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【17】聖女フィア、現る!
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夜宴が始まるや、すぐにミュランは違和感を覚えた。
(――どこか妙な感じがするが……何が原因だ?)
会場の雰囲気は華やかで、招待客の各々が、優雅に歓談している。
だが、何かが違う。
何がどう違うのか、まだ分からない。魔物の気配などではないし、殺意や害意も感じない。だが……どこか、ぎこちない。
ミュランは国賓たちを丁重にもてなしながら、違和感の理由を探ろうとしていた。
(……おや?)
主賓のエドワード王太子殿下が、なぜか婚約者を連れていない。婚約者のアレクシア=レカ公爵令嬢は、どこにいるのだろうか? 王立アカデミーの学友同士でもある王太子とアレクシア嬢は、ふだんからとても仲が良く、いつも一緒にいるはずだが。
(アレクシア嬢も、今日の夜宴には出席する予定だったが……来ていないな。……ん? 王太子が代わりにエスコートしている少女は誰だ?)
エドワード王太子が、見知らぬ少女を連れている。修道女の正装を纏った、華奢な少女だ。フードを目深にかぶっているから、顔は見えない。
(……夜宴に修道女を連れてくるとは、妙な話だ。あの少女は一体……? あの雰囲気、どこかであの少女に会ったことがある気がする。だが、どこでだ……?)
なぜか、胸騒ぎがする。
顔も見えないその少女を、ミュランはじっと見つめていた。
「あら。貴方も彼女が気になるのかしら? アスノーク卿」
鋭くてよく響く女性の声が、背後から投じられた。この声は……と、声の主を予想しつつ、ミュランは優雅に振り返る。
「これはこれは、アリアドネ=ナドゥーサ女公爵。本日はお越しくださり、誠に有り難うございます」
ミュランに声をかけてきたのは四聖爵のひとり、アリアドネ=ナドゥーサ女公爵だった。四十歳手前と思われるナドゥーサ女公爵は、怜悧な美貌の持ち主だ。今日は、目の醒めるような深青色のドレスを身に纏っている。
「お久しぶりね、アスノーク卿。……奥様をさしおいて、よその女性に目を奪われるのは如何なものかしら? それも、修道女なんかに」
美貌を意地悪くゆがめて、女公爵はミュランをなじった。ミュランは顔色一つ変えずに、整った顔立ちに甘やかな笑みを浮かべている。
「ご冗談はお許し下さい。妻に叱られてしまいます」
「奥様のご出身は、リエンナ伯爵家……でしたかしら? そんな無名の下級貴族からわざわざ妻を娶るなんて、貴方も物好きね。よほど彼女がお気に入りだったのかしら?」
この女は相変わらず、不快な物言いばかりだなーーと、ミュランは笑顔の下で毒づいていた。今はもう馴れたが、十代の頃は彼女の扱いに苦労したものだ。
ナドゥーサ女公爵は、切れ長の目で夜宴会場にいるリコリスを眺めていた。リコリスは今、招待客の貴婦人たちと歓談をしている最中だ。
「……よくやっているじゃありませんか、貴方の奥様」
女公爵の口からほめ言葉が飛び出したので、ミュランは内心、驚いた。
「1年前の園遊会に、たしか奥様も来ていましたよね? あのときの彼女はやたら怯えていて、みすぼらしい子ネズミにしか見えなかったけれど。今では見違えるようだわ。わたくし、根性のある女は好きよ」
たった一年で、よくこれだけ立派に育てましたね。と、思いのほか優しい口調で、女公爵はつぶやいた。
「あなたを見直しました、アスノーク卿」
「妻をお褒めいただき、光栄です」
「奥様を愛しておられるのね。見れば分かるわ、貴方も良い男になったもの」
ミュランの態度を見て、女公爵はさらに満足そうにしていた。
