5 / 11
第一部『第006世界』
1-4:蝉の声
しおりを挟む· · • • • ✤ • • • · ·
じじじ。
みーん、みーん。
じじ、じじ。
蝉の声とテレビの音が、花屋の奥でバケツを抱える渚の耳に重なって届く。
『――世界各国で発生している黒い霧の正体は未だ解明されていません。国連はこの状況について綿密に協議を重ねており――地域住民の安全確保に向けた対応が――』
「なぎちゃーん。これそっち持って行ってくれるかしらぁ」
「はぁーい」
ずしりと重いバケツを持ち上げ、店の奥からの声に返事をする。腰を叩いて固まった体を伸ばすと、ちょうど耳に引っかかった単語があった。
――黒い霧。
その言葉が、ふと脳裏をよぎる。
(そういえばあの本にも、黒い霧っていう現象が出ていたっけ。でも、あれはファンタジー小説だし……)
世情に疎い渚でも耳にしたことのある時事問題だ。
『黒い霧』は今、世界各国で現れては消える、正体不明の怪奇現象だった。
初めて確認されてから二週間。
害はないと発表されているが、実際は不明な点が多い。発生地域では不安と恐怖が広がり、今やニュースの常連となっていた。
今では、その話題がメインニュースの一つに取り上げられている。
(まあ、日本じゃないし。世界のニュースより、今はバイト代の方が大事だし)
「ごめんねぇ、重たいものばかり持たせちゃって」
「柳瀬さん。これくらい大丈夫ですよ」
パタ、パタ。
ゆったりとしたスリッパの音に合わせて、「ありがとうねぇ」と朗らかな声が近づく。
「こっちの花は?」
「それは右側の方がいいかしら」
「はぁい」
『次のニュースです。天賀財閥による裏金の問題が表面化しています――』
渚はテレビから意識を逸らした。
バケツの中で大輪の向日葵が揺れ、夏らしい匂いがふっと鼻を掠める。店先の風鈴は、暑さにうなだれたまま動かない。
「ひゃっ!」
「ふふ」
ぴと、と頬に冷たさを感じて、渚は飛び退いた。柳瀬がにこやかに笑いながら麦茶を差し出していた。
「麦茶だよ。暑いからねぇ」
「あ、ありがとうございます」
二人は店の中程にある椅子へ腰掛けた。
この店にいると、時間の流れが穏やかで、心の中までもが静かに落ち着いていく。渚はこの空間が好きだった。
あの黒い本を受け取ってから、一週間が過ぎていた。
主人公は回帰を繰り返し、仲間は死に、救いはない。結末を何度見返しても変わらず、渚はが日常に戻るには、一週間で十分だった。
「この後はまた違うお仕事かい?」
「あー、はい。夜まで」
夜中まで、とは言わず、渚は麦茶を口に運んだ。
「もっと稼がせてあげれたらいいのだけどねぇ。お金も……、なぎちゃん、ね、もうウチのお店は手伝わなくても」
みんみん。じー。じじ。
みーん。みーん。
じじじ。
「……あっ、ラナンキュラス、元気なくなっちゃってます!」
「あら、切り方が悪かったかしら」
「少し水切りした方がいいでしょうか?」
「そうねえ」
無理に話題を逸らしたことに気づかれているだろう。柳瀬の柔らかな笑顔から目を逸らし、渚は花桶に視線を落とす。ぼってりと重たい花弁が垂れていた。
みーん、みーん。
じじ、じじじ、ジジ。
「なんだか今日は、蝉がうるさいですね」
「セミかい?」
ジジジジ……ジジ、ジジ。
柳瀬が首を傾げる。
訝しげな反応に、渚は茎に添えた手を止めた。柳瀬は眉の端を落として、心配そうに渚のことを見ていた。
ジジジジジ。
「え、だってこんなに鳴いているじゃない、ですか……」
暑く燃える店の外を見る。空を仰いだ渚は、驚いて声をあげた。
「えっ、なに、あれ」
――黒い霧が、青い空を覆っていた。
まるで巨大な眼のように。
黒い眼のかたちをした霧が、ぐるりと地上を見下ろしていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
死に戻ったら、私だけ幼児化していた件について
えくれあ
恋愛
セラフィーナは6歳の時に王太子となるアルバートとの婚約が決まって以降、ずっと王家のために身を粉にして努力を続けてきたつもりだった。
しかしながら、いつしか悪女と呼ばれるようになり、18歳の時にアルバートから婚約解消を告げられてしまう。
その後、死を迎えたはずのセラフィーナは、目を覚ますと2年前に戻っていた。だが、周囲の人間はセラフィーナが死ぬ2年前の姿と相違ないのに、セラフィーナだけは同じ年齢だったはずのアルバートより10歳も幼い6歳の姿だった。
死を迎える前と同じこともあれば、年齢が異なるが故に違うこともある。
戸惑いを覚えながらも、死んでしまったためにできなかったことを今度こそ、とセラフィーナは心に誓うのだった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
神は激怒した
まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。
めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。
ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m
世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる