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三章
17.ヒビ割れたカップ
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剣術大会当日、フライド家の馬車に乗ってイーディスはこの国で一番大きな会場へと向かう。昔のようにオシャレをすることはないが、代わりに彼からもらったリボンを付けた。イーディスの髪よりもやや明るい茶色。リガロ曰く土色のリボンは刺繍も入っていない非常にシンプルなものだが、イーディスは気に入っていた。
「今日はいつもの会場ではないのですね」
「ここ数年で参加人数も増える一方で、二年前からこっちの会場に変わったんだ」
「そういえば私が足を運んでいた時から選手もかなりの人数がいましたもんね」
「小さい大会だったらまだあちらでも大丈夫なんだが、今回みたいな大きな大会だと国外からもかなりの数の選手が来るから足りないんだ。席を購入制にすることで大会収入も安定し、賞金も増えた」
収入を増やすことよりも観覧客同士の揉め事をなくすことが大きな目的なのだろう。イーディスとて何度も目の前で席が売買されていくところを見てきた。以前は入場金もなく、席も自由だったため男爵令嬢のイーディスが最前列を確保出来ていたが、今ではあの席は恐ろしい金額になっていることだろう。設定金額がいくらであれ、一部の貴族が値段を釣り上げていそうだーーとそこまで考えてふと思う。
「もしかして特別観覧席って相当高いんじゃ……」
最前列よりも特別観覧席の方が高いのではないか、と。外から見えない個室がいくつ用意されているのかは分からないが、少なくともイーディスがポンポン買えるような金額ではないだろう。彼の言葉を鵜呑みにして、バッグに何冊もの本を詰め込んできたイーディスの背中には冷たい汗が伝った。
「今からでも一般席に変更しましょう」
「俺が勝手に買っただけだから気にしないでくれ。それに」
「それに?」
「どうせ今回も賞金をもらうのは俺だ。観覧席の代金くらい余裕で回収出来る」
「……自信がおありのようで何よりです」
「イーディスの前で負ける訳にはいかないからな」
当然だと笑うリガロに胸がドキっとした。ドッドッドと激しく鼓動する胸に収まれと念じているうちに馬車は会場へと到着し、特別観覧席へと連れて行かれる。大きなソファの前にはケーキスタンドとティーセットが用意されている。そして目の前には一面大きなガラスーーフェンスも人の頭も視界を遮るものはなく、会場がよく見える。金持ち達は熱気が伝わらないこの場所から優雅に剣を交える選手達を見下ろすのだろう。ガラスを撫でながら身分違いな場所に来てしまったものだとほおっと息を吐く。するとイーディスの手に大きな手が重なった。
「絶対に勝つから」
リガロの言葉にイーディスは小さく頷いた。彼はそれだけで満足したようで、行ってくると待機所へと向かった。
「これ渡したら何か変わるかな」
誰もいなくなった部屋で本が沢山詰まったバッグを撫でる。その中にはひっそりと針子に頼んで置いたネクタイが入っている。ちょうど一昨日出来上がったもので、ラッピングもシンプル。青いリボンがついているだけの真っ白な箱が何かを変えてくれることを、イーディスはほんの少しだけ期待した。
ソファに腰掛ければティーカップの隣に一回戦の対戦表が置かれている。大量の名前をなぞっていけば、リガロの名前は一番下にあった。
『前回優勝者 リガロ=フライド シード権獲得選手(四回戦より参加)』
その文字で彼が本を読んでいても寝ていてもいいと言った理由を理解した。会場では同時に複数の試合が行われているため、日が暮れる前までには終わるのだろう。だがリガロの出番が来るまではゆうに一刻半はかかりそうだ。対戦表を畳み、バッグの中から本を取り出すとイーディスは読書の世界へ向かうことにした。「こちら新しい対戦表となっております」
