エンシェントリリー

斯波/斯波良久

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 こうしてヘンリーは自身の記憶を一部書き換えることに成功した。
 そして暗示の魔術を編み出したことを職員にバレないよう、事前に用意していた五本目の論文を提出した。

 翌日からヘンリーはよく笑うようになった。一冊の本に執着することを止め、パタリと論文を書くことを止めたのだ。代わりに職員に任せっきりだった子供との時間を作るようになった。
「まるで憑き物が取れたようだ」
 誰かがそう呟いた。彼らはなぜヘンリーが笑うようになったかは知らない。けれど施設に来てから一番幸せそうに笑うものだから、誰も理由を聞くことは出来なかった。

 その一年後、ヘンリーは施設を出ることにした。

「今までお世話になりました」
「どうかお元気で」

 お世話になった施設職員に頭を深々と下げる。
 番のいないヘンリーは施設を出るかどうかとても悩んだ。けれどすでに三年以上お世話になっている。その間、施設から出ていったオメガもいれば新しく入ってきたオメガもいる。入所期間は定められてはいないが、外での生活が送れるようになった者は出ていくというのが暗黙のルールだった。そのための支援である。
 新しい古代魔術を五つも生み出したヘンリーの収入はすっかりと安定している。契約もオメガの保護施設にいる『リリー』としての特殊契約ではなく、ヘンリー個人に書き換えてもらった。おかげで今後も収入が得られる。発情期も軽い。一番弱い抑制剤でコントロールできるほど。
 生まれた子供はベータで、非常に大人しく、面会に来た家族にもよく懐いていた。それが施設を出る決め手となった。
 リリーの名を捨て、再びヘンリーと名乗るようになった彼の元には多くの人が集まるようになった。

「新しい魔術の研究は」
「すみません。今は次を考えるつもりはなくて」

「我が社の社員に!」
「しばらくゆっくりしたいので」

「王宮付きの魔法使いになりませんか。あなたにはアルファと同じ待遇を用意します」
「評価していただけるのは嬉しいのですが、僕はオメガですので」

 ヘンリーの元を訪れる人の目的は大まかに分けて二つ。勧誘か、新たな古代魔術についての質問か。
 ヘンリーはもう、一時期のように本に噛り付く勢いはなくなっている。『次』を約束することなんて出来なかった。だから全員等しくお帰り願うことにしたのだが、一番厄介だったのは学生時代のヘンリーを知っている者達である。

「君はオメガになったのだな」
「生徒会長も鼻が高いだろう」
「子供がいるだなんて、君は他の誰と番になったんだい?」
 いずれも学生時代のヘンリーを知っているからこその言葉である。だがヘンリーからは学生時代の記憶はさっぱりと抜けている。自分が学生だった記憶さえなければ、彼らが誰かさえも分からないのである。
「皆さん、どなたかと勘違いしているのではないでしょうか」
「ふざけるな!」
 ヘンリーの反応に怒り出す者もいたが、本当に分からないのである。
「ふざけてなどいません。私はこの通り、平民のオメガです。学園に入学できるはずがありません。そんなお金なんてありませんから」
「お前は元々ベータで、特待生枠で入学したと」
「私は生まれてこの方、ずっとオメガです。といってもこの顔ですから、オメガだと気付いてもらえることはほとんどなかったのですが……。その方と僕はよほど似てらっしゃるんですね。一度会ってみたい」
「生徒会長にも、ガイン様にも同じことが言えるか」
「どなたでしょう? すみません。あいにくと存じ上げなくて」
 困ったように笑うヘンリーを見た彼らは怒りを鎮めた。ヘンリーの学生時代を知る者の多くが貴族である。長年、社交界を生き抜いている彼らは嘘を見抜くのが上手かった。けれどヘンリーはとても嘘を吐いているように見えなかったのだ。

 全くの別人か、記憶を失ったのか。
 どちらにせよ知り合いとしてヘンリーの前に立つことは無理だと結論付けた。

 後日、ヘンリーにそっくりな少年がいると聞きつけたガインがやってきた時も、ヘンリーの反応は変わらなかった。

「初めまして、ヘンリー=オディールです」
「ガイン=アンドレードだ」
「あなたがガイン様でしたか。確か、僕とそっくりのベータと仲が良かったのですよね?」
「ヘンリーは、俺の恋人だった」
「お名前も僕と同じだったのですね。通りで皆さん、僕を本人だと勘違いなさる訳で」
 納得がいったと頷くと、目の前の男は表情を歪めた。今にも泣きだしそうな顔をしている。ガインと名乗ったその男がヘンリーに会いに来たのは、この顔を見て話したいという理由だった。その恋人がとても大事だったのだろう。だった、ということは何らかの理由で別れてしまったのかもしれない。けれど過去になった理由を深く聞くつもりはなかった。
 それからヘンリーが当たり障りのない話をすれば笑ってくれたから。自分に求められているのはあくまでも恋人の代わりに話をすることなのだと理解した。まさかその相手が自分自身だなんて考えもしない。
「そろそろ時間だったな。……最後に一つだけ聞いてもいいか?」
「なんでしょう?」
「君の子供の父親はどんな相手だったんだ?」
 ガインはすぐに「言いたくなかったら言わなくてもいいが」と付け加えた。だが彼の目は教えてほしいと強く訴えていた。だからヘンリーは頑張って記憶の底から引き上げることにした。

 深く、深く。記憶の底の方に眠ったそれを。
 バチッと音がして、目の前に真っ白い光が走った。蓋が開いてしまったのだ。
 あの古代魔術が不完全だったのか、蓋を開けてしまうほど思い出したいと強く願ったのか。ヘンリー本人にもそれは分からなかった。けれど今さらガインに告げるつもりもない。かといって嘘を話せばバレてしまうかもしれない。悩んだヘンリーはガインに繋がりそうな部分を隠した真実を告げることにした。
「……………………優しい人でした。こんな平凡な顔の私を大事に抱いてくださって。けれど時間がきてしまったからお別れしたのです」
「時間?」
「彼には他の相手がいましたから」
 幸い、ガインは自分のことだと気付いていないようだった。前の会話で、目の前の男は探している人物ではないと断定したのだろう。恋人だったなんて嘘までついて会いに来たのだ。久々に顔が見たかったのか、他の貴族に会ってこいと言われたのか。どちらにせよ嘘を吐いている時点で彼もヘンリー本人と会う気などないのだ。
「相手は君を捨てた? 子供が出来たのに」
「子供が出来たと分かったのは彼が去った後のことです。私も彼の負担になろうとは思いませんでしたので」
 困ったように微笑めば、彼はそれ以上何も告げなかった。
 ガインがヘンリーを抱いたのはベータだったからだろう。後でオメガに変わると知っていたら彼はヘンリーに手を出そうとしなかった。そんなことはヘンリーも理解している。だってヘンリーには勉強と身体の強さしか取り柄がないのだから。
 しばらくの沈黙の後、ガインはすくっと立ち上がった。
「すまない。長居してしまったな」
「いえ。ガイン様とお話出来て楽しかったです」
「そう言ってもらえると助かる。……邪魔したな」
「お気をつけて」

 ガインの乗った馬車が見えなくなるまで見送ったヘンリーは自室に戻った。
 そして先ほど思い出した古代魔術を再度自分にかけることにした。

「こんなこと、思い出さなくていい。僕はオメガのヘンリーだ。学園に入学した記憶なんていらない」

 ガインの手の温度なんて思い出さなくていい。
 ずっとずっと奥深くに眠って今度こそ出てきてくれるなと。ヘンリーはそう強く願いながら古代魔術をかけるのだった。
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