「大切にしてあげなさい。あなたのような伊達男が夫では、奥様も気苦労が絶えないでしょうけど」
そう言って、女公爵は唐突にミュランとの距離を詰めた。他の者には聞こえないような小さな声で、
「奥様想いの貴方に、一つだけ良いことを教えてあげます。……王太子の横にいる、あの修道女は危険よ。注意なさい」
「あの修道女に?」
女公爵の目が、鋭く光る。
「まだ伏せられている情報だけれど。彼女は聖女かもしれない」
「……聖女?」
この国には、建国以来一人も聖女が生まれていない。
「実は1年も前のことなのだけど、王都で謎の流行病《はやりやまい》が広がっていたらしいの。女王陛下もお倒れになったとか。……でもあの少女が現れて、祈りを捧げた瞬間に、病人たちが全員癒えた。彼女は平民なのだけど、「神の声を聞いて、力を得た」と言っているそうよ」
「平民の少女が、突然に聖女の力に目覚めた……ということですか?」
「聖女である可能性が高いけれど、断定には至っていないそうよ。特定の病しか治せないらしいから。……でも、女王陛下は彼女をとても気にかけている」
ここからは、わたくしの個人的な意見だけれど……。と、女公爵は低い声でささやいた。
「わたくしは、あの少女は聖女ではないと思うの。もっと邪悪な存在ではないかと」
「……根拠をお伺いしても?」
「根拠はありません。女の勘よ」
女の勘? 四聖爵ともあろう者が? と、ミュランは耳を疑った。
だが、ナドゥーサ女公爵は真剣に言っているようだ。
「彼女と接点を持った男はみんな、彼女の虜になってしまう。……エドワード王太子をご覧なさい。すっかり骨抜きにされている」
女公爵は視線で、王太子の方を見るようにと促した。確かに、いつも理知的だったエドワード王太子が、少女に寄り添いデレデレとしている。
「婚約者のアレクシア=レカ令嬢がいらしていないのは、まさか、そのせいですか……?」
「でしょうね。お父上のレカ公爵も、さぞや面白くないでしょう。ご覧なさい、レカ公爵のあの不機嫌そうな顔……」
60歳過ぎのレカ公爵はミュラン達と同じ四聖爵の一人でもある。ふだんは鉄面皮のレカ公爵が、確かに今日は不愉快そうな態度を隠しきれていない。
「骨抜きにされたのは、王太子だけではないわ。宰相閣下のご令息、王室騎士団団長のご令息、国教会の司祭たち……まるで奴隷のように、彼女にかしづいている。……我らの「仲間」である、四聖爵のアルバティア公爵も、彼女の取り巻きの一人になってしまったわ」
「アルバティア公爵まで!?」
「えぇ。犬みたいな態度でへいへい笑って、嬉しそうに使いパシリをしている姿をさっき見たわ。三十過ぎの男が、16、7の少女に熱を上げるなんて、本当に滑稽よね。……妻が20人もいるクセに、みっともない」
ナドゥーサ女公爵は、嘆かわしげに溜息をついた。
「あの少女、ひょっとすると淫魔《サキュバス》か何かの魔物では? ……と疑って少し調べさせていたのだけど、読みがはずれたわ。人間であることは間違いなさそう。でも、得体が知れません」
話は終わり、と言わんばかりに女公爵はミュランから離れた。
「話はそれだけです。貴方は、女に好かれそうな顔をしているから、せいぜい用心なさい。わたくしは、きちんと忠告してあげましたからね」
ミュランは、女公爵の背中を見つめて礼をした。
得体の知れないあの少女は、一体何者なのだろう……そんな疑問で胸が満たされ、ミュランはさりげなく少女を観察し続けることにした。
* * *
「……ふぅ」
夜会の真っ最中だというのに、わたしはうっかり小さな溜息をこぼしてしまった。
いけない、いけない。
女主人なんだから、気を抜いちゃダメだ。今のわたしは、アスノーク公爵夫人。……ミュラン様の奥様として、恥ずかしくないようにしなきゃ。
