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To Be Me -after THE day-
第5話
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帰りも一時間近く電車に揺られ、新宿駅に着いたのは午後五時半過ぎだった。
「……ちょっと早い?」
「いや、いいんじゃないですか?他どっか行くって言っても微妙な時間だし」
明日休みだから、多少飲みすぎたって構わないし。
時計を見て問うた大園にそう返すと、本当のところはもう待ちきれなかったらしい彼は、じゃあこっちとすぐに場所の案内を始めた。新宿は、大園の方が詳しい。学生時代は乗換駅だったと、いつだったか大園が言っていた。国峰も大学は都内だったが、立地がずっと外れの方で、アパートもその近くで借りていたから、社会人になるまで朝の満員電車の混雑は知らずに来た。そのせいか、東京住みはそれなりに長いが未だに、新宿駅と渋谷駅には苦手意識がある。
「時間あるなら、何軒か梯子していい?」
乗り換え改札を抜け、中央東口をから出るという大園の足は早い。駅に慣れた相手が一緒だと、こういうところが楽でいいなと、そう思う。
「もちろん。大園さんのおすすめですか?」
「おすすめと、行きたいところ」
キリンシティもあるけど、そこはまた今度と大園は言い、ちらりと視線を寄越してふっと笑ったその顔に向けて、国峰も隠微に笑い返した。日本のラガーならキリン、とつい先ほどまで話をしていたのだ。
ー国峰くん、最初飲み行ったとき言ってたろ?キリンが好きって。味覚、合うなと思って
だから二回目の時には遠慮なく自分の好きな店に誘えた。
暗い地下のトンネルを抜ける電車の中で、つり革に掴まった大園が写り込んだ車窓を眺めながら、そんなことで繋がったのかと、ちょっとした感慨が胸に沸き、国峰はその言葉にへえと応じた。最初の時、ビールを飲んだ後軟化した態度も、二度目を彼から誘ってくれたことも。自分では意識しないちょっとしたことで、こうして繋がった縁だったのだ。人との繋がりは面白いと、そう思う。どこでどんな風に繋がるか、誰にも分からない。意図しない要因が、意外にも大きな意味を持って繋がりを取り持つことも良くある話、なのだ。国峰にとって、大園との縁のひとつは間違いなく、キリンの生だった。それが、面白い。
「……クラフトビールの店行ってみていい?エール飲まない奴は連れていきにくいから、前から行きたかったんだけど、まだ行けてないんだよ」
「いいですね!国産もあります?ゆずとかわさびとか、変わったの、この前テレビで見ました」
「あったあった。今流行だよな。国産ビール」
丁度気になっていたクラフトビールの話題が出て気持ちが上がり、ぱっと大園を向くと、大園はくすくす笑いながら、国峰くんてほんとに酒好きだよねと横顔で言った。涼やかな笑顔を前に、かっと頬が熱くなる。そんなに態度に出ていただろうか。恥ずかしくなって視線を落とす。子供っぽく見られたくないのは本心なのに、大園といると何故か上手くいかない。別に。元々大人っぽい方だとは思っていないし、実際自分は彼よりずっと年下で、人としての経験も浅ければ懐も狭い訳で、今さら格好つけたところで大した意味は無いのかもしれないけれど。……好きな人の前で格好つけたいと思うのは、もうほとんど本能だと思う。この人の前では、格好いい自分でいたい。優しいこの人が、安心して生身で居られるくらい。尊敬するこの人が、甘えられる居場所になりたい。
「……俺も、飲むの好きだからさ、」
国峰くんと食事するの、楽しいよ。
優しい声が降ってきて顔を上げると、ふんわりと口もとを綻ばせた大園の視線とぶつかり、どきりとする。
「……ほら、こっち」
