ループの果てに逢いましょう――死に戻りの男主人公に殺されないための6つの方略――

藤橋峰妙

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第一部『第006世界』

1-1:雨の夜

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 第一話 『ろく』

 
 · · • • • ✤ • • • · ·
 
 
 雨。
 

 
 風に裂かれた雨粒が、地面を叩きつけていた。砕けた雫が跳ね、黒いアスファルトに瞬きのような輪を刻んでいく。
 
 靴はすでに水を吸って重く、靴下まで冷たい。踏みしめるたび足元がぐにゃりと揺れた。不快な感触が伝わってくる。


 
 七月二十日、金曜日。夜の十時。
 アルバイトを終えた渚は、水浸しの道を駆けていた。駅から家まで、十五分の帰路を急ぐ。


 
 突然降り出した夜雨は勢いを増すばかりだ。


 
 折り畳み傘は役に立たなかった。ごうごうと風が唸り、雨粒がザアザアと打ちつけている。大きく揺れる庭木は影を伸ばし、地面に黒い腕を刻んでいた。

 並ぶ家々の明かりはすでに消えている。街灯だけが不規則に点滅し、いつ闇に沈んでもおかしくない路地を照らしていた。

 
 
 通い慣れた道のはずだった。
 普段と変わりのない道だというのに、今日は、どこか不気味さがまとわりついて離れない。
 
 
 
 渚は湧き上がる不安を押し込み、雨を切って走っていた。

 

 ――びちゃっ。

 不意に、何かが地面へ落ちた音が聞こえた。
 渚は反射的に、すぐさま背後を振り返る。
 
 点滅する街灯の光が、水浸しの地面を丸く照らしている。輪の中心には青色のパスケースが落ちていた。

 

 自分のものだ。
 気づいた瞬間、胸がざわっと波立つ。


 
 まるで罠がスポットライトを浴びていようだ。胸の奥がざわつく。嫌な予感がする。

 拾うことを躊躇している間にも、パスケースは水浸しになっていった。さらに嫌な気持ちになりながら、渚は屈んで手を伸ばした。
 
 その時、何となく。そう、ただおもむろに。
 渚は路地の右側に視線を向けた。
 
 ――向けてしまった。
 
 そこには塗りつぶしたような暗闇が広がっていた。

 覗き込まれている。
 
 その暗闇の奥底から、誰かに覗かれている感覚が背筋を這う。まるっと飲み込まれてしまうような、身の竦む気配。それでも、目が離せなかった。

 渚はこくりと喉を鳴らした。パスケースを掴んだ指先に力が入る。

 
 
 パチ、パチ――パチチ。

 
 頭上の街灯が明滅を繰り返した。冷たい雨粒が頬を打ち、襟の中に落ちる。
 雨の冷たさが凍った思考を引き戻した。渚は傘を握り直し、かすれた呼吸を吐き出した。
 

 
(……早く帰らないと)

 
 
 街灯の輪から出れば、この金縛りの感覚も解けるだろうか。

 そう思った渚は、恐る恐る足を踏み出そうと動かした。

 だが次の瞬間――強い力で、渚は右腕を後ろに引かれた。

 その何かに重心が持っていかれて、渚は水飛沫を飛ばしながらたたらを踏んだ。

 誰かに強く掴まれている。あ、という声も出なかった。視界の端で、落とした傘が跳ねるように地面を転がる。


 
 気づいた時には、渚は強く尻餅をついていた。

 立ち上がろうとするのに体が動かない。恐怖と衝撃が全身を固めていた。大粒の雨が激しく叩きつけ、跳ね返る水滴ばかりが視界を埋めていく。

 その端に、黒い靴先が映った。
 ボロボロに擦り切れた靴だった。

 渚は、ゆっくりと顔を上げる。人影が覆い被さるように立っている。
 
 黒いパンツ、黒いコートの裾。
 全身真っ黒で、頭にはフードを被った――人。小柄な人だ。

 男にしては背が低く、細身で、渚と同じくらいの身長だろうか。フードと街灯の逆光でその顔は見えなかった。

 そして傘を差していないのに、コートにも靴にも、水滴一つついていなかった。


 
 
「これ」

 

 影が口を開いた。女とも男ともつかない声だった。

 意味が分からず顔を見上げると、黒い巾着袋が差し出される。

「おねがい。これ、何も言わずにもらって!」

 その手には黒い巾着の袋が握られていた。

「――え?」

「いいからはやく! 受け取って!」
 
 有無を言わせない勢いで、渚はその人物に巾着を握らされた。巾着は硬く、何か重たいものが入っているようだ。

 怖くて、寒くて、恐ろしくて、不気味で。声にならないまま、渚はただ受け取ることしかできなかった。
 
 その人物は転がった傘を拾い上ると、慌てた動きでそれも渚の身体に押し付けた。
 
「ぜったいに変えてね、『――――』」

「ちょ、ちょっと、――!」

 最後の言葉は雨の音にかき消されて聞こえなかった。聞き返そうと声を上げると、雨粒が渚の瞳を濡らした。
 
 その痛みに目を閉じたその一瞬、謎の人物は目の前から消えていた。

 残されていたのは、真っ暗な道を押し流す雨粒と、丸く地面を照らす街灯の光だけだった。




 
 気が付けば、渚は自分のアパートの玄関に立っていた。

 全身、ずぶ濡れのままで。どうやって帰ってきたのか、思い出せなかった。
 
 身体からぽたぽたとしずくが落ちている。それを目で追って、足元に溜まる水溜まりを見る。

 渚の手は、あの黒い巾着を握りしめていた。

 渚は巾着の口に指をかけて、ゆっくりとその皺をほどいていった。

 中から現れたのは、黒い表紙の古びた本。

 広辞苑かというほど分厚い本。
 
 しかしタイトルはなく、表紙は煤けて黒ずんでいる。
 
 その片面には、まるで鋭利な刃物で刻んだような、金色の文字が彫られていた。


 
 ――『ろく』。
 

 
 雨より冷たく光る、謎の文字だった。
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