猫のマークにご注意ください

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猫のマークにご注意ください

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「さっぶぅ」
 ひゅうううっと巻きあがる風に思わず身を震わせる。
 電車の温かさに仕舞いこんでいたマフラーを急いでバッグから取り出して首に巻き付ける。

 そして兄ちゃんが待っていてくれている改札口へと向かう。
「前と後ろ、出る方向は間違えるなよ?」
 口を酸っぱくしながら言ってくる兄ちゃんに「子どもじゃないんだから大丈夫だよ」と返したのは数え切れないほど。

 だが正直、スロープがある方の改札だからなと付け加えられていなければ間違えていたこと。

 だってほら、前と後ろってどっちから来る電車かによって変わるし……。
 嘘です。人に流されて行きました。

 そんなとこまでお見通しだったんだろうなぁ。
 スロープなんてなくない? って気付いて駅員さんに聞いてみて良かった……。

 さすが兄ちゃんである。
 妹のことはなんでもお見通しなのだろう。

 真逆の改札へ向かおうと方向転換したタイミングでポケットの中のスマートフォンがぶるぶると震えた。
 このタイミングでなんて、兄ちゃんからのメッセージが送られてきたに違いない。

 さっさと屋根と壁のある場所に避難して、スロープとなった道を歩く。
 だがやはり寒いことには変わりない。

「それにしても東京って意外と寒いなぁ……」
 東京=過ごしやすい場所、という方程式が出来上がっていた私のイメージが崩れたのはこれで二度目だ。

 一度目は一昨年の秋。
 推薦で東京の大学に進学をすることが決まった兄ちゃんの住居を探しに来た時のことである。
 あの日は今日とは真逆の気候だった。
 空から、コンクリートから、と上下から攻め立てるような暑さに東京の闇を感じたほどだ。

 今でも忘れはしない。
 あの日、天気予報のお姉さんが告げた東京の気温は地元と比べて一度か二度しか変わらなかった。
 なのに感じたのは溶けるような暑さ……。
 なんなら靴の裏のゴムとか本当に溶けているんじゃない?
 そう思って帰ってから靴裏を確認してしまったほどだ。

 同じ関東地方でありながらこの暑さはなんなのだろう?
 東京って怖いなぁと思ったのは思い返せばもう一年以上も前のことである。

 それを今度は寒さで攻めてくるとは……。
 一足先に東京の大学に進学した兄ちゃんが『夏は暑いし、冬は寒い』と騒いでいるのを「うっさい」の一言で蹴散らしてしまったのを今さらながら申し訳なく思えてくる。

 だってこっちだって夏は暑いし、冬は寒いのだ。

 むしろ冬場に雪が降らないだけマシじゃないの? なんて思っていた。
 だから「鍋食べな、鍋」とスマートフォンに向かって繰り返して、すぐさまじいちゃんの育てた冬野菜を詰め込んだ段ボールを東京へと送った。

 するとその野菜は想像以上に役に立ってくれたらしい。
 なんでもアパートの人達と一緒に鍋パーティーをしたらしく、その時に兄ちゃんの作った鍋は好評だったのだとか。

 鍋といえば冬の簡単料理に挙げられている上に、近年では色んなメーカーがこぞって鍋のつゆを発売している。
 つまり鍋作りで一番面倒かつ重要とも言える『出汁づくり』の工程を無くしてしまえるというわけだ。
 母ちゃんも困ったら鍋! 鍋のつゆは色んな味をストックしておくに限る! と声を大にして言っているほど。

 だから兄ちゃんもそれを駆使したに違いないと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
 なんでも兄ちゃんは一人暮らしを機にお料理に目覚めたらしいのだ。

 去年末に帰省した時には、ばあちゃん達と出汁談義に花を咲かせていた。そんなところから察するに中々の腕前なのだろう。

 それまで、定期的に送られてくる手料理写真は回りくどい彼女が出来たアピールかと思っていたのだ。

 なにせ一年遅れで私が東京の大学に進学すれば、兄ちゃんの東京一人暮らしは幕を閉じてしまう。だから何とかして、差しさわりのないように私の引っ越しを阻止しようとしているのだと。