ここまでは、けっこう良い感じで進んでいると思う。自己評価で90点くらいだ。
(……ミュラン様、後でほめてくれるかな)
ちら、と会場にいるミュラン様を見た。
ミュラン様、忙しそう……くつろいだ様子で偉い人たちとたくさんお話してるけど、本当は全然くつろいでないんだろうな。
ミュラン様は、遠く離れた場所にいる「誰か」のことを、さりげなく目で追ってるみたいだ。
誰を見てるんだろう。
(……誰を見てるのかな)
ふと、自分の頭がミュラン様のことでいっぱいになっていたことに気づいた。
ダメだ。今はお客様のおもてなしに、集中しなきゃ。
と、いつの間にか、わたしの目の前には修道女の恰好をした女性が立っていた。
「あなたが、ミュラン=アスノーク公爵の奥様ですか?」
いきなり問われて、戸惑ってしまう。
わたしが今日の夜宴の女主人であることは明らかだし、今日の女主人がアスノーク公爵の妻であることも、当然だから。当たり前のことをわざわざ聞くのは、貴族同士ではマナー違反だから。
この修道女さん、何者なんだろう? さっきまで王太子殿下と一緒にいたけど。立ち居振る舞いが、貴族っぽくないかも。
「えぇ、私がアスノーク公爵夫人です。宴は、お楽しみいただけていますでしょうか?」
にこやかに笑ってそう返すと、修道女は俯いて首を振った。
「ちっとも、楽しめません。……私なんかじゃ、場違いみたいで。本当はキレイなドレスとか着れたら嬉しかったんですけど、平民の私には許されないらしくて。私の正装って、この修道女のケープなんです。……変でしょ?」
深いフードをかぶっているから、彼女の顔は見えない。でも、たぶん寂しいんだろうな。どういう経緯でこの夜宴に呼ばれたのかは分からないけど、なんだかこの子、可哀そう。
年齢も、たぶんわたしと同じくらいだよね。
平民出身だっていうし、きっと身分のことで、貴族たちから意地悪いわれたりしてるんだろうな……きっと、傷ついてると思う。
わたしに出来ることなら、何でもやってあげよう。
「変だなんて、とんでもない。お嬢様、ご要望がありましたら私にお申し付けくださいませ。お嬢様に宴をお楽しみいただけるよう、努めます」
「優しい人なんですね、ミュラン=アスノーク公爵の奥さんって」
くすっ、と、彼女の唇がほころぶ。
赤いバラみたいな綺麗な唇で、「この子、フードをとったら絶対に美人さんなんだろうな」と思った。
「私……。奥さんのこと、もっとよく知りたいな」
わたしのこと? よく分からないけど、わたしでよければ全然……
と、思った瞬間、わたしと彼女の間にいきなりミュラン様が割り込んできた。
(え? ミュラン様……?)
「麗しいご婦人。私の妻に、何か至らぬ点でもございましたでしょうか」
ミュラン様が、涼やかに微笑みながらわたしを背中に隠した。……え? どうしたの、ミュラン様?
彼女はじぃっとミュラン様を見上げていた。
でも、次の瞬間。
ふら……と、彼女はその場に倒れこんでしまう。
フードが脱げて、美しい顔が露わになる。ピンクブロンドの髪も、フードからこぼれてさらりと流れた。
「フィア!? どうしたんだ、フィア!」
と、向こうから血相を変えて駆け込んできたのは王太子。
王太子のほかにも、身分の高そうな男性たちが、「フィア様!」と呼んで駆け寄って来る。
フィア『様』? 平民の子だっていうけど、この子、一体……
王太子が、ミュラン様に命じた。
「アスノーク公爵、フィアは体調が悪いようだ。休む部屋を用意してくれ。…………おい、アスノーク公爵? 聞いているのか?」
わたしはミュラン様を見上げた。
ミュラン様の顔が、真っ青になっている。
「………………フィア、だと?」
棒立ちになったまま、表情の失せた顔でミュラン様はそう呟いていた……
(――どこか妙な感じがするが……何が原因だ?)
