭の角度を元に戻した。その顔は紅に染まっていた。
 リュリは素直な気持ちで話しかけた。
「それ、綺麗だけど……何だか重たそうだね」
「別に。……慣れてるから……」
「そ、そっか……大変だね……」
 リュリの言葉はロゼの不愛想な返答によって会話の切っ掛けにはなり得なかった。
 明らかな敵意は存在しないはずなのに、対峙する二人の間に不穏な空気が流れていた。
 リュリは自身の視線があちらこちらに泳ぐのを止められなかった。
 その間に部屋の内部を観察すると、そこは生活に必要なものがない場所であるということがわかった。そして、ロゼの視線が彼女の手元の本に一点集中していることにも気付いた。
 今度は恐る恐る尋ねてみる。
「ロゼちゃんは、本が好き……なのかな?」
「まあ……」
「そっかあ」
 二人の間に、再び沈黙が訪れた。
 部屋中を支配する気まずさを破ったのはロゼだった。
 彼女は、蚊の鳴くような声でぽつりと呟いた。
「……み、見せてあげても、いいけど……」
 それを聞いたリュリは笑顔を咲かせてロゼに近づいた。ロゼはリュリの勢いにたじろぐ。
「本当に? どんなお話なの?」
「……恋のお話よ……。あなた、興味があるの?」
「うん!」
 子供のように好奇心に瞳を輝かせるリュリに、ロゼも幾分か警戒心が解けてきたようで、調子が戻ってきた。
「立ったまま読むなんてナンセンスだと思わない? あ、でもその前に……」
 そう言うとロゼはたっぷりとしたドレスに包まれたささやかな胸元からベルを取り出して、ちりんちりんと可愛らしい音を部屋に響かせた。
 すると、音が鳴り終わると同時に部屋の扉が叩かれて一人の若い女中が入ってきた。リュリは黒い髪を二つに束ねた彼女に見覚えがあった。リュリが驚いて口を開いた時には、すでにロゼが話しだしていた。
「あ!」
「お茶を二人分と、この娘にちょうどいい服を持ってきて頂戴」
「かしこまりました、女王陛下」
 黒髪の女中は命を受けるとすぐに引き下がってしまったので、リュリが声をかける機会は失われてしまった。だがリュリにはもう一つ、女中よりも気になることが出来ていた。
「女王へーか?」
 ロゼは再び黄金色の瞳を驚愕で見開くと、呆れたように腰に手を当ててリュリに説明した。
「あなた、本当に何も知らないのね。目の前のわらわが、そうよ」
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