「ありがとう」
剣術にまるで興味のないイーディスだが、特別観覧席と呼ばれるだけあって待遇が非常に良い。その回の試合が終わる度に対戦表を持ってきてくれるのはもちろんのこと、定期的にお茶や軽食を運んできてくれる。また係員が来る前に必要な物があれば専用のベルを鳴らせばいい。婚約者に大金を払わせたのにも関わらずゆったりと読書に耽っているイーディスを不思議がることもない。むしろ四回戦の対戦表を持ってきた男性なんかは「やっとリガロ様の出番ですね!」と目を輝かせていたほどだ。どうやら彼らの瞳には婚約者以外興味がない彼女が暇つぶしで読書をしていたように見えていたらしい。正直、イーディスはリガロがどんな風に勝とうが興味なんてない。ただネクタイを渡す理由付けとして優勝してくれればそれでいいのだ。たまに興奮しながら話しかけてくる係員を適当に受け流しながら、ケーキをつつく。
「あ、美味しい」
「同じものをお持ち致しましょうか?」
「頼めるかしら?」
「かしこまりました」
深く頭を下げた係員は一度部屋を後にし、そして別の男性がケーキを乗せて部屋へと戻ってきた。まさか別の人が持ってくるとは思わなかったイーディスは目を丸くした。思えば先ほどから一度も同じ顔を見ない。この手の部屋を使う層はコロコロ変わるよりも担当者一人付けていた方が喜ばれそうなものだが、交代制なのはこの部屋だけなのだろうか。そこまでリガロ=フライドの婚約者を見たいのか。カップも交換してもらい、新しいケーキに手を伸ばす。けれど一向に男が部屋から出て行く様子はない。イーディスの隣でガラスの外を見つめていた。
「リガロ様、いらっしゃいましたね」
「……そうね」
「お相手は皇国で一番の槍使いです。彼、このために修行を切り上げて来たそうで、近接戦を得意とするリガロ様はどう戦うのでしょうか」
どうやら彼もここでリガロの試合を見るつもりらしい。早く出て行けとは言わないが、図太いなとは思う。とはいえ、リガロの戦いが終わったら出て行くだろう。彼のことだからすぐ終わる。カップに手を伸ばせば、人差し指がチクッとした。
「痛っ」
「どうなさいました?」
「指切っちゃったみたい」
どうやらカップの持ち手にヒビが入っていたらしい。ぷっくりと血の玉が出来てしまった。ポケットからハンカチを取り出し、指を押さえる。
「新しいカップを用意してもらえるかしら?」
男はぺこりと頭を下げ、カップを回収していく。ガラスの外に視線を移せばすでにリガロの勝利は決定していた。リーチの差なんて彼には関係なかったらしい。後五回勝てば優勝だ。次の出番が来るまでまだ少しかかるし、カップが届いたら読書を再開しようと決める。けれど男は一向に部屋から出て行こうとはしなかった。
「何か?」
「……リガロ=フライドの婚約者らしくないなと思いまして」
「どういうこと?」
「見た目も中身も平凡。身分だって貴族とはいえ下級のあなたが、なぜ彼の婚約者でいられるのか私には疑問です。癒やしの聖女様なら彼の隣に相応しいだろうに」
「はぁ?」
この男、喧嘩売ってるのか。嫌みを言われるのは慣れているが、最近はとんと耳にすることは減っていた。けれどそれはあくまでリガロがいたからだ。彼に睨まれることを恐れた結果。つまり彼のような社交界とは縁のない相手には関係ないのだろう。男爵令嬢という地位すらも意味をなさない。
「あなたにはヒビ割れたカップがお似合いだと思いますけどね」
完全に舐めきった男はその言葉を捨てて部屋を後にした。カップを変えに来た係員は何度も頭を下げてくれたが、イーディスの苛立ちは収まらなかった。ルームサービスはもういいと告げ、ソファに寝転んだ。
「剣術大会なんて来るんじゃなかった」