会場の雰囲気は華やかで、招待客の各々が、優雅に歓談している。
だが、何かが違う。
何がどう違うのか、まだ分からない。魔物の気配などではないし、殺意や害意も感じない。だが……どこか、ぎこちない。
ミュランは国賓たちを丁重にもてなしながら、違和感の理由を探ろうとしていた。
(……おや?)
主賓のエドワード王太子殿下が、なぜか婚約者を連れていない。婚約者のアレクシア=レカ公爵令嬢は、どこにいるのだろうか? 王立アカデミーの学友同士でもある王太子とアレクシア嬢は、ふだんからとても仲が良く、いつも一緒にいるはずだが。
(アレクシア嬢も、今日の夜宴には出席する予定だったが……来ていないな。……ん? 王太子が代わりにエスコートしている少女は誰だ?)
エドワード王太子が、見知らぬ少女を連れている。修道女の正装を纏った、華奢な少女だ。フードを目深にかぶっているから、顔は見えない。
(……夜宴に修道女を連れてくるとは、妙な話だ。あの少女は一体……? あの雰囲気、どこかであの少女に会ったことがある気がする。だが、どこでだ……?)
なぜか、胸騒ぎがする。
顔も見えないその少女を、ミュランはじっと見つめていた。
「あら。貴方も彼女が気になるのかしら? アスノーク卿」
鋭くてよく響く女性の声が、背後から投じられた。この声は……と、声の主を予想しつつ、ミュランは優雅に振り返る。
「これはこれは、アリアドネ=ナドゥーサ女公爵。本日はお越しくださり、誠に有り難うございます」
ミュランに声をかけてきたのは四聖爵のひとり、アリアドネ=ナドゥーサ女公爵だった。四十歳手前と思われるナドゥーサ女公爵は、怜悧な美貌の持ち主だ。今日は、目の醒めるような深青色のドレスを身に纏っている。
「お久しぶりね、アスノーク卿。……奥様をさしおいて、よその女性に目を奪われるのは如何なものかしら? それも、修道女なんかに」
美貌を意地悪くゆがめて、女公爵はミュランをなじった。ミュランは顔色一つ変えずに、整った顔立ちに甘やかな笑みを浮かべている。
「ご冗談はお許し下さい。妻に叱られてしまいます」
「奥様のご出身は、リエンナ伯爵家……でしたかしら? そんな無名の下級貴族からわざわざ妻を娶るなんて、貴方も物好きね。よほど彼女がお気に入りだったのかしら?」
この女は相変わらず、不快な物言いばかりだなーーと、ミュランは笑顔の下で毒づいていた。今はもう馴れたが、十代の頃は彼女の扱いに苦労したものだ。
ナドゥーサ女公爵は、切れ長の目で夜宴会場にいるリコリスを眺めていた。リコリスは今、招待客の貴婦人たちと歓談をしている最中だ。
「……よくやっているじゃありませんか、貴方の奥様」
女公爵の口からほめ言葉が飛び出したので、ミュランは内心、驚いた。
「1年前の園遊会に、たしか奥様も来ていましたよね? あのときの彼女はやたら怯えていて、みすぼらしい子ネズミにしか見えなかったけれど。今では見違えるようだわ。わたくし、根性のある女は好きよ」
たった一年で、よくこれだけ立派に育てましたね。と、思いのほか優しい口調で、女公爵はつぶやいた。
「あなたを見直しました、アスノーク卿」
「妻をお褒めいただき、光栄です」
「奥様を愛しておられるのね。見れば分かるわ、貴方も良い男になったもの」
ミュランの態度を見て、女公爵はさらに満足そうにしていた。
「大切にしてあげなさい。あなたのような伊達男が夫では、奥様も気苦労が絶えないでしょうけど」
そう言って、女公爵は唐突にミュランとの距離を詰めた。他の者には聞こえないような小さな声で、
「奥様想いの貴方に、一つだけ良いことを教えてあげます。……王太子の横にいる、あの修道女は危険よ。注意なさい」
「あの修道女に?」
