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15~25

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15.
「まあ、落ち着いたところで本題だ」
「はい」
 紅茶を飲み干したヒューイは先ほどとは打って変わって真剣なまなざしを向けた。そんなヒューイのまなざしにこたえるかのように、ルナも心を決めてじっと男の目を見つめた。
「俺たちはお嬢ちゃんを誘拐した」
「……はい」
(やはり誘拐だったのか……。)
 先ほどのルーシィと呼ばれていた少女との会話を見ていて、つい忘れそうになったが彼らは私を誘拐したのだ。ルナは一度緩んでしまった警戒心をもう一度強く持つ。
「んで……だ。とりあえず、宰相様か当主様か姫様にでも身代金を要求しようと思ってるんだが…………誰が一番早いと思う?」
「はい?」
(この男は一体何を言っているのだろう?)
 ルナは意味が分からず、思わず聞き返す。ヒューイはそれに気を悪くすることはなく、真面目な顔で話を続ける。
「いや、お金が入用でな。できるだけ早くほしいんだよな……。でもだからって全員に出すと後から面倒くさいじゃないか。だから、お嬢ちゃんのために一番早くお金を支払ってくれる奴に要求したいから教えてくれないか」
「どなたも私のためにお金なんか支払いませんよ」
「……お嬢ちゃん、嘘ついても無駄だぜ。どうせ誰かに要求するんだ。一番早く払ってくれる奴に要求した方がお嬢ちゃんも早く解放されるんだ。それくらい、分かるだろ?」
 ヒューイはひどく呆れてルナに諭すように話しかけた。それでもやはり考えは変わらない。
「ですから、あの方たちは私のためにお金を払ったりしません」
「いい加減なことを…………言っているわけでもないようだな」
 ヒューイはルナの目をじっくりと見て、首の後ろをガシガシと掻く。首に巻かれた包帯が取れそうになることは気にせずに「あー……でもな、うーん……」と散々うなってから再びルナの目を射抜くように見つめる。
「えっと……だな。俺の得た情報によれば、どいつもお嬢ちゃんのためならいくらでも払うやつらだ。だからこそ、俺は一番早いやつは誰かと聞いたんだ。早くて大金を払ってくれる奴は俺たちにとっちゃ最高の取引相手だからな。なのに……なぜお嬢ちゃんはそう思うんだ?」
「確かに今までならば、そうしたのかもしれません。ですが、今の私にはそんな価値などありません。価値のない人間にそこまではしないでしょう」
 自分で言っていて情けなくなり、それをごまかすために口から少しの息をはきだす。そんなルナを馬鹿にしたようにヒューイは言った。
「っは。お嬢ちゃんはあいつらがお嬢ちゃんを価値のない人間だとみなしたから助けに来ないとでも?」
「はい」
 自分に助けなど来ない。そう言い張るルナに呆れたようにヒューイは、体内の空気を全部吐き出しているんじゃないかと思うほど長く息を吐きだした。そしてゆっくりと息を吸い込んだ。
「……ならお嬢ちゃん、賭けをしよう」
「賭け……ですか」
「ああ、そんなに固くなるなよ。トランプなんかよりもずっと簡単な賭けだ。よく聞けよ? 俺はさっき言った3人、全員に身代金を要求する。そして一番早くに支払った奴にお嬢ちゃんを渡す」
「ですから、誰も払わないと……」
「もし……もし7日以内に支払われなかった場合は……」
「支払われなかった場合は……?」
「お嬢ちゃんをこれからここで養ってやろう」
「……え?」
 聞き間違いだろうか。ルナは思わず耳を疑った。そんなこと、そんな都合のいいことあるわけがない。ルナの考えをかき消すように男は付け加えた。
「俺たちの仲間にしてやろうっていってんだ。お嬢ちゃん、迎えが来なかったらどうせ行くとこなんかないんだろ? ならここにいればいいさ」
「え……」
「どうだ? お嬢ちゃんのいうことが正しければお嬢ちゃんはここに居場所を手に入れられる。お嬢ちゃんの言うことが間違っていればお嬢ちゃんは元の居場所に帰れんだ。なあに、腹の探り合いなんてするトランプなんかよりもずっと簡単な話だろ?」
「そんなのあなたに得なんか……」
「あるさ。俺はあいつらがお嬢ちゃんを助けに来るって思ってるからな。当たったらもちろん身代金はいただくぜ」
 身代金――そんな誘拐犯としてはごくごく当たり前のことを男は賭けの代償として掲げた。ふざけているのかと男を見つめるルナに男はあっけらんかんとして口を開いた。
「俺は負ける勝負には参加しない主義なんだ。勝たせてもらうぜ」
 ヒューイは開いた口がふさがらないでいるルナの口と自分の口に余ったお菓子を入れ、思い出したかのように手を太ももに打ち付けた。
「ああ、そうだ。お嬢ちゃんはここで何日か暮らすんだ。いくつか約束をしておこう」
「約束……ですか?」
「ああ、そうだ。ちゃんと守ってもらわなきゃならんねえことがいくつかあんだ。まず一つ目はお嬢ちゃんには後で部屋まで案内するからそこで寝ること」
「はい」
 ヒューイは一本の指を上に向けて説明した。部屋が与えられることにルナは少し驚きつつも、頷いた。
(これはきっとここから出るなという意味なのだろう。自分の身体を入れるだけで精いっぱいの倉庫のようなところに案内されなければいいが……。)
「二つ目は、屋敷の中から逃げようとしないこと」
「はい?」
 わざわざ誘拐犯がいう言葉とは思えない。そんな言葉を真剣に言ってしまうヒューイにルナは少し呆れたような顔を向けた。
 するとルナが言葉の意味を理解していないのだと思ったヒューイは少し顔をしかめた。
「だから、ここから逃げようなんて思うなよってこと。この近くは崖とかケモノとか多いからな。土地勘のないやつがちょこちょこと出歩くと危ないんだ。お嬢ちゃんが逃げ出したらこの屋敷中の奴らが総出で探さなきゃいけなくなる」
「はぁ……」
 心配をしてくれていると受け取ってもいいのだろうか。それともせっかくの取引材料に傷がつくのを嫌がっているだけなのだろうか。ヒューイの意図が読み取れず、気の抜けたような返事をするルナにヒューイは「本当に危ないんだからな!」なんて幼い子どもに脅かすように言いながらルナの肩を揺さぶる。
「わかりました、わかりましたから」
 ルナが了解の意思を示すと男は何度か「本当か?」とルナの顔を左右から眺めた。
「わかればいいんだ、わかれば……」
 そしてうんうんと数回頷いた。
 そんなヒューイの態度にルナはまるで子どもにでも戻ってしまったかのようだった。
「最後にお前の名前だが……」
「名前ですか?」
「ああ。ここにいる間はお前を『カッツェ』と呼ぶことにする!」
「『カッツェ』……ですか?」
「ああ、そうだ。ここにいる間、お嬢ちゃんは『ルナ』じゃない、『カッツェ』だ。これからは俺もそう呼ぶからな」
「はい。わかりました」
 返事をするルナを見て、ヒューイは満足そうに頷いた。
「んじゃあ、今から『カッツェ』が暮らす部屋に案内するからな」
「はい」
 ヒューイは何歩か歩いた後に後ろを向き、ルナの居場所を確認する。そしてルナがついてきていることを確認すると「迷うなよ」とルナをからかいながら歩きだした。
「あの、約束事ってあれだけですか?」
 ルナは大きなヒューイの背中に問いかけた。
「ん? あとは、えっと……ご飯はしっかり食べることとか? それ以外、特に今は思いつかないな。……じゃあ、思いついたらその度にいうことにするわ」
 ヒューイは誘拐犯が人質にいうにはなんてことない、ここに住むためには当たり前のことを新しい仲間に言い聞かせるように言いながらガハハと豪快に笑った。悪意のないヒューイの笑いになぜかルナは胸のあたりが温かくなるような安心感を覚えた。