 本当は私も兄ちゃんに気を使って他の物件を借りたいのだ。
 けれど東京の都心部に奇跡的に借りられた部屋は格安で、その割に一人で暮らすには広すぎるほどなのだ。
 そしてその物件を見てからだとどうしても他の物件が高く見えてしまう。さらに女の子だから風呂付でトイレは別! とか条件を付ければつけるほどに価格は上がっていく。場所によっては5倍とか行くのだ。 
 なのに兄ちゃんの借りている部屋は風呂付だし、何なら家具完備なのだ。

 ならば兄妹一緒に暮らしてしまえというのが両親の下した結論である。
 顔がイマイチだろうとストーカーに出会う可能性がある昨今で、防犯の意味もあるのだと付け加えられたが主な理由は間違いなく金銭面である。
 両親の気持ちはわからないでもないが、いくらシスコンと言われる兄ちゃんでも大学生になって妹と2人暮らしは嫌だったのだろう。

 ――そう思っていたのだがどうやら違うらしい。

 試しに「料理上手な彼女が出来たの?」と聞いてみたことがある。
 すると兄ちゃんは地雷を踏まれたとばかりに私に正座させて、一時間ばっかしコンコン説明したのだ。
 いかに自分の所属する学科には女子生徒が少ないのか。出会いは少ないのか。はたまた彼女を作ることの難しさまで。

 なんでも数少ない、貴重な女子生徒には入学早々に怖がられてしまったらしい。

 原因は聞かなくてもわかる。
 父ちゃん似のゴツゴツとした大きな顔に、母ちゃん似の釣りあがった目である。
 昔からサングラスがよく似合うと褒められる? ことの多い兄ちゃんの顔は初対面の人の目には怖く映るらしい。
 産まれた時から見慣れている私からしてみればどこが怖いの? と首を傾げてしまうのだが、まだまだ兄ちゃんに彼女ができる様子はなさそうだ。

「あ、兄ちゃん!」
「梓、よく来たな。あ、荷物持つぞ」

 改札を通り抜けた私の手から、兄ちゃんは当たり前のようにボストンバッグをさらう。
 妹に限らず、誰にでも優しいんだけど顔のせいで敬遠されているから発揮する機会って中々ないんだよね……。
 でもいつかはそのことに気付く女性が兄ちゃんの前に現れてくれるって信じてる!

「拳握りしめてどうした? 手先でも冷えたのか?」
「ううん、なんでもない」
 グッと手を握りしめた私に兄ちゃんはそっと手袋を差し出してくれる。
 私には大きすぎるそれはおそらく兄ちゃんの手袋だろう。手を入れるとまだヌクヌクと温かい。特別手が冷えたってことはないけれど、ここはありがたく使わせてもらうことにしよう。
 両方の手を手袋に入れると兄ちゃんは納得したように頷いてから歩き始めた。

 私も兄ちゃんに遅れないように続いて歩き出す。


 兄ちゃんの借りている家で、私が来月から引っ越してくることになる家は確か神楽坂にあったはずだ。
 今いる飯田橋駅と神楽坂駅のちょうど真ん中あたりにあるらしい。
 ただ少しわかりにくい場所にあるらしく、こうして迎えに来てくれたというわけだ。
 私も兄ちゃんが部屋を決める時に一緒に来たんだけど、暑さにやられていたせいか、全く道順やら外装やらを覚えてないのだ。
 だから私にとっては初めて行くといっても過言ではない家で、兄ちゃんが迎えに来てくれなかったらたどり着けるか微妙なところだった。
  

「兄ちゃん、兄ちゃん。あれって芸者さん!? 京都とか赤坂じゃなくてもいるんだね……」
「神楽坂は明治時代から続く花街の一つだからな。『芸者小道』っていう小道もあるくらいだ」
「そうなの? 神楽坂って食べ物が有名なとこだと思ってた」

 4年間神楽坂で暮らすからって、一応ガイドブックを何冊か調べたんだけど全く気がつかなかった。目につくのは有名な和菓子店の特集記事だったり、女の子の顔をかたどった焼き菓子だったり。……まぁ私が基本的に食べ物特集ばっかり見ていたっていうのが理由だけど!

