いつの間にか結婚したことになってる

真木

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29 食べられるわけには

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 黒衣の使者が放った言葉が、場を静寂だけに変える。
 オーナーも双子も、言った当本人であるお迎えですら何も言わない。
「え、えと」
 気まずい空気に耐えかねて、撫子は苦笑しながら口を開いた。
「まあこんな時間がいつまでも続くことはないってわかっていましたしね。はは、そうですよね。時間切れなら仕方ないです」
 頭をかいて、撫子は目を伏せながら言う。
「私の休暇はおしまい。終点に行きます……」
「違います」
 お迎えの青年は黒々とした瞳を向けて撫子に言う。
「私は生の世界の迎えです。このたびは、あなたの肉体の時間が尽きかかっていることをお知らせして、お迎えに参ったのです」
「せいのせかい?」
 言葉の意味がわからず撫子が首を傾げると、黒衣の青年は鋭い鳥の目を細める。
「やはりご存じありませんでしたか。あなたはまだ生きています」
「え?」
 撫子は目を見開いて、オーナーを見る。
「嘘ですよね。だってオーナー、私は死んだって言いました」
「言いましたよ。あなたの精神は既に体から離れていて、それは死と同じでしたから」
「そうとも限らないでしょう」
 お迎えが冷静な声で言葉を挟む。
「事実、撫子様の肉体はまだ生きていますから。この世界とのつながりが絶たれれば、戻ることも可能です」
 青年は小さくため息をついて首を横に振る。
「確かに肉体から離れた魂といかなる約束を結ぼうとも自由ですが、か弱い魂をだますのは上の代理人として許すわけにはいきません」
「だましてはいません。それに個人の約束に干渉することは、いかにお上でもたやすく認められるものではないはず」
「約束は倫理の範囲内でと定められているのをご存じないのですか? 強引な約束は干渉の根拠になります」
 オーナーも青年も一歩も引く気配がない中で、ヒューイが声を上げる。
「おやめください。今はオーナーに非があったかどうかより重要なことがあるでしょう。神は撫子様にどんな裁定をなさったのですか?」
 お迎えの青年はうなずいて、撫子に視線を戻す。
「上は急ぎ肉体の期限をお知らせするように命じられました。戻るか否かは撫子様がお決めになって構いません」
「私が、決められる……?」
 撫子はその言葉に、死の直前の暗い気持ちを思い出した。
 両親はもういない。友達も失って、頼ることのできる親類もいない。借金だらけで、未来に何の希望も見出せずに呆然としていた。
「戻ることはありません。苦労と苦痛しかありませんよ」
 オーナーの言葉はもっともに聞こえた。
 今の生活は満たされている。豊かで楽しくて、たくさんの従業員やオーナーと一緒に働くことができる。
「……戻りたいです」
 だけど撫子は迷わず告げていた。その言葉に、オーナーは眉をひそめる。
「なぜです。ここの世界のどこが劣るというのですか」
「劣るとか勝るとか、関係ないんです」
 撫子は顔を上げて言う。
「私の命は両親が与えてくれた最初で最後の贈り物です。苦労と苦痛しかなくても、最後まで全うしたい」
 死の直前には無い気持ちが撫子の中に湧きあがって来る。
 その理由は自分でもわかっていた。ただそれを口にするより、今ははっきりと告げなければならないことがあった。
「帰らせてください」
 オーナーをみつめて告げると、彼は軽蔑したように冷淡な口調で告げた。
「失望ですね。あなたがそれほどまでに生き汚い者だったとは」
「ごめんなさい」
 初めて向けられる侮蔑の表情と声に胸は痛んだが、言葉を覆すつもりはなかった。
「私は……」
 撫子はなお言葉をつづけようとして、やめた。
 撫子がしようとしていることは、理由はどうあれオーナーを裏切ることだ。撫子はオーナーを置いて逝かないと約束したのだから。生の世界に戻ることだって、オーナーを置いていくことに変わりはない。
「ま、待ってください。喧嘩はよくないですよ。オーナー」
 沈黙した二人に、チャーリーが声を上げた。
「撫子様もお考え直しになってください。オーナーは撫子様を大切に思っておいでです」
 チャーリーはわたわたと手を振りながら続ける。
「僕たちも撫子様がいなくなったら寂しいですし……」
「もっと根本的な問題がございます」
 ヒューイが淡々とした調子で兄の言葉を遮る。
「オーナーは撫子様と約束なさっています。約束を破るには対価が必要です。オーナーには約束を主張する権利があります」
 撫子が言葉につまった時だった。
 オーナーは被せるように口を開く。
「よろしい。では、撫子。契約をかけて私と決闘いたしましょう」
「決闘?」
「はい。あなたが勝ったら、契約を無条件で解除して帰してさしあげます」
「私が負けたら……?」
 そう問いかけると、オーナーは猫目を細めてさらりと告げる。
「あなたを食べます」
「へ?」
 思わず撫子は変な声を出してしまった。
「それってたとえですよね?」
「そのままの意味です。あなたの魂を頂きます。財産も地位も持たないあなたが賭けられる物は、あなた自身しかありませんから」
「しかし、私なんて食べてもおいしくない……」
 ベタながらそう言おうと思ったけど、オーナーの目を見て心が変わる。
「この世界で約束を破ることは相手にとって最大の侮辱です。私を否定する覚悟がないなら肉体を放棄してここに残りなさい」
 オーナーの表情はいつも通り笑顔だったが、撫子はその中に悲痛なほど真剣な感情を見た気がした。
 笑いながら、心の中では怒りや悲しみが渦巻いてどうしようもなくなっている。そのことを、撫子はオーナーの瞳の奥の光で察した。
「……わかりました。決闘に応じます」
 裏切りの対価は払わなければいけない。撫子は体の横で拳を握りしめながら言った。
 オーナーは微かに目を伏せたが、すぐにお迎えに向かって顔を向ける。
「伝統の方式に従いましょう。審判をお願いいたします」
「はい」
 お迎えは頷いて、撫子に一歩近づく。
 彼が撫子の手に置いたのは、人差し指ほどの小さな砂時計だった。それは不思議なことに逆さにしても砂が落ちることがない。
「この砂時計の砂がすべて落ちるまでに、相手の本当の名前を当ててください」
「名前……って、キャットじゃないんですか?」
 先代のオーナーの呼び名を思い出して、撫子が訝しげに問う。
「機会は一回きりです。それが答えですか?」
 お迎えは表情を変えずに言った。撫子は反射的に首を横に振る。
「少し考えさせてください」
 撫子がそう言うと、お迎えは糸玉を取り出して片方の端をオーナーの手首、もう片方の端を撫子の手首に縛った。
 そして彼は糸玉を自分の懐に仕舞う。すると、糸玉は撫子とオーナーの手首に巻きつけてある部分以外は、透明になったかのように見えなくなった。
「答えを決めたら糸を三回弾いてください。私がもう片方を引き寄せますので」
 彼が撫子の持っている砂時計をトン、と叩く。
「決闘の開始です」
 砂時計の砂が、ひとりでに流れ始めた。
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