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六章
3.天然物
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「起きろ、イーディス」
少し低い声が身体にスウッと馴染んでいく。何度も耳にしたキースの声だ。だが遠慮なくイーディスと呼ぶ彼とはもう住む世界が違う。きっとこれは夢だ。本の外でも夢でなら、彼に会うことが出来る。だからもう少しだけ浸っていたい。
「ん、もうちょっと……」
「もう十分寝ただろ」
「でも眠いんです」
現実はすぐ受け入れられるほど甘くはないから。今だってどこか分からない場所で眠ってしまうほどにはきっと精神的に参っているのだろう。自分を守るように身体をぎゅっと丸めれば、お腹の辺りに何か固いものが当たった。身体を丸くすればするほどみぞおちにグググと入り込んでいく。かといって身体を開けば、起きろ起きろと彼の声が大きくなっていく。
「うるさい!」
そう、声をあげれば暗かった視界がパッと開いた。起きたな、なんて嬉しそうな声は聞こえなかった。代わりに大量の声が耳に届く。
「イーディス」
「イーディス様」
「イーディスさん」
部屋から消え、そして戻り道が分からなかったイーディスは捜索されているようだ。
聞き覚えのない声ばかりだが、中には忘れかけていた友の声が混じっている。
どうやらこの場所には彼女達も来ているらしい。寝こけている場合ではない。急いで立ち上がれば何かがぼとりと落ちた。抱えていたワンピース、それと部屋に置いてきたはずの魔道書である。お腹に当たっていたのは本の角だったのだ。魔道書が勝手に移動するものなのかは分からない。けれどイーディスにはキースの仕業のように思えた。本を拾い上げ「起こしてくれてありがとう」とお礼を告げる。そして空いている手を口に添え、大きく息を吸い込んだ。
「ご迷惑をおかけしております。イーディス=フランシカです! 今、起きました!」
何度か繰り返せば、こっちだ! と声と足音が近づいてくる。集団を引き連れているのは先ほど出会った親切な男だった。そしてイーディスの顔を確認するや否や、はぁ……と深いため息を吐く。
「見つかって良かった。……この時間まで着替えもせずに今までどこにいたんだ?」
怒ってはいないようだが、彼は不思議そうに首を捻った。
「部屋がどこだか分からず、ここで寝てました」
心配をおかけしてすみませんでした、と身体を縮こませれば、彼はなるほどなと手を叩いた。
「幻影系か。通りでいくら探しても見つからないはずだ。特に嬢ちゃんのは天然物だからな~」
幻影? 天然物? 一体何のことだろう?
聞きたいのは山々だが、彼はボリボリと首を掻きながら「ここら辺、ちゃんと測定してデータ残していかないとな~」と自分の世界に浸ってしまう。よく分からない言葉をブツブツと呟く男の背後ではメモを取っていたり、どこかと連絡を取っていたり。はたまた「ここですか?」と確認を取って、先ほどまでイーディスの座っていた位置にしゃがみ込み、道具を当てるものまでいる。データ収集、なのだろうか。慣れた手つきで動いている彼らは皆一様に『天然物』と嬉しそうに息を荒げている。どうやら天然物はイーディスを指しているらしい。脈拍を取りたいと言い出した女性に腕を差し出しながら、天然がいるなら養殖もいるのだろうかなんてどうでもいいことを考える。するとドドドドドと力強く廊下を走る音が響いて来る。
「イーディス様!」
「マリア様!」
「また会えなくなるかと心配したのですよ。もう、どこにも行かないでください……」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
イーディスを抱きしめ、涙を溢す彼女は記憶に残っている姿とは大きく異なる。背は伸び、大人っぽくなったマリアは可愛さよりも美人さが勝る。神聖さを感じる姿は画廊に飾られていた慈愛の聖女によく似ている。あれだけ散々文句を言っていたイーディスだが、本人を目にするとキースの画力と想像力には驚くばかりである。
「ああ、本当に。魔道書ごとなくなったから焦った。やっぱりギルバートの方が安全だと騒ぐマリアを宥めるのは大変だったんだぞ?」
「ごめんなさい」
「ですがこれでカルドレッドの魔がイーディス様に馴染むということの証明になりました。強引にでも彼と引き離したのは正解でしたね」
「こればっかりは実際来てみないと分からないからな。イーディス嬢、腹減ってないか?」
キースはともかくとして、ローザもバッカスもこの十年ですっかり変わってしまった。まるで別人だ。手紙のやりとりはしていたが、実際言葉を交わすとなると少しだけ気後れしてしまう。起きて早々に迷惑をかけてしまった罪悪感もある。視線を逸らし、小さく頷いた。