  

「結構特集されてるしな。そうだ、今度梓が行きたいとこ連れてってやるよ」
「いいの!?」
「ああ、どこでも好きなとこを選べ。バイト代も結構もらってるし、梓に奢るくらいは出来るぞ~」
「わぁ兄ちゃん、太っ腹!」
 そう言って兄ちゃんの腕に飛びつくと、私の頭にふととある疑問が浮かんだ。

「そういえば兄ちゃんって何のバイトやってるの?」
 思えば兄ちゃんから学生生活などの話は聞くものの、全くバイトについての話は聞いたことがない。

 一応野菜とかお金とかの仕送りはしているらしいけど、でもそんなの少しだって母ちゃんが言ってた。だから家賃も食費もほとんど兄ちゃんのバイト代から出てるんだって。

 だからあんたも学校に慣れたらバイト始めなさいよって言われている。

  
「あー、それは後々話すよ」

 兄ちゃんは空を見上げて首筋を掻く。こういう時の兄ちゃんは大抵の場合、隠し事をしている。
 わざわざ隠すなんて怪しい……。もしかしてヤバイ仕事をしてるとか!?
 だっていくら安めだって言っても東京の一等地の物件だし……。あわわと1人で慌てる私の頭を撫でて兄ちゃんはふっと笑う。

「安心しろ。ヤバイ仕事ではないから」
「本当?」
「本当だって。ただ……なんて説明していいか俺にも分かんないだけ」
「それってどういうこと?」
「まぁそれも含めて時期を見て話すよ。だからさっさと行くぞ~」
「あ、置いてかないでよ!」

 大通りから細い道を通って、裏道に入っていく兄ちゃんに遅れないように足を早める。

 初めは真っ直ぐに。けれどすぐにクネクネと曲がり始める。これが噂のかくれんぼ横丁という道なのだろう。
 なんでもこのたくさん敷き詰められている『ピンコロ』っていう石の中にはハートを模したものがあるらしく、恋愛運を上げたい女性に人気らしい。この通りの店を特集している記事の端っこに書いてあったのだ。

 私なんて来た道すら帰れるかわからないのに、下を見ながら歩くとか絶対ムリ! って思ったからよく覚えている。
 見つけてもあった場所を教えたり、逆に人に聞いたりしちゃいけないらしいけど見つけた人なんているのかな?
 いくつあるのか数えたら日が暮れてしまいそうなほどあるピンコロの中から一つしかないハートを見つけるなんて、恋愛に向ける執念が成せる技なんだろうなぁ。そこまでのガッツがあれば生涯のパートナーを見つけられるのだろう。そう思うと特に恋愛運アップに興味などなくてもついつい足元を見てしまう。

「梓、下向いてると転ぶぞ?」
「あ、うん。ってあう……」

 注意された途端に躓くなんて……。一緒にいたのが兄ちゃんじゃなかったらいい笑い者だ。まぁ兄ちゃん相手でも結構恥ずかしいんだけど。
 私へとすっと伸びた大きな手を頼りに立ち上がる。するとすぐに呆れたような兄ちゃんの声が頭から降ってくる。

「ほら言わんこっちゃない。前見て歩けよ?」
「うん」

 つい恥ずかしくて、俯きながら頬を掻く。すると足元に刻まれたとあるマークが目に付いた。

「あ! 兄ちゃん、見て見て。このピンコロ、ネコのマークが刻まれてる!! 星とダイヤがあるのは知ってたけどネコもあるなんて」
「ネコだって!?」

 私のはしゃぐ声に兄ちゃんの驚いた声が被る。
 一年近くこの辺りで暮らす兄ちゃんも知らなかったみたいだ。それを初日に見つけちゃうなんて私、ものすごい幸運なんじゃない?
 ハートは恋愛運で、星は心願成就、ダイヤは金運だったと思ったけど、猫って何運なんだろう? 招き猫とかあるくらいだから商売繁盛とか? それだとダイヤと少し被るような? それに私、商売とかやってないしなぁ……。
 何運かはわからないけど、猫好きのじいちゃんに見せたらきっと喜ぶに違いない!
 早速スマートフォンを取り出して、カメラモードに切り替える。
  
「私が躓いた石がそれだったみたい。ねね、兄ちゃん。私ってものすごく運がいい? ってあれ、おかしいな。画面が暗いままだ……。壊れちゃったのかな? ねえ、兄ちゃん。じいちゃんに写真送ってあげたいからスマホ貸して?」
「これも縁、か……」
「え?」
「とりあえず家に急ごう。本当は梓に伝える気なんてなかったのに、こうなったら話さざるを得ないからな」
「バイトのこと?」
「それもある」

