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【10】幸せに生きること
私の意識は、冷たい闇の中に沈んでいた。
『いばら病だと? まったく、くだらない病気になってくれたものだ!!』
という不快そうな声が、唐突に闇の中で響いた。
……これは、私の父の声。今のは、私が15歳のときに言われた言葉だった。
うんざりした口調で、父が罵り続ける。
『この親不孝者が……! エルダ、お前にこれまで教育を施してきたのは、何のためだと思っているんだ!』
ある日、私の体にできた痣。
最初はぽつんと、バラの芽のように小さかった。でも、やがて広がり始めた痣は、ツルバラの蔦のように長く伸びていった。それは不治の病の証であり、私の人生を大きく変えることになったのだ。
『爵位を継がせるために注いできた資金も手間も時間も、すべてが無駄になってしまった!!』
真っ暗な世界の中で、父の声は響き続ける。
遠い昔に捨てたはずの過去なのに、どうしてこんなに生々しく蘇ってくるのだろう。
『エルダ。お前には次期当主の座は任せられない。我が後継は、お前ではなくキャロラインだ。……できるな? キャロライン』
すると、今度は異母妹の声が響き始めた。これも、記憶とおんなじだ。
『ええ~? でも、お父様ぁ。わたし、当主なんてできるかなぁ』
甘ったるい声で、そんなことを言っていた。
『あーあ。せめて、もっと早くお姉さまが辞退してればよかったのに。今から勉強しても、不安だよぉ』
すかさず、義母が猫撫で声で言った。
『大丈夫よ、キャロライン。あなたは一人じゃないんだもの。お父様とお母様もあなたを支えるし、ダミアンさんもあなたのためならきっと頑張ってくれるわ!』
キャロラインが『ダミアン様も?』と言うと、父は『無論だ。爵位がキャロラインに移る以上、婿も当然お前のものになる』と即答していた。
――そう。私の気持ちも意思も、この人たちは全部そっちのけだった。
病気になった私を気遣うこともなく、ただの役立たずとしか見ていなかった。
『うふふ、それにしてもかわいそうなお姉さま! そんな奇妙な病気になってしまうなんて、もしかして神様が、何かの罰をお与えになったのかも』
『だったら、エルダさんは修道院に入れてさしあげるのが良いわね。祈りの日々を過ごさせてあげるのが、きっとエルダさんの為よ。ねえ、あなた、そうしましょう?』
『どうでもいい。お前達の好きにしろ』
なんなの? なんなの? この人たちは。
こんな人たち、私の家族じゃあない……!
私の家族は、ミリュレー修道院で一緒に暮らした13人の子ども達。そして、院長のマザー・グレンナ。
粗野で武骨なおばあさんだったけれど、私はマザー・グレンナが大好きだった。それなのに。
マザー・グレンナは、もう、いないんだ――。
目の前の暗闇が、一層濃くなった気がした。
怖い。
病気が怖い。死ぬのが怖い。ひとりぼっちになるのが、怖い。
『エルダ。お前などもう見たくない』
『お元気でね、エルダさん』
『うふふ、かわいそうなお姉さま!』
うるさい。
頭の中で騒がないで。あなた達なんて、思い出したくない。
もう、やめて。
助けて――。
「シスター・エルダ!!」
そのとき暗闇の中から私を引きずり上げるような、力強い声が響いた。
*
「――――ッ!」
私はハッと目を見開いた。
涙でびっしょり濡れていて、目に映るすべてが滲んでいる。天井の壮麗なシャンデリアも。真剣な顔で私を見つめる、紫色の瞳も……。
「シスター・エルダ!!」
ラファエル様が、私の手をしっかりと握って声を張り上げていた。
「よかった。ようやく目を覚ましてくれましたね」
ラファエル様の隣には女医のドクター・ピーナがいて、その後ろにはミモザとローゼル、アニスの姿もあった。誰も彼もが、安堵と緊張をない交ぜにした顔をしている。
(夢……だったの……?)
カタカタ震えていた私に、ラファエル様が沈痛な表情で問いかけてきた。
「大丈夫ですか、シスター・エルダ」
「……嫌な人たちの夢を見たの」
「嫌な人たち?」
捨てたはずの『あの人たち』の記憶が、吐き気がするほどリアルに込みあげてくる。
「実家の夢を……でも、大丈夫よ。ごめんなさい」
ラファエル様は、私の涙を拭いてくれた。
「あなたが目覚めて、本当に良かったです。シスターは、一昨日の夜からずっと眠ったままだったんですよ」
「一昨日……?」
「ええ。いばら病の再発発作が出たんです」
再発発作――?
