30 / 34
第一章『根雪』
26 忘却
しおりを挟む✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
「副作用が生じる可能性はあったが――」
アルティナとバルクスが現状を把握するまでに、そう時間はかからなかった。
記憶の喪失は、アルティナが行使した魔法の影響によるものだった。
全く危険がなかったわけではない。それでも彼女は、真っ直ぐユキを見据えていた。
アルティナとバルクスは少しずつユキに質問を投げかけ、アズサと夫妻は、その様子を後方から見守っていた。
「好きだったものは?」
「分からない」
「太陽が昇ってくるのは?」
「東の山の向こう」
「お母さんはどんな人?」
「分からない」
「水の国の王都の名前は?」
「ファータノア王領の、水麗のリオ」
「あの動物の名前は?」
「ウルだよ。さっき教えてもらったの」
「この本の文字を読んでみて」
「……えっと、クオラの、大陸旅行記?」
名前、出身、年齢、家族、最後に覚えている日、今までしていたこと、そしてこの家に来てからの記憶。
アルティナは、ユキ自身に関するあらゆる情報を引き出そうとした。
だが、ユキは何一つ思い出せなかった。一般的な知識はあるが、自己に関する記憶は完全に抜け落ちていた。
それでも不思議なことに、ユキが最も明瞭に覚えていたのは『魔法』だった。
「魔法……、杖を出してくれるかい?」
魔法の知識がどれほど残っているか確かめるため、アルティナが最後にそう尋ねる。
魔法師の杖は、自らの意思で創り出すもの。それを持っているということは、記憶を失う以前に自発的に魔法を学び、使っていた証でもある。
ユキは「つえ?」と呟きながら、難しそうに眉を寄せた。
「君の、魔法の杖だよ」
「魔法の……杖」
次の瞬間、ユキは迷わず腕を前に突き出した。
その手のひらに白い光が集まり、彼女が指先をそっと折りたたむと、そこに銀色の杖が現れた。
アズサが以前見たものよりも一回り小さく、装飾も簡素なものだったが、明らかに同じ杖だった。
その様子を見て、アルティナは感嘆の息を漏らし、大きく頷いて促す。
「見事だ。最後に、何か魔法を使ってみてくれるかい?」
「な、何か? 何かって……?」
「何でもいい。自由に、君が思うままに」
数秒の沈黙のあと、ユキは杖を手の内から消し去り、小さく「魔法」と呟いた。
再び目を閉じ、もう一度、小さな声で「魔法」と唱える。
その手のひらの上に、小さな白い花がひとつ咲いた。
くるくると回りながら浮かび上がる花は、花弁を一枚ずつ空へと散らしていく。
やがて花弁が地面へ落ちかけたその瞬間――ぱっと姿を変えた。
「蝶……?」
バルクスが、思わず漏らす。
花弁は蝶へと変化し、ふわふわと舞い上がった。部屋は淡い光と鱗粉のような輝きに包まれていく。
美しい魔法だった。
ウルでさえ、自分のまわりを飛ぶ蝶を追いかけて飛び跳ね、ぱくりと食べようとする。だが蝶は口に触れる直前、砂のように消えてしまい、ウルはしょんぼりと耳を伏せた。
アズサも蝶に手を伸ばしたが、触れる前にその光は儚く崩れ去ってしまった。
「わあ……」
小さな驚きと感嘆がアズサの口からこぼれる。
部屋にいた全員の視線が、舞い飛ぶ蝶の光に引き寄せられていた。
そして、その中でも最も目を見張り、驚きに満ちた顔をしていたのは、魔法を使った当のユキだった。
その表情が、あまりにも無垢で新鮮で、アズサは思わず見とれてしまった。
「全くもって、雰囲気が違うな。表情も違う。別人だ」
「そうねえ。あんなに表情が柔らかい子だったのね。笑っていたほうが、美人さんね」
「記憶がないと、こんなに変わるものか」
様子を見ていたディグレとマルサが、感慨深げに言葉を交わす。アズサは、美しい光景に言葉を失いながら、その言葉に心あらずのまま、頷くことしかできなかった。
「――うん。呪いを抑える法式は、うまく働いているようだ」
アルティナが肩の力を抜き、安堵の息をついた。
「それに、魔法も使えるようだな。立派な杖だし、とても綺麗な魔法だった。魔法はどこで学んだんだい?」
「わ、分からない……」
ユキは視線を落とし、気まずそうに答える。
「自分でも、どうして魔法が使えたのか分からなかった。でも……なんとなく、知ってる気がして」
「覚えているのかい?」
アルティナの問いに、ユキは小さく首を振った。
「覚えてるっていうより……どうすればいいのか、何をどうすればできるのか、分かるっていうか。頭の中に、文字がいっぱい浮かんでくるの」
「そうか」
アルティナは微笑みながら頷いた。おそらく、記憶としてではなく、感覚として魔法の知識が残っているのだろう。
「きっと以前から、魔法に親しんでいたんだろう。じゃあ、称号証は持っているかな」
「しょうごう……しょう?」
「こんなものだよ」
アルティナは首に掛けていた細い鎖を外し、ユキに差し出した。それは魔法師の身分証である【魔法証】と【魔法医章】だった。
「魔法師の身分を証明するものだ」
色も形も異なる二枚の硝子板が、ユキの手の中でチャリチャリと音を立てた。
【魔法証】は紫色、【魔法医章】】は薄緑色の半透明の板で、それぞれに金の文字が彫られていた。縁には細かな金細工が施され、下には同じ色の雫型の宝石が揺れている。
グレカト鉱石――七色の光を持つとされる希少な石だ。
ユキは指先で【魔法証】の文字をなぞり、口に出す。
「て、てーれ、でぃ……あみゅり……。えいすのりす、せ……うぃ、ばる、せ」
「――まさか、古代インユシェの文字を【テーレの言葉】で読めるのかい?」