16.
「ここがお前の部屋だ」
 ヒューイが立ち止まった先にあったのは、そこにたどり着くまでに通ったドアの中で一番大きなドアだった。
「ここ……ですか?」
「ああ、そうだ。狭いけど我慢してくれよ」
 そういいながらもヒューイが開けたドアの先にはクロード家でルナに与えられていた部屋と同じくらいの大きさがあった。違うところといえばここには色や物があふれていることだろうか。
 本をぎっしりと蓄える本棚に、大人が4人は寝転がれるであろう天蓋付きのベッド。それにこの場所には不似合いな使い込まれた勉強机と、クローゼットに至っては4つもあるのだ。
 まるで今まで誰かがここに暮らしていたのではないかと思えるほどにこの部屋には生活感がある。クロード家のルナの部屋よりもずっと、人が暮らしているのだとわかる部屋だ。
「あの、ここって……」
「何年も使われてないけど、一応掃除は毎日欠かさずしてるからな。汚くはないぞ」
 毎日掃除しているという言葉の通り、床には埃一つ残っていない。何年も使われていないのだという彼の言葉が嘘ではないかと思うほどに綺麗だ。それに机の上には読みかけの、しおりの挟まった本が埃をかぶらずに積んである。やはりこの部屋はつい今朝まで使われていたのではなかろうか。不思議に思って部屋のあちこちを歩き回るルナをヒューイは何も言わずに眺めていた。一周回り終えたころにようやくヒューイのことを思い出したルナは彼の元へ駆け寄った。
「あ……。すみません」
「カッツェ。お前、この部屋、気に入ったか?」
「はい」
「そうか……」
 慣れない名前で呼ばれたはずのルナは全く違和感を覚えなかった。それはヒューイが当たり前のように呼ぶからだろう。ヒューイはルナの頭をポンポンと軽くたたき「いくぞ」とルナに次の場所に移動することを促した。
 それからヒューイに連れられ、ルナは屋敷内の様々なところを回った。食堂に案内するときも、共同浴場に案内するときもルナとヒューイの後ろにはぞろぞろと人が群がってきた。
「ほらほら。お前ら、散れ散れ」
 ヒューイは集まってくる人を追い返そうとするそぶりを見せながらも、本気で追い払う気はないようで、ルナとヒューイの後ろにはどんどん人が増えていった。最後にはルナが連れられた際に目隠しを取ってもらった場所――応接室に案内され、ルナが入ったのを確認したとたんにヒューイは意地悪そうな顔を浮かべてドアを勢いよく閉めた。そしてルナに「座ってろ」と言いながらソファを指さす。
 ルナがヒューイに言われた通りにソファに座ると、彼は向かいのソファに座ることなく、先ほど閉めたドアを背中で押さえつけた。そして外から与えられる衝撃に耐えながら、器用にも腹を抱えて笑った。そんな子どものように楽しそうに笑うヒューイを見てルナもつられて笑ってしまった。誘拐犯と被害者という関係性はすっぽりと頭から抜けてしまっていた。
「カッツェ、やっぱりお前には笑顔が似合う」
 ヒューイはしみじみと何かを思い出すようにルナに向かって言った。その時、彼がドアから背中を離していたものだから、外の人たちは急に支えるものがなくなって栓をなくした浴槽の水のようにどんどんあふれてきた。
「いってぇ……。って、ひどいじゃないですか、ヒューイ!」
「なんだ、文句でもあるのか?」
「あるに決まってるでしょ? カッツェを独り占めするなんて横暴よ!」
「俺たちだってカッツェに会えるのを楽しみにしてたんだぞ!」
「まあまあ」
 自分の主張を押し通すため、前へ前へと近づいてくる人たちをヒューイは大きな手でいさめるようなポーズをとる。だがそれでも収まる様子はない。
「だってカッツェがここに帰ってくるのは……!!」
「ミレー、やめろ」
 一番前に立っていた女の口を後ろの男がふさぐ。相手に聞こえなくなってもなお女は口を動かし続けていた。
「はあ……」
 ヒューイはそんな女に向かってため息をつきながら、ルナの元へ来て手を差し出す。ルナはその手を頼りに、身体が沈み込んでしまいそうな柔らかいソファから立ち上がった。
「あの、カッツェと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
 これから一緒に過ごす人たちだ。そう思いルナは男から与えられた『カッツェ』という名前で挨拶をする。すると口をふさがれている女は男の指の間に爪を立て、引きはがした。そして何もなかったかのように取り繕って、ルナに向かって手を差し出す。
「私、ミレーっていうの。よろしくね、カッツェ」
「よろしくお願いします」
 ルナがミレーの握手に答えると後ろの男はミレーの肩をつかみ、思い切り右へ押しやった。
「俺、コニー」
 差し出された手をにぎるかどうか迷いながらもルナは押されたミレーが気になった。目だけをそちらに向けるとミレーは少し乱れた服をなんてことないように正していた。コニーはケガがないことにほっとしているルナの手をもう片方の手で包み込むようにして握手をかわした。それから同じようなことを何回も繰り返していると、ルナの後ろに立っていヒューイの腹がグルグルグルと獣の鳴き声のような音を発した。
「ご飯にしましょ」
 誰だかわからない女の声を皮切りに皆、ぞろぞろと並んで狭いドアから出ていく。
「あー、腹減った」
「今日のメシなんだろうな~」
 去っていく人たちの後ろ姿を見ているルナの腕にミレーは腕を絡めた。
「ほら、カッツェ行くわよ。ご飯がなくなっちゃうわ」
「あ……はい」
「……いきましょう」
 戸惑うルナの手をずっと近くにいたのであろうルーシィがつかむ。そして背中をコニーが押して、ルナは先ほど案内された食堂へと向かった。
 食堂につけば、先ほどはなかったはずの大きなお皿が等間隔に並べられている。そのお皿の近くの席はすでに埋まっており、残っているのはどこもお皿から離れた席ばかり。ルナが適当に開いた席に座ろうとすると、ミレーはルナの身体を引き寄せた。
「ダメよ、カッツェ。ほらほら、あんたたちそこどきなさいよ」
 ミレーはすでに席についていた男たちの背中を押しながら無理矢理空いている席に追いやった。そしてルナの肩に手を置き軽く体重をかけ、開けた席につかせる。
「さっきの方たちは……」
 どうやら席は早いもの順で決まっていないようだ。そしてミレーにどけられてしまった男たちはのろのろと歩いてきたルナたちよりも早く来て、この席を選んだのだろう。ルナはそんな彼らの場所を奪ってしまうことに罪悪感を覚えた。チラチラと男達の方を気にするように見てしまうルナの肩をコニーはポンと叩く。そして席を追いやられた男たちのほうに親指を向けた。
「カッツェ、あいつらの顔見ろよ。こういう時は一言、いえばいいんだよ」
 コニーの大きな声に、男たちは何かあるのか?とルナ達の方を不思議そうに見ていた。
 ルナは男たちに向かって「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。すると男たちは嬉しそうな顔で豪快に笑った。
「たくさん食べろよ」
 カップに口をつけて告げられたその言葉は真っ直ぐで、席を取られたことなんてまるで気にしていない様子だった。そのことにルナはほっと胸をなでおろした。
「ほら、カッツェ。これ、うまいぞ」
「あ、これも」
「こんなに盛ったら食えねえだろ」
「食える分だけ食えばいい。ほら、カッツェ」
 ルナの周りに座る人たちは皆、彼女の小さなお皿にどんどんおかずを入れていく。そんな状況が理解できず、ルナは思わず固まってしまっていた。
 こんなにたくさんの人に囲まれての食事など初めてなのだ。
 食事といえば決まって口をつぐんで目の前に出された料理を食べるだけ。こんなに会話であふれる食事なんて、一度もない。ルナが固まっている間に周りの人たちは何やらもめていた。それでも彼らはとても楽しそうだった。そんな人たちに囲まれて、ルナは久しぶりに会う家族と食卓を囲んでいるような気持ちになった
(誘拐犯と人質なのに……。ここにいるとそんなこと、忘れてしまいそうになる。気を許してはいけないはずなのに……。)
「カッツェ?」
 ミレーはうつむくルナの顔を心配そうに覗き込む。けれどルナが気付かずに考え込んでいると、ミレーは男たちに叱責した。
「ほら、あんたたち! 程度ってもんをだね……」
「だって……」
 ルナが顔をあげるとそこには山積みのおかずと、叱られてしまった子犬のような元気のない男たちがいた。


17.
「あの……これは……」
「んー、なんか違う? ルーシィはどう思う?」
「カッツェにはもっと淡い色が…………」
「そうよね。カッツェ、次はこれね」
「あ、はい」
 ルナの前にはたくさんのネグリジェが山をなしていた。渡されたものを着ては脱ぎ、着ては脱ぎ。どこから出てくるのだといいたくなるそれらは部屋にある大きな棚の中からミレーによって引きずり出される。
「あの……これって、誰かのじゃ……」
「ん? ああ、気にしないで」
 気にするな、と言われてもそれらはあまり服に頓着しないルナでもわかるほどに凝った装飾があしらわれていた。まるで誰かから贈られたもののようなそれは棚の中からちらりと覗くリボンによく似合っていた。
「でも……」
「うーん、あ、これいいんじゃない?」
「いいです……!」
「よし、これね。今日はこれ! 決定!」
「え、あの……」
「せっかくだからヒューイに見せに行きましょうか」
「そうですね。きっと喜びます」
 ミレーとルーシィはルナのことなどお構いなしにルナの周りを一回転して、大きく頷いた。そして右手をミレーが、左手をルーシィが包み込むようにしてつないで歩き始める。
「ヒューイ!」
 ミレーは食堂のドアを思い切り開く。木のドアは一度ぶつかって再び戻ってこようとしたが、それがルナたちの元へやってくることはなかった。ミレーの言葉に反応し奥からやってきたヒューイがドアをつかむようにして抑えているからだ。
「……んだ、ミレー?」
「ねぇ、ヒューイ。見て、この子。可愛いでしょう?」
 ミレーは左手を前に出し、ルナに一歩進むことを促す。それに従い、前へ出るとヒューイはルナの身体をじろじろ見ては先ほどのミレーたちと同じように大きく頷いた。
「ん」
「ん、じゃなくて!」
 ミレーがヒューイに詰め寄ろうとルナから手を離すと、ヒューイの後ろからビール瓶を両手につかんでは交互に飲んでいるコニーがビール瓶を振りながら走ってきた。あれだけ勢いよく走っていても全く中身がこぼれ出ていないことは感心すればいいのか、はたまたこぼれないくらいにあのビール瓶には中身が入っていないことを呆れればいいのだろうか。考え込んだルナの顔の前、わずかこぶし二個ほどの隙間を開けてコニーは止まった。
「あー、カッツェ! 可愛い、似合ってる!」
「そう、こういう反応が、ってなんかコニーがいうと違うのよね……」
「どこがだよ!」
「なんか、軽い?」
「はぁ!?」
 アルコールの匂いを口から発しながら、コニーはミレーの空いた胸元のわずかな布の部分をつかむ。そして掴まれたミレーはといえば、こちらはこちらでコニーの頭に巻かれた布の隙間に指を入れ込みながらつかむ。
「あ、あの……二人とも」
 それをルナは慌てていさめようとすると、二人は勢いよくルナのほうに顔を回転させた。
「カッツェ、気にしなくていいのよ」
「カッツェ、危ないから離れてろ」
 ピッタリと声が重なってしまい、正確に聞き取ることはできなかったが、どちらもルナの身を案じての言葉だということだけは理解した。そして顔は二人のほうに固定しながら3歩後ろに下がった。その間も二人の言い合いは収まらない。
「あんたが退けばいいんでしょ!」
「はぁ? お前もだろ!?」
「あー、お前ら2人そろって外にでも行ってろ」
 鶴の一声というには若干投げやりなヒューイの声。そんな言葉に二人は反応して顔を合わせる。
「ミレー、外、行くぞ!」
「ええ、あんたに言われなくても!」
 ミレーとコニーはお互いから手を離すことなく、お互いをじっと見つめながら、横向きに歩いて食堂から出て行った。ルナがそれを見ていると、頭の上からは一つ大きな咳払いが落とされる。
「まぁ、あの二人は置いといて……。カッツェ、よく似合ってるぞ」
「その……ありがとうございます」
 ワシワシとヒューイがルナの頭を掻けば、ルナの頭はそれに合わせて少し左右に揺れる。それにつられて手をつないでいるルーシィも揺られて、それを見てヒューイとルナはふっと笑った。ルナは空いた手でルーシィの頭を撫でてやれば、またルナの頭にあるヒューイの手が揺れた。しばらくの間、ルナもルーシィも2人揃ってゆらゆら揺れているとヒューイの後ろから大きな声がした。
「かっつぇー」
「は、はい!」
 食堂に響き渡るような声。だが男たちの目はルナをとらえてはいなかった。どこか虚ろで、男たちの隣には様々な種類の酒の瓶が転がっている。コニーと同様、相当な量のアルコールを摂取したのだろう。男たちはルナの声が聞こえたことに気を良くし、グラスになみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。
「おぉーきく、なったなぁ」
「ああ、その服、よーく似合ってるよぉ~」
「生きて、てぇ、よかったぁなぁ~」
「え、あの、その……」
「お前ら、飲みすぎじゃないか?」
 ルナのここでの名前を呼んだ男たちはルナの返事なんて期待していないように思えた。ただ思ったことをそのまま口にしているかのようだ。彼らにはルナの言葉もヒューイの言葉も聞こえてはいない様子だった。
 並んで酒を飲んでいるうちの一番端に腰をかけている男は足元から新しい酒を取り出して、栓を抜いた。そして隣から出てくる複数の手に握られたグラスに酒を注ぎこんだ。けれどその手は何度かグラつくせいでグラスの下の、木製の机は上から落ちてくる酒をしみこませた。注がれた酒はすぐに飲み干され、また注がれる。瓶を持っている男は自分の分まで注ぐのが面倒になったのか、やがて瓶に直接口をつけ飲み始めた。また目の前にグラスが出てくれば口を外してグラスに注ぎ、また自分の口に運び。それを繰り返す。そんな男たちを、ヒューイは呆れたように、ルーシィは心配そうに見ていると男たちの声は次第に小さくなっていった。