なにがなんだかわからず呆然とする私を、ドクター・ピーナが診察してくれた。
「現在は心拍、呼吸などすべて安定しており、問題ございません。3日間ほど安静にお過ごしいただければ、大事には至りませんよ」
「あの。私、一体……? 再発って……?」
いばら病はもう治ったものだと思っていたけれど、実際は違うのだろうか。不安に揺れる私を見つめていたドクター・ピーナは、ラファエル様をふり向いて「説明させていただいてもよろしいでしょうか」と尋ねていた。
ラファエル様が頷くと、ドクターは説明を始めた。
「エルダ様はまだ、完全にいばら病を克服した状態ではございません。昏睡から目覚めた後も、数年程度はいばら病の病毒が体内に残るためです。ご入浴中に花弁を吐いてお倒れになったのを、エルダ様は覚えておいでですか?」
「はい……」
「あの花弁は、病毒の凝縮物でございます。昏睡に陥る直前や、発作が起こった際に吐き出すものです」
いばら病の再発発作には、引き金があるのだと、ドクターは言った。
「再発発作の引き金は、『死への絶望』です。思い当たることはございませんか、エルダ様」
「……あ」
ミリュレー修道院の現況を尋ね、マザー・グレンナが亡くなったのだと悟ったとき。
胸がズキズキ苦しくなって、花弁を吐いて倒れてしまった。マザーの死を想ったことが、発作の引き金だったのだろう。
「再発発作を頻回に繰り返すと、最悪の場合は再び昏睡に陥る危険もございます。ですので、エルダ様。どうか、心を安らかにお過ごしください」
表情を曇らせる私の手を、しっかりとラファエル様が握っていた。
「シスター・エルダ。もう大丈夫です」
控えていたミモザ達が、泣き出しそうな顔で謝ってきた。
「ごめんなさい。私達のせいで……」
私は慌てて首を振る。
「あなたたちのせいじゃないわ。私が勝手に倒れただけよ。……ラファエル様、お願いだからミモザ達を責めないでください」
ラファエル様は、「もちろんです」と頷いてくれた。
「責任があるのは、彼女達ではなく私です。私がシスター・エルダに情報を伏せていたばかりに、あなたを苦しめてしまいました……」
ラファエル様はきっと、私につらい話を聞かせたくなかったのだろう。再発発作が起こる可能性がある話題を、意図的に避けていたに違いない。
ドクター・ピーナは、ねぎらうようにこう言った。
「適切な治療を続けていれば徐々に病毒は消失し、再発発作のリスクも下がって参ります。ですので、今のエルダ様に必要なのは、できるだけ毎日を幸福に過ごされることかと」
「幸福に……ですか?」
「ええ。精神の安定こそが、いばら病からの快復を早めますので。目覚めた幸せ、美味しいものを食べる楽しみ、そういうひとつひとつを大切にすることが、快復へとつながります」
ドクター・ピーナの話を、ラファエル様達は真剣な顔で聞いていた。
「それでは、アルシュバーン侯爵閣下。わたくしは別室にひかえておりますので、ご用がありましたらいつでもお呼びくださいませ」
そう言うと、優雅な所作でドクター・ピーナは部屋を出て行った。その後に、侍女3人も退室する。
ぱたん、と扉が閉まる音を聞き、私はラファエル様に頭を下げた。
「ご心配をおかけしてしまって、すみませんでした。ラファエル様」
「そんなことはありません。ただ、あなたが目覚めてくれて、本当によかった……」
私の両手を握る彼の手が、微かに震えているのが伝わってきた。
「私が必ず、シスターを幸せにします」
「え?」
決意を込めた瞳だった。
(……私ったら、またラファエル様を心配させてしまったのね)
彼が『私を幸せにする』と言ったのは、ドクター・ピーナのアドバイスを受けてのことだろう。いばら病からの快復を促すには、幸福に過ごすことが大切だとドクターは言っていた。
「ありがとうございます、ラファエル様。でも、どうか心配なさらないでください」
再発発作の引き金が分かったのだから、今度からは避けることができる。
(私も、マザー・グレンナのように強く生きよう)
『死への絶望』が引き金ならば、私はもう、死の恐怖には怯えない。きっとマザー・グレンナも、命の火が消える最後の一日までずっと力強く生きていたに違いないから。あの人は、そう言う人だった。
「私はもう大丈夫ですよ」
力強く、私はラファエル様に笑いかけていた。
