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第一部『第006世界』
2-8:エレベーター前
しおりを挟む女性は笑みを崩さなかったが、声色に薄く困惑が混ざっていた。
何言ってんの、と副音声が付いて聞こえてくる。
それもそうだ。自分の行く部署が分からない職員など普通はいない。渚は頬をかいて、乾いた笑いを落とした。
「調査課第四班でしたら、十九階ですよ」
受付の女性は渚の職員証を一瞥し、すぐに平然と答えた。
「ありがとうございます。でも、どうして……」
「職員証に黄色の線が四本ありますからね」
渚は自分の職員証を見た。
改めて見ると、カードには顔写真と名前。その下を走る黄色い四本のラインがある。それが所属を示しているらしい。
礼を言って離れた背後で、もう一人の受付の女性が声を潜めて言った。
「ね、もしかしてだけどさぁ。調四って、この前ヤバかったってところ? 被害すごかったって」
「うーん、あの噂通りならそうねぇ……。記憶、飛んでるのかしら?」
「それって大丈夫なの?」
「さあ……」
声が薄く遠ざかる。渚は聞かなかったことにして、エレベーターへ向かった。
エレベーター前には、大勢の人の壁が立ちはだかっていた。
男女問わず若い職員たちが集まり、エレベーターが到着しても、誰も乗らずに立ち尽くしている。渚は彼らの視線の先を見ようと背伸びをした。
柱の前に立つ二人の男が目に入った。
一人は暗めの茶髪、もう一人は明るいブルーアッシュの髪色。
彼らは周囲よりひときわ身長が高く、その顔も端正で整っていた。
二人は特務機関の黒い制服ではなく、茶髪のほうは黒いスーツを、もう片方は灰色のスーツを着こなしている。
明らかにその場所だけ空気が違った。二人から醸し出されるオーラが、周囲を圧倒していた。
(――めっちゃイケメン。芸能人とか?)
湿った空気を熱で押し上げるように、周囲の囁きが渦巻く。
「え! なんであの人たちがいるの!?」
「すごい、間近で見るの初めて!」
「聞いた? 今、《白緑《はくろく》組合》のマスターと、《天鳴《てんめい》グループ》の川藤さんが来てるって!」
(《白緑組合》? それに……《天鳴グループ》!)
廊下のざわめきが渚の耳にまとわりつく。皆が同じ方向に視線を向けている。
「すっごいオーラ……」
「えー、なあ、ちょっと話しかけてみない?」
周りの職員たちは声を潜めながら、明らかに憧れの視線を送っていた。渚も群衆に紛れて様子をうかがう。だが、こんな人の多い場所で近づくのは難しいだろう。
ひとまず様子を見ようと半歩後ろに下がろうとした渚は、こちらを見ていた視線に気づき、目を瞬いた。
「ん?」
灰青色の髪の男だ。
バチッと音が鳴るように視線が絡むと、男は端正な顔をわずかに緩めるようにへらりと笑い、右手をひらひらと軽く挙げた。
(わ、私?)
「ちょっと! ジャマなんだけど!」
背後からした鋭い声にびくりと振り返る。桃色の少女が、渚――いや、周囲一帯を鋭く睨みつけていた。熱を一瞬で凍らせるかのような、凍てついた視線だ。
「邪魔になってるの、分かんない? ねぇ。ここは遊び場じゃないんだけど!」
二つの三つ編みに結われた綺麗な桃色の髪。三つ編みの房を手で払いながら、少女は言い放った。
尊大で、高慢で、辛辣な態度。厳しい表情だが、言っていることは正しかった。
「ユ、ユノだ……!」
誰かの呟きが渚の耳に届く。ユノと呼ばれた少女はふんと鼻を鳴らすと、腕を組み、顎をくいと上げて群衆を見下ろした。
鋭いブラウンの瞳に射抜かれた人々は、顔を青ざめさせて後ずさった。
(なるほど。あの子に向かって手を振ってたのね)
男が手を振っていたのは、ユノに向けてだったのだろう。渚は灰青色の男に視線をやる。再びぱちりと目が合い、男はにこりと柔らかく笑った。
(……また、目が合った?)
「せんぱい! そんな所にいるからメーワクな人達が集まるんじゃん。はやく行きましょうよ!」
「おいおい。遅れたのはそっちだろ」
茶色の髪の男が呆れたように言い返した。
「だからって、こんな場所来なくてもいいじゃん!」
「はいはいはい。それより、その威圧感やめろよ。迷惑だ」
「えー。弱いのが悪いのに!」
ユノは片手を軽く振った。
その瞬間、張り詰めていた空気がふっと解ける。
全身が軽くなり、人々は一斉に息を吐いた。顔色の悪い者から静かに散り始め、まだ呆然と立ち尽くす者もいる。
「ほらぁ、さっさと自分の仕事に行きなよ」
その冷ややかな声に、残っていた人々も慌てて離れていく。ユノもまた半身をずらし、立ち去ろうとした。
――その時だった。
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