「ヒック、ぐす……」
「なんだお前、目と鼻から酒出てんじゃねえか!」
「お前も出てるぞ、汚ねぇなぁ~」
「おい、その辺にしておけよ! ってありゃ聞こえてないな……」
「ヒューイ様、あの酒、回収してきます?」
「まだ開いてないのだけ、下げといてくれ」
「はい」
「ぁ……」
 先ほどまでルナの隣で揺られていたルーシィの手は零れ落ちるようにルナの手から去っていった。ルナはそれがとても名残惜しいような気がした。つい溢れ出てしまった言葉は出た後に気付いて思わず口をふさいだ。けれどその言葉は誰にも気づかれることはなく、男たちの楽しそうな声の中にひっそりと消えるのだった。


18.
 ドンドンドン。ドンドンドン。
 ドアを勢いよく叩く音に驚いたルナはベットから飛び起きた。何か起きたのだろうか?と辺りを見回せば一面、見慣れない家具が並んでいた。そこでようやく自分が誘拐されていたのだと思い出す。そんな大事なことをつい忘れてしまうほどルナは深い眠りについていたのだった。こんなによく眠れたのはいつぶりだろうかと思わず考え込んでしまうほどだ。けれどその答えはなかなか浮かんできてはくれない。ウンウンと唸っていると、先ほどの音と同じくらい大きな声で叫ぶ声がドアの向こう側から聞こえてくる。
「おい、カッツェ! 起きてるか!」
 怒鳴っているような声ではあるが、これは別に怒っているわけではない。それは昨日のヒューイを見ていれば容易に理解できることだった。たった一日という短い時間であるが、大体の人柄くらいなら相手を知ることはできる。だからルナには現時点でヒューイに対しての恐れはなかった。だがその声の大きさには慣れておらず、驚きはした。だから乾いた口をモゴモゴと動かしてから返事を返す。
「は、はい。起きてます」
 どれくらい前から部屋の前にいるのか、今まで深い眠りについていたルナには見当がつかなかった。長い間待たせていたら悪いと急いでベッドから起き、ドアの元へ走って勢いよく開いた。
「っつ……」
 するとヒューイの顔はドアの目の前に顔あったのだろう。ルナの目の前には額のあたりをおさえる彼の姿があった。朝の挨拶よりも先に謝罪の言葉を発することとなった。
「あ、あの、すみません」
「いや、いい。それよりもカッツェ、着替えて食堂に来い」
 あたふたと手を身体の前でしきりに動かすルナにヒューイは自分の用件を告げた。申し訳なさと起きたばかりで正常に働かない頭が相まってルナはヒューイの言葉に即答した。
「はい」
「服はクローゼットに入ってるからそこから適当に好きなの選べ」
「え?」
「昨日ミレーが漁ってたあの棚な」
 ヒューイは昨晩ミレーがネグリジェを引き出してきた棚と同じ棚を指さした。
 このネグリジェも、そしてあの棚に入っている服は皆、誰かの所有物なのではないか。
 それは昨日も疑問に思ったことだった。だからルナは昨日ミレーにした質問と同じことを聞いた。
「あの服って、誰かのじゃ……」
「ん? サイズ、合わないか?」
「いえ、そんなことは」
 的外れな回答に少し戸惑った。そんなルナの返答にヒューイは話を終わらせた。
「んじゃあいいだろ。あれくらいしかこの屋敷にはお前の着るものなんかない」
「……」
 あれくらいという割には豪華な服ばかり。誘拐なんて初めてされたルナの目から見てもそれは明らかだった。あれらの服は被害者に与えるような服ではない。大事な人にプレゼントするような服。ずっと、長い間使ってもらえるような、そんな人が着るための服だ。
 それに今の状況だが、これは本当に誘拐犯と被害者の関係なのだろうか。
 美味しいお茶とお菓子。大勢の人と食べる食事。極め付きはたくさんの服とここの人たちの態度だ。どこに行っても歓迎と表すにふさわしい接し方で、まるで大事な人に接するような態度である。いつだって彼らはルナに気を使っては同じ言葉を口にする。
「気にすんな」――と。
 誘拐犯に気を使うのはおかしなことだ。けれども誘拐犯が被害者に気を使うのはもっとおかしなことではないだろうか。
(今のヒューイの言葉だってきっと……気を使って……。)
 この状況を不思議に思うルナの表情を、棚にある服を着たくないのだと勝手に解釈をしたヒューイは困ったように包帯の巻かれた首の後ろに手を当てた。
「趣味じゃねぇって言っても仕方ないだろ! ルーシィのじゃ小さすぎるし、ミレーのじゃ……その、なんだ、あの……胸が、な……」
 ルナは首をひき、自分の身体を見る。なだらかといえば聞こえはいいが、足元を見るうえで何一つ邪魔をするものはない。その点はルーシィも同じだが、まだ10にもいかないかぐらいのルーシィはルナよりもだいぶ背が低く、成長過程であるといえる。一方ミレーは身長こそルナよりも少し高いくらいでルーシィとの差を考えればいくばかりかはいいものの、ミレーは豊満な体つきでは直立に立った状態では足元を確認することさえできないだろう。そんなミレーの昨日の服と昨晩のネグリジェはどちらも大きく胸元の空いた服であった。それをルナが着るとなれば胸元を通り越してヘソの辺りまでダルっと広がる形になってしまうことだろう。そんな自分の姿を想像したルナはヒューイの言葉に頷く他ない。
「……そう、ですね」
 ヒューイが気を使っているのはありありと伝わってくる。
 どんなに言葉が荒くても、例えルナが気にしていることを言葉を濁しつつも胸に刺さるような言葉を言っていても、気を使ってもらっていることには変わりはないのだ。
「ん。じゃあ、早く着替えてこいよ」
 ルナはヒューイが去った後、静かに扉を閉じてクローゼットと向かい合った。昨晩のネグリジェと同様にどれも美しい刺繍のあしらわれたものが多かった。ルナはその中から白い花の刺繍が袖にあしらわれたワンピースを手に取り、頭からすっぽりとかぶった。
 そしてすぐに食堂へ足を運ぶ。すると椅子やテーブルの配置が昨晩とは変わっていた。順番に等間隔に並べられていた机は端に寄せられ、テーブルの下に収納してあった椅子は山をなして所々に置かれていた。テーブルも椅子も端に寄せられ、空洞になったちょうど真ん中に位置する場所には椅子の高さの半分くらいの台が置かれていた。その台の上にヒューイは立ち、あたりを見回していた。そしてドアのあたりに立つルナの姿を見つけ、コクリと一度頷いてから手の平をバチンと合わせた。その音に食堂に広がっていた数々の会話は途切れた。
「よし、全員そろったな」
 ルナは自分もその『全員』に入っていることに驚き、その場にたたずんだ。するとルナの視界の端の方から随分体格のいい男が椅子を持ってやってきた。ルナの隣に下して、その椅子をトントンと二度ほど叩く。
「ん」
「え?」
「これから話、始まるから……座ってろ」
「あ、ありがとうございます」
「ん」
 戸惑いながらも椅子に腰かけると男は頷きルナの元を離れ、先ほどまで座っていたのだろう、人が多く集まるところの端にぽかんと空いた席に腰かけた。
「では発表する」
 ヒューイの言葉に食堂にいる、ルナとヒューイ以外の人間は皆、唾を飲み込んだ。
 ルナの隣、席一つ分くらい離れたところに座っている、用途のわからない長い棒状のものを胸の前で大事そうに抱えている男の息遣いがルナに聞こえるほどにこの部屋にいる誰もが緊張していた。
「ランドール家は俺、クロード家はルーシィ、そして城はコニーだ」
「くっそぉ」
「まぁ、順当ってとこかしら」
「はぁ、わかってはいたけどな……」
 各々に感想を言い合う人たちの中で、ルナだけがヒューイの言葉の意味が分からなかった。なんだか自分だけ仲間外れになっているような気がして隣の男の肩を二回叩いた。
「うん? どうした、カッツェ」
「あの、先ほどの言葉の意味って……」
「ん? ああ、あれか。あれは今回の配置、というよりは役目の担当発表だよ」
「担当発表、ですか?」
「ああ、そうさ。カッツェの身代金だっけ?の要求の手紙を渡しに行くの、誰が行くかもめてさ」
「は、はぁ」
 ルナには意味が分からなかった。確かにヒューイは昨日、三人全員に身代金を要求するとルナに告げた。けれどそれが揉めることになるのだろうか。それもこんなにたくさんの人が選ばれなかったと嘆くような、そんな内容だろうか。
 ルナの疑問はお構いなしに男は話を続けた。
「んで、ヒューイが決めることにしたわけ」
 とても悔しそうに、けれども納得は行っているような顔で仕方ないよなと呟く。
「そ、そうなんですか……。あの教えてくださってありがとうございます」
「んーん。いいんだよ、気にしないで」
 話を聞いて、これが何のための集まりなのかを把握したまでよかった。けれどルナの頭の中には他の疑問が膨らむだけだった。
(この人たちは何をしたいのだろうか?身代金の要求?それだけだったら何もこんなにも歓迎する必要性はない。ではなぜ彼らはわたしを『誘拐』をしたと言い張るのか。)
 ルナには彼らの考えが理解できなかった。頭を右へ、そして今度は左へかしげて考えたが、答えにつながりそうなものは出てこなかった。


