碧落に君は消えゆく

藤橋峰妙

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第一章『根雪』

26 忘却

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 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

「副作用が生じる可能性はあったが――」

 アルティナとバルクスが現状を把握するまでに、そう時間はかからなかった。
 記憶の喪失は、アルティナが行使した魔法の影響によるものだった。
 全く危険がなかったわけではない。それでも彼女は、真っ直ぐユキを見据えていた。

 アルティナとバルクスは少しずつユキに質問を投げかけ、アズサと夫妻は、その様子を後方から見守っていた。

「好きだったものは?」

「分からない」

「太陽が昇ってくるのは?」

「東の山の向こう」

「お母さんはどんな人?」

「分からない」

「水の国の王都の名前は?」

「ファータノア王領の、水麗すみれのリオ」

「あの動物の名前は?」

「ウルだよ。さっき教えてもらったの」

「この本の文字を読んでみて」

「……えっと、クオラの、大陸旅行記?」

 名前、出身、年齢、家族、最後に覚えている日、今までしていたこと、そしてこの家に来てからの記憶。

 アルティナは、ユキ自身に関するあらゆる情報を引き出そうとした。

 だが、ユキは何一つ思い出せなかった。一般的な知識はあるが、自己に関する記憶は完全に抜け落ちていた。

 それでも不思議なことに、ユキが最も明瞭に覚えていたのは『魔法』だった。

「魔法……、杖を出してくれるかい?」

 魔法の知識がどれほど残っているか確かめるため、アルティナが最後にそう尋ねる。

 魔法師の杖は、自らの意思で創り出すもの。それを持っているということは、記憶を失う以前に自発的に魔法を学び、使っていた証でもある。

 ユキは「つえ?」と呟きながら、難しそうに眉を寄せた。

「君の、魔法の杖だよ」

「魔法の……杖」

 次の瞬間、ユキは迷わず腕を前に突き出した。
 その手のひらに白い光が集まり、彼女が指先をそっと折りたたむと、そこに銀色の杖が現れた。

 アズサが以前見たものよりも一回り小さく、装飾も簡素なものだったが、明らかに同じ杖だった。

 その様子を見て、アルティナは感嘆の息を漏らし、大きく頷いて促す。

「見事だ。最後に、何か魔法を使ってみてくれるかい?」

「な、何か? 何かって……?」

「何でもいい。自由に、君が思うままに」

 数秒の沈黙のあと、ユキは杖を手の内から消し去り、小さく「魔法」と呟いた。

 再び目を閉じ、もう一度、小さな声で「魔法」と唱える。

 その手のひらの上に、小さな白い花がひとつ咲いた。
 くるくると回りながら浮かび上がる花は、花弁を一枚ずつ空へと散らしていく。
 やがて花弁が地面へ落ちかけたその瞬間――ぱっと姿を変えた。

「蝶……?」

 バルクスが、思わず漏らす。

 花弁は蝶へと変化し、ふわふわと舞い上がった。部屋は淡い光と鱗粉のような輝きに包まれていく。

 美しい魔法だった。

 ウルでさえ、自分のまわりを飛ぶ蝶を追いかけて飛び跳ね、ぱくりと食べようとする。だが蝶は口に触れる直前、砂のように消えてしまい、ウルはしょんぼりと耳を伏せた。

 アズサも蝶に手を伸ばしたが、触れる前にその光は儚く崩れ去ってしまった。

「わあ……」

 小さな驚きと感嘆がアズサの口からこぼれる。
 
 部屋にいた全員の視線が、舞い飛ぶ蝶の光に引き寄せられていた。

 そして、その中でも最も目を見張り、驚きに満ちた顔をしていたのは、魔法を使った当のユキだった。

 その表情が、あまりにも無垢で新鮮で、アズサは思わず見とれてしまった。

「全くもって、雰囲気が違うな。表情も違う。別人だ」

「そうねえ。あんなに表情が柔らかい子だったのね。笑っていたほうが、美人さんね」

「記憶がないと、こんなに変わるものか」

 様子を見ていたディグレとマルサが、感慨深げに言葉を交わす。アズサは、美しい光景に言葉を失いながら、その言葉に心あらずのまま、頷くことしかできなかった。

「――うん。呪いを抑える法式は、うまく働いているようだ」

 アルティナが肩の力を抜き、安堵の息をついた。

「それに、魔法も使えるようだな。立派な杖だし、とても綺麗な魔法だった。魔法はどこで学んだんだい?」

「わ、分からない……」

 ユキは視線を落とし、気まずそうに答える。

「自分でも、どうして魔法が使えたのか分からなかった。でも……なんとなく、知ってる気がして」

「覚えているのかい?」

 アルティナの問いに、ユキは小さく首を振った。

「覚えてるっていうより……どうすればいいのか、何をどうすればできるのか、分かるっていうか。頭の中に、文字がいっぱい浮かんでくるの」

「そうか」

 アルティナは微笑みながら頷いた。おそらく、記憶としてではなく、感覚として魔法の知識が残っているのだろう。

「きっと以前から、魔法に親しんでいたんだろう。じゃあ、称号証は持っているかな」

「しょうごう……しょう?」

「こんなものだよ」

 アルティナは首に掛けていた細い鎖を外し、ユキに差し出した。それは魔法師の身分証である【魔法証ラッカ】と【魔法医章ネイス】だった。

「魔法師の身分を証明するものだ」

 色も形も異なる二枚の硝子板が、ユキの手の中でチャリチャリと音を立てた。

魔法証ラッカ】は紫色、【魔法医章ネイス】】は薄緑色の半透明の板で、それぞれに金の文字が彫られていた。縁には細かな金細工が施され、下には同じ色の雫型の宝石が揺れている。

グレカト鉱石――七色の光を持つとされる希少な石だ。

 ユキは指先で【魔法証ラッカ】の文字をなぞり、口に出す。

「て、てーれ、でぃ……あみゅり……。えいすのりす、せ……うぃ、ばる、せ」

「――まさか、古代インユシェの文字を【テーレの言葉テルダッシュ】で読めるのかい?」

 アルティナの顔に、わずかな動揺が走る。ユキは曖昧に頷いた。

「見たことはあるのかい?」

 アルティナが重ねて尋ねると、ユキは硝子板を眺めながら、難しげに眉を寄せて首を横に振った。

「なんとなく、文字は分かるけど……」

 そう言って、首飾りをアルティナに返した。

「ありがとう」

 アルティナはそれを受け取り、金の文字をじっと見つめる。そして首に掛け直し、ユキの瞳を見つめた。

「自分のことや過去のことは思い出せない。でも、魔法の使い方や、生活に関する知識は残っているようだ。これから何かを学ぶことにも、問題はなさそうだね」

「そう……そっか」

 ユキは落ち着いた様子で、頷いた。

「大丈夫? 突然、記憶喪失だなんて言われたら、誰でも動揺するはずだよ」

「え――あ、いえ」

 ユキは首を横に振った。

「よく分からないけど……やっぱり覚えていない。だから、大丈夫」

 時間が経つにつれ、ユキの中には少しずつ落ち着きが戻っていた。

 目が覚めた朝、ユキはまず自分自身について考えた。
 次に、ここがどこなのかを考えた。

 けれど何も思い出せなかった。寝台も、服も、周囲の人間も、すべてが初めて見るものだった。

 見知らぬ少年と話し、名前を教わり、見たことのない獣――ウルが自分の友達だと聞いた。

 そのとき、心の中にひとつの思いが落ちてきた。

 ――何もなくなってしまったんだ。

 真っ白な世界に埋もれてしまった、白くて細い糸。
 いくら探しても、その端さえ見つからない。

 思い出すべきことも曖昧で、記憶がないと告げられても、何がなくなったのかすら分からない。
 実感が湧かないまま、ただひとつだけ確かに分かるものがあった。

 ――魔法。

 記憶ではなく、身体が覚えている何かだった。

「バーランド先生」

 後ろに立っていたバルクスが声をかけた。

「でも、説明は必要でしょう」

「ああ……君の話をしよう、ユキ」

「私の話?」

「そうだ。目覚めたばかりで申し訳ないけれど、君が記憶を失ったことに関係があるんだ」

 アルティナは、分かりやすくかみ砕きながら、ゆっくりと話し始めた。

 ――君は【魔力原石テウラン】の中から助け出された。その後、私は君の呪いを抑えるための魔法を施した。

 全てを話すかと思ったアズサだったが、アルティナはあくまで概要だけを伝えた。

 それは、ユキが目覚めた時にアズサが語った内容とほぼ同じだった。

「君には呪いが掛けられていて、それに苦しめられていたんだ。何か心当たりはあるかい?」

「呪い……?」

 ユキはぽかんと首を傾げたまま、静かに横に振った。

「そうか。私は君の呪いを抑えるために魔法を使った。その影響で、君の記憶も封じられてしまったのだと思う」

 そう言いながら、アルティナはユキの手を取り、細い金の鎖をそっと握らせた。

 小さな紫水晶が嵌め込まれた首飾りだった。

「あの、これは……」

「私が作ったものだ。この石には、呪いを抑える魔法の式が込められている。お守りみたいなものだよ」

「貰って、いいの?」

「むしろ、持っていてくれないと困るよ」

 アルティナは苦笑しながら言った。

「ユキ、これは君の命に関わるものだ。肌身離さず持っていて。絶対に壊してはならないよ」

「は、はあ……。じゃあ、ずっと首に掛けてればいい?」

「ああ、そうしていて」

 話の半分も理解できていないような表情で、ユキは大人しく頷いた。そして、渡された首飾りを首に掛ける。

 その様子を見届けたアルティナは、静かに目を伏せてから、ユキに向かって、深々と頭を下げた。



 
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