かつて育てた子どもが、立派に成長して私の命をつないでくれたのだから。明るく強く生きて、誇れる人生を送ろうと決めた。
『いばら病だと? まったく、くだらない病気になってくれたものだ!!』
という不快そうな声が、唐突に闇の中で響いた。
……これは、私の父の声。今のは、私が15歳のときに言われた言葉だった。
うんざりした口調で、父が罵り続ける。
『この親不孝者が……! エルダ、お前にこれまで教育を施してきたのは、何のためだと思っているんだ!』
ある日、私の体にできた痣。
最初はぽつんと、バラの芽のように小さかった。でも、やがて広がり始めた痣は、ツルバラの蔦のように長く伸びていった。それは不治の病の証であり、私の人生を大きく変えることになったのだ。
『爵位を継がせるために注いできた資金も手間も時間も、すべてが無駄になってしまった!!』
真っ暗な世界の中で、父の声は響き続ける。
遠い昔に捨てたはずの過去なのに、どうしてこんなに生々しく蘇ってくるのだろう。
『エルダ。お前には次期当主の座は任せられない。我が後継は、お前ではなくキャロラインだ。……できるな? キャロライン』
すると、今度は異母妹の声が響き始めた。これも、記憶とおんなじだ。
『ええ~? でも、お父様ぁ。わたし、当主なんてできるかなぁ』
甘ったるい声で、そんなことを言っていた。
『あーあ。せめて、もっと早くお姉さまが辞退してればよかったのに。今から勉強しても、不安だよぉ』
すかさず、義母が猫撫で声で言った。
『大丈夫よ、キャロライン。あなたは一人じゃないんだもの。お父様とお母様もあなたを支えるし、ダミアンさんもあなたのためならきっと頑張ってくれるわ!』
キャロラインが『ダミアン様も?』と言うと、父は『無論だ。爵位がキャロラインに移る以上、婿も当然お前のものになる』と即答していた。
――そう。私の気持ちも意思も、この人たちは全部そっちのけだった。
病気になった私を気遣うこともなく、ただの役立たずとしか見ていなかった。
『うふふ、それにしてもかわいそうなお姉さま! そんな奇妙な病気になってしまうなんて、もしかして神様が、何かの罰をお与えになったのかも』
『だったら、エルダさんは修道院に入れてさしあげるのが良いわね。祈りの日々を過ごさせてあげるのが、きっとエルダさんの為よ。ねえ、あなた、そうしましょう?』
『どうでもいい。お前達の好きにしろ』
なんなの? なんなの? この人たちは。
こんな人たち、私の家族じゃあない……!
私の家族は、ミリュレー修道院で一緒に暮らした13人の子ども達。そして、院長のマザー・グレンナ。
粗野で武骨なおばあさんだったけれど、私はマザー・グレンナが大好きだった。それなのに。
マザー・グレンナは、もう、いないんだ――。
目の前の暗闇が、一層濃くなった気がした。
怖い。
病気が怖い。死ぬのが怖い。ひとりぼっちになるのが、怖い。
『エルダ。お前などもう見たくない』
『お元気でね、エルダさん』
『うふふ、かわいそうなお姉さま!』
うるさい。
頭の中で騒がないで。あなた達なんて、思い出したくない。
もう、やめて。
助けて――。
「シスター・エルダ!!」
そのとき暗闇の中から私を引きずり上げるような、力強い声が響いた。
*
「――――ッ!」
私はハッと目を見開いた。
涙でびっしょり濡れていて、目に映るすべてが滲んでいる。天井の壮麗なシャンデリアも。真剣な顔で私を見つめる、紫色の瞳も……。
「シスター・エルダ!!」
ラファエル様が、私の手をしっかりと握って声を張り上げていた。
「よかった。ようやく目を覚ましてくれましたね」
ラファエル様の隣には女医のドクター・ピーナがいて、その後ろにはミモザとローゼル、アニスの姿もあった。誰も彼もが、安堵と緊張をない交ぜにした顔をしている。
(夢……だったの……?)
カタカタ震えていた私に、ラファエル様が沈痛な表情で問いかけてきた。
「大丈夫ですか、シスター・エルダ」
「……嫌な人たちの夢を見たの」
「嫌な人たち?」
捨てたはずの『あの人たち』の記憶が、吐き気がするほどリアルに込みあげてくる。
「実家の夢を……でも、大丈夫よ。ごめんなさい」
ラファエル様は、私の涙を拭いてくれた。
「あなたが目覚めて、本当に良かったです。シスターは、一昨日の夜からずっと眠ったままだったんですよ」
「一昨日……?」
「ええ。いばら病の再発発作が出たんです」
再発発作――?