19.
「んじゃぁ、ルーシィ、コニー。この手紙をもってけ。宛名はあってるか確認しろよ」
 一度部屋を後にし、それからすぐに戻ってきたヒューイの手には3通の手紙があった。どれも真っ白な封筒に入っていたが、よく見ると宛名は一つ一つ違う名前が書かれている。ヒューイはそれを一つずつ指で追って確認してからルーシィとコニーに渡し、残りの一通は自分の胸ポケットに収めた。
「はい、大丈夫です」
 ルーシィは与えられた手紙の宛名をヒューイ同様指で追って確認し、コニーは手紙を胸の前でひらひらと振っていた。
「ん。ってかさぁ間違っててもあんま問題なくね?」
「内容が違うからな」
「ふーん。まあいいや」
 納得したのか納得していないのか、曖昧な言葉を返したコニーはすぐに興味を失ったように手紙を腰に携えた布袋の中へと入れた。遅れてルーシィは真っ白な花がたくさん入った籠の中に紛れるようにしてさした。
 ヒューイは二人が手紙をしまった様子を確認してから「行ってくる」とこの屋敷に残される者たちへと告げた。そして外につながれた黒と茶色の毛が混じった馬に乗り、颯爽と屋敷を後にした。その様子をルナがミレーと共に窓からのぞいているとその横の小さな窓からをコニーは過ぎ去っていった。
「んじゃ」
 窓から落ちて行ったコニーの姿をルナは両目を見開いてみていたが、それは杞憂であったことを知った。目線を下げればコニーはうまく着地をし、木につながれていた白の毛の馬にまたがっていたのだ。
「よし、ルーシィ送ってってやるよ」
「ブルックさん、よろしくお願いします」
 そしてその後ろではルーシィの二倍ほどの大きさの御者らしき男に頭を下げるルーシィの姿があった。ルーシィの手には先ほどの籠。そして肩にはフードのついたレースの外瘻がかかっていた。
「ルーシィの格好は……」
 まるで王都にいる花売りの少女のような可愛らしい外見に、ついミレーに尋ねてしまう。するとミレーはルナの肩をつかみ、息を荒くした。
「かっわいいでしょ! 私プロデュースの服よ! いつか着せることを夢見て2か月ほど前に買い付けしたかいがあったわ! こんなに早く来てる姿が見れるだなんて……」
「は、はぁ……」
 買い付けという言葉に少しだけ引っ掛かりを覚えながらもルナはミレーに圧倒されていた。昨晩の比にもならないほど彼女は興奮しているからだ。
「あのレースは最高級の羊毛でできているの。それだけじゃなくてあれは職人の手作りで一着、半年以上の歳月をかけて作り上げられる一等品なのよ!その分、値段もそれなりだからなかなかヒューイが首を縦に振らなかったんだけど……そこは私とカリーが何とかヒューイの首を折る勢いで頷かせたってわけ。ルーシィのあの可愛さ、やっぱりそれだけする価値はあったわ!!まぁヒューイは若干首を痛めてまだ治らないみたいだけど、あの可愛い姿を見れるのならヒューイの負傷なんてあってないようなものよ!」
「え、えっと……」
 まさかあの首の包帯はその時に負ったものなのだろうか……。いやまさかと思いつつも、ルナは少しだけミレーとの距離を開ける。けれど開けた直後にその距離はなかったことになる。そして今度は逃げられないようにと肩をガッチリとつかまれる。
「でね、あの服はどうやら半年に一着だけその店に卸されるみたいだから今度一緒に行きましょう!」
「え……」
 ヒューイとの賭けに勝てばルナはずっとこの場所にいるのだ。そういう約束だ。そしてルナは誰も身代金を払わないことを予想し、その条件を飲んだ。ルナの予想通りに事が進めば、おのずと『今度』は存在するのだ。それなのにルナはその『今度』という未来を指す言葉に違和感を覚えていた。小さな石ころが靴にでも入り込んでしまったかのような、小さな小さな違和感だ。
「おい、ミレー。食料の買い付け行ってこい」
 窓の近くで固まって動かないルナと、そんなルナに詰め寄るミレーのもとに、先ほどルナの隣に座っていた男が指先でつまんだ鍵をユラユラと揺らしながら近寄ってきた。ミレーは用事を頼まれたことよりも話を中断されたことに対しての苛立ちを男へと吐き出した。
「なんで私が行かなくちゃならないのよ!」
「いろいろ足んねぇんだよ。本当はじいさんたちの日なんだが……生憎、じいさんたちは揃いもそろって二日酔いでな……」
「……しっかたないわね。あの飲んだくれじじいたちに言っておいて『いい加減歳考えなさいよ』ってね」
 ミレーは男の手の中にある、銀色の鍵をむしり取った。けれどすでにミレーの苛立ちは引いている。その証拠に言葉も言動も雑ではあったがミレーの表情は非常に穏やかであった。そのことがわかっているのか男は苦笑いをしながら「伝えておく」とだけ告げて食堂へと戻っていった。そしてミレーはルナのほうへと向き直り、頭をなでた。
「ごめんなさいね、カッツェ。本当はカッツェのお着がえの手伝いしたいんだけどお仕事入っちゃったの……」
「し、仕方ないですよ」
 ルナは昨日の様子、そして今までの興奮状態にあったミレーの様子を思い出し、心の中でほっとする。するとミレーはルナの身体をぎゅうっと抱きしめた。
「カッツェ! なんて優しいの! すぐに、すぐに帰ってくるからカッツェは本棚にある本でも読んで待っていてね」
「……っほ、本、ですか。勝手に読んでしまってもいいのでしょうか?」
 豊満な胸の間から何とか顔を出し、空気を取り入れてから『本』という言葉に反応する。まだ一度もあっていないあの部屋の主の所持品の一部であろう。興味こそあったものの、昨日来たばかりの新参者もとい誘拐の被害者が勝手にいじってもいいとも思えず、遠くから眺めるくらいで留めておいたのだ。
「いいのよ。服も、本も、あの部屋にある全てのものはカッツェには使う権利があるの。いいえ、使ってほしいといった方が正しいのかしら」
「それは一体……」
「じゃあね。カッツェ、いい子にしているのよ」
 ミレーは言葉の真意を理解しかねているルナの頭に手を乗せてポンポンと頭を二回ほど軽くたたきその場を後にした。一人その場に残されたルナは茫然と佇むしかなかった。空いた窓から吹く風はルナの銀色の髪をユラユラと揺らしていた。



20.
 手持ち無沙汰になったルナは一人、騒がしい食堂に背を向け部屋へと戻った。
 ドアを開けると、先ほどミレーから本でも読んで待つように言われたからか、やけに本棚にぎっしりと詰め込まれた本が目についた。いや本当はもっと前から気になってはいたのだ。ただ部屋の主人に遠慮して手に取らなかっただけ。それも許可が下りた今ではもうほとんどなくなってしまっている。
 まっすぐに進んで背表紙を見て回る。昔からある程度は教養のためとグレンから本を与えてもらっていたルナであったが、目につく背表紙にはどれも見知らぬタイトルが刻まれていた。
 どれから読もうかしら。本棚の本と本の隙間の木に手を滑らせながら移動する。ルナの指の上を過ぎ行く本も下を過ぎ行く本も全てが未知だ。興味をそそる。
(本当は全部読みたい……けど無理、よね……。)
 賭けにルナが負けた場合は養ってくれるとヒューイは言っていたが、もしそれが本当だったと仮定して、ならばいつまでこの屋敷に置いてくれるかはわからない。それに部屋の主人が戻ってくれば賭けの内容に関わらずこの部屋から退かなければいけない。そうすれば本を貸してくれるかどうかも怪しいものがある。
 だが心の中ではまだ少しだけ期待しているのだ。
 3人のうち、まだ誰かが何かしらの感情を持ってくれているのではないかと。昨日ヒューイの言葉を否定したばかりだというのに可笑しな話だ。可笑しくて悲しくて嫌になる。ルナはそんな自分を嗤った。己さえも分からない賭けを、悪者か分からない男としたのだ。分からないこと尽くめだなと嗤うしかなかった。けれどどんな思いを抱こうともルナは待つことしかできない。悠長な話ではあるが、約束の期日を待ってこれから自分がどんな道を進むのか、その時に考えるしかないのだ。
 ルナは本に意識を戻し、部屋を回って、木に手を這わせてもどれも魅力的でなかなか決めることはできなかった。困ったルナは部屋の中心まで戻って目を閉じた。クルクルと、目が回ってフラつかない程度に3回回ってから進んだ。どこへ向かっているかはルナ自身もわからない。本棚がある方向に進んでいるかすらもわからず、しきりに身体の前で手を動かす。少しだけ怖さもあるがそれよりも一番先に指先に触れる本は一体どんな本なのか、期待の気持ちが大きかった。
 数歩進んだ頃、ようやくちょんとルナの指先が木材に触れる。本棚か机か、それとも椅子か。はたまたクローゼットかもしれない。慎重に指の腹を木材の上をまずは左右に這わせていく。凹凸はない。ならば椅子とクローゼットは選択肢から除外される。残るは本棚かテーブルだ。上下に移動させてみて引っかかりがなければ机だし、皮の素材に当たれば本棚である。指を止めていた位置からゆっくりと上に上げていく。ざらっとしたものが触れ、目を開く。
 目の前にあったのは『お菓子の基礎』
 手にとって表紙を見てもタイトルは同じ。ルナはクスッと笑ってしまった。この大量の本の中から選んだものはお菓子の本なのだ。ランドール家にいた時もクロード家にいた時も作っていた、お菓子に関する本。まさか誘拐されてからもお菓子に縁があるなんて笑わずにはいられなかった。
 中を開いて一枚一枚を丁寧にめくっていく。基礎というだけあって正確なレシピはすでにルナの頭の中に入っている。けれど目を通すことはやめなかった。暗記していることを確認するように見入って、終わってしまったら元の場所にと戻した。部屋の持ち主が整理をしているらしい本棚はジャンルごとに固まっており、先ほど埋めたばかりの場所の本を抜き取った。