 短く返事をした兄ちゃんは、スマートフォンを借りるために伸ばした私の手首を掴んで歩き出す。
 これはまた日を改めて撮りに来るしかない。その時に見つけられるかは今後の運に期待ってことで。猫のマークは諦めるにしても、これは言わせてもらわなきゃならない。

「兄ちゃん、早いって」
 今までは私に合わせてくれた歩調は、兄ちゃんの早歩きになって付いていくのがやっとの状態だ。バッグを持ってもらってなかったら転んじゃいそう。

「我慢してくれ」
 私の顔も見ずに兄ちゃんが返した言葉はなんだかトゲトゲしい。

 もしかして私が不注意で転んだくせにはしゃいだから?
 でもそれにしてはなんだか違和感がある。

 だってわざわざ怒るのに家に急ぐ必要ある?

 どうしたの? って、私が何かしたの? って聞きたいけれど、聞けるような雰囲気ではない。今の私ができることはただ兄ちゃんのスピードについていくことだけだ。

 歩くのに必死で道順全く覚えてないんだけど、そう言ったら兄ちゃん怒るかな?
 怒られたら天下のgoodgle様のマップ機能に頼ることにしよう。あれって車の入れないところは人がカメラ担いで撮影してるって聞くし、きっと私でもたどり着けるはず!


「梓。俺が住んでるのは階段上って一番奥の部屋だから、先に行っててくれ。これ、梓の分の鍵」
「あ、ありがとう?」
 兄ちゃんから渡された鍵は私が失くしてしまわないようにか、猫のキーホルダーが付いている。
 たまたまなんだろうけど、キーホルダーまで猫なんて今日の私って妙に猫と縁があるなぁ。でも兄ちゃん、私が猫よりも犬派って知ってると思うんだけど。ちなみにもっといえば柴犬派である。あのクルっとした尻尾がたまらないのだ。

 兄ちゃんが猫のキーホルダーをチョイスしたことを疑問に思って、じいっと手の中を見つめていると、ガッシリと肩を掴まれる。

「いいか? どんなに外が騒がしくても鍵を開けちゃいけないからな」
「え、何で?」
「何ででも。インターホンならされても開けちゃダメだから」

 まるで子どもに言い聞かせるみたい。だけどもう子どもではない私にも理由は教えてくれないみたいだ。アルバイトといい、今といい、兄ちゃんには隠し事が多いみたい。

 兄ちゃんはどこに行くの? と聞くよりも先に胸にバッグを押し付けられる。

 仕方ない。ここは兄ちゃんに従うことにしよう。
 東京に来る前は聞けば大抵のことは教えてくれたのになぁ……。少し寂しさは残るものの、案外これが普通の兄妹の距離なのかもしれない。今までの距離が近すぎただけだと自分に言い聞かせて、教えてもらった部屋の鍵を開けて、ドアを開いた。

「おかえりなさい、ハル君!!」

 ――そして秒で閉めた。
 なんか見てはいけないものを見た気がする。

 落ち着け、私。
 こういう時は深呼吸だ、深呼吸。

 すうはあすうはあ。よし、行くぞ!

「あ、ごめんごめん、梓ちゃんの方だったね。って閉めないでよ。怪しいものではないから……妖ものではあるけれど」

 やっぱりいた! 見間違いではなかった。
 そしてまた勢いよくドアを閉め……ようとした。でもぬうっと伸びた手によって阻止されてしまったのだ。

「ほら入って入って。君が来るの楽しみにしてたんだから」
「あなた、誰……」
「僕? 僕はこの家の大家さんで、その名も大矢さんだよ! よろしくね、梓ちゃん」

 ドアを抑える手と逆側の手を私へと伸ばすソイツの手はやはり人間のものではなかった。

「ちなみに猫又だよ! もっふもふだよ」
「いやああああああああああ」

 兄ちゃんの部屋に入ったら猫又を自称し、頭には猫耳を装着して、手には特殊メイク? を施した変人がいたのだ。ご近所の迷惑も考えずに悲鳴を上げた私は何も悪くないはずだ。

「にぁぁぁぁぁ」
 目の前の変人が猫耳をペタリと押さえて、私の声に被せるようにして叫び声をあげる。
 そっちの耳を押さえたところで何も変わらないでしょ! どれだけネコマタ設定ゴリ押すのよ!
 そうツッコミたいのだが、こんな変人と関わりたくもない。
  
 兄ちゃんは何でこんな変人を家に入れてるの!?
 東京来て頭おかしくなったの?
  