なにがなんだかわからず呆然とする私を、ドクター・ピーナが診察してくれた。
「現在は心拍、呼吸などすべて安定しており、問題ございません。3日間ほど安静にお過ごしいただければ、大事には至りませんよ」
「あの。私、一体……? 再発って……?」
いばら病はもう治ったものだと思っていたけれど、実際は違うのだろうか。不安に揺れる私を見つめていたドクター・ピーナは、ラファエル様をふり向いて「説明させていただいてもよろしいでしょうか」と尋ねていた。
ラファエル様が頷くと、ドクターは説明を始めた。
「エルダ様はまだ、完全にいばら病を克服した状態ではございません。昏睡から目覚めた後も、数年程度はいばら病の病毒が体内に残るためです。ご入浴中に花弁を吐いてお倒れになったのを、エルダ様は覚えておいでですか?」
「はい……」
「あの花弁は、病毒の凝縮物でございます。昏睡に陥る直前や、発作が起こった際に吐き出すものです」
いばら病の再発発作には、引き金があるのだと、ドクターは言った。
「再発発作の引き金は、『死への絶望』です。思い当たることはございませんか、エルダ様」
「……あ」
ミリュレー修道院の現況を尋ね、マザー・グレンナが亡くなったのだと悟ったとき。
胸がズキズキ苦しくなって、花弁を吐いて倒れてしまった。マザーの死を想ったことが、発作の引き金だったのだろう。
「再発発作を頻回に繰り返すと、最悪の場合は再び昏睡に陥る危険もございます。ですので、エルダ様。どうか、心を安らかにお過ごしください」
表情を曇らせる私の手を、しっかりとラファエル様が握っていた。
「シスター・エルダ。もう大丈夫です」
控えていたミモザ達が、泣き出しそうな顔で謝ってきた。
「ごめんなさい。私達のせいで……」
私は慌てて首を振る。
「あなたたちのせいじゃないわ。私が勝手に倒れただけよ。……ラファエル様、お願いだからミモザ達を責めないでください」
ラファエル様は、「もちろんです」と頷いてくれた。
「責任があるのは、彼女達ではなく私です。私がシスター・エルダに情報を伏せていたばかりに、あなたを苦しめてしまいました……」
ラファエル様はきっと、私につらい話を聞かせたくなかったのだろう。再発発作が起こる可能性がある話題を、意図的に避けていたに違いない。
ドクター・ピーナは、ねぎらうようにこう言った。
「適切な治療を続けていれば徐々に病毒は消失し、再発発作のリスクも下がって参ります。ですので、今のエルダ様に必要なのは、できるだけ毎日を幸福に過ごされることかと」
「幸福に……ですか?」
「ええ。精神の安定こそが、いばら病からの快復を早めますので。目覚めた幸せ、美味しいものを食べる楽しみ、そういうひとつひとつを大切にすることが、快復へとつながります」
ドクター・ピーナの話を、ラファエル様達は真剣な顔で聞いていた。
「それでは、アルシュバーン侯爵閣下。わたくしは別室にひかえておりますので、ご用がありましたらいつでもお呼びくださいませ」
そう言うと、優雅な所作でドクター・ピーナは部屋を出て行った。その後に、侍女3人も退室する。
ぱたん、と扉が閉まる音を聞き、私はラファエル様に頭を下げた。
「ご心配をおかけしてしまって、すみませんでした。ラファエル様」
「そんなことはありません。ただ、あなたが目覚めてくれて、本当によかった……」
私の両手を握る彼の手が、微かに震えているのが伝わってきた。
「私が必ず、シスターを幸せにします」
「え?」
決意を込めた瞳だった。
(……私ったら、またラファエル様を心配させてしまったのね)
彼が『私を幸せにする』と言ったのは、ドクター・ピーナのアドバイスを受けてのことだろう。いばら病からの快復を促すには、幸福に過ごすことが大切だとドクターは言っていた。
「ありがとうございます、ラファエル様。でも、どうか心配なさらないでください」
再発発作の引き金が分かったのだから、今度からは避けることができる。
(私も、マザー・グレンナのように強く生きよう)
『死への絶望』が引き金ならば、私はもう、死の恐怖には怯えない。きっとマザー・グレンナも、命の火が消える最後の一日までずっと力強く生きていたに違いないから。あの人は、そう言う人だった。
「私はもう大丈夫ですよ」
力強く、私はラファエル様に笑いかけていた。
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