 やはりお菓子の作り方の書かれた本を。

 長く伸びた髪を耳にかけ、ペラッペラと音を立てながらページをめくっているといきなりトントントンとドアを叩かれた。
 決して大きな音ではないそれにルナの身体は驚いたネコのようにびくっと跳ねた。それ以前に聞こえてくるはずの足音が全く聞こえなかったからだ。今までルナは本を読んでいたし、聴力が優れているだとかいうわけではない。だがいくらなんでも全く聞こえないなんてことはない。近づいてくれば大きくなるそれを聞き逃すわけがないのだ。そろりそろりと怯えながらドアへ近づくとまたトントントンとドアを隔てた向こう側の人物が音を奏でる。それにまた驚き、どこかへ隠れてやり過ごすべきかとルナの脳裏によぎった。すると外から呼びかけるような声がした。
「カッツェ、カッツェ?寝ているの?」
 ミレーの声だ。
 トントントンとまた一つ音を奏でてカッツェとルナを呼ぶ。
「は、はい!」
 ルナは足音の謎を残しつつもドアの向こう側の相手への不気味さはなくなったことに安堵してドアを開けた。
「起きてたのね。もしかして気に入った本でもあったの?」
「え? ええ、ここの本はどれも興味深いものばかりで……」
 ミレーはルナが本に集中していたから気づくのに遅れたのだと思っているらしい。誘拐犯のヒューイの仲間ではあるが親切にしてくれているミレー相手に警戒して出なかっただなんて言えるはずもない。いや、もし目の前の相手がミレーでなくとも言えるはずがない。きっとそんなことを口にすれば彼らは気にしてしまうだろう。傷ついてしまうかもしれない。誘拐犯相手にこんなことを思うのは変だとルナだって分かっている。分かっていて、傷つけたくはないと思ってしまうのだ。だからルナはミレーの考えに同意することにした。
「ねぇ、カッツェ。お茶しない?」
「お茶、ですか?」
「ええ。私とカッツェ、ルーシィで。あ、もしよかったらブルックもいれていいかしら?」
「ブルック、さんですか?」
 ブルックといえばルーシィを馬車に乗せて行った男性のことだっただろうか。昨日今日で会ったたくさんの人物の顔と名前がいまいち一致しない頭でどうにかひねり出す。
「そうそう。あいつ大の紅茶好きなのよ。お菓子はブルックに用意させるし……」
 誘拐犯だなんだというわりにわざわざ意見を聞きに来てくれることに違和感を覚えつつ、今更かと結論づける。そして返事を返す。
「ええ。私は構いませんよ」
 すると途端にミレーの顔は明るくなる。
「なら呼んでくるわね!先に食堂で待っててちょうだい」
「あ、はい」
 廊下を駆けていくミレーの背中を見送りつつ、木に振動が伝わって音がするのを耳で聞き取る。やはり先ほどのはただの気のせいか何かだったのだろう。ルナは先ほどまで腰をかけていた椅子まで戻り、開きっぱなしの本を閉じた。



21.
 約束の食堂まで行くと、木材本来の色がほとんどを占める場所で一箇所だけ異色を放つ場所があった。テーブルも椅子もそのままであったが、それらに似つかわしくないスイーツスタンドや4人分のティーセットが並べられているのだ。ルナはそれに見覚えがあった。昨日、この屋敷に来たばかりの時に出されたものと同じものなのだ。
「カッツェ、お茶とお菓子を楽しみましょう?」
「あ、はい」
 ぼうっと突っ立っていたルナはすぐに空いていた席を引いた。隣はやはり先ほどルーシィを馬車で送った男だ。ルナの記憶は正しかった。
 彼がブルックなのだ。目の前のミレーはすでにカップを傾けて、一仕事を終えた後の一杯を楽しんでいる。また斜め前のルーシィは目を輝かせながら身を乗り出してスタンドの左右からどれを食べようかと狙っていた。
「ほらルーシィ、取ってやるから座ってろ」
「はい!」
 ルーシィが元気よく返事をすると、ブルックはテキパキと様々な種類の小さなお菓子をお皿に取って彼女に渡した。
「いっぱいあるんだからゆっくり食べろよ?」
 兄のような優しい笑みをルーシィに向けるブルックに、ルナはカーティスの姿を重ねた。
 優しくしてくれたカーティスは手紙をもらってどんな反応を返したのだろう?と考えずにはいられなかった。
 美味しそうなお菓子を目の前に暗い顔をしていたからか、ブルックはルーシィにしたのと同じようにいくつかのケーキをお皿に取ってルナの前に差し出した。
「カッツェ、あんまり考え過ぎんのもよくないぞ。ほら、甘いものでも食べて元気出せ」
 ブルックはルーシィに向けたのと同じ目をしていた。ルナは訳がわからず、彼とお菓子を2往復ほど見た。するとルーシィは口の中のお菓子をごくんと飲み込んでから、胸を張って自慢した。
「カッツェ、ブルック様のお菓子は世界一です! 食べないと勿体無いですよ! 特にビスコッティはこのクリームをつけて食べるとまた美味しくて……」
「ルーシィ、気持ちは嬉しいが落ち着け、テーブルを揺らすな。紅茶が溢れる」
 ブルックはちゃっかり自分の分のカップとソーサーは避難させて興奮状態のルーシィをなだめた。
「すみません……」
 ルーシィはすっかり叱られた子犬のように縮こまって、ルナに勧めたビスコッティをちょびちょびと突くようにして食べた。けれどやはりルナの様子が心配なのか、はたまた自分の勧めたお菓子を食べて欲しいのか、チラチラとルナに視線をやった。ルナはいくつかのお皿に乗せられたお菓子の中からルーシィに勧められたビスコッティに少しクリームを乗せて口に運んだ。
「美味しい」
 そう呟くと机はガタンと揺れた。
「でしょう!」
 ルーシィが机に手をついて身を乗り出したのだ。
「ルーシィ、行儀悪いぞ」
「ううっ、すみません」
「いいじゃないの。あんたが素直に喜ばない分ルーシィが喜んでんのよ」
 再びシュンとしたルーシィの頭をミレーはよしよしと撫でた。
「俺だって嬉しくない訳じゃないが、その……な」
 ブルックはほのかに赤く火照った頬を太い指で二、三回ほど掻いた。そしてそれを隠すかのようにそっぽを向いた。ミレーは不満で顔をいっぱいにして、テーブルの下でブルックの足を数度蹴った。
「でかい図体して女の子みたいに恥ずかしがるんじゃないわよ。気持ち悪い。あんたの作るお菓子は美味しいんだからもっと誇りなさいよ、まったく……」
 貶しているのだか褒めているのだか、その両方なのかわからない言葉を吐いてスタンドの一番上にある、小さなケーキにフォークを突き刺して口に放り込んだ。
 それでもまだ満足しないのか「大体あんたは昔から~」と小言を言いだした。
 だが不愉快な雰囲気を醸し出すことはない。ミレーはどこか懐かしい思い出を話すような顔を浮かべているからだ。口は不満そうに尖っているのに、時折頬を緩ませる。目にはブルックが浮かべたそれと同じ優しさが浮かんでいた。
「ミレー、これ初めて作ったんだ。よかったら……」
 中段にあった、クリームの上に果実を乗せたケーキをお皿に乗せてミレーに渡した。すると今までの思い出話しのようなものをピタッととめ、ブルックに獲物を見つけた野鳥のようなするどい視線を向けた。
「なんですって? そういうことは早く言いなさいよ、早く」
 ミレーはお皿を奪い取るようにすると笑みを浮かべてフォークを握った。それを見たルーシィは人差し指を一本だけ自分の方に向けてブルックに主張する。
「ブルック様、私のは!」
「ああ、全員分あるからな」
 キラキラとただひたすらにお菓子しか目に入っていないルーシィにも同じようにお皿を渡した後でルナにも同じものを差し出した。
「ほら、これはカッツェのぶんな」
「ありがとうございます」
 ルナはミレーとルーシィに続いてケーキを口の中に入れた。
 クリームの甘さと果実の酸っぱさは両極端にあるのになぜか共にいて当たり前だと思わせた。