小さな傷はとっくに血が止まっているのに、じくじくと痛む。急降下したイーディスの気分はそれ以降戻ることはなく、見事優勝したリガロが迎えに来るとすぐに会場を後にした。馬車の中でもバッグにしまい込んだままの箱を取り出すことはなく、イーディスがその存在に気付いたのは本を棚に戻そうとした時だった。
「今度でいいや」
どうせ次もその次も彼が優勝するのだ。優勝祝いならいつ渡しても同じだろう。
「今日はいつもの会場ではないのですね」
「ここ数年で参加人数も増える一方で、二年前からこっちの会場に変わったんだ」
「そういえば私が足を運んでいた時から選手もかなりの人数がいましたもんね」
「小さい大会だったらまだあちらでも大丈夫なんだが、今回みたいな大きな大会だと国外からもかなりの数の選手が来るから足りないんだ。席を購入制にすることで大会収入も安定し、賞金も増えた」
収入を増やすことよりも観覧客同士の揉め事をなくすことが大きな目的なのだろう。イーディスとて何度も目の前で席が売買されていくところを見てきた。以前は入場金もなく、席も自由だったため男爵令嬢のイーディスが最前列を確保出来ていたが、今ではあの席は恐ろしい金額になっていることだろう。設定金額がいくらであれ、一部の貴族が値段を釣り上げていそうだーーとそこまで考えてふと思う。
「もしかして特別観覧席って相当高いんじゃ……」
最前列よりも特別観覧席の方が高いのではないか、と。外から見えない個室がいくつ用意されているのかは分からないが、少なくともイーディスがポンポン買えるような金額ではないだろう。彼の言葉を鵜呑みにして、バッグに何冊もの本を詰め込んできたイーディスの背中には冷たい汗が伝った。
「今からでも一般席に変更しましょう」
「俺が勝手に買っただけだから気にしないでくれ。それに」
「それに?」
「どうせ今回も賞金をもらうのは俺だ。観覧席の代金くらい余裕で回収出来る」
「……自信がおありのようで何よりです」
「イーディスの前で負ける訳にはいかないからな」
当然だと笑うリガロに胸がドキっとした。ドッドッドと激しく鼓動する胸に収まれと念じているうちに馬車は会場へと到着し、特別観覧席へと連れて行かれる。大きなソファの前にはケーキスタンドとティーセットが用意されている。そして目の前には一面大きなガラスーーフェンスも人の頭も視界を遮るものはなく、会場がよく見える。金持ち達は熱気が伝わらないこの場所から優雅に剣を交える選手達を見下ろすのだろう。ガラスを撫でながら身分違いな場所に来てしまったものだとほおっと息を吐く。するとイーディスの手に大きな手が重なった。
「絶対に勝つから」
リガロの言葉にイーディスは小さく頷いた。彼はそれだけで満足したようで、行ってくると待機所へと向かった。
「これ渡したら何か変わるかな」
誰もいなくなった部屋で本が沢山詰まったバッグを撫でる。その中にはひっそりと針子に頼んで置いたネクタイが入っている。ちょうど一昨日出来上がったもので、ラッピングもシンプル。青いリボンがついているだけの真っ白な箱が何かを変えてくれることを、イーディスはほんの少しだけ期待した。
ソファに腰掛ければティーカップの隣に一回戦の対戦表が置かれている。大量の名前をなぞっていけば、リガロの名前は一番下にあった。
『前回優勝者 リガロ=フライド シード権獲得選手(四回戦より参加)』
その文字で彼が本を読んでいても寝ていてもいいと言った理由を理解した。会場では同時に複数の試合が行われているため、日が暮れる前までには終わるのだろう。だがリガロの出番が来るまではゆうに一刻半はかかりそうだ。対戦表を畳み、バッグの中から本を取り出すとイーディスは読書の世界へ向かうことにした。「こちら新しい対戦表となっております」
「ありがとう」