女公爵の目が、鋭く光る。
「まだ伏せられている情報だけれど。彼女は聖女かもしれない」
「……聖女?」
この国には、建国以来一人も聖女が生まれていない。
「実は1年も前のことなのだけど、王都で謎の流行病《はやりやまい》が広がっていたらしいの。女王陛下もお倒れになったとか。……でもあの少女が現れて、祈りを捧げた瞬間に、病人たちが全員癒えた。彼女は平民なのだけど、「神の声を聞いて、力を得た」と言っているそうよ」
「平民の少女が、突然に聖女の力に目覚めた……ということですか?」
「聖女である可能性が高いけれど、断定には至っていないそうよ。特定の病しか治せないらしいから。……でも、女王陛下は彼女をとても気にかけている」
ここからは、わたくしの個人的な意見だけれど……。と、女公爵は低い声でささやいた。
「わたくしは、あの少女は聖女ではないと思うの。もっと邪悪な存在ではないかと」
「……根拠をお伺いしても?」
「根拠はありません。女の勘よ」
女の勘? 四聖爵ともあろう者が? と、ミュランは耳を疑った。
だが、ナドゥーサ女公爵は真剣に言っているようだ。
「彼女と接点を持った男はみんな、彼女の虜になってしまう。……エドワード王太子をご覧なさい。すっかり骨抜きにされている」
女公爵は視線で、王太子の方を見るようにと促した。確かに、いつも理知的だったエドワード王太子が、少女に寄り添いデレデレとしている。
「婚約者のアレクシア=レカ令嬢がいらしていないのは、まさか、そのせいですか……?」
「でしょうね。お父上のレカ公爵も、さぞや面白くないでしょう。ご覧なさい、レカ公爵のあの不機嫌そうな顔……」
60歳過ぎのレカ公爵はミュラン達と同じ四聖爵の一人でもある。ふだんは鉄面皮のレカ公爵が、確かに今日は不愉快そうな態度を隠しきれていない。
「骨抜きにされたのは、王太子だけではないわ。宰相閣下のご令息、王室騎士団団長のご令息、国教会の司祭たち……まるで奴隷のように、彼女にかしづいている。……我らの「仲間」である、四聖爵のアルバティア公爵も、彼女の取り巻きの一人になってしまったわ」
「アルバティア公爵まで!?」
「えぇ。犬みたいな態度でへいへい笑って、嬉しそうに使いパシリをしている姿をさっき見たわ。三十過ぎの男が、16、7の少女に熱を上げるなんて、本当に滑稽よね。……妻が20人もいるクセに、みっともない」
ナドゥーサ女公爵は、嘆かわしげに溜息をついた。
「あの少女、ひょっとすると淫魔《サキュバス》か何かの魔物では? ……と疑って少し調べさせていたのだけど、読みがはずれたわ。人間であることは間違いなさそう。でも、得体が知れません」
話は終わり、と言わんばかりに女公爵はミュランから離れた。
「話はそれだけです。貴方は、女に好かれそうな顔をしているから、せいぜい用心なさい。わたくしは、きちんと忠告してあげましたからね」
ミュランは、女公爵の背中を見つめて礼をした。
得体の知れないあの少女は、一体何者なのだろう……そんな疑問で胸が満たされ、ミュランはさりげなく少女を観察し続けることにした。
* * *
「……ふぅ」
夜会の真っ最中だというのに、わたしはうっかり小さな溜息をこぼしてしまった。
いけない、いけない。
女主人なんだから、気を抜いちゃダメだ。今のわたしは、アスノーク公爵夫人。……ミュラン様の奥様として、恥ずかしくないようにしなきゃ。
ここまでは、けっこう良い感じで進んでいると思う。自己評価で90点くらいだ。
(……ミュラン様、後でほめてくれるかな)
ちら、と会場にいるミュラン様を見た。
ミュラン様、忙しそう……くつろいだ様子で偉い人たちとたくさんお話してるけど、本当は全然くつろいでないんだろうな。