 頭は混乱状態で、今すぐここから逃げ出したいって気持ちばかりがこみ上げてくる。なのにさっきの兄ちゃんの言葉が引っかかって逃げ出せずにいる。
  
『絶対に玄関を開けるな』ってどういうことなの?
 早く来てよ、兄ちゃん!
  
「梓!」
 私が目と耳を塞いで今の状況から逃避するのと、兄ちゃんが部屋に飛び込んでくるのはほぼ同時だった。
  
「大丈夫か、梓!」
「兄ちゃん! 家に入ったら変な人がいて……」
  
 兄ちゃんに抱きついてひとまずの安全を確保してから、アイツを指差す。
 自称ネコマタの変人は寂しそうに笑って「変な人じゃないのに……」と呟いている。
  
 例え家の中だったとしても、猫耳を装着している男が変な人でないわけがない。もしその男が自分の家で付けているとか、ハロウィンなどの仮装だとかだったら私も文句は言わない。
  
 だがここは兄ちゃんの借家である。
 その上、私とこの男は初対面なのだ。初めて会った相手にネコマタですと自己紹介されて変人認定しない人がいるなら見てみたいものだ。
 決して私の感覚がおかしいとかそんなんじゃないはず。
  
  
 おかしいのは私じゃなくてこの男でしょう? と訴えるように視線をあげると、兄ちゃんははぁっと大きなため息を吐く。
  
「兄ちゃん……?」
「大矢さん、いくら『約束』とはいえ物事には順序というものがあるんですよ」
「分かってるよ。だから今からお仕事とこの家のことを梓ちゃんにも話そうと思ってたんだ」
「だからって何も家で待つことないでしょう!」
「だってこの姿を見せた方が話が早いし、その方がいいでしょう?」
  
 この姿って何?
 この男にとってこれが正装だとでも言うつもりなのか。
 それに何で兄ちゃんはこんなに冷静でいられるのだろう?
  
「……とりあえず話だけして、初めは座敷わらしの双子辺りから会わせようと思ってたのに台無しだ」
「まぁいいじゃないか。この子は28000分の1の確率を見事に当ててくれたんだから」
「……どういうこと?」
 さっきから私だけが置いてけぼりの状態だ。
 変人への警戒態勢は解かないつもりではあるが、とりあえずは猫耳とかネコマタネタは突っ込まないから、この状況を説明してほしい。
  
 兄ちゃんの服の袖を引っ張ると、兄ちゃんは困ったように顔を歪めた。
  
「どう説明するべきかなぁ……」 
 するとどう伝えるべきか考え込んでしまった兄ちゃんに変わって、自称ネコマタ野郎が口を開く。
  
「ねぇ梓ちゃん。妖って知ってる?」
  梓ちゃん呼びは気に入らないが、兄ちゃんも同じ名字だしここは諦めることにしよう。
  
「河童のこと?」
 妖――そう聞いて真っ先に浮かぶのは河童である。
 頭にお皿を乗っけて、キュウリをボリボリ食べている緑色のボディが特徴的な妖怪だ。昔、絵本か何かで見た覚えがある。
  
「そうそう。なんでピンポイントで河童なのかはわからないけど、河童も妖ものの一種だね。その河童って普段どこにいるか知ってる?」
「河童って物語の中のキャラクターでしょう?」
 確か絵本の中だと橋の下の川にいたような気がするが、それはあくまで絵本の中の話である。私の答えに男はフルフルと首を振った。

「いいや、実在するよ。ただ大抵の人間は大人になると彼らの存在が見えなくなってしまうんだ。それに幼少期には彼らが見えたはずの人間も、成長するにつれて彼らを忘れてしまう……。稀に君達兄妹みたいに成長しても妖ものが見える人間もいるけれど、でもそれだけじゃあ妖は生きていけない。誰かに認識されてこそ彼らは生きていけるんだ。だからこそ彼らは人間に混ざって生活するように生き方自体を変えた」
「意味わかんないんだけど……」
  