アルティナの顔に、わずかな動揺が走る。ユキは曖昧に頷いた。
「見たことはあるのかい?」
アルティナが重ねて尋ねると、ユキは硝子板を眺めながら、難しげに眉を寄せて首を横に振った。
「なんとなく、文字は分かるけど……」
そう言って、首飾りをアルティナに返した。
「ありがとう」
アルティナはそれを受け取り、金の文字をじっと見つめる。そして首に掛け直し、ユキの瞳を見つめた。
「自分のことや過去のことは思い出せない。でも、魔法の使い方や、生活に関する知識は残っているようだ。これから何かを学ぶことにも、問題はなさそうだね」
「そう……そっか」
ユキは落ち着いた様子で、頷いた。
「大丈夫? 突然、記憶喪失だなんて言われたら、誰でも動揺するはずだよ」
「え――あ、いえ」
ユキは首を横に振った。
「よく分からないけど……やっぱり覚えていない。だから、大丈夫」
時間が経つにつれ、ユキの中には少しずつ落ち着きが戻っていた。
目が覚めた朝、ユキはまず自分自身について考えた。
次に、ここがどこなのかを考えた。
けれど何も思い出せなかった。寝台も、服も、周囲の人間も、すべてが初めて見るものだった。
見知らぬ少年と話し、名前を教わり、見たことのない獣――ウルが自分の友達だと聞いた。
そのとき、心の中にひとつの思いが落ちてきた。
――何もなくなってしまったんだ。
真っ白な世界に埋もれてしまった、白くて細い糸。
いくら探しても、その端さえ見つからない。
思い出すべきことも曖昧で、記憶がないと告げられても、何がなくなったのかすら分からない。
実感が湧かないまま、ただひとつだけ確かに分かるものがあった。
――魔法。
記憶ではなく、身体が覚えている何かだった。
「バーランド先生」
後ろに立っていたバルクスが声をかけた。
「でも、説明は必要でしょう」
「ああ……君の話をしよう、ユキ」
「私の話?」
「そうだ。目覚めたばかりで申し訳ないけれど、君が記憶を失ったことに関係があるんだ」
アルティナは、分かりやすくかみ砕きながら、ゆっくりと話し始めた。
――君は【魔力原石】の中から助け出された。その後、私は君の呪いを抑えるための魔法を施した。
全てを話すかと思ったアズサだったが、アルティナはあくまで概要だけを伝えた。
それは、ユキが目覚めた時にアズサが語った内容とほぼ同じだった。
「君には呪いが掛けられていて、それに苦しめられていたんだ。何か心当たりはあるかい?」
「呪い……?」
ユキはぽかんと首を傾げたまま、静かに横に振った。
「そうか。私は君の呪いを抑えるために魔法を使った。その影響で、君の記憶も封じられてしまったのだと思う」
そう言いながら、アルティナはユキの手を取り、細い金の鎖をそっと握らせた。
小さな紫水晶が嵌め込まれた首飾りだった。
「あの、これは……」
「私が作ったものだ。この石には、呪いを抑える魔法の式が込められている。お守りみたいなものだよ」
「貰って、いいの?」
「むしろ、持っていてくれないと困るよ」
アルティナは苦笑しながら言った。
「ユキ、これは君の命に関わるものだ。肌身離さず持っていて。絶対に壊してはならないよ」
「は、はあ……。じゃあ、ずっと首に掛けてればいい?」
「ああ、そうしていて」
話の半分も理解できていないような表情で、ユキは大人しく頷いた。そして、渡された首飾りを首に掛ける。
その様子を見届けたアルティナは、静かに目を伏せてから、ユキに向かって、深々と頭を下げた。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
戦姫のトロイメライ~断罪される未来が視えたので先に死んだことにしました
志熊みゅう
恋愛
十三歳の誕生日、侯爵令嬢エディット・ユングリングは、自分が死ぬ瞬間を"夢"に視た。
卒業舞踏会で、婚約者であるフィーラ帝国・第一皇子マティアス殿下から、身に覚えのない罪で断罪され、捕らえられる。傍らでは見知らぬピンクブロンドの令嬢が不敵に微笑む。貴族牢のある北の古城に連行される途中、馬車ごと“死の谷”へと落ちていった――そんな妙に生々しい夢。
マティアス殿下は聡明で優しく、エディットを大切にしているように見えた。だから誰もその"夢"のことを気に留めなかった。しかし、兄の怪我、愛猫の死、そして大干ばつ――エディットの"夢"は次々と現実になっていく。ある日、エディットは気づく。この"夢"が、母の祖国・トヴォー王国の建国の軍師と同じ異能――"未来視"であることに。
その頃、一年早く貴族学院に入学したマティアス殿下は、皇宮から解放され、つかの間の自由を知った。そして、子爵令嬢ライラに懸想するようになる。彼女は、"夢"の中で冷酷に微笑むあの令嬢に瓜二つ。エディットは自分が視た"夢"が少しずつ現実になっていくことに恐怖した。そんな時に視た、黒髪の令息が「愛しているよ」と優しくはにかむ、もう一つの『未来』。エディットは決心する。
――断罪される未来を変えたい。もう一つの未来を自分で選び取る。
彼女は断罪される前に、家族と共に自らの死を偽装し、トヴォー王国へと身を隠す。選び取った未来の先で、エディットは『戦姫』として新たな運命の渦に飲まれていく――。
断罪の未来を捨て、愛する者のために戦う令嬢の恋愛ファンタジー!
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
無能妃候補は辞退したい
水綴(ミツヅリ)
ファンタジー
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる