回帰の果てに逢いましょう ――滅亡する世界で、回帰の英雄に殺されないための六つの方略――

藤橋峰妙

文字の大きさ
16 / 26
第一部『第006世界』

2-10:嫌悪

しおりを挟む



 エレベーターが十九階で小さく揺れ、止まった。


 渚は一歩、外に出ることを躊躇した。


 初めて足を踏み入れる職場の匂い――消毒液と乾いた紙の混じる冷ややかな空気。白々としたライトが無人の廊下を照らし、余計に寂しさを強調している。


(――どっちへ行けば……)


 エレベーターの扉が閉まりかけて、渚は慌てて廊下に飛び出した。

 扉が閉まりかけ、渚は慌てて廊下へ飛び出した。左は行き止まり。右へ踏み出そうとすると、奥から人影が現れる。若い女性が渚に気づき、早足で近づいてきた。


「……なぎちゃん? なぎちゃん!」


 首から下げられた職員証が目に入った。
 渚は咄嗟に後頭部へと手をやり、とぼけるように首を傾げつつ、その名前を見る。


 『御幡ゆかり』。


 渚と同じデザインの職員証。昨夜のメッセージの名前が脳裏に浮かび、結びついた。――この女性が『ゆかり』だ。


「復帰は午後からじゃなかったの?」


 渚は困ったように笑った。


「朝からだと思ってた」

「そ、そうだったのね。でも本当に大丈夫? あんな大怪我してたのに、今日からなんて」


 言葉の端に焦りが滲んでいる。ただの心配ではない。御幡の目の奥に、別の怯えが沈んでいるのを見て、渚は悟られぬよう背筋を伸ばした。


「平気だよ。昨日のメッセージ、返せなくてごめん」

「いいの、それは大丈夫……」


 御幡の声は優しい。だが、どこか何かに怯えているような表情に、渚は内心その首を傾げた。


「なにか、あった?」


 そう聞かずにはいられないほど、御幡の様子はおかしかった。
 御幡は渚の腕を掴んだ。

 思わず引こうとしたが、指先の力が強い。振りほどけない。焦りと怯えが、皮膚越しにじわりと伝わってくる。


「なんで今日、復帰するなんて言ったの?」

「ど……、どういうこと?」


 御幡は声を落とし、廊下の先へ素早く視線を走らせた。


「だって! なぎちゃん、今ならまだ帰れるわ。無理に出ることなんてない。この前のこともあったし――」


 小声で言葉を重ねようとした、その時だった。


「おはよう、御幡隊員。それから復帰おめでとう、椎野隊員」


 背筋がぞわりと粟立つ。振り返ると、丸顔で大柄な男が立っていた。
 皺だらけのスーツが肉厚な体を無理やり包み、笑うたびに頬の肉が揺れる。ぶよぶよした首筋が目立った。

 目が笑っていない。
 細めた目尻の皺の奥で、濁った水底に沈む刃物みたいな冷たい光が潜み、視線だけで温度を奪ってくる。

 渚は、喉の奥に生ぬるい石を押し込まれたような不快感を覚えた。
 
 嫌悪が湧く。反発も湧く。
 
 それとは別に、胸の奥で何かが縮こまり、筋肉が固まった。背中を冷や汗が伝っていく。


「挨拶もできないのか? 俺はお前らの班長だぞ」


 ゆるい口調に嘲笑が混じっていた。

 御幡は身をすくめるように、小さく頭を下げた。


「……お、おはようございます、坂田班長」


 か細く吐息のような声だ。


「おはようございます」


 渚は口元に薄く笑みを乗せ、声色を柔らかくした。――こういう相手に恐怖を見せるのは悪手だ。この身体の記憶が、そう訴えてきたような気がする。


 坂田と呼ばれた男――坂田泰次《さかたたいじ》、弧洞調査課第四班の班長。彼は眉をピクリと動かし、満足げに渚を見下ろして、ゆっくりと口角を上げた。


「椎野。もう怪我はいいのか? せっかく生き残ったんだから、その身体を大事にしなきゃな」


 御幡の肩がぴくりと跳ねたのが横目に見えた。唇を青くして俯いている。

 同情ではなく、生き残った者が、いつまで使えるかを量るような口調。

 事情を知らずとも、渚にはわかった。
 この男は強い立場にいて、部下の命すら己の玩具のように見ているようだ。


 渚の意思とは裏腹に、身体は重石を載せられたように硬直する。――怖い。身体が、坂田を怖がっている。


(――落ち着け……)


「さあ! 今日の任務も頼むぞ。俺のためにせいぜい役に立ってくれ。C級の落ちこぼれたちにできるのはそれだけだからな」


 肩を激励めいて軽く叩くと、坂田は去っていった。
 残った感触を拭い払いながら、渚は奥歯を噛む。


(――この男が、椎野渚の上司?)


「……な、なぎちゃん、大丈夫? 顔が……」


 御幡の声で意識が戻る。御幡はひきつった表情で渚を見ていた。その理由が分からず、渚はわずかに首を傾げた。


「ゆかり、さん」

「え? ど、どうして、急に『さん』付けなの?」


 一瞬、ぎくりとする。そう呼んでいなかったのか。渚は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。


「あ――、ごめん。ほら、この前の任務のこともあって、まだ色々混乱してるみたい」

「そうよね、前の……」


 御幡は渚の手を優しく包み込んだ。


「なぎちゃん、無理だけはしないで。あの人、A級だから。言うことは、聞いた方がいいからね」


 震えているのに、彼女は渚の手を包んで離さなかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!? 「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」 不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...