22.
「今帰ったぞ」
 ドアの外から叫ぶような声がすると、ルーシィはびくっと顔を上げた。そして口の端についているクリームや食べカスは御構い無しにドアへと向かって走った。
「お帰りなさい、ヒューイ様!」
 ルナはその様子をランドール家にいた頃の自分と重ね、微笑ましく思った。開きっぱなしのドアからはルーシィとヒューイの会話がかすかに聞こえてくる。そしてそれは次第に大きくなった。
「ルーシィ、カス付いてるぞ。ったく……今拭くもんないから後で誰かに拭いてもらえ」
「はい!」
 まるで父親と娘のようだ。いや、ふたりだけでなくこの屋敷にいる皆が家族のようだと。その反面で、自分だけが仲間外れであることに寂しさを覚える。いくら親切にしてくれても、誘拐犯と被害者という関係は変わらない。だがそれはきっとランドール家の時と同じだ。繕っても根本が変わることはない。ルナは孤児で、ランドール家の誰とも血は繋がっていない。見た目も中身もまるで違う、別物だ。
「カッツェ?どうかしたの?」
 ミレーは廊下の声に耳をそばだて、カップを持ち上げたまま静止しているルナを心配そうに見つめた。
「どこか具合でも悪いの?」
「あ、いえ。何でもないんです」
(エル様もこうして心配してくれた。)
 今は隣にいない、姉だった人に想いを馳せる。けれど彼女は姉ではないのだ。長年お姉様と呼ぶことを許してもらっていただけの他人。
(可愛がってもらったのに、何も返せずに。あまつさえ嫉妬までした。本当にバカみたいだわ。)
「カッツェ、ただいま」
 気持ちとともにうつむきがちだった頭にはヒューイの手が乗せられた。体温と少しの重さを含んだ手だ。彼はそれ以上のことは言わなかったが、何故だか不思議と励まされているような気がした。
「おかえり、なさい」
「ん」
 ヒューイはルナの言葉に満足したのか2往復ほど彼女の頭の上で手を動かして髪をぐしゃぐしゃにした。次第にポカポカと温まっていく胸に、ルナはわけがわからなくなってしまった。なぜこの場所はこんなにも心地がいいのだろう?私は誘拐されたのに、屋敷中にいるのは自分を誘拐した人達なのに……。

「あ!」
 ふと何かを思い出したようにミレーは声をあげた。その声に初めに反応したのはヒューイだった。
「な、なんだよ?」
 何かしたか? とあわてて身なりを確認しだした。けれど理由がわからずに首を傾げる。ルナも彼の真似してみたが、何があったのかわからない。ヒューイとルナが揃ってミレーの顔を見ると深刻そうに言った。
「私、言われてない!」
「何が?」
「カッツェ、私にも『おかえり』って言ってちょうだい」
 胸でできた山に手を乗せて主張すると、ヒューイは「何だそんなことか……」とひどく呆れた。ルナは驚きはしたものの、特に自分が何かやらかしたわけではないと理解して、彼女が望む言葉をかけた。
「おかえりなさい、ミレーさん」
「ただいま、カッツェ」
 ルナの言葉に満足して、ミレーはルナの身体を抱きしめた。昨晩と同じようにルナの顔は埋もれてしまったが、今日はすぐに呼吸の確保をすることはできた。顔を出して空気を吸い込むと、目線の先には何やら期待した顔で見つめるルーシィの姿があった。
「えっと、おかえりなさい、ルーシィ」
 ミレーにかけた言葉と同じようにすると、今度は頭を突き出した。撫でてほしいのかしら?
 そう思いはしたものの、今のルナはとてもじゃないがルーシィの頭をなでてあげられるような状態ではない。だが、一向にルーシィの頭が上がってくることはなく、ずっと突き出したままだ。結局、ルーシィが頭をあげるよりも先にミレーの抱擁から解放された。ルナは自由になった手で待たせてしまった分も含めて、ゆっくりと、丁寧にルーシィの頭をなでた。ルナが頭を撫で終わるとルーシィはさっと頭をあげて、お菓子を食べていた時と同じような顔でヒューイの元へと走っていった。
「ヒューイ様! ヒューイ様!」
「よかったな」
「はい!」
  ルーシィは興奮冷めやらぬ様子でヒューイの前でピョンピョンとウサギのように飛び跳ねた。その光景を微笑ましく眺めていると、グルグルとヒューイのお腹から空腹を主張する音が響いた。
「ところで飯、できてんのか? 腹減った……」
「できてはいますがまだコニーが帰って来ていません」
「はぁ? あいつ行ったの城だろ? 何でこんなに遅いんだよ?」
 「事故でもあった、とか?」
「コニーに限ってそんなヘマするはずないじゃない!」
 つんざくような声ですぐさま否定したミレーは全く帰ってこないコニーにいらだっていた。長く伸びた親指の爪をかじりながら居ても立っても居られずその場を三歩歩いてはターン、三歩歩いてはターンを繰り返しながらウロウロとしていた。
 「俺、見てこようか?」
 そんなミレーの姿を見ていられなくなったのかブルックが提案しながら、手の中にある片手サイズの袋を腰に下げる。
 「飯の時間までに帰ってこねぇのはさすがに心配だからな。行って来てくれ」
「わかりました」
 「私も行くわ!」
  飛び出して行くブルックの手を掴み、ミレーは連れて行くように頼む。けれどブルックはその手をゆっくり剥がして両手で彼女の手を包み込んだ。
「ミレー、お前はここにいろ」
「何でよ!」
 落ち着いたブルックの声とは正反対のミレーのヒステリックな叫び声が食堂内に響き渡る。それまで椅子に座りながらウトウトと舟をこいでいたものやカードゲームを興じていたものが一斉に何事かと振り返る。けれどブルックは全く動揺を見せずに相変わらずの落ち着いた声で、ミレーをなだめるように言い聞かせた。
「コニーが帰って来た時にお前の顔が見れなかったら心配するだろうが」
「…………でも」
「でも、じゃないだろ。俺がいない時にあのトリ頭が見えたら殴っといてくれ。できるのはお前しかいないんだから」
 ヒューイがルーシィにするのと同じように、けれどそれよりも優しく頭を撫でたブルック。次第にミレーの顔は頼り甲斐のある女の顔へと変わって行く。
「わかったわ! あのトリ頭をボサボサのボコボコにしてやるんだから」
 ブルックがミレーの手を離すと、彼女は任せなさいと両手に力を入れて拳を作った。その様子にブルックは一つ頷いてから、今度こそコニーを探すために食堂のドアノブに手をかけた。
 するとドアはブルックが引くよりも早く押し出された。ゆっくりと押し出されるそれを訝しげに眺めながらも、ドアを支えて少しずつ後退した。ドアが半分ほど開くと、ルナの隣で待機していたミレーの目は大きく開いた。そして一目散にドアへと駆け寄った。
「コニー!」
「だれが、トリ頭……だって?」
 ドアから少し離れていたルナの耳にもかすかに届くコニーの声。聞き慣れている屋敷の住民たちの耳にも届いたのか、ミレーに続いて他の男たちもコニーの元へと向かって行く。
「コニー」
「俺は鳥じゃねぇ……つうの」
 ミレーは疲労困憊といった様子のコニーの脇に手を入れ腰を支える。すると力が抜けたのかコニーはミレーの胸へと顔を埋めた。ミレーはコニーの背中を撫でながら小さな声で『お疲れ様』と労った。そしてコニーを囲む男の一人が深刻そうな顔で「何があった?」と問いかけた。他の者たちもコニーの仇は誰なのかを聞き逃さないように聞き耳を立てている。するとコニーは息をするのも苦しいのか、薄っすらと口を開いてヒューヒューと息を漏らしてから「ビー…………にやら……れ、た」と告げた。
「は?」
「ビーに、思い切り殴られた」
「……」
「完全…………に肩、はずれ……てる」
「……何したのよ」
 何も言い出せずに固まっていた者たちの言葉を代表してミレーが言葉を発するとコニーを囲むものたちは一様に呆れた顔を向け、コニーを見下ろした。
「俺は、俺はただ……」
「ただ?」
「カッツェの寝間着姿が可愛かったって」
 だいぶ楽になって来たのか、一息でことの原因を告げると一層周りのものたちの目は哀れみの色を濃くした。
 コニーの怪我に対してではなく、コニーの空気の読めなさに対して。
「あー……。それはあんたが悪いわ、コニー」
「え!?」
「ああ、コニーが悪い」
「ビーにそれはいかんわ」
「ああ」
「殴られただけでよかったな。ビーの獲物だったら一突きされたら即死もんだぜ」
 さすがにけが人の身体を叩きはしないものの、『馬鹿』だの『トリ頭』だの好きなだけ暴言を吐いてはコニーの心を傷つける。だがそんなことを彼らは気にしてなどいない。
「今なんだっけ?」
「槍じゃなかった?」
「ビーはよく我慢したな」
 何だ……とぶつくさと文句を言っては引き下がっていった。するとその代わりのように奥で見守っていたヒューイが心底面倒臭そうに大股で歩いてきた。そして膝をつくと荷物でも担ぎ上げるように肩に乗せた。
 「いってぇ!」
  負傷した箇所に衝撃が走ったのか、苦痛の表情を浮かべているコニー。ヒューイはそんな彼の叫びを無視し、部屋を見回す。そしてルーシィの方へ身体を向けると手招きした。
「ルーシィ、包帯もってコニーの部屋にこい」
「はい!」
「ヒューイ、もっと優しく……」
「お前はお姫様みたいに抱きかかえられたいのか? それならそうと……」
「このままでいい。このままで十分です」
「よし」
 コニーを担いだヒューイに、指名されたルーシィ、そして呆れながらも彼を見守るミレーとブルックは続いて食堂を後にする。置いてきぼりのルナは目を丸くしてその光景を見ていた。