剣術にまるで興味のないイーディスだが、特別観覧席と呼ばれるだけあって待遇が非常に良い。その回の試合が終わる度に対戦表を持ってきてくれるのはもちろんのこと、定期的にお茶や軽食を運んできてくれる。また係員が来る前に必要な物があれば専用のベルを鳴らせばいい。婚約者に大金を払わせたのにも関わらずゆったりと読書に耽っているイーディスを不思議がることもない。むしろ四回戦の対戦表を持ってきた男性なんかは「やっとリガロ様の出番ですね!」と目を輝かせていたほどだ。どうやら彼らの瞳には婚約者以外興味がない彼女が暇つぶしで読書をしていたように見えていたらしい。正直、イーディスはリガロがどんな風に勝とうが興味なんてない。ただネクタイを渡す理由付けとして優勝してくれればそれでいいのだ。たまに興奮しながら話しかけてくる係員を適当に受け流しながら、ケーキをつつく。
「あ、美味しい」
「同じものをお持ち致しましょうか?」
「頼めるかしら?」
「かしこまりました」
深く頭を下げた係員は一度部屋を後にし、そして別の男性がケーキを乗せて部屋へと戻ってきた。まさか別の人が持ってくるとは思わなかったイーディスは目を丸くした。思えば先ほどから一度も同じ顔を見ない。この手の部屋を使う層はコロコロ変わるよりも担当者一人付けていた方が喜ばれそうなものだが、交代制なのはこの部屋だけなのだろうか。そこまでリガロ=フライドの婚約者を見たいのか。カップも交換してもらい、新しいケーキに手を伸ばす。けれど一向に男が部屋から出て行く様子はない。イーディスの隣でガラスの外を見つめていた。
「リガロ様、いらっしゃいましたね」
「……そうね」
「お相手は皇国で一番の槍使いです。彼、このために修行を切り上げて来たそうで、近接戦を得意とするリガロ様はどう戦うのでしょうか」
どうやら彼もここでリガロの試合を見るつもりらしい。早く出て行けとは言わないが、図太いなとは思う。とはいえ、リガロの戦いが終わったら出て行くだろう。彼のことだからすぐ終わる。カップに手を伸ばせば、人差し指がチクッとした。
「痛っ」
「どうなさいました?」
「指切っちゃったみたい」
どうやらカップの持ち手にヒビが入っていたらしい。ぷっくりと血の玉が出来てしまった。ポケットからハンカチを取り出し、指を押さえる。
「新しいカップを用意してもらえるかしら?」
男はぺこりと頭を下げ、カップを回収していく。ガラスの外に視線を移せばすでにリガロの勝利は決定していた。リーチの差なんて彼には関係なかったらしい。後五回勝てば優勝だ。次の出番が来るまでまだ少しかかるし、カップが届いたら読書を再開しようと決める。けれど男は一向に部屋から出て行こうとはしなかった。
「何か?」
「……リガロ=フライドの婚約者らしくないなと思いまして」
「どういうこと?」
「見た目も中身も平凡。身分だって貴族とはいえ下級のあなたが、なぜ彼の婚約者でいられるのか私には疑問です。癒やしの聖女様なら彼の隣に相応しいだろうに」
「はぁ?」
この男、喧嘩売ってるのか。嫌みを言われるのは慣れているが、最近はとんと耳にすることは減っていた。けれどそれはあくまでリガロがいたからだ。彼に睨まれることを恐れた結果。つまり彼のような社交界とは縁のない相手には関係ないのだろう。男爵令嬢という地位すらも意味をなさない。
「あなたにはヒビ割れたカップがお似合いだと思いますけどね」
完全に舐めきった男はその言葉を捨てて部屋を後にした。カップを変えに来た係員は何度も頭を下げてくれたが、イーディスの苛立ちは収まらなかった。ルームサービスはもういいと告げ、ソファに寝転んだ。
「剣術大会なんて来るんじゃなかった」
小さな傷はとっくに血が止まっているのに、じくじくと痛む。急降下したイーディスの気分はそれ以降戻ることはなく、見事優勝したリガロが迎えに来るとすぐに会場を後にした。馬車の中でもバッグにしまい込んだままの箱を取り出すことはなく、イーディスがその存在に気付いたのは本を棚に戻そうとした時だった。
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