見つめる先で、大園は僅かに首を傾げ、改札出るよと滑らかに続け、中央東口と書かれた改札を視線で示して背中を向けた。ひらりと人混みを避けて進むその背に導かれながら、こういうところがずるいよなと、そう思う。可愛いところがある。多分、無理もしている。でもどうしたって、生きてきた年月の違いがある。大園は大人ではないと言うけれど、でも根っこのところで、大園は国峰よりもずっと経験豊富で、自分には無い余裕がある。何を言えば国峰が喜ぶのか、分かってやっている。多分、意識はしていないのだろうけれど。
改札を抜けた先、有名フルーツ店のケーキスタンドの脇を抜けて。あまり待ち合わせで使うことのない狭い階段を登ると、そこはもう、色とりどりの光と音が踊る、新宿のど真ん中だった。新宿という街は、正しく“雑多”だ。計画都市にはあり得ないごちゃごちゃ加減がこの街の味で、所狭しと建ち並ぶビルの色も高さもがちゃがちゃな感じ、街ゆく人々の多種多様さ、道路と歩道の境が曖昧なところ、そういう全部が“新宿らしい”で説明できてしまうような、そんな懐の深さがある。駅のこちら側は、歌舞伎町とゴールデン街と二丁目、向こう側には、都庁とコクーンタワーと企業ビルが林立するアーバンシティ。そういうアンバランスを飲み込む街。人の熱が、空気の温度を上げている。湿気がないから嫌な感じは全くないが、地上に出ると、外気は暑くすら感じられた。誰の号令がなくとも自然に生まれる人の流れが、あちらこちらで蠢いている。ザワザワと揺らめきながら進む流れは、個々を飲み込んで内包し、新宿の街を巡る動脈だった。はぐれるなよと振り向いた大園に向けて頷くと、彼はふっと格好良く笑んだ。格好良くて可愛くて。大人だけど大人じゃない。この人もかと、ふと思う。雑多を内包する生き物。底抜けの優しさで包み込んで、アンバランスを飲み込む人。歪も違いも受け止める、懐の深い人。俺を、認めてくれる人。
大事にしたいと、そう思う。流れを割って進む背中はしゃんと背筋が伸びていて、ひ弱さなど微塵もない。彼は、一人でも生きてゆける人だ。強い人だ。傷つきながら笑える人。自分よりも、“誰か”を思いやれる人。でも、だからこそ。俺は、この人を大事にしたい。いつも、どんな時も、堪えて笑うこの人の、泣ける場所になれたらいい。そう、思う。
「……あー!満足!」
「ほんと。滅茶苦茶良かった」
ここのバーもまた来たいですねと、国峰が赤い顔で陽気に笑った。その笑顔をぼんやりと見つめながら、こんなに飲んだのはいつぶりだろうと少しの間考えてみたのだが、頭を使うのが面倒になってすぐに辞めた。笑う彼から視線を外し、とんと足を踏み鳴らして歩き出す。ふわふわする。すごく、気分がいい。それはどうやら国峰も同じで、いつも楽しげな彼も今日は、いつも以上にご機嫌だった。駅に向かう道すがら、目に入るネオンの輝きが眩しくて綺麗で、大昔、幼稚園で作ったセロファン紙入りの万華鏡のキラキラした模様を彷彿とし、大園は唇で笑んだ。
最初の店でクラフトビールをそれぞれ2杯飲んだ後で食事のために寄ったのは、新宿区内に何店舗か展開しているワインバーの三丁目店で、話し上手のソムリエに勧められるがまま、二人でグラスワインを端から試した。ワインの輸入業者が経営するこの店の売りは、定期的に内容の変わるグラスワインリストで、他店では中々グラス売りをしないようなワインを食事と一緒に楽しめるそこが、大園のおすすめだった。その後に寄ったのはソムリエが勧めてくれたバーで、そこでもワインを一杯と、大園はロマーノ・レーヴィのハーブ入りグラッパ、国峰はカルヴァドス・ポム・ド・イヴで締め、時間は既に23時を回っていた。
すごく楽しかった。今日は朝から一日中、とにかく楽しかった。久々の運動も爽やかで良かったし、食事も酒も美味かった。なんなら朝、何を着て行こうか迷う時間も良かったし、電車で移動する時間も、混み合う街を歩き回る時間も、今こうしている時間も、全部。全部が、すごく楽しい。