23.
「カッツェ、カッツェ、カッツェ!」
 ミレーがその名前を叫ぶと同時にドアを勢いよく開けたのは、コニーが負傷してから3日が経った日のことだった。
 あの日以来、ミレーもルーシィもコニーの看病で忙しいのか、朝昼晩と御飯時には顔を合わせることはあってもルナに与えられた部屋を訪ねてくることはなかった。誘拐されたとはいえ彼女たちが来なければ特にやることもなく、手持ち無沙汰であったルナは部屋の本をひたすらに読んでいた。本は普段から比較的よく読んでいるため、一冊読み終えるにもさほど時間はかからない。それに加えて1日の大半をこの部屋で過ごすのだ。興味のある本は端から手にとって目を通して行った。その甲斐あって、無数にも思えた本棚のひと区画を今では読み終わっていたのだった。
 今まさにルナの手の中にあるのは、今まで一度もグレンから与えられることがなかった、野に自生する植物について描かれた図鑑だった。
 分厚いそれは今のルナには必要のないものではあったが、近い未来に必要になるかもしれない情報がまとめられた本だった。絵描きによって描かれた植物の絵の特徴を頭に入れている時にミレーがやってきたのだった。
 スタスタとルナの元まで歩み寄ると、手元にある本を覗き込み、眉をしかめた。
「……ってこんなの読んでいて、楽しい?」
 どうやらミレーにとって植物についての本など面白くもなんともないらしい。それどころかいい思い出がないらしく、本の右ページに乗せられたルナの手に優しく手を添えるとゆっくりと本の上から退けて、パタンと本を閉じた。
「ねぇ、カッツェ。そんなことより楽しいことしましょ?」
「楽しいこと、ですか?」
「ええ、みんなでね、クッキーを作るの。カッツェも作りましょう!」
 そう一方的にルナの今後の予定を決めたかと思うと机の上の閉じられた図鑑を本棚へとしまった。そして代わりに他の本を取り出すと「こんなの実用書なんかじゃなくって……本ならこれなんかオススメよ?」と新しい本を取り出した。表紙に刻印されたタイトルには見覚えがなかったが、ミレーが図鑑を『実用書なんか』と言ったことからこれは小説か何かなのだろうとルナは判断した。元々植物に特別興味があったわけではないが、読み進めればそれはそれで面白いもので、続きのページもハッキリ言って気になった。だがそれをわざわざミレーに言うこともない。そんなことをしたところで彼女を不快にさせてしまうだけだ。また後で、ミレーのいないときにでもこっそり読むことにしようと胸に決めた。
「って今は本じゃなくて……。いや、それは本当にオススメだから後ででも読んで是非感想を聞かせて欲しいんだけど……それよりも今はクッキー作りよ、クッキー作り。今日はハニークッキーを作るんだけど……全員参加だから」
「ハニークッキー……ですか……」
 ハニークッキ―――そう聞いて頭によぎったのは門番の顔だった。ルナのお菓子を嬉しそうに受け取ってくれた、そしてハニークッキーが一番の好物だと話した彼。今度贈ると約束したのに、その約束は今もなお実現されていない。そしてこれからもその約束が守られるかどうかは定かではない。
 あんなに喜んでくれたのに……。もし彼がまだ楽しみにしていてくれたら、と思うと果たせない約束をしてしまったことを後悔してしまう。門番はルナの友人ではない。彼の名前すら知らない。けれど確かに今頭によぎるのは確かにあの青年の顔だった。
 門番の髪が、瞳はルーカスと似ていた。
 だがそれ以外は全くといっていいほど何も似ていない彼を初めて見たとき、なぜか初めて会ったような気がしなかった。親しみや懐かしささえ感じた。
 背中を見つめて、追いつくためにひたすらに歩くことでしか近づけないルーカスとは対照的に笑いかけてくれたのは門番だった。
 いつか城で噂話をしていた兵士たちのようにルナを疎んでいた様子もなく、親切にしてくれた。
 けれどルナが愛しているのはルーカスだった。
 笑いかけて欲しいのも、振り向いて欲しいのも。
 門番に優しくされる度に、ルーカスがエルに向かって微笑む度に自分の心の薄暗さに気付かざるを得なかった。そしてルナの心はくすんでいった。
「カッツェ?」
「あ、はい!」
 ミレーは考え込んでいるルナを心配そうに見つめた。
「体調が悪いなら休んでいてもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
 ミレーは、この屋敷の者たちはみな、なぜかルナに優しかった。門番の青年と同じだ。当たり前のように笑って、そしていつでもルナのことを気にかけてくれる。門番とこの屋敷の者たちでは立場が違う。国に雇われた兵士と自称誘拐犯だ。だが重ねずにはいられなかった。
「そう?なら行きましょう」
 ミレーはルナの気が変わらないうちにと、けれどルナの意思を尊重するように優しくルナの手を取って引いて歩いた。ルナはミレーに引かれるがままに部屋を後にした。
 植物図鑑とミレーに勧められた小説を残して、彼らの待つ場所へと向かうのだ。
 やっぱり食堂、なのかしら?
 ルナの予想は正しく、ミレーに手を引かれやってきたのは食堂だった。彼らにとってこの場所は食事をするところであると同時に憩いの場でもあるのだろう。食堂へと足を踏み入れたミレーは、今までで一番多くの人が集まる食堂内に響き渡るように叫んだ。
「カッツェを連れて来たわよ」
 するとその声に一番に返事を返したのはブルックだった。
「ああ。こっちももう準備は出来てる」
 彼の周りには計量用のスプーンや重り、カップなどが置かれており、その周りには分量ごとに分けられた小麦粉やバターなどが並べられていた。
「じゃあルーシィ、これ各テーブルに運んで」
「はい」
 ブルックとルーシィは等間隔に並べられた机にボウルやお皿を運んでいく。それを椅子に座る男たちは手を膝に置きながら、全てのテーブルに行き渡るのを見ていた。今こそ行儀よく口を噤んで座っている男たちであるが、朝は日課の鍛錬を終えて、食堂に来る時には汗を垂らしながら用意された食事を皿に持っていく時すらちゃんと食えと劇を飛ばす。そして昼には一仕事終え帰って来たかと思えば、午後の予定をこれまた大きな声で話し出す。夜には今日も一日中働いたと酒盛りをしては、普段の声に輪をかけて声を大きくする。そんな数日間の男たちを目の当たりにしていたルナの目にはその光景が不思議なものに思えた。
 元気、ないのかしら?――そう疑ってしまうほどに。
 けれど彼らの目はいつも通り、いやいつも以上に目には生気が宿っている。ルーシィとブルックによって運ばれたクッキーの材料を見つめてはGOのサインが出るのを待ち遠しく思っているようだった。ルナが男たちを見ているとミレーは首を傾げてからルナの顔を覗き込み、そして手を取った。
「ほら、カッツェ。私たちはあっちの席よ」
 ミレーに手を引かれ、導かれた先のテーブルには四つの空席と、いつも通り首に包帯を巻きつけたヒューイ、そして先日負傷して体のいたるところに包帯を巻きつけられたコニーの姿があった。
「カッツェ、久しぶりだな。この数日、会えなくて寂しかった……」
「自業自得でしょ。……ったく少しは反省しなさいよ。……あ、カッツェはここね。私の隣」
 ルナに向かって両手を限界まで広げるコニーにミレーは手で払ってあっちいけとジェスチャーで示しながら牽制する。そして並んで空いている席にルナを座らせた。
「よし、全部に行き渡ったか……」
 部屋の真ん中では材料を配って歩いていたブルックが腰に手を当てて周りを見回す。
「では、いつも通りの手順で作っていくように!」
「おお!」
 指示を飛ばすと今まで静かに待っていた男たちは途端に元気になり、そして各々ゴムベラやボウルを手に取った。この数日でルナが見た男たちは剣を振っていたり、馬にまたがっている姿で、到底お菓子作りなんてする姿は想像できなかった。一見するとなんともシュールな光景である。けれど彼らは意外にも慣れた手つきで材料を混ぜ始めた。