ミュラン様は、遠く離れた場所にいる「誰か」のことを、さりげなく目で追ってるみたいだ。
誰を見てるんだろう。
(……誰を見てるのかな)
ふと、自分の頭がミュラン様のことでいっぱいになっていたことに気づいた。
ダメだ。今はお客様のおもてなしに、集中しなきゃ。
と、いつの間にか、わたしの目の前には修道女の恰好をした女性が立っていた。
「あなたが、ミュラン=アスノーク公爵の奥様ですか?」
いきなり問われて、戸惑ってしまう。
わたしが今日の夜宴の女主人であることは明らかだし、今日の女主人がアスノーク公爵の妻であることも、当然だから。当たり前のことをわざわざ聞くのは、貴族同士ではマナー違反だから。
この修道女さん、何者なんだろう? さっきまで王太子殿下と一緒にいたけど。立ち居振る舞いが、貴族っぽくないかも。
「えぇ、私がアスノーク公爵夫人です。宴は、お楽しみいただけていますでしょうか?」
にこやかに笑ってそう返すと、修道女は俯いて首を振った。
「ちっとも、楽しめません。……私なんかじゃ、場違いみたいで。本当はキレイなドレスとか着れたら嬉しかったんですけど、平民の私には許されないらしくて。私の正装って、この修道女のケープなんです。……変でしょ?」
深いフードをかぶっているから、彼女の顔は見えない。でも、たぶん寂しいんだろうな。どういう経緯でこの夜宴に呼ばれたのかは分からないけど、なんだかこの子、可哀そう。
年齢も、たぶんわたしと同じくらいだよね。
平民出身だっていうし、きっと身分のことで、貴族たちから意地悪いわれたりしてるんだろうな……きっと、傷ついてると思う。
わたしに出来ることなら、何でもやってあげよう。
「変だなんて、とんでもない。お嬢様、ご要望がありましたら私にお申し付けくださいませ。お嬢様に宴をお楽しみいただけるよう、努めます」
「優しい人なんですね、ミュラン=アスノーク公爵の奥さんって」
くすっ、と、彼女の唇がほころぶ。
赤いバラみたいな綺麗な唇で、「この子、フードをとったら絶対に美人さんなんだろうな」と思った。
「私……。奥さんのこと、もっとよく知りたいな」
わたしのこと? よく分からないけど、わたしでよければ全然……
と、思った瞬間、わたしと彼女の間にいきなりミュラン様が割り込んできた。
(え? ミュラン様……?)
「麗しいご婦人。私の妻に、何か至らぬ点でもございましたでしょうか」
ミュラン様が、涼やかに微笑みながらわたしを背中に隠した。……え? どうしたの、ミュラン様?
彼女はじぃっとミュラン様を見上げていた。
でも、次の瞬間。
ふら……と、彼女はその場に倒れこんでしまう。
フードが脱げて、美しい顔が露わになる。ピンクブロンドの髪も、フードからこぼれてさらりと流れた。
「フィア!? どうしたんだ、フィア!」
と、向こうから血相を変えて駆け込んできたのは王太子。
王太子のほかにも、身分の高そうな男性たちが、「フィア様!」と呼んで駆け寄って来る。
フィア『様』? 平民の子だっていうけど、この子、一体……
王太子が、ミュラン様に命じた。
「アスノーク公爵、フィアは体調が悪いようだ。休む部屋を用意してくれ。…………おい、アスノーク公爵? 聞いているのか?」
わたしはミュラン様を見上げた。
ミュラン様の顔が、真っ青になっている。
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しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
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