「……わっ、と。すみません」
隣から、距離感を見誤ったらしい国峰がとんとぶつかってきて、よろめきかけた大園の腰に彼の腕が回り、他意のない腕がぐっと強く身体を支えた。柔らかな布越しに、国峰が触れる。触れている。
「……っ、」
ぞわりと、触れられた場所が甘く騒ぐ。触られていると意識した瞬間、力が抜けるような、それなのに身が硬くなるような、不思議な感覚に襲われて、大園は小さく喉を鳴らした。
「…………なんだ、これ」
ざわざわする。内も、外も。腰に触れる指先の感触、背中に巻きつく腕の感触、半身をぴたりと寄せた国峰の、のぼせた体温。何気なく触れたはずのその手を離す直前、国峰が零した、あ、という声。性急に手を離すときの、慌てた仕草。……なんだこれ。ざわざわする。ざわざわして、ぞくぞくする。耳元で心臓が鳴っている。どくんどくんと、全身が脈打つ。世界の音が遠のく。頭の中が、愛しいでいっぱいになる。
離れてゆく手が惜しくて、その手を追うように顔を上げると、決壊直前の熱を目一杯身体に満たした国峰の切羽詰まった視線が、大園の全身を絡め取って揺らいだ。暑い。熱い。
なんだこれ。なんだろう。苦しい。胸が苦しい。国峰が欲しくて、国峰の全部が欲しくて、胸が苦しい。全部好きだ。全部。この男の全部が好きだ。楽しかった。当然だ。だって、今日はずっと、国峰といた。彼のことを考えながら支度をして、彼の背中を見ながら山を登って、彼の声を聞きながら電車に乗って、彼の向かいで食事をした。楽しいに決まっている。だって、自由だ。国峰の前では、すごく自由だ。好きなように振る舞っていい。何も演じる必要はない。だって。だって、彼は、俺がいいと言ったのだ。
ー……俺も、大園さんがいい
あの日、確かに。大園がいいと、そう言った。
愛されたいと、そう思う。国峰に、愛されたい。……分かっている。愛されている。ちゃんと、こんなに、溢れるほどに、愛されている。それは十分自覚している。それなのに、止まらない。視線一つがこんなに熱くて、触れる指先がひどく優しい。こんなに分らされてなお、それでも、止めることができない。欲しい気持ちが止まらない。こんな貪欲さは知らない。こんな強欲は知らない。知らなかった。
甘い視線に怖気付くのは、与えられることが怖いからだ。奪うことが、怖いからだ。与えるのはいい。奪われるのもいい。我慢も痛みも、赦されるために必要だった。傷つくのが心地よかった。痛いほど、苦しいほど、与えるほど、奪われるほど、赦される。だけど。だから。罪深い自分は、欲しがってはいけない。誰かから、奪ってはいけない。そう、思っていたのに。
国峰が欲しい。
丸ごと全部、飲み込んでしまいたい。与えられるのが怖いのに、喰い尽くしたいほど焦がれている。
「……なんだこれ」
国峰の瞳を見返して呟くと、何?と押し殺した熱を孕んだ声が返ってくる。熱くて、甘い。酔いばかりではなく潤んだ瞳の奥にあるのは、欲望以上に濃く深い慈しみの色で、その純粋で透明な愛情が怖い。優しい赦しは、怖い。怖いのに。怖くて怖くて仕方ないと思うのに、それなのに。欲しい。身体が、心が、欲しいと叫ぶ。焦がれている。こっちを見て。その優しい目で俺を見て。その優しい声で、俺だけを呼んで。求めすぎて苦しい。与えられることは怖い。でも、満たして欲しい。満たされたい。空っぽの空虚を埋めるだけじゃ足らない。溢れるくらい、与えて、満たして。この男の全部が欲しい。貪欲になる。砂糖の味を知らなければ、ケーキを見てもときめくことはないのに。一度知って仕舞えば、甘みを求める欲望に際限はない。愛されている。赦されないはずの想いが赦されて、甘い甘い蜜を惜しげもなく与えられて。疑う余地もないほど信じ込まされればもう、我慢も自制も効かない。