24.
「ほら、やるぞ」
「じゃあ、ブルック。よろしく」
「頼んだ」
「抜き型の準備は出来てる」
 意気揚々とこちらに向かって歩いてきたブルックとルーシィとは対照的に、工程のほとんどを投げ出したコニーとヒューイは抜き型の乗ったトレイを掲げた。
「……お前らな……」
 その様子にブルックは苛立った様子でピクピクと目元をひくつかせたが、やがて諦めたようにボウルを手に取った。
「……はぁ。型抜きはちゃんとやれよ?」
「ああ、もちろんだ!」
「あの!」
 すでにブルックとヒューイ、コニーとの間で役割の分担については片がついたようであった。だがルナは出遅れた言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「どうした、カッツェ?」
「私が、私が混ぜてもいいでしょうか?」
 たかがクッキー作りだ。材料も計りおわっており、型抜きは皆でやるようだから、残る工程といえば『混ぜる』くらいしかないのだ。
 この前食べたお菓子はブルックが作ったものらしく、どれもルナが作るものよりも美味しかった。だからこの作業もブルックに頼んだ方が上手に出来ることだろう。だがルナは何か役に立ちたかったのだ。なぜか誘拐犯と言い張る優しい彼らの役に立ちたかった。
(私は何も出来ないから……。)
 ルナはこの屋敷に来てから自分の無力さを痛感していた。
 クロード家にいた時も、ランドール家にいた時も、出来たことは指を折って数えることができるほどだった。だからこそ役に立てるのだと証明したかったのだ。他でもない、誘拐犯であると主張する彼らに。
「ダメだ」
 だがルナの申し出はブルックによってアッサリと却下された。
「私だってクッキーは何度か作ったことはあります!」
 ルナは強く主張した。
 自分でも出来るのだと。 役に立てることはあるのだと。
「平等性が保たれない」
「え?」
「みんなで取り合いになっちゃうもの」
 隣に座るミレーがカチャカチャと音を立てて抜き型を選びながら、なんてことないようにブルックの言葉の説明をした。
「取り合いって……」
 まさか……そんな訳が……。あるはずがないと周りを見回すとどの机も手を止めてこちらを一斉に見つめていた。その目は興味で満ちていた。だがそれと同時に冷たかった。裏切りを許さないと如実に示しているようであった。ルナ自身に向けられたものではない。そうわかっていても背筋に汗が伝い落ちた。
「だから、ダメなの。ほらブルック、さっさと生地作りなさいよ」
「ん。カッツェは抜き型、選んでな」
「は、はい」
 ルナがそうブルックに返事を返すと興味をなくしたかのように一斉に視線が散っていった。一体何だったのだろうか。ルナには一連の彼らの行動の意味がわからず、首をひねった。するとにゅっと前から太い腕が伸びた。
「カッツェ、お前のこれな」
 とっさに手を出すとルナの手にはネコの形を模した抜き型が乗せられていた。カッツェだから猫なのだろう。単純だが、仲間と認められたように思えた。渡された抜き型の、ネコの長く伸びた尻尾は今にもユラユラと機嫌よく動き出しそうだった。するとそれを見ていたルーシィがぱあっと顔を輝かせた。
「ヒューイ様のはこれですね!」
 そう言って手に取ったのは可愛らしいテディベアを模したものだった。
「これが?」
 ヒューイは手にとって、自分の型と言われたものを様々な角度から見ては納得いかないと言った様子で顔をしかめた。
 だがルーシィが「クマさんです!」と変わらぬ可愛らしい顔で笑うと観念した様子で「そうか……」とだけ言ってから手元に避けていた、使う予定の抜き型に加えた。ヒューイも最年少のルーシィには叶わないらしい。その様子が可笑しいとミレーはお腹を抱え、涙を流しながら笑った。
 「あはは。ヒューイにそっくりじゃない。後で顔、描いときなさいよ」
 「バカ言うな! ……ったく」
 怒る様子は見せたもののやはり自分でも似合わないと分かっているのか再び抜き型を手に取っては眺める。
「後で顔も描きましょう!」
 そんなヒューイにルーシィは楽しそうに提案する。
「そうだな……」
 ヒューイは悪意の一切ない、純粋なルーシィの頭を優しく撫でた。その横で、コニーは一つの抜き型を手にとってミレーに見せた。
「んじゃあ、これはミレーのだな」
「? ネコの顔? それじゃあカッツェと被っちゃうわよ? お揃いっていうのも悪くはないけど……」
 そういいながらも嬉しげにコニーの手の中にあった抜き型を自分の手のひらに乗せると、コニーが勢いよく首を振った。
「ネコ? 違う、違う。ネコじゃない。それ豚だから。こっちの鼻の型とセットだぜ?」
「なんですって!」
「お前の最近、太ったからな……」
 目元をヒクつかせながら怒りを露わにしていたミレーだが、シミジミと放ったコニーの言葉が存外胸に突き刺さったようで、胸の中心に手を添えては過去の自分に思いを馳せた。
「いやだってね……つい食べ過ぎちゃうじゃない? セーブしようとは思っているのよ? でもね、でも……」
「言い訳はいいから、ドレス入らなくなる前に痩せろよ?」
 その言葉が最後のトドメとなったのかミレーは頭を抱えた。
「……そう。あんたはこの鳥ね。」
 そして反撃とばかりに抜き型から鳥の形を模したものをコニーの前に置く。
「鳥?」
「そう。だってあんた鳥頭でしょ? ピッタリじゃない」
 そして反撃が決まったとばかりに胸を張る。
「んだと! ってつぅ……」
 ミレーの言葉に応戦しようとしたコニーであったが、未だに身体に力が入ると傷が痛むらしく身体を丸めた。
「大丈夫ですか!?」
 それに驚いたルナはどうにかしようと手を出してオロオロとしたが、周りは慣れた様子で特に気にした様子もない。
「ほら痛いなら無理しないの」
 ミレーはコニーの隣に座っていたヒューイを席から退かして、隣で世話を焼いた。
「ヒューイ様、ここ」
「はいはい」
 ルーシィは空席になった、ミレーの座っていた場所の椅子に移動してから今まで自分が座っていた場所にヒューイを誘導した。
「これで私が真ん中です」
 ルナとヒューイに挟まれて座れたことがよほど嬉しかったのか、ルーシィは鼻歌まで歌いだした。


25.
「ほら出来たぞ」
 皆で抜き型を選んでいる間、黙々と生地作りに勤しんでいたブルックがそう言葉をかける。すると生地はテーブルの上いっぱいに伸ばされ、6等分の線が入ったクッキー生地が鎮座していた。
「ここ、私のところです」
「じゃあ、俺はここか」
「私はここで。コニー、あんたはここね」
「なんか俺のとこ狭くねぇか?」
「どこも均等だ」
「そうか?」
「カッツェはここでいいか?」
「あ、はい」
 6つの四角のそれぞれを自分たちの場所と決めると、各々が選んだ型を生地に押し付けた。
 一面型を抜いてはブルックに声をかけ、また平らにしてもらう。そしてまた型を抜いて行く。
「ふふふ」
 ブルックに生地を平らにしてもらっているルーシィは楽しそうに笑った。するとヒューイの手も止まる。
「どうしたルーシィ」
「みんなでクッキー作りはやっぱり楽しいですね」
「……そうだな」
「今年はカッツェもいるからかしら? いつもより楽しいわ」
「ずっと、ずっと居てくれればいいのに……」
「ルーシィ……」
「カッツェ、来年も、そのまた来年も一緒に作りましょう? ……ずうっとここに居てください」
「それは……」
 この屋敷にずっといること、それはルナとヒューイの賭けでルナの予想が的中することでもあり、ルナが無価値だという証明にもなる。
「こいつは時期が来れば帰るんだ。いいな、ルーシィ」
「……はい」
 ずーんと寂しそうなルーシィは再び型を手に取る。ルーシィが選んだのはシンプルにも丸い型で、ポツポツと穴を開けて行く。その姿を励ましてあげたかったが、こればかりはルナにはどうしようも出来なかった。
 ヒューイの言葉がルーシィがこんなにも落ち込む原因となったことには変わりはない。だがそれと同時に彼は三人のうちの誰かがルナを迎えに来ることを信じて疑っていないとわかってしまったからだ。
   ルナは自分に自信がない。
(強くもなければ賢くもない。美しくもないければ血の繋がりも地位も……何もない)
 だからこそヒューイの言葉を頭の中で何度も彼の考えを否定する。けれどその反面、それがヒューイの嘘偽りのない考えなのだと知っては嬉しくなってしまう。
 ヒューイだけはルナの価値を声に出しては肯定する。いや、彼だけではない。この屋敷のもの全員が……。
 だがその度にルナは不安にもなる。
 ヒューイがルナを無価値ではないと信じている間だけ、彼らはルナを肯定してくれるのではないかと。
   ルナの手の中の型が、顔さえないネコがケラケラと笑う。
   お前に価値などないのだと。
 お前は死に神なのだと。
 一匹、また一匹と型を抜くたびに増えて行くネコたちはルナを嗤う。
   この関係は偽りだと。
 お前は代替品なのだと。
   嗤って、嘲って――。
  「カッツェ?」
 目を背けても言葉として存在するネコはルナを逃してはくれない。手からすり抜けた抜き型は、ケラケラと笑う一匹のネコの上へと落ちた。ちょうど身体の半分辺りに跡をつけられたネコはルナを笑うことをやめ、どこかへ消えていってしまった。そのネコだけではない。他のネコたちも、もうルナを嗤うものはそこにはいなかった。
「カッツェ?」
 5人ともがルナの顔を心配そうに見つめる。そこでやっとルナを嗤うネコなんて初めからいなかったのだと我に帰る。これはクッキーだ。そして落としたのは抜き型で、嗤うネコなんて産まれて来るはずがない。
「すみません。手が滑ってしまって……」
 ルナはそう咄嗟に言い訳をした。けれどネコが消えてもまだなおネコの放った言葉はルナの頭を駆け巡る。まるで居なくなってしまったネコはルナの頭の中に入り込んでいったようだった。
 ニャーニャーと可愛い顔で近づいて、そして口をニンマリと上げてルナを否定する。
   お前は無価値なのだと。
 いくら追い払っても何度も何度も擦り寄ってきてはまた繰り返すのだ。
 震える手で人肌に触れて温くなった金属の型を取る。ネコの型を手に食い込んでしまわぬように、再び落としてしまわないようにと気を付けながら。
 クッキーはもう何度も作っていた。その中にはもちろん、ハニークッキーもあれば、型抜きをしてから焼くこともあった。だからこれもそれと同じなのだと言い聞かせる。ゆっくりと金属を卵の色で染め上げられた生地へと突き立て、そして外した。

 完成したのは物を言わない、ニタァと嗤う口はおろか顔さえない、ネコのシルエットだった。
「型に抜いた生地はここに並べておいてくれ。後で順番に焼くから」


 ルナはあれからずっとヒューイから渡されたネコの型をひたすらに生地に押し付けて行った。何もルナは初めからネコだけを作るつもりではなかった。他の5人が手元に避けたものは除いてもまだまだ抜き型の種類はあったし、いつも作るときは四角や丸ばかりだったからせっかくの機会だし他の形にも手を伸ばしてみたいと思っていたのだ。だが、結果としてルナが作ったのはネコの型のみだ。
  「なんだ、全部ネコにしたのか」
 ルーシィの前から頭を突き出して、ルナの手元を覗き込んだヒューイはそう言ったのだ。ただ視界に入ったままに事実を告げた。だがそう言われるまでルナの頭からは他の型もあったのだと、あのネコから逃げる手段はあったのだと気づかなかった。手元にはいくつかの型があったのにも関わらず、そのどれにも手をつけることはなかった。……冷静ではなかったのだ。
 たくさんのネコたちを天板の上に乗せ、ブルックに引き渡す。
 一仕事終えたと部屋に帰るものがほとんどの中、ルナは焼かれていくクッキーを眺めていた。
  「暇じゃないか?」
 そう何度も尋ねられたがやはりルナがオーブンの前から退くことはなかった。焼きあがったネコは美味しそうなキツネ色になっていた。天板の上にのった彼らを手を膝に置きながらじっと眺める。嗤わなくなったネコ。だが可愛らしいとは思えなかった。
 一つ手に乗せるとそれはまだ焼きたてで熱かった。ふーふーと息を吹きかけてから食べると口にはハチミツの甘い香りが広がって、嫌な気持ちが少しだけ吹き飛んだ。
   昼過ぎから始めたのだが、その量はとても多く、今では食堂はハニークッキーの甘さと夕食の香ばしい香りが混ざり合って何とも言えない香りが充満していた。それにあえて名前をつけるならば『この屋敷らしい香り』だろうか。屋敷の住民を包み込むその香りは優しいものであることだけは確かなのだから。
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