回帰の果てに逢いましょう ――滅亡する世界で、回帰の英雄に殺されないための六つの方略――

藤橋峰妙

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第一部『第006世界』

1-4:蝉の声

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 · · • • • ✤ • • • · ·
 

 じじじ。
 

 みーん、みーん。

 
 じじ、じじ。



 蝉の声とテレビの音が、花屋の奥でバケツを抱える渚の耳に重なって届く。


 『――世界各国で発生している黒い霧の正体は未だ解明されていません。国連はこの状況について綿密に協議を重ねており――地域住民の安全確保に向けた対応が――』


「なぎちゃーん。これそっち持って行ってくれるかしらぁ」
 
「はぁーい」


 ずしりと重いバケツを持ち上げ、店の奥からの声に返事をする。腰を叩いて固まった体を伸ばすと、ちょうど耳に引っかかった単語があった。


 ――黒い霧。


 その言葉が、ふと脳裏をよぎる。


(そういえばあの本にも、黒い霧っていう現象が出ていたっけ。でも、あれはファンタジー小説だし……)

 
 世情に疎い渚でも耳にしたことのある時事問題だ。
 『黒い霧』は今、世界各国で現れては消える、正体不明の怪奇現象だった。


 初めて確認されてから二週間。
 害はないと発表されているが、実際は不明な点が多い。発生地域では不安と恐怖が広がり、今やニュースの常連となっていた。
 

 今では、その話題がメインニュースの一つに取り上げられている。


(まあ、日本じゃないし。世界のニュースより、今はバイト代の方が大事だし)


「ごめんねぇ、重たいものばかり持たせちゃって」
 
「柳瀬さん。これくらい大丈夫ですよ」

 
 パタ、パタ。
 ゆったりとしたスリッパの音に合わせて、「ありがとうねぇ」と朗らかな声が近づく。


「こっちの花は?」
 
「それは右側の方がいいかしら」
 
「はぁい」

『次のニュースです。天鳴財閥による裏金の問題が表面化しています――』
 

 渚はテレビから意識を逸らした。 
 
 バケツの中で大輪の向日葵が揺れ、夏らしい匂いがふっと鼻を掠める。店先の風鈴は、暑さにうなだれたまま動かない。


「ひゃっ!」
 
「ふふ」


 ぴと、と頬に冷たさを感じて、渚は飛び退いた。柳瀬がにこやかに笑いながら麦茶を差し出していた。


「麦茶だよ。暑いからねぇ」

「あ、ありがとうございます」


 二人は店の中程にある椅子へ腰掛けた。
 この店にいると、時間の流れが穏やかで、心の中までもが静かに落ち着いていく。渚はこの空間が好きだった。

 
 あの黒い本を受け取ってから、一週間が過ぎていた。
 
 主人公は回帰を繰り返し、仲間は死に、救いはない。結末を何度見返しても変わらず、渚はが日常に戻るには、一週間で十分だった。
 

「この後はまた違うお仕事かい?」
 
「あー、はい。夜まで」


 夜中まで、とは言わず、渚は麦茶を口に運んだ。


「もっと稼がせてあげれたらいいのだけどねぇ。お金も……、なぎちゃん、ね、もうウチのお店は手伝わなくても」


 みんみん。じー。じじ。
 
 みーん。みーん。
 
 じじじ。
 

「……あっ、ラナンキュラス、元気なくなっちゃってます!」
 
「あら、切り方が悪かったかしら」
 
「少し水切りした方がいいでしょうか?」
 
「そうねえ」


 無理に話題を逸らしたことに気づかれているだろう。柳瀬の柔らかな笑顔から目を逸らし、渚は花桶に視線を落とす。ぼってりと重たい花弁が垂れていた。


 みーん、みーん。
 じじ、じじじ、ジジ。


「なんだか今日は、蝉がうるさいですね」
 
「セミかい?」


 ジジジジ……ジジ、ジジ。

 
 柳瀬が首を傾げる。
 訝しげな反応に、渚は茎に添えた手を止めた。柳瀬は眉の端を落として、心配そうに渚のことを見ていた。

 
 ジジジジジ。


「え、だってこんなに鳴いているじゃない、ですか……」


 暑く燃える店の外を見る。空を仰いだ渚は、驚いて声をあげた。


「えっ、なに、あれ」


 ――黒い霧が、青い空を覆っていた。
 

 まるで巨大な眼のように。
 黒い眼のかたちをした霧が、ぐるりと地上を見下ろしていた。


 
 
 
 

 
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