「……ちょっと早い?」
「いや、いいんじゃないですか?他どっか行くって言っても微妙な時間だし」
明日休みだから、多少飲みすぎたって構わないし。
時計を見て問うた大園にそう返すと、本当のところはもう待ちきれなかったらしい彼は、じゃあこっちとすぐに場所の案内を始めた。新宿は、大園の方が詳しい。学生時代は乗換駅だったと、いつだったか大園が言っていた。国峰も大学は都内だったが、立地がずっと外れの方で、アパートもその近くで借りていたから、社会人になるまで朝の満員電車の混雑は知らずに来た。そのせいか、東京住みはそれなりに長いが未だに、新宿駅と渋谷駅には苦手意識がある。
「時間あるなら、何軒か梯子していい?」
乗り換え改札を抜け、中央東口をから出るという大園の足は早い。駅に慣れた相手が一緒だと、こういうところが楽でいいなと、そう思う。
「もちろん。大園さんのおすすめですか?」
「おすすめと、行きたいところ」
キリンシティもあるけど、そこはまた今度と大園は言い、ちらりと視線を寄越してふっと笑ったその顔に向けて、国峰も隠微に笑い返した。日本のラガーならキリン、とつい先ほどまで話をしていたのだ。
ー国峰くん、最初飲み行ったとき言ってたろ?キリンが好きって。味覚、合うなと思って
だから二回目の時には遠慮なく自分の好きな店に誘えた。
暗い地下のトンネルを抜ける電車の中で、つり革に掴まった大園が写り込んだ車窓を眺めながら、そんなことで繋がったのかと、ちょっとした感慨が胸に沸き、国峰はその言葉にへえと応じた。最初の時、ビールを飲んだ後軟化した態度も、二度目を彼から誘ってくれたことも。自分では意識しないちょっとしたことで、こうして繋がった縁だったのだ。人との繋がりは面白いと、そう思う。どこでどんな風に繋がるか、誰にも分からない。意図しない要因が、意外にも大きな意味を持って繋がりを取り持つことも良くある話、なのだ。国峰にとって、大園との縁のひとつは間違いなく、キリンの生だった。それが、面白い。
「……クラフトビールの店行ってみていい?エール飲まない奴は連れていきにくいから、前から行きたかったんだけど、まだ行けてないんだよ」
「いいですね!国産もあります?ゆずとかわさびとか、変わったの、この前テレビで見ました」
「あったあった。今流行だよな。国産ビール」
丁度気になっていたクラフトビールの話題が出て気持ちが上がり、ぱっと大園を向くと、大園はくすくす笑いながら、国峰くんてほんとに酒好きだよねと横顔で言った。涼やかな笑顔を前に、かっと頬が熱くなる。そんなに態度に出ていただろうか。恥ずかしくなって視線を落とす。子供っぽく見られたくないのは本心なのに、大園といると何故か上手くいかない。別に。元々大人っぽい方だとは思っていないし、実際自分は彼よりずっと年下で、人としての経験も浅ければ懐も狭い訳で、今さら格好つけたところで大した意味は無いのかもしれないけれど。……好きな人の前で格好つけたいと思うのは、もうほとんど本能だと思う。この人の前では、格好いい自分でいたい。優しいこの人が、安心して生身で居られるくらい。尊敬するこの人が、甘えられる居場所になりたい。
「……俺も、飲むの好きだからさ、」
国峰くんと食事するの、楽しいよ。
優しい声が降ってきて顔を上げると、ふんわりと口もとを綻ばせた大園の視線とぶつかり、どきりとする。
「……ほら、こっち」
見つめる先で、大園は僅かに首を傾げ、改札出るよと滑らかに続け、中央東口と書かれた改札を視線で示して背中を向けた。ひらりと人混みを避けて進むその背に導かれながら、こういうところがずるいよなと、そう思う。可愛いところがある。多分、無理もしている。でもどうしたって、生きてきた年月の違いがある。大園は大人ではないと言うけれど、でも根っこのところで、大園は国峰よりもずっと経験豊富で、自分には無い余裕がある。何を言えば国峰が喜ぶのか、分かってやっている。多分、意識はしていないのだろうけれど。