 ふざけているのだろう。
 私が妖なんて昔話に出てくるような生物を見たことないことは、誰よりも私自身がよく知っている。
  
「まぁそういうのも無理はないか。だって君の妖力は一昨年の秋、君のお兄ちゃんのハル君との約束で、石畳のピンコロの一つに封じちゃったんだもん。妖力が消えれば自然と妖に関する記憶も消える」
「ピンコロって……」
 その言葉に私の血はさああっと引いていく。
 そして黙り続けていた兄ちゃんがようやく口を開いた。

「梓がさっき躓いたアレだ。……まさか梓も同じところで躓くなんて思ってもみなかった。だから『もしも梓自身が封印を解いた場合は2人揃って仕事を手伝う』なんて約束を結んだんだ。4年間あの道を通り続けたとしても、ピンコロは28000個もあるんだ。そのなかからたった一つを引き当てるなんて思わないだろ……」
 まるで苦虫を噛み潰したような苦しげな声に、私はとんでもないことをしてしまったんだと実感する。
  
 ただピンコロの一つに躓いただけ。
 ただ猫のマークが刻まれた石を発見しただけ。
  
 28000個あるというピンコロの中から、たった一つのそれを見つけてしまったのだ。
 東京2度目にして、大学生活すら始まっていないというのに。
  
「ちなみに僕は何もしてないからね」
「妖が約束を違えることは出来ないことぐらい、わかってますよ」
「それならいいや。それなら早速、梓ちゃんも僕との約束を結ぼうか」
「約束って?」
「簡単だよ。君が僕の仕事を、住む場所を探している妖相手の不動産屋さんを手伝う代わりに僕は君に住む場所を提供したり、お給料を払ったりする。その約束さ。人間で言うところの雇用契約っていうのかな? 梓ちゃんにはそうだな……当面はハル君のお手伝いをしてもらおうかな」
「嫌に決まってるでしょ!!」
  
 そう吐き捨てた私は、兄ちゃんの腕を離すと部屋から飛び出した。
 道なんてわからないけれど、走っていればきっとそのうちどこかの駅に着くことだろう。
 わからなければ人に聞けばいい。
 慣れない土地で無数のピンコロを蹴るようにして小道を迷いながら進む。
  
 走って、走って。
 曲がって、まっすぐに突き進んで。
 身体は苦しいって悲鳴をあげているのに、どうしても兄ちゃんと歩いた大通りには出られない。

 まるで迷路だ。
 何度も同じ場所を迷ったような気がするのに、果たして本当に先ほど通った場所が同じ場所かもわからない。
  
 昔、家の裏山で迷子になった時とは違って、バッグの中にはスマートフォンがある。
 兄ちゃんに連絡をすればきっとすぐに迎えに来てくれることだろう。
  
 でもそうしたら自称ネコマタの男ともまた顔を合わせることになる。
 そうしたら『約束』を結ばなければいけない。

 ……あの話を断れるはずがないってことは、飛び出すよりも前に不思議と理解していた。
 おそらく私は彼と会うのは初めてではない。そして『妖力』っていうのを封じたって話も嘘ではないのだろう。
 その証拠にさっきから絶え間なく、私の頭の中にはたくさんの情報と記憶が流れて来ている。
  
 懐かしいと感じるこの記憶はきっと封じられていた記憶の一部だろう。その中には明らかに人間ではないものが映り込んでいた。
  
 もちろん河童も。
 記憶の中の幼い私は河童にキュウリの浅漬けをあげて、断られていた。
 美味しいのに! って怒って、泣いて。
 それでもなおキュウリを差し出す私にどうすればいいのかわからずに河童はオロオロしていた。そして結局、食べてくれたのだ。
「酸っぱい! けど美味しいよ。ありがと」――なんて子どもの私のご機嫌をとるのも忘れずに。
  
 懐かしいなぁ。
 河童に限らずいろんな妖が私と兄ちゃんの遊び相手になってくれた。
 山で迷子になったのは、幼い妖に一人でついて行ったからだった。
  
 そういえば兄ちゃんがシスコンと呼ばれるくらい過保護になったのはあの頃からだったなぁ。目を離してごめんなって何度も謝られたっけ。別に兄ちゃんは何も悪いことなんてしてなかったのに。
  