「あ……はい」
「飯に、しようか」
バッカスの声は少しだけ寂しそうだ。だがそんな彼をローザが叱責する。
「何を暗くなっているのですか。一番不安なのはイーディス様ですよ」
「そう、だな。暗い顔見せて悪かった。話したいことも聞きたいことも沢山あるんだ。イーディス嬢、付き合ってくれ」
「それより夕食だ。イーディス嬢は五日も何も食べていないんだからな」
「へ?」
「移動自体は問題なく行われたんだが、カルドレッドに入ってから眠りっぱなしでな。カルドレッドの魔はシンドレアの魔と性質が異なるから馴染むのに少し時間がかかったんだろう」
そんなに寝ていたのか。フランシカ屋敷に居た時からどのくらい寝ているか把握していなかったが、さすがに五日は長すぎる。目を丸くすればキースは「魔が身体に馴染むのは誰でも時間はかかるんだ。心配しなくていい」と続けてくれた。先ほどローザも口にしていたが、『魔が馴染む』とは一体どういうことだろう。魔道書の中で聞いた話だと『魔は犯すもの』である。リガロの精神やマリアの身体を蝕むでいたのも魔である。それが馴染むとはどういうことだろうか。十年経ったこちらの世界では魔を人間の身体に馴染ませる方法が確立された? 数十年前に完成したとされる退魔核を使えば出来なくはないの、かな? 口に手を当てて考え込む。するとマリアは心配そうにイーディスの顔を覗き込んだ。
「まだ眠いようでしたら、食事よりも睡眠を優先して頂いても」
「あ、いえ。目はすっかり覚めております」
「無理だけは、しないでくださいね。またイーディス様がいなくなられたら私……」
「大丈夫ですわ。もうすっかり元気で」
「辛くなったらすぐに教えてくださいね。バッカス様に背負って運んでもらいますので」
「ああ、任せろ」
「その時はよろしくお願いいたします」
彼らの心配を吹き飛ばすように笑みを浮かべれば、ホッとしたように表情を和らげた。
ふとした時に考えに耽ってしまうのはイーディスの昔からの癖だが、これからは気をつけなければ。
考えなしに突っ込んできているように見えていたリガロも、遠慮ないように見えてずっと気を遣ってくれていたキースももういないのだから。
少し低い声が身体にスウッと馴染んでいく。何度も耳にしたキースの声だ。だが遠慮なくイーディスと呼ぶ彼とはもう住む世界が違う。きっとこれは夢だ。本の外でも夢でなら、彼に会うことが出来る。だからもう少しだけ浸っていたい。
「ん、もうちょっと……」
「もう十分寝ただろ」
「でも眠いんです」
現実はすぐ受け入れられるほど甘くはないから。今だってどこか分からない場所で眠ってしまうほどにはきっと精神的に参っているのだろう。自分を守るように身体をぎゅっと丸めれば、お腹の辺りに何か固いものが当たった。身体を丸くすればするほどみぞおちにグググと入り込んでいく。かといって身体を開けば、起きろ起きろと彼の声が大きくなっていく。
「うるさい!」
そう、声をあげれば暗かった視界がパッと開いた。起きたな、なんて嬉しそうな声は聞こえなかった。代わりに大量の声が耳に届く。
「イーディス」
「イーディス様」
「イーディスさん」
部屋から消え、そして戻り道が分からなかったイーディスは捜索されているようだ。
聞き覚えのない声ばかりだが、中には忘れかけていた友の声が混じっている。
どうやらこの場所には彼女達も来ているらしい。寝こけている場合ではない。急いで立ち上がれば何かがぼとりと落ちた。抱えていたワンピース、それと部屋に置いてきたはずの魔道書である。お腹に当たっていたのは本の角だったのだ。魔道書が勝手に移動するものなのかは分からない。けれどイーディスにはキースの仕業のように思えた。本を拾い上げ「起こしてくれてありがとう」とお礼を告げる。そして空いている手を口に添え、大きく息を吸い込んだ。
「ご迷惑をおかけしております。イーディス=フランシカです! 今、起きました!」
何度か繰り返せば、こっちだ! と声と足音が近づいてくる。集団を引き連れているのは先ほど出会った親切な男だった。そしてイーディスの顔を確認するや否や、はぁ……と深いため息を吐く。
「見つかって良かった。……この時間まで着替えもせずに今までどこにいたんだ?」
怒ってはいないようだが、彼は不思議そうに首を捻った。
「部屋がどこだか分からず、ここで寝てました」
心配をおかけしてすみませんでした、と身体を縮こませれば、彼はなるほどなと手を叩いた。
「幻影系か。通りでいくら探しても見つからないはずだ。特に嬢ちゃんのは天然物だからな~」
幻影? 天然物? 一体何のことだろう?