改札を抜けた先、有名フルーツ店のケーキスタンドの脇を抜けて。あまり待ち合わせで使うことのない狭い階段を登ると、そこはもう、色とりどりの光と音が踊る、新宿のど真ん中だった。新宿という街は、正しく“雑多”だ。計画都市にはあり得ないごちゃごちゃ加減がこの街の味で、所狭しと建ち並ぶビルの色も高さもがちゃがちゃな感じ、街ゆく人々の多種多様さ、道路と歩道の境が曖昧なところ、そういう全部が“新宿らしい”で説明できてしまうような、そんな懐の深さがある。駅のこちら側は、歌舞伎町とゴールデン街と二丁目、向こう側には、都庁とコクーンタワーと企業ビルが林立するアーバンシティ。そういうアンバランスを飲み込む街。人の熱が、空気の温度を上げている。湿気がないから嫌な感じは全くないが、地上に出ると、外気は暑くすら感じられた。誰の号令がなくとも自然に生まれる人の流れが、あちらこちらで蠢いている。ザワザワと揺らめきながら進む流れは、個々を飲み込んで内包し、新宿の街を巡る動脈だった。はぐれるなよと振り向いた大園に向けて頷くと、彼はふっと格好良く笑んだ。格好良くて可愛くて。大人だけど大人じゃない。この人もかと、ふと思う。雑多を内包する生き物。底抜けの優しさで包み込んで、アンバランスを飲み込む人。歪も違いも受け止める、懐の深い人。俺を、認めてくれる人。
大事にしたいと、そう思う。流れを割って進む背中はしゃんと背筋が伸びていて、ひ弱さなど微塵もない。彼は、一人でも生きてゆける人だ。強い人だ。傷つきながら笑える人。自分よりも、“誰か”を思いやれる人。でも、だからこそ。俺は、この人を大事にしたい。いつも、どんな時も、堪えて笑うこの人の、泣ける場所になれたらいい。そう、思う。
「……あー!満足!」
「ほんと。滅茶苦茶良かった」
ここのバーもまた来たいですねと、国峰が赤い顔で陽気に笑った。その笑顔をぼんやりと見つめながら、こんなに飲んだのはいつぶりだろうと少しの間考えてみたのだが、頭を使うのが面倒になってすぐに辞めた。笑う彼から視線を外し、とんと足を踏み鳴らして歩き出す。ふわふわする。すごく、気分がいい。それはどうやら国峰も同じで、いつも楽しげな彼も今日は、いつも以上にご機嫌だった。駅に向かう道すがら、目に入るネオンの輝きが眩しくて綺麗で、大昔、幼稚園で作ったセロファン紙入りの万華鏡のキラキラした模様を彷彿とし、大園は唇で笑んだ。
最初の店でクラフトビールをそれぞれ2杯飲んだ後で食事のために寄ったのは、新宿区内に何店舗か展開しているワインバーの三丁目店で、話し上手のソムリエに勧められるがまま、二人でグラスワインを端から試した。ワインの輸入業者が経営するこの店の売りは、定期的に内容の変わるグラスワインリストで、他店では中々グラス売りをしないようなワインを食事と一緒に楽しめるそこが、大園のおすすめだった。その後に寄ったのはソムリエが勧めてくれたバーで、そこでもワインを一杯と、大園はロマーノ・レーヴィのハーブ入りグラッパ、国峰はカルヴァドス・ポム・ド・イヴで締め、時間は既に23時を回っていた。
すごく楽しかった。今日は朝から一日中、とにかく楽しかった。久々の運動も爽やかで良かったし、食事も酒も美味かった。なんなら朝、何を着て行こうか迷う時間も良かったし、電車で移動する時間も、混み合う街を歩き回る時間も、今こうしている時間も、全部。全部が、すごく楽しい。
「……わっ、と。すみません」
隣から、距離感を見誤ったらしい国峰がとんとぶつかってきて、よろめきかけた大園の腰に彼の腕が回り、他意のない腕がぐっと強く身体を支えた。柔らかな布越しに、国峰が触れる。触れている。
「……っ、」