 今回もきっと私を関わらせたくはなかったのだろう。
 だからずっとアルバイトのこと隠してた。でも妖力を取り戻したからには、思い出してしまったからには関わらずには居られないのだろう。
  
 さっきからずっと目の端には、地図を片手にキョロキョロと何かを探すカエルが映っている。
 梅雨の時期にゲコゲコと鳴いているようなカエルではなく、私の腰ほどの背丈がある、ずんぐりむっくりとしたカエルである。明らかに妖ものと呼ばれるものなのだろう。
  
「ねぇどうしたの?」
 誰に見られているかもわからないこの場所で、妖ものに話しかけるなんてリスキーな行動だ。
 けれど私は見て見ぬ振りなんて出来ないのだ。
  
「人間!?」
 声をかけられたカエルは一瞬驚いたように目を見開いた。
 けれども私が妖が見える人間なのだとわかるや否やこれ幸いと地図を広げて見せた。
  
「実はここに行きたいのですが、人間さんはこの場所への行き方を知りませんか?」
  
 そう言って彼が指したのは、地図に赤ペンで『大矢不動産』と書かれた文字だった。おそらくそれがあのネコマタの不動産屋さんなのだろう。
  
 それにしてもこの地図、わかりにくい。いや、土地自体の構成がわかりづらいのだ。まるで目的地を路地の中に隠すような……。
 そんな場所にいくら地図なんて持っててもたどり着くのは難しいだろう。それがこの土地にやってきたばかりのものならなおのこと。
  
 不思議なことにこの地図を見た途端、今まで迷っていたのが嘘のように頭の中にはあの場所への道順が浮かんでくる。
 案内してこいと言われてるみたいで不思議な気分になる。もしかしなくてもあの男が絡んでいるのだろう。
  
 けれどちょうどカエルに道順を教えてあげようと思っていたところだったのだ。
 これを活用しない手はない。
  
「ここなら分かるわ。一緒に行こっか?」
「いいんですか!?」
「うん」
 カエルはキラキラと目を輝かせてありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げる。
  
 道中聞いた話によると、カエルが今まで住んでいた場所に高層マンションが建ってしまったらしい。居場所を追われ、新たな場所を探して日本各地を彷徨い歩いていたある日、大矢不動産屋の噂を聞いたらしい。
  
 なんでも人間と共生することを望む妖に居場所を与えてくれるのだとか。
 カエルはこの店を探してここまでやって来たものの、どうするかはまだ迷っていたらしい。だからもう少し探して見つからなかったら、再び日本中を彷徨い歩くつもりだったのだという。

「いつ見つかるかもわからないのに探し続けるのは辛くない?」
 そう聞くと彼は大きな目をパチクリと瞬きさせてから答えてくれた。
  
「それも一つの縁ですから」
 その言葉は人間よりもずっと長い時間を生きてきた妖ならではの重みを感じた。
  
  
「あ、ここです! ここです!」
 さっき来た時はなかったはずの真っ赤な幟を見つけると、カエルは嬉しそうに大きな声を上げた。そして店へと入っていくのかと思えば、彼はグルリと身体を私の方へと向けた。
  
「あの、人間さん」
「なに?」
「ありがとうございます」
「それならさっきいっぱい聞いた」
「それでも言わせてください。ありがとうございます。この恩はいつか必ずお返ししますので」
「気にしないで。ただ私がしたくてしたことだから」
「あなたは優しい人間さんですね」
  
 カエルは笑って、深々とお辞儀をすると幟に引き寄せられるように店へと入って行った。
  
 まん丸いその身体を、私は見えなくなるまで見つめ続けた。
  
 彼は新しい居場所を見つけられるだろうか?
 彼が彷徨わなくてもいいような場所が見つかるといいのだが……こればっかりは『縁』なのだろう。
  
  
 それにしても『大矢不動産屋』、ねぇ……。
 もしも誰かを幸せに出来るのなら、あのカエルのように笑ってくれるのなら、手伝うのも悪くない。
  
 兄ちゃんがヤバイ仕事ではないって言ってたし、それに期間も4年間だけだという。学生のアルバイトの一環としてなら……。
  
 とにかく話くらいは聞くことにしよう。もちろんネコマタ野郎からではなく、兄ちゃんからだけど。
  
 猫のキーホルダーが付いた鍵を握りしめ、私は本日2度目となるあの部屋へ足を向けるのだった。 
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