聞きたいのは山々だが、彼はボリボリと首を掻きながら「ここら辺、ちゃんと測定してデータ残していかないとな~」と自分の世界に浸ってしまう。よく分からない言葉をブツブツと呟く男の背後ではメモを取っていたり、どこかと連絡を取っていたり。はたまた「ここですか?」と確認を取って、先ほどまでイーディスの座っていた位置にしゃがみ込み、道具を当てるものまでいる。データ収集、なのだろうか。慣れた手つきで動いている彼らは皆一様に『天然物』と嬉しそうに息を荒げている。どうやら天然物はイーディスを指しているらしい。脈拍を取りたいと言い出した女性に腕を差し出しながら、天然がいるなら養殖もいるのだろうかなんてどうでもいいことを考える。するとドドドドドと力強く廊下を走る音が響いて来る。
「イーディス様!」
「マリア様!」
「また会えなくなるかと心配したのですよ。もう、どこにも行かないでください……」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
イーディスを抱きしめ、涙を溢す彼女は記憶に残っている姿とは大きく異なる。背は伸び、大人っぽくなったマリアは可愛さよりも美人さが勝る。神聖さを感じる姿は画廊に飾られていた慈愛の聖女によく似ている。あれだけ散々文句を言っていたイーディスだが、本人を目にするとキースの画力と想像力には驚くばかりである。
「ああ、本当に。魔道書ごとなくなったから焦った。やっぱりギルバートの方が安全だと騒ぐマリアを宥めるのは大変だったんだぞ?」
「ごめんなさい」
「ですがこれでカルドレッドの魔がイーディス様に馴染むということの証明になりました。強引にでも彼と引き離したのは正解でしたね」
「こればっかりは実際来てみないと分からないからな。イーディス嬢、腹減ってないか?」
キースはともかくとして、ローザもバッカスもこの十年ですっかり変わってしまった。まるで別人だ。手紙のやりとりはしていたが、実際言葉を交わすとなると少しだけ気後れしてしまう。起きて早々に迷惑をかけてしまった罪悪感もある。視線を逸らし、小さく頷いた。
「あ……はい」
「飯に、しようか」
バッカスの声は少しだけ寂しそうだ。だがそんな彼をローザが叱責する。
「何を暗くなっているのですか。一番不安なのはイーディス様ですよ」
「そう、だな。暗い顔見せて悪かった。話したいことも聞きたいことも沢山あるんだ。イーディス嬢、付き合ってくれ」
「それより夕食だ。イーディス嬢は五日も何も食べていないんだからな」
「へ?」
「移動自体は問題なく行われたんだが、カルドレッドに入ってから眠りっぱなしでな。カルドレッドの魔はシンドレアの魔と性質が異なるから馴染むのに少し時間がかかったんだろう」
そんなに寝ていたのか。フランシカ屋敷に居た時からどのくらい寝ているか把握していなかったが、さすがに五日は長すぎる。目を丸くすればキースは「魔が身体に馴染むのは誰でも時間はかかるんだ。心配しなくていい」と続けてくれた。先ほどローザも口にしていたが、『魔が馴染む』とは一体どういうことだろう。魔道書の中で聞いた話だと『魔は犯すもの』である。リガロの精神やマリアの身体を蝕むでいたのも魔である。それが馴染むとはどういうことだろうか。十年経ったこちらの世界では魔を人間の身体に馴染ませる方法が確立された? 数十年前に完成したとされる退魔核を使えば出来なくはないの、かな? 口に手を当てて考え込む。するとマリアは心配そうにイーディスの顔を覗き込んだ。
「まだ眠いようでしたら、食事よりも睡眠を優先して頂いても」
「あ、いえ。目はすっかり覚めております」
「無理だけは、しないでくださいね。またイーディス様がいなくなられたら私……」
「大丈夫ですわ。もうすっかり元気で」
「辛くなったらすぐに教えてくださいね。バッカス様に背負って運んでもらいますので」
「ああ、任せろ」
「その時はよろしくお願いいたします」
彼らの心配を吹き飛ばすように笑みを浮かべれば、ホッとしたように表情を和らげた。
ふとした時に考えに耽ってしまうのはイーディスの昔からの癖だが、これからは気をつけなければ。
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