ぞわりと、触れられた場所が甘く騒ぐ。触られていると意識した瞬間、力が抜けるような、それなのに身が硬くなるような、不思議な感覚に襲われて、大園は小さく喉を鳴らした。
「…………なんだ、これ」
ざわざわする。内も、外も。腰に触れる指先の感触、背中に巻きつく腕の感触、半身をぴたりと寄せた国峰の、のぼせた体温。何気なく触れたはずのその手を離す直前、国峰が零した、あ、という声。性急に手を離すときの、慌てた仕草。……なんだこれ。ざわざわする。ざわざわして、ぞくぞくする。耳元で心臓が鳴っている。どくんどくんと、全身が脈打つ。世界の音が遠のく。頭の中が、愛しいでいっぱいになる。
離れてゆく手が惜しくて、その手を追うように顔を上げると、決壊直前の熱を目一杯身体に満たした国峰の切羽詰まった視線が、大園の全身を絡め取って揺らいだ。暑い。熱い。
なんだこれ。なんだろう。苦しい。胸が苦しい。国峰が欲しくて、国峰の全部が欲しくて、胸が苦しい。全部好きだ。全部。この男の全部が好きだ。楽しかった。当然だ。だって、今日はずっと、国峰といた。彼のことを考えながら支度をして、彼の背中を見ながら山を登って、彼の声を聞きながら電車に乗って、彼の向かいで食事をした。楽しいに決まっている。だって、自由だ。国峰の前では、すごく自由だ。好きなように振る舞っていい。何も演じる必要はない。だって。だって、彼は、俺がいいと言ったのだ。
ー……俺も、大園さんがいい
あの日、確かに。大園がいいと、そう言った。
愛されたいと、そう思う。国峰に、愛されたい。……分かっている。愛されている。ちゃんと、こんなに、溢れるほどに、愛されている。それは十分自覚している。それなのに、止まらない。視線一つがこんなに熱くて、触れる指先がひどく優しい。こんなに分らされてなお、それでも、止めることができない。欲しい気持ちが止まらない。こんな貪欲さは知らない。こんな強欲は知らない。知らなかった。
甘い視線に怖気付くのは、与えられることが怖いからだ。奪うことが、怖いからだ。与えるのはいい。奪われるのもいい。我慢も痛みも、赦されるために必要だった。傷つくのが心地よかった。痛いほど、苦しいほど、与えるほど、奪われるほど、赦される。だけど。だから。罪深い自分は、欲しがってはいけない。誰かから、奪ってはいけない。そう、思っていたのに。
国峰が欲しい。
丸ごと全部、飲み込んでしまいたい。与えられるのが怖いのに、喰い尽くしたいほど焦がれている。
「……なんだこれ」
国峰の瞳を見返して呟くと、何?と押し殺した熱を孕んだ声が返ってくる。熱くて、甘い。酔いばかりではなく潤んだ瞳の奥にあるのは、欲望以上に濃く深い慈しみの色で、その純粋で透明な愛情が怖い。優しい赦しは、怖い。怖いのに。怖くて怖くて仕方ないと思うのに、それなのに。欲しい。身体が、心が、欲しいと叫ぶ。焦がれている。こっちを見て。その優しい目で俺を見て。その優しい声で、俺だけを呼んで。求めすぎて苦しい。与えられることは怖い。でも、満たして欲しい。満たされたい。空っぽの空虚を埋めるだけじゃ足らない。溢れるくらい、与えて、満たして。この男の全部が欲しい。貪欲になる。砂糖の味を知らなければ、ケーキを見てもときめくことはないのに。一度知って仕舞えば、甘みを求める欲望に際限はない。愛されている。赦されないはずの想いが赦されて、甘い甘い蜜を惜しげもなく与えられて。疑う余地もないほど信じ込まされればもう、我慢も自制も効かない。
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漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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